九井青年のリ・リフレクター



2017年が過ぎて2018年初春。ヒナは生きている。

花垣くんとのお付き合いは中学から続いていて、今度やっと結婚するらしい。十二年も付き合っていてようやくゴールイン。遅すぎると思うのは世間一般の感情論だろうか。ヒナが式に向けて髪を長く伸ばした。お色直しはどんなドレスにしようか、なんて花垣くんに聞けばいいのに。私の腕に懐いて雑誌を広げた。いつまでも甘えたな可愛い従姉妹だ。

可愛いヒナのハッピーエンド。もうほとんど擦り切れた前世の記憶が確かこんな風に落ち着くんだと教えてくる。そっか、これがこの漫画の終わりか。もう気を張らなくてもいいんだ、無理に思い出そうとしなくてもいいんだ。ホッとした体で仕事帰りにペットショップに向かった。


「橘! また来たな!」
「いらっしゃい先輩」
「おー、そろそろ決めたか?」
「こんばんは。そろそろ決めないとですねぇ」


場地と松野くんと羽宮さんが経営しているお店では、可愛い猫ちゃんがコロコロと転がって遊んでいる。

やっとヒナの幸せが確定した今。喜ばしいこととは別に急に寂しくなった私はペットを飼うことにした。場地や松野くんがオススメするのと仕事柄散歩が難しいから猫を見ている。


「マジでベンキョー好きだよなオマエ」
「好きっていうか、場地に教えてる時の名残? なんか向いてるかもーって」
「先輩、昔っから教え方うまかったっスもんね」
「オレ予備校と夜間の違いも分かんねぇわ」
「それは分かってよカズトラくん」


目が大きかったり座ってたり、太ましかったり手のひらサイズだったり、鯖だったりブチだったり。場地があまりに自慢するからどの子も可愛くて選べないんだよ。羽宮さんが抱えている白猫がブニャァと鳴く。前足を掴んで「早くしろよぉ」と招き猫されると余計に頭がこんがらがった。「お客様だよカズトラくん」「ま、飼うなら本人が納得して飼わなきゃ意味ねぇしな」と。じっくり見せてくれる。

スラリとした体躯をぐんと伸ばして欠伸する黒猫。美人さんだなぁ。目が合うことなくそのまま丸まって寝てしまったけれど──黒猫、かあ。

結局その日も全然決められなくて閉店時間に差し迫った。


「また来るね」
「おう」
「またのご来店お待ちしてます」
「じゃあなァ」


なんで黒猫から逃げてしまったんだろう。

夜道を歩きながらふと思った。逃げる、なんて。どうしてそんな風に感じたのかやっぱり分からない。ただ本当に肩の力が抜けて、一緒に魂も抜けてしまった心地だった。

もう誰かが死ぬかもなんて嫌な予感に悩まされることもない。頑張って前世の記憶を覚えていないといけないこともない。そうすると、私の今までの人生って薄っぺらいと思えてしまった。東京卍會と花垣武道の騒乱を横目で眺めるばかりの日々だった。ずっと蚊帳の外で、他人事で、祈るばかりの日々。それが終わったんだ。終わったんだ。

私はもう、漫画の世界で生きていない。現実を生きていいんだって。


「──────」


我ながら上手に忘れられていたと思う。

明るい大通りに差し迫る直前の薄暗い住宅街の道。そのド真ん中で立ち止まったサンダル。夜道で浮き上がる、目が醒めるような真っ赤な上着を翻して、白い長髪がふんわりと風に揺れた。モデルさんか、何かのコスプレか。スラッとした細身の体がゆっくりとこっちに振り返って、鋭い目尻の真っ黒い瞳と目が合った。さっき目が合わなかった黒猫がやっとこっちを見たんだと何故か思った。

なんで忘れていられたんだろう。

サラサラの黒髪だとか、神経質そうな眉とか、切長の鋭い目とか、……柔らかい唇とか。十二年よりもっとずっと昔。図書館で目を閉じていた私にキスをした男の子のことを。他人の空似だと思い込んで、一方的にお別れして、結果的に彼の大事な人を見殺しにしたことを。罪悪感でいっぱいで死にたくなっていた十代の私を。全部ぜんぶ忘れて、どうして幸せの空気に酔っていられたんだろう。


「よォ、橘さん」


────九井くん。

黒髪を振り乱して私を捕まえたあの日の九井くんが、変わり果てた姿で私の視線を捕らえた。




***




「覚えているなんて思わなかった」


お互いさまの話だった。

スーツで入るには少しオシャレすぎるバーの奥まった席。何重にもレースカーテンが降りた半個室の席でグラスを片手に隣り合っている。慣れた様子で「いつもの」と頼む九井さん。私といえばあまり度数が高いのもいただけないと、適当に思いついたサンドリヨンを頼んだ。「シンデレラか」妙に近い距離で囁かれて大袈裟に肩が震えた。そう言われると、お姫様を自称してしまったみたいな恥ずかしさが降って湧く。でもすでにバーテンダーさんが戻ってしまった手前、取り消すのも難しくて。すぐに出されたショートカクテルをバカラのグラスにソッと近づけた。


「小学生ですものね、何年前ですかね」
「敬語なんてやめてくれよ。あの時は普通に喋ってただろ」
「それは、九井く、っさんが小学生だったから」
「いいって。九井くんでもハジメくんでも」


そうは言っても相手はめちゃくちゃに凄みのある男性だ。しかも少年だった時よりもどことなく中世的な色気がある。スーツで一本に結んだ私が並ぶと本当にチグハグだ。ぎこちなく笑う私を気にしないことにしたのか、九井さんはフッと笑ってグラスを傾ける。釣られて私も口をつければ甘いレモンの味が舌に乗った。初恋はレモンの味ってか。


「す、素敵なお洋服ですね。お仕事モデルさんですか?」
「モデル……? プ、ふはっ、オレがモデルなんて。会社でアパレルの方の総括やってるんだ。コレは部下に遊ばれてな。よく試作品の着せ替え人形にされてる」
「へ、へえ」


総括って、二十代でもう管理職を任されているってこと?

お堅い感じがするわりにすごい服を普段から着るんだな。赤いだけじゃなく裾に金糸で複雑な格子柄が刺繍された上着。着る人を選ぶにも程がある。それに、手入れされた脱色済みの白髪とか、編み込みにはよく見れば花札みたいなマークがあるし。そこだけ染めてるとしたらとんでもないこだわりだ。


「橘さんはなんの仕事してるの? OL?」
「えっと、子供に勉強教えてます」
「先生?」
「正確には予備校の講師ですよ」
「ああ道理で。スーツが似合ってる」
「いいえ、ぜんぜん面白みもない格好ですよ」


口がうまいなあ。

緊張をほぐすためにまたカクテルに口をつける。アルコールの上手な使い方。口の滑りをよくすること。気まずさとか罪悪感とか、そういうのを隠すには和やかな会話が一番だ。「最近受験シーズンが終わって」「ああ、繁忙期が二月までなのか」「ええはい。今は補欠枠の子がメインなんですけど」「こっちも年度末で集計が大変で」「どこも大変なのは変わりませんよね」大したアルコールも入ってないのに意外と話は盛り上がったと思う。何より、迫力がある九井さんがニコニコと聞き役に回ってくれて気持ちよく話させてくれたんだと思う。


「橘さんが先生って分かるな。昔から頭良かったし」
「そぉですか? 話したのなんてたった数日だけじゃないですか」
「小学生が読む本じゃなかったでしょ。オレ、成人してからあの図書館で改めて読んでみたんだ」
「ええー、うそぉ。面白かったでしょ?」
「すっげえ内容だったけどな」


不倫、暴力、殺人、薬物、盗み、別れ。前時代的価値観で描かれた薄暗い空想の切り抜き。確かに小学生に勧める内容じゃなかった。


「フィクションだから面白いんですよぉ。うそっぱちで他人事。ほんとのことだったら、こあくて読めませんって」


それにしてもなんか舌が回らないというか、頭がふわふわするというか。たかだかサンドリヨンで酔うわけないのに。そんなに疲れてたっけか。気が抜けて表情も柔らかくほぐれたせいで、口から勝手にくふくふと笑いが漏れる。テーブルに行儀悪く肘をついて、ファンデが剥がれるのも気にせずに顔を擦った。


「アンタがやったことはフィクションじゃねえけどな」
「んぅ? なぁに、で、す?」


今、誰が言ったんだろう。

冷たいとか暖かいとか、そういうんじゃなくって、機械か何かが音を出したみたいな声で。顔を上げようにも首に力が入らないまま、私はそのまま────


「嘘で済ますかっての」




気が付いたら知らない部屋にいた。


大きなベッド、ホテルみたいな間取りで、ちょっとしたテーブルセットに高そうな調度品。手触りのいいタオルケットの下、なんだかスースーすると思えば下着しかつけてなかった。は?

空調が効いていて下着でも寒くない。けれど流石にそのままってわけにもいかず、クローゼットを漁ってもバスローブの一つもない。仕方なくタオルケットを体に巻き付けて、締め切ったままのカーテンを開けた。地上何メートルかも分からない高層階だった。行き交う車がミニカーよりも小さく見える。嵌め込み式の一面ガラス張りの窓から距離を取った。ちょうどその時、勝手に唯一の出入り口のドアが開いた。


「やぁっと起きた」
「へ、ぁ、ここ、ぃさ」


喉がカラカラに張り付いた。

昨日と似たようなデザインの青い上着を羽織った迫力ある人。サラサラと白い髪を流して私にスマホを投げてくる。私のスマホだった。危なっかしくキャッチしたその画面に映し出されているのは、職場の上司からのメールで……。


「今日から無職な」
「むっ、むしょ、え?」
「こっちから話通しておいた。住んでるマンションも解約済み。荷物も大体売っ払った」
「な、は、なに……なん、へ?」
「で、これが免許証と保険証と、パスポート」


しなやかな白い指がポーカーのカードみたいに私の身分証明書類を広げて見せる。

退職受理なんてメールで済ませていい内容じゃない文章が何故か連ねてあるメール。手元の文字を追う暇すら与えてくれない九井さん。呆然とする私の目の前で免許証がバキッと真っ二つに割れた。「待っ」ビリビリビリ、次は保険証。「やめて、やめてくだ、」ビリ、ビリビリビリビリビリィッ! 最後にパスポート。手帳の表紙ごと縦にも横にも細かく割かれて、きっともう文字すら読めない。高そうなカーペットの上にただの紙切れがこんもりと積み上がった。この間九井さんはずっと無表情だ。

何が起こっているんだろう。コレはなんの冗談で、夢で、嘘なんだろう。


「オレの仕事、金庫番なんだ」


何も持っていない手が掲げられて、一つ一つ握り込むように数えていく。賭博、薬物、詐欺、売春、殺人。小説で面白おかしく読んでいた字面が自動的に脳内に浮かんで、捻れて、実感が湧かないまま。何の話をしているのか、理解していてもできなくて。ドッドッドッ。変な心音が耳の奥で止まなくて。


「全部うちのシノギ。信じられねえよな。急にこんなこと言われても」


それは、つまり、ええと、九井さんは反社ってこと?

待って、この軸はみんなカタギになった幸せな世界じゃなかったの? だってヒナが生きてて、場地も生きてて、マイキーくんだってドラケンくんが言うには海外で成功してる実業家さんだって。……私、もしかして何か忘れてる?

考えごとをしている間に大股で近づいてきたサンダル。後ずさったところでガラスの冷たさが首筋にかかるだけ。


「でもさ、これが現実なわけ」


顎を上げて、首を傾げて、鋭い目が冷たく私を見下ろす。憎しみさえ感じない絶対零度なのに、私は、私の中では、たった一つの答えが浮かんで見えた。



「オマエの嫌いなノンフィクションだぜ」



あの日の九井くんが、私に復讐しに来たんだ。

赤音さんのことを知っていて見殺しにした私のことを、苦しめるために会いに来たんだって。

初めて実感が湧いた。忘れていた罪悪感が恐ろしいくらいの質量で心臓を押し潰してきて、その余波が喉を伝って口から漏れた。


「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさいここのいく、ごめんな、ごめ、んっ」
「…………何に謝ってんだよ、橘さん」
「ごめんなさい、ごめんなさい、わたし」
「ハハッ、いくら謝ったところでよォ」


何か言わないと、と。壊れたように謝り続ける私に、九井さんの手が伸びてきて、唇ごと顔を掴まれた。涙でぼやける視界の中、血走った目だけがしっかりと浮かんで見えた。


「オマエは一生、オレから逃れられねえよ」



私ってそれだけ九井くんに恨まれていたんだ。


『好きです。オレのカノジョになってください!』


綺麗で、可愛くて、淡くて、ほろ苦かった。あの日の初恋が、この日死んだ。




***




思い出は美化されるもんだ。

たった数日の小坊の初恋ほど美化しがいのある思い出もないだろう。

だからこそ、たまに浮かんだあの子の微笑とか、癖とか、唇の感触とか。忘れきれなかったとしても仕方ないと切り捨てた。後生大事に財布に突っ込んである図書カードだって単なるお守りでしかない。叶わなかった恋。美しいガキの記憶。必死に探した綺麗なお姉さんを諦めたのは関東卍會でマイキーの元につくと決めてからだ。

オレたちはこれからガキの暴走族から大人の犯罪者になる。そこにカタギの女を連れ込むなんざありえない。思い出に泥を塗る行為だと分かっていたから。


分かっていた、はずだった。


梵天で幹部として金勘定に口出しする立場になって久しく。ボス直々に調べるように言われた不審な仕事。昔の上司だった花垣武道の現在の素行。恋人の橘日向の親族に、図書カードと同じ橘夕凪を見つけた。

美化した思い出が現実に飛び出してきた。

だからなんだという話だ。もはやオレはカタギじゃねえ。カタギの女に手を出すヒマも趣味もねえ。完全な別世界の住人に意識を割くなんざ馬鹿だ。オレはオレの人生を、橘さんは橘さんの人生を歩む。決して交わることがない人生を選んだのはオレ自身だった。

そのはずなのに。

一目見て終わりにしようと思った。きっと九井一のことなんて覚えていない。覚えていたとしてオレの今の見た目から気付くはずがない。この機会に美化した思い出を現実で塗り潰して、今度こそ忘れてしまおう。本気でそう考えていた。


──こ こ の い く ん。


スーツ姿の女の唇が、ハッキリとオレの名前を呼んだ。

その瞬間、思い出と現実が意図せずぐちゃぐちゃに混ざり合った。

梵天の息がかかったバーで、無色透明の眠剤を混ぜて出す。シンデレラなんか頼みやがって。12時になったら逃げてやるとでも宣言された気分になった。考えすぎている自覚はある。意識が朦朧として言葉があやふやになった女は、見た目の涼やかな美人とはかけ離れた愛嬌があった。コレが野郎だらけのペットショップにいたのかとか、マセガキに近距離で勉強教えてるのかとか。再会して数十分で独占欲と嫉妬に狂いかけた。アルコールを入れたからか、理性がドロドロに溶けていく音が聞こえる。それでもレイプだけはダメだ。この女から求められなければ、縋られなければ意味がない。

ガキの頃みたいにアッサリ捨てられるようなことが、二度もあってたまるかよ。

物理的にも社会的にも追い詰めた。後は組織だ。このまま警察に駆け込まれては元も子もない。より確実に退路を塞ぐなら、と。オレはボスに相談した。『会わせたい女がいる』マイキーを一目見た瞬間、女は組織から逃れられなくなる。梵天のボスの姿は組織内外問わず重要な情報であり、決して漏らしてはいけないトップシークレット。非力なカタギの女が知れば一生一人では過ごせなくなる。そこで頼るのがオレであればいい、と。

きっとその時のオレは熱に浮かされていた。美化した思い出が欲望を纏って理性を侵食していたんだ。



「お願いしますマイキーくん。どうか、6月のヒナの結婚式だけでも、私を自由にしてください」



後悔した。マイキーと橘夕凪が接点があった事実を、まんまと見逃していたことを。



「いいよ」



すぐにでも隠してしまう予定が3ヶ月延期になった。







← back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -