物の内



予感はあった。

神様の力が増して、子供を授かって、呪術師としての終わりが見えた時と同じように。ほんの少しの違和感をなかったことにして、いつも通りの生活を続けてきた。


『胎の子を贄にしてまで助かりたいか』


言いたくはないが、さすが呪いの王。私でさえ曖昧だった術式の核心を、あのタイミングで突いてくるなんて。心身共に疲れ切っていた私には少し堪えた。あの日からもうすぐ二週間経つのに、頭の片隅にこびりついて落ちないくらい。


「つわりが全然来ないんですよね」
「悪いが産婦人科は専門外だ。研修できる医局が救急科一択だったからね」


それって高専の医務室のこと?

年季の入った電気ポットでお湯を沸かす高専の給湯室。硝子さんはインスタントコーヒーを、私はティーバッグの温かい麦茶を。自分のマグカップに注いでから人気のない廊下を歩く。

今日は京都姉妹校交流会で校舎には一、二年の生徒がいない。一番愉快な五条さんもいなくて、落ち着いた木造建築の雰囲気をそのまま感じられる。


「そういうのの相談は定期検診で主治医に聞くべきだ。この前行ってきたんだろ」
「はい、まあ」
「何かあったのか」


本当はこんなところで言ってはいけないのかもしれない。いや、“かも”じゃなくて“そう”なんだけれど。硝子さんならハッキリ意見を言ってくれる気がして、甘えてしまったんだと思う。


「妊娠8週って言われたんですよ」
「……心拍確認はできたんだよな?」
「ええ、8週目としては順調みたいです」


8週目としては、だ。

私が病院に行って妊娠したと確定したのが七月の頭。その時は5週目だった。今は九月の真ん中。だいたい妊娠14週目で、赤ちゃんが人の形になっている段階だ。なのに、私のお腹の中の子供はまだ二頭身。首と体の区別がつくくらいの小さすぎる命だ。


「心当たりはあるのか」
「一応」
「対処法は?」
「それは、なんとなく」
「オマエはいつもそれだな」


ここが廊下なのも構わず、呆れたような顔でコーヒーを一口飲む硝子さん。けれどクマがぶら下がっている目からは好奇心の三文字が覗いていて、もしも私が呪詛師だったら解剖したがったかもな、と失礼なことを考えてしまった。


「時々、夏油のことが可哀想になってくるよ」


急に夏油さんの名前が出てきて足が止まる。少し先を歩いてから硝子さんはのんびりと私に振り返った。


「それも黙って一人でどうにかするんだろ」
「私が撒いた種ですからね」
「撒いた種が芽になりすくすく伸びて収穫するまで何も言わない。刈り取って元の更地になったところを、最初から何もなかったように見せる。せめて何があったかくらい教えてもいいんじゃないか?」


優しいお叱りだ。個人主義な硝子さんらしくなくて、らしくないことをさせてしまうくらい、私が酷いことをしているのだろう。


「せめて、呪いが解けそうなことは伝えようかな……」


ポツリと呟いたひとりごと。

本当は伝えたくなかった。伝えたら、解呪の条件まで話さなきゃいけなくなって嫌だった。三十三歳までに素敵な人と結ばれて子供を産むこと。子供が欲しかったから夏油さんの相手をしていた、なんて誤解されたくなかったから。


「あのクズ前世でどんな業を積めばこんな女に惚れるんだ? 前世でもクズだったのか?」


硝子さんのドン引き顔を初めて見た。

「さっさと言えよ。個室ある店紹介する? 自宅の方が都合良いか?」「は? 五条は知ってるって? 余計にまずいだろ」「特級同士の喧嘩は勘弁してくれ仕事が増える」声音は落ち着いているのにものすごい勢いでポンポンと言葉を連ねる硝子さん。押されまくった私はその場で夏油さんに電話させられて、いつの間にか近いうちに外で会う約束をしていた。


「五条や私が知っていることは言わない方が良い。お互いのためにも」
「えっと、同期で共有できているって安心感ありません?」
「内容によるだろ。今回は私が困る」


どういうことだろう。

あからさまに面倒くさがっている人に聞くのも憚られて、それ以上は深掘りしなかった。

赤ちゃんが成長しないまま生きている状態。心当たりは一つしかない。

──“神内隠遁”。神様の内にお招きしていただいて自主的に神隠しされる。この媒体はお腹の子供。七つまでは神の内。胎児だって七つ未満の子供だ。けれど胎児に人権はあるのだろうか。

受精卵を材料にした万能細胞が批判されたように、人間の人権はいつから発生するのか曖昧だ。人の体をしていない胎児は、母親の一部だと考えていいのではないか。神様の内に本当に招かれているのは子供。子供は私の一部だから私も招かれている。そういう屁理屈の元で成り立つ術式だった。

八月に生み出して九月までに練習と実践で使った回数は合わせて6回。14から6を引いて8。妊娠8週目。ピッタリ数字が一緒なのが逆に違和感がある。神様にしては几帳面すぎるような。

そもそも先月の検診では妊娠10週目だと言われたような。


「巻き戻っている……?」


神様はこの子に生きていてほしいが、産んでほしくもない。

ふと浮かんだ思考がどこから来たのか、私じゃなく神様から送られてきた意思なのか。分からないうちはとにかく術式の行使を控えよう。幸いしばらくは内勤で戦闘になることもないし。

────ピッ。


「はい、家入。…………はい、ここにいますよ」


突然鳴った電話に硝子さんが出てすぐ。視線が私に向けられ、静かな高専の廊下に緊張の糸が張り巡らされた。


「侵入者だ」









五条さんだけを拒む帳は、当たり前に私を受け入れた。

既に京都校の学長と歌姫さんが生徒の確保に向かっていると聞いた。私が夜蛾学長から呼ばれたのは被綿キセワタ様の治癒能力と神様の対呪霊防御を望まれてだ。硝子さんのところまで生徒を生かすこと。生徒の盾となり守ること。人間の呪詛師ならともかく、呪霊に傷をつけられたことは数えるほどしかない。特級だろうが触れられないことは去年の特級過呪怨霊・祈本里香と先日の真人という人型呪霊で証明された。

蛇さんに索敵をお願いしながら森の中を駆ける。これほど密集していると、大きな方がかえって動きが制限される。木の根に足を取られないように走って、呪力がぶつかった余波が肌で感じられるようになった距離。向こうからパンダくんが走ってくるのが見えた。


「状況は!」
「京都校の東堂と悠仁が特級呪霊と戦闘中。俺は負傷した真希と恵を連れて退避。二人とも重症だが、特に恵が変なのに当たってヤバイ」
「被綿様、お願いいたします」


二階建てアパート並みにデカくなった被綿様が開けた場所で伏せをする。その腹に真希さんと伏黒くんを寝そべらせると、腫れや打撲痕が徐々に薄まっていく。真希さんの方は呼吸も落ち着いてきて、意識もハッキリしている。けれど伏黒くんはお腹の痛みに呻いたまま。


「腹のくっついてる謎植物。呪力を餌に体内に根を張るやっかいなブツで、恵のやつ無茶したから腹の中に伸びちまってるかもしれないんだ」
「呪力で……」


粗方回復できたと判断した段階で、四人(三人と一匹)で被綿様の背中に乗って帳の外を目指す。その間、伏黒くんのお腹から生える植物を観察して、私は覚悟を決めた。


「パンダくん、しばらく私の術式で伏黒くんと姿を消しますが、見えないだけでそこにいるので気にしないでください。真希さんをよろしくお願いします」
「え。オマエそんな術式持ってたっけ?」
「最近使えるようになったんです。──伏黒くん、話せますか?」
「…………は、ぃ」


──パンパンッ。柏手を二回。


「私の術式は神様にお願いして現実世界と重なっている別の層、仮称神域にお招きいただくことで現実世界のあらゆる干渉をシャットアウトします。発動条件は神様を信じること。神様の姿を見て、認識して、呼びかけてください」


術式開示。威力の底上げ。


「《おいでくださいませ》」


体の中から呪力が抜き取られる。


「《どうかどうかお助けください》」


ずるずるずるり。抜き取られる。

今度は呪霊が見えないほど、極限まで呪力を抜き取っていただいて。神の内に、花の内に、──お捧げ致します。


「《お招きありがとうございます、お菊様》」


肩に嫋やかな女性の手がかかる。伏黒くんの目が私の背後を見つめているのを確認して、そっと口を開いた。


「《復唱してください。“神様、助けて”》」
「かみさま……たすけ、て」


ずるずる、ずるずる。感覚で神様の元へ伏黒くんの呪力が流れていくのが分かる。今、私たちは何からの攻撃も受けない代わりに何にも干渉できなくなった。できるのは私たち神様の信者と、眷属の二匹だけ。

突然消えた(ように見える)伏黒くんに驚いたように謎植物が飛び上がる。それを待ち構えていた蛇さんの尾が神域を間に挟んで弾き落とした。被綿様は走り続けているので、落としてしまえば一瞬で後方まで転がって見えなくなる。

体中を侵食していた代わりに止血のような役割を果たしていた植物が消えたからか、伏黒くんのお腹から血が流れ出す。できるだけ被綿様にくっつく面積が増えるように押し付けながら、早めに仮称・神域から出ようとした。


《──? ──────っ!?》


鼓膜を引っ掻いたような違和感。肩に添えられた手がものすごい力で握りしめられる。服越しに爪が立てられ、肉すら抉り取る勢いのソレ。耳元で声にならない吐息がヒュッヒュと聞こえて、私はとっさに伏黒くんを神域から突き飛ばした。

呪力の最後の一滴が外へと抜け出した、次の瞬間。


《アアアァアアァァァアアアァアアアアアアアアアアアァァアアァァァァァァアアアァァァアァアアアアアアアァァァァアァアァアァアアアアァァァァァアアアアァァアアアアァァァアアァアアアアアァァアアァァァァアアァァァアアアアアァァアァアァァアァアァアァアアアアァァァァァアアアアァァアアアアァァァアアァアアアアアァァアアァァァァアアァァァアアアアァアアアアァァァァァアアアアァァアアアアァァァアアァアアアアアァァアアァァァァアアァァァアアアァァァアアァアアァァァァァアァァァァァァアァアァアァアアアアァァァァァアアアアァァアアアアァァァアアァアアアアアァァアアァァァァアアァァァアアアァアッッッ!!!》


神様が、悲鳴を上げた。

この世の終わりのような断末魔。後頭部に何度もかする柔らかい感触はきっと花びらで、それだけ頭を振ってもがいているのだと分かる。痛みから逃れようと必死で、しがみつくように私の肩を掴んでいる。痛い。痛い痛い痛いッ。頭の中に声がこだます。悲鳴しか聞こえないのに、意味だけはちゃんと理解できて。痛い、苦しい、何で、待っ、助けて、嫌だ、嫌だ。


《『「“怖いのはもうイヤ”」』》

「《え?》」


悲鳴の中から、聞いたことがない声が聞こえた。

まるで、輪唱するように。



《『「“お母さんは私のことなんてどうでもいいんだ”」』》

《『「“おばあちゃん、もうあそこ行きたくない”」』》

《『「“変なのいるの、ほんとだもん。なんで信じてくれないの”」』》

《『「“学校行きたい。誰かと話したい”」』》

《『「“ひとりにしないで”」』》

《『「“私のせいじゃない”」』》

《『「“こわいよ、いや、私のせいで人が、”」』》

『「“灰原さんは私のせいで怪我した。一生遺る傷を、私のせいで、灰原さんは、”」』

『「“七海さんも私のこと憎んでる。嫌われてる”」』

『「“五条さんの目が怖い。どうでもいいって思ってる”」』

『「“神様しか守ってくれない。神様にしか、私”」』

「でもかみさまはわたしをころすんだ」

『「“夏油さんは嘘つきだ。私のこと人扱いしてくれない”」』

「きらわれたくない」

『「“人殺しなんてしないで”」』

『「“痛いのはやだ”」』

「きらいっていわないで」

「“人殺し”」

「“嫌われたくない”」

「かみさまってなに」

「なに」

「“夏油さん、まだ私のこと猿だと思ってる”」

「きらいっていわないで」

「かみさまなんているの」

「なんでわたしがんばってるの」

「きらいっていわないで」

「なんで」


「私、何のために生きてるの」




「《っ、ぅ、グゥ、〜〜ッ!》」


お腹が、お腹が痛い。耳鳴りが治まってきた途端に、お腹の内側から盛り上がってくるような、股下から炙られるような嫌な感覚。脂汗が全身から吹き出して、胃の内側から胃液が込み上げてくる。無理やり飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで。吐き気の波が引いていく頃には、私は転がるように神様の内側から追い出されていた。


「おいおいなんだその顔。そんなヤベェ縛りの術式だったのか?」
「っ、っ、」
「声も出てねぇじゃん。怖っ」


口を開いたら吐きそうだった。正直首を振ったのもちょっとギリギリ。被綿様が走ってる振動でとっくに危険域だけれど。今ここで吐いたら伏黒くんの傷に私の吐瀉物が入る。衛生面とか以前に可哀想だ。パンダくんの軽口でなんとか気分転換を図りながら、早く森の外に出ることだけを考えた。

でもこれ以上スピード上げられると本当に吐いてしまう。振動少なめで、できるだけ早くお願いしますね。心の中で唱えてみると「無茶な」て空気が返ってきた。ちょっと癒された。

アパート二階建ての巨体が通れるほどスカスカな森ではなく、比較的開けた川岸を通って教員が集まっているところを目指す。これで良かったのか、と悩みはしたが、所詮私は盾になるしかできない準一級。一級の東堂くんと何故だか息ピッタリらしい虎杖くんのコンビに割って入っても邪魔になるだけ。なら生徒の保護を優先すべきだ。

メッセージを確認したところ、西宮さんは加茂くんと狗巻くんを乗せて移動中とのこと。ちょうど冥さんから三輪さんの位置情報が届いた。アルティメットメカマルくん? は遠隔操作で本体はここにいないらしい。交戦中の二人を除けばあと二人、京都校の禪院さんと釘崎さんが所在不明だ。

位置情報を頼りに比較的近くで眠っていた三輪さんを発見。パンダくんに乗せてもらって再び走り出した。森の終わりが見えてきた頃に帳が解ける。それから少し間を置いて、──衝撃。残穢を見るまでもない。五条さんの無下限術式だ。

空がいつもの青色を取り戻した。とりあえずまず伏黒くんを硝子さんに見てもらうために鳥居の近くまで到着。そこには京都校の学長と拘束されている男がいた。恐らくは呪詛師。


「禪院真希、パンダ、伏黒、三輪を保護しました」
「ご苦労。呪詛師は拘束済み。五条が特級呪霊の祓除に向かった。まあ、言わんでも分かるか」
「ええ、はい」


気不味い。明らかにやりすぎな呪力の放出が肌で分かったから。


「それで、その真っ青な顔はどうした。負傷したのか」
「いえ、術式の反動です。お気になさっ、っ、んん、……失礼」


うっぷ。

恥も外聞もなく被綿様の毛皮に顔を突っ込む。すぅはぁすぅはぁ。菊の匂いを二度深呼吸するとマシになったような、ならないような。急に猫吸いならぬ呪霊吸いをしてしまったから、戸惑ったような視線が突き刺さる。この場で吐くより断然いい。


「もう一つついでに聞くが、……身重か?」
「えっ」
「はい」
「うっそーん!」


パンダくんはいつもお茶目だなあ。

叫ぶだけ叫んだ後、「体の中に別の人間がいるってどうなの? 呪骸の核が二つあるのに近い?」と答えにくい質問をしながらお腹をさすってくれた。

歌姫さんから禪院真依さんと釘崎さんと合流したと連絡が入り、東堂くんと虎杖くんが戻ってきたことで生徒全員の無事が確認される、数分前の出来事である。










急な吐き気。不正出血。お腹の張り。仕事が終わり次第病院に行くと、つわりと運動過多だと言われた。「もうすぐ安定期とは言え妊娠14週で走りすぎです」ときつめにお叱りを受けて、つわりの対処法のパンフレットをもらって高専に戻った。

お腹は今朝と比べて明らかに前に突き出している。なだらかな丘がやや重くて歩きづらい。あんなに走れたのに、お腹に小さな人間が入ってる実感が湧いてきた。そういえば、私って妊娠していたんだ。今さら妊婦の重みを感じて、途端に今まで跳んだり走ったりしていた事実に背筋が凍った。流れる心配は神様の力が増し続けている内はないと根拠なく信じていたから。

今、その神様が弱っている。ムジナさん蛇さんを入れられないくらいには萎びて俯いて猫背になって。お家に帰れない二匹は何を思ったか私の護衛役をしてくれるらしい。


「狸ちゃんどうしたの? コアラごっこ?」
「怒りますよ、ムジナさんが」


実際に近くからシャーッて威嚇が聞こえてきた。

私のお腹に器用にしがみつくムジナさん。よくそんな短い足で……と思えば穴が空かないように袴に爪を立てていた。やっぱり器用だ。でもそんなところで牙を剥かないでほしい。

蛇さんといえば私の前を先行して滑っていて、時々障害物に警戒しているそぶりを見せている。ここは高専の廊下なのにね。

昨日の襲撃事件で強化された警備の中、今日というお休みを挟んで姉妹校交流戦2日目は明日行われるらしい。その説明を五条さんから聞かされた私といえば、特に任されていた仕事はなかったはずだ。急にお腹が出始めた私に対して、完全に事務仕事に徹するように夜蛾学長から通告されてしまったし。今は学長室からの帰りで、たまたま出会した五条さんと並んで歩いている。この人に限っては、“たまたま”会うことなんて滅多にないのだけれど。


「昨日の特級呪霊、ほとんど精霊に近い珍しいタイプでさ。植物と一体化したり呪力で顕現させたりできたんだよね」
「どうして今その話を?」
「まあ聞けって。悠仁の報告によると、戦闘中急に周りの植物が枯れだして、比例するように呪力出力が跳ね上がったって。葵が言うには、植物の命を呪力に変換してブッ放とうとしたらしいんだ」


ピッと立てられた人差し指がムジナさんを示す。正確には、ムジナさんが抱きついている私のお腹を。

なんとなく、五条さんが言いたいことが分かってしまった。


「そのお腹、どのタイミングで出始めたのかな」


神様が弱ったのは、特級呪霊の植物認定に引っかかったからだ。神様としてじゃなく、一輪の菊の花として特級呪霊から命を吸い取られた。だから力が弱まって、萎びてしまった。あの時の悲鳴は本当に摘み取られる寸前の断末魔に近かったのだろう。死にかけた神様からこぼれ落ちたのは、今まで私が捧げてきたもの。

なら、神様はお腹の子供の成長を奪っていたことになるのかな。

──《『「“怖いのはもうイヤ”」』》

じゃあ、アレは?


「黙りこくってないでなんか言えよ」
「ぁ、」
「僕を無視するなんていい度胸じゃない? 傑に告げ口されたくなかったら正直に答えて。──オマエ、子供を術式の縛りに組み込んだ?」


ドッと冷や汗が滲んだ。

当たり前だった。普通のことだった。だって結局、神様が守ってくれるから。一時的にお捧げしても見守ってくださるだけで返ってくる。仏壇に上げたスイカやお饅頭を後でいただくようなもので、でも、──それと赤ちゃんを一緒に考えるなんておかしい。おかしいって分かる。なんで今まで分からなかったんだろう。

私、赤ちゃんをモノ扱いしている。


「胎児を、七歳以下の子供として、媒介にし、て、擬似的な神隠しを、お願いしました」


もつれる舌。渇く喉。水分が全部汗になって流れていく感覚。揺れる視線が蛇さんの真っ赤な目とかち合った。そこでやっと歩きながらの談笑が立ち話になっていたことに気付く。


「歯切れ悪ぅ。ホルモン並みに噛み切れてないじゃん。僕は柔らかく煮たモツの方が好きだなあ。あ、モツ煮食べたくなってきた。今夜行こっと」
「……なにか、言わないんですか」
「僕を誰だと思ってるの。呪術界御三家に数えられる古い家の人間だぜ。女を子供を産む道具扱いするヤツなんて珍しくないんだ。子供を生贄にして呪いを強化する親だって当たり前にいるさ」


似たようなことは両面宿儺にも言われていたのに、五条さんから言われるとグッサリとナイフで刺されたような痛みが走った。

子供を生贄にする親。何も間違っていない。


「でも、オマエにとっては当たり前じゃなかったんだろ」


弾かれたように顔を上げる。とても高い位置から黒い目隠しがこっちに向けられていて、ニヤニヤしていると思っていた口は真一文字に結ばれていた。


「違和感があったんだ。呪術師の家系でもない十五の子供がしっかりイカレてる。ナチュラルボーンにしても日常生活では僕みたいに常識あるし? それにしちゃあ覇気がないっていうか?」


途中で聞き流せない言葉があった気がするけれど、今は何か言える心の状態じゃなくて。


「オマエのカミサマ、持ってったの呪力だけじゃないよね」


感情も、持っていかれていた。

恐怖や、怒りや、恥辱。呪力に関わる大部分を、神様にお捧げしていた。それが少しだけ返ってきたのが今の状態なのか、それとも反動なだけですぐに元通りになるのか。また命をモノ扱いする人間になってしまうのか分からない。

分かるのは、神様の悲鳴に混じって聞こえたのは、七歳から現在までの私の声だったってこと。


「なんか勘違いしてそうだから先に言っとくけど、責めてるわけじゃない。確認だよ」


ポンっと。軽く叩くように頭に手が置かれた。夏油さんと比べると色白で、しなやかな五条さんの手。こういうスキンシップってあまりした記憶がなくて、震えていたのを忘れてポカンと口を開けてしまった、


「オマエは親友の嫁以前に、俺の後輩なの」


「厄介な後輩のお悩み相談も先輩の仕事でしょ」なんて。妙に艶めかしい唇が笑みを浮かべる。今度こそいつもの不敵な五条さんで、私の知ってる最強の先輩で。

── 『「“五条さんの目が怖い。どうでもいいって思ってる”」』

そんなことはないよって、十五歳の私に伝えたくなった。


「あ、本題なんだけど狸ちゃん生徒に貸してくんない?擦り傷くらい毛皮被せとけば治るでしょ」


よろしく〜と大股で去っていった大きな背中に、二匹から最大限のヘイトが飛ばされた。五条さん……。









被綿様の術式はそのまま平安時代の重陽の節句にあったとされる行事『菊の着せ綿』に由来している。菊の朝露を吸った綿で体を拭くことで無病息災・健康長寿を願う行事だ。

被綿様の毛皮は軽傷を治してくれるが、厳密には治療しているのではなく自然治癒力を高めていると言った方が正しい。長寿を願う行事と同じ名前の自分が寄り添っているのだから、その人は長寿に違いない。長生きする人がこんな怪我を負うわけがないだろう、という逆説的な効果だ。


「屁理屈じゃん」
「屁理屈でもいいじゃないですか。実際に効果が出ちゃってますから」
「だな。伏黒もそのおかげで助かったし」
「その節はお世話になりました」
「いえいえ。最終的には硝子さん頼みですよ」


寮の談話室のソファを一時的に壁に寄せて、空いたスペースに被綿様に伏せてもらう。アパート二階建てだった巨体が半分に縮んだけれど、逆に収まりが良くて良いかもしれない。声をかけて集まってもらった両校の生徒は、東京校が全員。京都校は東堂くんと究極くんを除いた四人。術式開示で威力を底上げして思い思いにもたれかかってもらったところ、右側左側で綺麗に学校が別れた。今年も仲悪いんだ。


「腹立つくらいフローラルね」
「若い子に触られるからってわざわざシャンプーしたんですよ」


しかもパン◯ーン。お花とベリーの香り。ペット用は嫌がられてドラッグストアに連れてったら前足で差された。ここに来るまでに洗ってドライヤーでブローした毛皮はうるつやだ。心なしか毛皮だけでなく表情まで輝いて見える。「女子の匂いがする」「しゃけ……」代わりに男の子たちが居心地悪そうなのがちょっと可哀想だった。

各々枕やクッション、タオルケット、スマホや本を持って寛ぐ東京校組と初めてで手持ち無沙汰な京都校組。あと虎杖くんも。何度かこういうお昼寝回みたいなことをやったけれど、こんなに大人数でやるのは初めてだ。いくつかタオルケットを持ってこようとしたところでパンダくんに止められる。そういえば呪骸には効かないのに何で来てくれたんだろう。


「座ってていいぞ。必要な物は適当に俺が持ってくる」
「でも、」
「あんまり無理すんな。一人の体じゃないんだから」


グッと親指を立てるパンダくんはお茶目で気遣い屋さんだ。夜蛾学長の教育の賜物だろう。勧められるまま椅子に座った私。パンダくんが男子寮の方にノシノシ歩いていく音がやけに響いた。……ん? みんな急に静かになったような。寝たのかな、と見ればほぼ全員からあり得ないものを見る目を向けられていた。


「ちょっと待て。昨日のアレは聞き間違いじゃなかったのか」
「昨日の? ああ、真希さんと伏黒くんは意識がありましたね」
「俺も、てっきり血が足りなくて幻聴が聞こえたのかと……そういえば、お腹が膨らんでいるのは、もしかして……」
「え、夏油先生妊娠してんの!?」
「夏油ォ!?」
「すじこ!?」


片側の生徒全員が飛び上がったものだから、被綿様が少しよろけた。よろけついでにバランスを崩した加茂くんが床にべったり倒れてしまって大変だ。起こそうかと近寄る前に真希さんに腕を取られてしまった。


「いつあのクズ坊主と籍入れた」
「七月の真ん中くらい?」
「二ヶ月経ってんじゃねーか!」
「高菜! おかか!」
「ちょちょっ、先生もともと夏油じゃなかったの!?」
「戸籍上は夏油ですよ。自己紹介では旧姓を名乗っています。虎杖くんとの初対面では、五条先生が……」
「うわぁーやりそー!」


青筋を浮かべる真希さんと「おかか!」しか言わなくなった狗巻くん。頭を抱えた伏黒くん。露骨に引いている釘崎さん。虎杖くんはしばらく唸ってから、「はい先生!」といい子の挙手をした。


「人生で一度も彼氏いたことがないって言ってたのは嘘ですか!」
「…………本当です」


すごい。一年生組とついでに京都校のみんなから好感度が下がっていく音が聞こえる。幻聴なのにリアルな出来事で、前に五条さんに言われた『僕の生徒に爛れた思想を吹きこまないで』を思い出した。


「こ、交際0日婚?」
「交際0日できちゃった婚です」
「なんでも正直が美徳と思うなよアホ巫女」
「高菜」


狗巻くん今「それな」て言った?

プスプス煙を出して被綿様に倒れ込んだ虎杖くん。伏黒くんと釘崎さんが肩をポンと叩いたのが、今年の一年生も仲良しさんで良いなと思いました。


「まあまあいいじゃないか。下手に他の男に行くより円満だろ。また去年みたいになるよかマシだ」
「憂太にも同じこと言えるか?」
「俺パンダ人間の常識わからない」
「昆布」


戻ってきたパンダくんがタオルや枕、適当な本を渡していく。その後で私に膝掛けまで持ってきてくれて、とても優しくていい子だとしみじみ。


「あ、乙骨くんにはミミちゃんとナナちゃんの方から報告したって聞きました」
「アイツら実は夏油のこと殺したいほど憎かったりする?」
「えっ」


一緒に暮らすくらいの仲良し兄妹なのに?

さっきの虎杖くんと同じのように真希さん狗巻くんが被綿様の毛皮にダイブした。ゆっくりお昼寝してほしい。

いそいそと二人にタオルをかけてあげて、ついでに京都サイドにクッションを渡したり、「怪我のところをくっつけるように寝た方がいいですよ」とアドバイスしたり。パンダくんが被綿様に「オマエらの教育どうなってるの」などと鼻を突き合わせて愚痴り出したので、結局世話を焼いてしまっている。これくらいは体を動かしたうちに入らないでしょう。

一、二時間昼寝したら帰っていいことを伝えようとした時、女子三人のうち真ん中の子と目が合った。


「あの、質問いいですか」
「はい?」


禪院真依さん。真希さんの妹さん。

真剣な顔で姿勢を正そうとするものだから、「寝てていいですよ」とジェスチャーする。けれど普通に体を起こしてしまったので、私もしゃがむことで目線を合わせた。ちょっとだけ寝癖がついてることは教えた方がいいかしら。


「菊の花の呪霊を連れていると聞きました」


神様は呪霊じゃない。

「呪霊ってか神様らしいぜ」「あんたに聞いてないわよ。話に入ってこないで」口から飛び出す前に、起きていたらしい真希さんの訂正が毛皮越しに聞こえてくる。それにツンツン返す真依さんは、五条さんにちょっかいかけられる歌姫さんみたい。……なんて言ったら怒られるだろうか。

頷いた私に、真依さんは少しだけ躊躇うそぶりを見せた後、視線を外して、また私を見た。


「半永久的に呪霊が見えなくなるくらい呪力を吸い取れるって本当ですか?」


弾かれたような視線が他の女子二人から向けられて、加茂くんからは向けられなかった。なるほど御三家の情報網。準一級なんて学生で特級になった人たちに比べれば掃いて捨てるほどいる木っ端術師だ。認識されなくて当然、なんて考えは捨てた方が良さそう。というか、本当にどこから漏れたんだろう。


「誰に聞いたか、は教えられませんか」
「……すいません」
「分かりました。曖昧な答えになりますが、半分正解です」


ゆっくりと背後を振り返る。何もいない。談話室の入り口がポッカリと開いているだけ。でも、そこには神様がいる。私に呪力を注がない時はまったく見えない菊頭の女性。目には映らないのに、白い花びらを地面に向けていることが雰囲気で分かる。


「神様にお願いすれば、呪霊を見えなくしてくれます。ただ半永久的かどうかは断言できませんね」
「ずっとは無理ってことですか」
「いえ、試してないだけです」


そう。信者になりさえすれば、神様が叶えられる範囲で願いを聞いてくれる。優しい優しい神様はいつでも人間に寄り添ってくださる。


「私は皆さんと同じように生まれつき呪霊が見えましたが、七歳から十五歳までは何も見えませんでした。神様にお願いして見えなくしてもらったんです」


信仰心のカケラもなかった私の願いを叶えてくれたんだもの。

慕わしさが自然に漏れて、顔中にじんわりと笑みが浮かぶ。きっと真希さんが見ていたら気味悪がられる表情をしている。


「でも、今は見えているんですよね」
「はい」
「どうして……何かトラブルでもあったんですか?」
「私がまたお願いしたんです。見えるようにしてくださいって」


真依さんは、信じられないという目を隠しもしない。


「どうして……」
「人が死にかけたから」


形だけでも信者を演じられなかった、私のせい。

祖父母の代わりをちゃんと務めていれば、私はここにはいなかった。誰かを傷付けることも、誰かに傷付けられることもなく。呪いなんて知らないまま、神様と一緒にあの村で朽ちていけたのかもしれない。そんなもしもがふと頭を過った。


「私のせいで、神様が人を殺そうとした。だから見て見ぬふりができなかった。それだけです」


ぜんぶぜんぶ、私のせい。

神様は何も悪くない。

悪いのはそう在れと願った人間で、ひとりぼっちの女の人を無視した私だから。

私はもう神様を無視できない。放って置かない。ひとりぼっちにしない。呪われていても、呪いが解けても。神様はいつまでも私だけの神様で、可哀想なお菊様だ。


「呪霊を見たくない方がいるんですか? 被害者の方? 窓?」
「……ええ、まあ」
「詳しくは聞きませんが、もし神様が必要なら今年中にお願いしますね」


確か出産予定は、来年の三月あたりだから。


「恐らくあと半年ほどで神様とお話が難しくなるので」
「意思疎通ができなくなるんですか?」
「ええ。十年モノの呪いが解けるんです。どうなるかはなってみないことにはハッキリしませんが、十中八九見えなくなって──、」
「お、おい」

急に声をかけられ顔を上げる。毛皮の向こうから顔だけ出した真希さんが、しきりに私の後ろを示している。心なしか青褪めているような、引きつった表情に首を傾げ、振り向いたそこには黒い着物の裾が────。



「興味深い話をしているね。私も混ぜてくれないかな?」



夏油さんが、私の背後に立っていた。









雲一つない晴天とはこのことか。青空が目にも鮮やかで空気が澄んでいる。今日はいい天気ね。


「ここならちゃんと話し合いができそうだ」
「話し合いというか、」


開放的な取り調べというか。

ひゅうひゅう風が吹く高専上空を、エイ型の呪霊に乗って飛んでいる私たち。正確には夏油さん一人分しか座る場所がないので、私は膝の上に横向きに座ることしかできない。シートベルトは夏油さんの両腕。多重塔の相輪より高いってことは、下手なビル並の高さで。逃げられない場所に物理的に拘束されている。相手の本気度が伺えるものである。

夏油さんが談話室に現れたことでちょっとしたパニックになった。主に東京校の二年生が。そりゃあ去年は怪我をさせられた相手だもの。仕方ないのは分かるけれど。「しっかりじっくりこんがり話し合ってこい」「シッシッ」「しゃけしゃけ」とあからさまな生贄扱いで追い出しを受け、被綿様と蛇さんをパンダくんに任せて出てきてしまった。


「まずは、どこから話そうか」
「ひっ」


両腕がシートベルトということは、ほとんど抱き締められているのと同じことで。バランスを保つために私は夏油さんの胸板に寄りかかっている。顔も近くて、相手が喋るたびに唇の動きが気になった。なんだか心臓が落ち着かない。ソワソワとお尻の座りが悪いし、変な汗が吹き出す。おかしい。今までならこの腕に幸せを感じてたのに。

なんだろう、なんて言えばいいか……怖い?


「呪いが解けそうなのは本当か?」
「は、はぃ。その話を今度のお食事の時に、しようと、あの、はい」
「すぐに解けずに半年後に解けるということは何か条件があるんだろう? それはなんだ」
「は、話したくない、です」
「…………そんなに私は信用ならないかな」


違う、と言いかけて、違くないと思った。

着物越しの固い胸板に耳をくっつけて、生きている音を感じて、お線香の匂いを嗅いで。安心感よりも先に湧き出る何か。


「わ、たし、夏油さんが怖いです」


怖い。

一度認めると、余計に怖い。こうして密着して、何もかもを握られて、私のことなんてどうとでもできてしまいそうなところが。何より、今起こっている違和感の全てが夏油さんのせいな気がして……。


「夏油さんといると、苦しいんです。心臓がうるさいし、変な汗が出るし、声が震えて……何言ってるのか自分でも分からないし、こんな白昼堂々ハグされてるみたいな格好、どうにかなってしまいそうです。なんだか熱も出てきて……こ、これって、生存本能が警戒しているんじゃ、」
「ちょっと待て」
「ふゃい」


グイッと両腕の力が強くなって、夏油さんの顔が急に近付いてくる。鼻と鼻の頭がくっつきそうだ。


「それは饅頭怖いの怖いだろ」
「なんでいま落語が、」
「照れてるのかって聞いてるんだ」
「照れ……?」
「ここまで来てそのレベルか……!」


ガックリ項垂れてしまった夏油さん。そのまま隙間がなくなるくらいにピッタリ抱き締められて、私はパニックになった。


「あのぉ、」
「なんだい。私の髪がチクチクするとか言いたいのかな」
「くく口から、心臓が、飛び出しそう、ですっ」
「道理で熱いと思った」


そんな冷静に返されても。

人生でこんな気持ちになったことはない。夏油さんは、初めてセックスした時とは比べ物にならないくらい優しい手つきなのに、今の方が胸が痛くて苦しくて死にそう。聞こえてはいけない音が鳴りっぱなしで、馬鹿正直に伝えてしまった自分も恥ずかしくって。なんでこんなことに……。

──『オマエのカミサマ、持ってったの呪力だけじゃないよね』

ぁ、…………あっ、ああ!


「夏油さん、今日の私はダメです。冷静にお話できません。後日、日を改めて場を設けましょう」
「ヤダ」
「くっ」


かわいい……! 胸がきゅんっと、なに!?

抑えきれない衝動で足をバタバタさせてしまった。「コラ、危ないだろ」とたしなめられても、その“コラ”が可愛くて胸がぎゅんっと鳴った。死ぬ死ぬ死んでしまう。

これが神様が持っていった感情なのだろうか。呪力とは全く関係なさそうなエネルギーの暴力。今まで漠然と認識していた“好き”が幼稚園のおままごとに思えてくる。──“好き”? これが? こんなにツラい“好き”を私は神様に預かってもらっていたの?


「夏油さん」
「なにかな」
「好きって、こんなにしんどいんですね……」
「そうだね、今の私はそれ以上にしんどいよ」
「お疲れさまです」
「君のせいなんだけども」


まだ夏油さんが項垂れているから話せているようなもので、顔を上げられたらどうなるか分からない。とりあえず上げられないように先手必勝で頭を抱き込んでみた。ら、好きな人の顔を胸に押し付ける体勢が想像以上に恥ずかしい。


「たすけて」
「私のセリフだね」


事態は悪化した。

夏油さんは私の体を、私は夏油さんの頭を抱き締めた状態で、人気のない高専敷地内の上空をぷかぷかと浮かんでいる。ひたすら沈黙が続いた後。「私だって、」風の音に掻き消されず、胸元から小さく聞こえた声に耳を傾けた。


「私だって、君が怖かったさ」


ドッと心臓が飛び跳ねた。

怖い。それは私がさっき言ったばかりの言葉で、ネガティブなイメージが強くて、言われた夏油さんはこんな気持ちだったのかな、と恐ろしくなった。


「長く君に辛く当たってきた。君が許すからと、こちらも遠慮なく鬱憤晴らしに使ってきた。恨まれても仕方ない態度を取ったのに、君が、あんなに安心したように笑うから」


──私は、甘えていたんだ。

スリ……と胸元に夏油さんの頭が擦り付けられる。



「“嫌いだ”と言っても、嫌わないでくれる君が、好きだった」



髪の隙間から見える耳が赤くて、懺悔するような語りと合わせると悪戯がバレた子供のようだ。かわいい、と悶絶する余裕はもうなかった。どうしても震えてしまう自分の手が気になって、誤魔化しでゲ油さんの髪をすく。


「……私、もう夏油さんの“嫌い”に耐えられる自信がありません」
「いいんだ。それが当たり前なんだよ」


── 「きらいっていわないで」
こう思ったのは何歳の自分だろう。私はいつから夏油さんに嫌われたくないと思い始めたのか。


「君から向けられる感情は親愛に偏っていて、私の無理強いで結婚できたようなものだ。いつか私のズルがバレて、君がどこかへ行ってしまうのではないかと……怖かった」


術師であろうと、非術師であろうと。もう関係ないところまで来てしまったのだと。背中に回った手に宥めるように擦られて、肩の力が抜けていく感覚。勝手に目が熱くなって、グッと眉間にシワが寄った。


「今は、同じ気持ちでいいんだね?」


頷く。何度も頷く。ギュッと夏油さんの頭を抱えながら、体を揺らすように頷いて、それでも足りない気がして。長く潜っていた海から顔を出したみたいに、口を開いた。


「すき」


抱え込んでいた頭がずれる。項垂れていた夏油さんがゆっくり元の姿勢に戻っていく。熱い視線が顔を焼くほど注がれて、余計に口が止まらなくなった。


「すきです、すき、すきなの」
「うん」
「すき、すき、だいすき」
「うん」
「げとさんがすき。すきなんです。すき、すき」
「私もだよ」
「げとさん、すきぃ」
「私も好きだ」
「すち、す、すきで、すきすぎておかしくなりそう」
「おかしくなっていいんだよ。私はとっくにおかしくなっているんだから」
「ほんと、ですか?」
「本当さ」
「う、うれしい、すき、すっ、」


言葉を伝え合ったら、次は態度で示すものだよ。という考えを本当に態度で示した夏油さん。“すき”の“き”を吸い取ってしまった唇に、ぜんぶぜんぶ吸い取ってもらいたくなって、恥ずかしがりながら私も吸い付いた。もっと境目が曖昧になりたくて、襟から伸びる首に腕を回して夏油さんの熱で肌を炙ってもらった。心臓が限界を超えてドッドッと鳴っているのが耳の内側から分かった。夏油さんも同じだといいな、と思って相手の耳を塞ぐ。ピアスが体温で温かくなるくらい夏油さんも熱くて、これが『同じ気持ち』ってことなんだと実感した。

炙られて、溶けて、境目も分からなくなって、同じ人間になってしまいたい。夏油さんの一部になってしまえばどんなに幸せだろう。

人の口の中はこんな味がするんだ、とか。舌を擦り合わせるだけで体は震えるんだ、とか。冷たい秋風が吹いていて良かった、とか。好きな人の腕の中は抜け出せなくて危険だな、とか。

ずっとこうしていたいなあ、とか。



──「私、何のために生きてるの」

────神様のためだよ。

夏油さんは素敵な人だろうかいろんな人がクズと言っているけど夏油さんっていい人よねでも子供が生まれても呪いが解けなかったら私は夏油さんと別れられるのかな夏油さん以外の人とセックスして子供を作って産めるのかな神様はどう思う神様には私しかいないもの三十三歳までどうにかすればいいか夏油さん以外の人とセックス子供子供子供子供呪いを解くために生まれる子供は幸せかな分からない呪い呪い産んでみなければそんなの可哀想だ夏油さん可哀想こんなことに付き合わされるなんて私のせいで私のせいなのに神様はどうして守ってくださるの神様教えてよねえどうしてどうしてどうして夏油さん私のことどう思っていますか神様神様神様神様かみさあままかみさまおきくさまかかかみさまさまかみさまかみさままま………………《無視しないで》



「どうして泣いているんだ」


涙が止まらない。ぼたぼたと袴に大粒のシミができて、袖で拭っても拭っても溢れてきて。熱に浮かされた脳が急に現実に引き戻された。目はずっと熱いのに、顔はさっきとは真逆のマイナスに張り切っている。きっと青い顔をしているに違いない。


「君に泣かれると、あの時を思い出すな」
「夏油、さん」
「具合が悪いのかい? そろそろ下に降りて、」
「夏油さん、私、呪いを解きません」
「は」
「子供も産みません」
「何を……こんなに大きくなったのに堕ろすなんて、」
「夏油さん」

「私は、神様と一緒に死にます」


風の音だけが辺りを支配していた。

夏油さんが傷付いた顔をしている。けれど、これでいい。これでいいの。



「今度は、私が君に嫌われる番か」



夏油さんの手が眼前に掲げられる。何もないはずのそこに、菊の花びらが舞って。《ギッ》


「なに、してるんですか」
「初めからこうするべきだったんだ」
「待ってください。説明を、」
「君だって何も説明してくれないじゃないか。私も好きにするよ」


《ギッ、グァ、ァ、ァ、ァッ!》神様だ。喉を締められているような、声にならない悲鳴。夏油さんの手にゆっくりと形をつくる丸い玉。繋がっている先は、もちろん。


「これで君たちがお別れすることはない。好きな時に私が会わせてやれる」


夏油さんの呪霊操術は二級以上格下の呪霊相手には降伏なしの無条件で取り込むことができる。神様の等級は一級で、でも今は弱っている状態で。見る見る内に大きくなっていく黒玉は、か、かみさ、かみさま……!

堪らず夏油さんの腕に縋り付く。取り返そうにもビクともしなくて、憐むような、慈しむような目が私を見下ろしていた。



「三人で幸せになろう」



そこに神様はいないんだ。

まだちゃんとした形になっていないソレが、夏油さんの唇に寄せられて、さっきまで世界で一番愛おしい場所だったのが悍しい何かに変わってしまった。唇の下から歯が、舌が覗いて、神様と繋がっている呪霊玉未満をひと舐め。それから齧るように、口に含もう、と……。


「いやッ」


無防備な夏油さんの上半身に抱き付いて、無理やり唇を奪った。バランスを崩した相手と一緒に宙に投げ出されて、それでもずっと唇に吸い付いていた。甘かった気がしたそこは酸っぱい異臭が漂っていて、──神様がこんなモノに変えられて良いわけがない。

落ちていく。落ちて、落ちて、それでいいと思った。饐えた味のキスが最後のキスでいい。大好きな人の腕の中で舌を絡ませて、こんな幸せなことはない。


(夏油さん、大好き。)



一緒に死んでしまおうと、本気で思ったんだ。





オマケ


「いいか悠仁。アイツには不用意に近付くなよ」
「俺たちは去年散々な目にあったんだ。真希は足捻じ切られるし俺は全身修理に出されるし棘は喉潰された」
「今回のより重症じゃね?」
「だからヤベェっつってんの」


夏油先生が旦那さんに連れてかれてから先輩たちがこぞって俺を囲んでくる。死んだふりしてる間に夏油先生に世話になったって言ったらコレ。

伊地知さんやナナミンと妙に話がかみ合わなかったのは、先生が新婚さんで、皆が知ってる夏油は旦那さんの方だったかららしい。そこんとこちゃんと説明してくれよ、とは思ったけど、まあ五条先生の適当だろうなと納得もする。


「夏油さんは五条先生の同級生で親友って言えば分かるか?」
「ヤベェ」


これ以上ないくらい分かりやすかった。さすが伏黒。

その後も出るわ出るわ先生のヤベェ話。十年呪われてるとか、神様に関して変な地雷があるから言及するなとか、適切な距離をとらないと旦那さんがやらかすぞとか。女子二人が「巫女ちゃん」「アホ巫女」と呼んでいるのも本名呼んで変な地雷を踏まないようにするためらしい。俺も巫女ちゃんって呼んだほうがいいか聞いたら「夏油先生でいいんじゃね? 新婚っぽくてプラマイゼロだろ」って。それでもゼロなんだ。

岩盤浴ばりにじんわり気持ちいでっかいムジナさんに寝ころんでいると、さっきまで狗巻先輩に絡んでいた蛇さんが見えなくなった。


「うおっ、蛇さんだ! 久しぶり! どうして寮にいるの?」


談話室の入口から知り合いの声が。


「灰原さんどうしたんすか。わざわざ寮まで来て」
「やあ、伏黒くん! みんなもお昼寝中ごめんね! 今日は新しく来た子に寮の案内」
「新しくって、そこの女子?」


補助監督の灰原さんが蛇さんを腕に巻き付けてハツラツと手を上げた。その後ろにギャルっぽい子と大人しそうな子が並んで立っている。


「いんや、アイツらオマエと同じ一年の双子。美々子と菜々子」
「任務で交流会欠席してたのよ」


女子は同じ女子寮で交流があるんだろう。仲良くはなさそうだけど気安さみたいなのを感じた。

にしても、双子が違うなら誰が新しく来るんだ?


「ちょっと。隠れてないで出てきなよ。あたしら早く傑兄とお姉に会いに行くんだから」
「任務だけじゃなく自己紹介まで面倒見切れない」
「すっ、すいません」


入り口の向こう。廊下の影から覗いた黒髪は、もう会えないはずの人で。真人の術式で姿が見えなくなって、死んだと思っていたヤツで。


「ひ、久しぶり、虎杖くん」
「ッ、順平ェ!!!!」


死人サプライズがどんだけスベるのか、俺は身をもって知った。




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