蟲の内



私はお見合いというものに好感を持っている。

昔の日本の夫婦は男女の仲というよりは人生の相棒、ビジネスパートナーの意味合いが強い。家庭を作り守っていくために一緒に協力して戦う仲間。後から恋愛になった人もいただろうけど、家族という愛着の方が強かったのではないかな。

お見合い結婚。恋愛に向かない人間にはピッタリな結婚の形だ。

祖父母が亡くなるまでは、私もこっちになるんだと漠然と考えていた。だって祖父母はお見合い結婚だったし、二人が思う女の幸せは結婚して子供を産むことだ。育ててもらっている手前強く意見を言えなかったのもそうだけれど、お見合いで相手を連れてきてくれるならまあいいかとも楽観していた。自分が誰かを恋しく想って、相手も同じように返してくれる。そんなビジョンがまったく浮かばなかったから。

それがどこをどう転んだのか。私は世間でいう恋愛結婚をしてしまったらしい。


「おめでとー! 今日から夏油先生だね〜」
「ありがとうございます五条先生。無理にそっちで呼ばなくて結構ですよ」
「ええー、せっかく名字変わったのに。呼ばないと損じゃん」
「急に変わったら皆さんが混乱しますよ。いいじゃないですか、源氏名ってことで」
「高専はいつから水商売になったの?」


高校の時よりずいぶんおちゃらけた五条さん。これはこれでいい息抜きになってるのでは。特級術師、高専教師、五条家の看板。たくさん役割があるんだから、どこかでストレス発散しなければやってられない。その辺の管理は上手い人だ。

対して、夏油さんは下手な人だと思う。特級術師で、新興宗教の教祖で、もうすぐ父親になる人。


『君と、……お腹の子を、私に守らせてくれ』


子供を守ってくれると言っていたけれど、私としてはまず自分の心を守ってほしい。またあの時のように、人を殺してしまおうなんて発想に至らないよう、心の安寧を保つことに集中してほしい。

それでいったら、私とこの子は邪魔者かもしれない。守るものが増えて、ストレスが溜まって、いろんなものが弾け飛んでしまう。そんな最悪の引き金になりかねないから。


「結婚は、早まったかもしれませんね……」
「ねえ、急に怖いこと言うのやめて。やだよ、僕が証人のサイン書いたのにすぐ離婚とか」
「冗談です」
「冗談って顔じゃないんだよなオマエ」


この前の灰原さんの一件で、私の信用がガタ落ちになってしまった。確かに、勝手にお腹の子の父親にしてしまったのは悪質すぎた。場を改めてちゃんと謝罪したものの、それで私の冗談の趣味が最悪なことは周知されたらしい。一時期何か言うたびに冗談かと確認されたくらいだ。特に伊地知さん。『絶対に私の名前を出さないでくださいね』と何度も念を押されてしまった。冗談の一つも言えない真面目な女のままでいてほしいらしい。


「で、これも冗談?」
「本物です」
「冗談であれよ」


デスクの上に重なった厚紙の束。白地に金粉が舞った豪華な作り。開くとスーツや紋付袴姿の男性の写真が嵌っている。俗に言う、お見合いの釣書だ。


「既婚者に送るとかなに。頭に脳味噌ないの? メロンパンでも詰まってるの?」
「きっと情報化社会に取り残されてるんでしょうね。狭い業界でもこの短期間では伝わらなかったみたいです」
「いやいやアイツら絶対知ってる。知っててやってるよ絶対そう」


パラッとめくろうとしてすぐに五条さんに取り上げられる。そのままベキベキ四つ折りにして近くのゴミ箱に放り投げてしまった。ああ、要注意人物リストが……。


「釣書を見て任務で避ける人を決めてるんですよ」
「面倒でしょ、僕から傑に伝えとくよ」
「夏油さんの手を煩わせるわけには」
「奥さんに見合い投げられて黙っている男だと舐められたらそれこそ厄介だろ」


そうなのだろうか。首を捻っていると、五条さんはものすごい速さでスマホをいじって、すぐにまたポケットに仕舞う。そういえば用件はなんなんだろう。始業前の朝の時間に準備室まで来るなんて珍しい。その疑問に答えるように、五条さんは私を外へと連れ出した。高専の廊下を通り、どんどん中心から離れの方へ。学長室の近くの人があまり来ない区画まで来ると、唐突に地下室に続く階段が現れた。そこを無言で降って、入った部屋は人が住めそうな設備が整ったリビング。

テレビと向かい合うように置かれたソファに、死んだはずの虎杖悠仁くんがいた。


「あれ? 先生、その人だれ?」
「紹介するね! 高専の教師で僕の後輩の夏油! 勉強とか、呪力操作のコツとか教えてくれるから、仲良くしてね!」
「そーなんだ。虎杖悠仁です! よろしく夏油先生!」
「…………はい、よろしくお願いします。虎杖くん」



五条さんって……五条さんって……。

おちゃらけるにしても限度があるな、と身にしみた出来事だった。

それから私がしたことといえば、まずは虎杖くんとのハグだ。年頃の男の子、しかも生徒にこれはセクハラでは……。躊躇う私を五条さんは「えいっ」と押して、虎杖くんに抱きとめさせる暴挙に出た。結果、空気抵抗を感じたものの普通のハグになってしまった。虎杖くんの動揺もよく分かる。私もとっさに背中に手を回してしまって、ほとんど隙間なく密着しているのが恐ろしい。

ただ、それ以上に気がかりなのは、背後の神様の存在だ。


「夏油先生、そのでっかい花、なに?」
「私の神様です」
「なんか、怒ってね?」
「私もそう思います」


そもそもこの部屋に入ってから神様の様子がおかしかった。

イタ杖くんのことは一方的に知っていても、近くで会ったのはこれが初めて。だからこんな反応になるなんて思わなかった。

神様は分かりやすいくらいにゆらゆらと揺れている。決して嬉しい楽しいのゆらゆらではない。私が見えているあたり呪力を発しているのは分かるけれど、呪霊や呪詛師から攻撃されている時とは違う。その場合はジッと見つめるように相手に花を向ける。今は、なんと言えば良いか……貧乏ゆすり?

初対面の虎杖くんでも分かる不機嫌さに、どう対処すればいいか分からず、ムジナさんと蛇さんも着物の裾から顔を覗かせて困っているみたいだ。


「なるほど、そうなるわけね」
「説明してください」
「両面宿儺の器に対して呪霊判定が下るか気になって」


虎杖くんは人間だ。下るわけがない、とも言えないのが両面宿儺という存在の邪悪さだ。呪術界十年目の私ですら感覚的に聞きたくない名前だ。──呪いの王。なるほど、ちょっと分かったかもしれない。

神様は祀られてこそ神様で、祀る人間がいなくなれば神様ではない。痛いくらいに知っている事実。史実として残っている両面宿儺の所業は祀る人間を減らす結果になった。つまり、祀られる神にとって人間の敵は神の敵なのだ。

しかも今目の前にいる虎杖くんは紛うことなく人間だ。人間だから神様は退けられない。けれどその内側には忌むべき敵の呪力がある。退けたいけど退けられない。その葛藤がハグする直前の空気抵抗に出たんだろう。

これは乙骨くんの時と同じように距離を取るべきだろうか。未だに抱き締めあった体勢のまま、そろそろ離れようとしたその時。──べろり。


「っ!」
「傑作だな。巫の気を纏わせておいて、たっぷり穢れを溜め込んでおるわ。やるではないか、女」


虎杖くんの頬から突然伸びた舌が、私の頬を舐めた。聞いたことがない声なのに、一瞬で感じ取れる邪悪。両面宿儺が表層に現れるとはこういうことなのだろう。呪力でできた肉の体温が頬に残って生々しい。虎杖くんは虎杖くんで、自分の頬を叩きながら顔を真っ赤にして呪いの王相手に怒っている。「セクハラ! セクハラって言うんだぞそういうの! コンプラ的にヤバいから!」


「本物の巫ならば遊んでやったんだがなァ。手垢がついた女には別の使い方がある。ケヒッ、どう料理してやろうか」


虎杖くんを物ともせず、今度は叩いた手の甲に浮かぶ口。尖った牙や長い舌は人外じみた獣を思わせる。言っている内容は不穏な雰囲気ばかりが伝わって、あまり深く考えないことにした。というより、一つだけ気になることがあって。


「虎杖くんとこの口は、味覚を共有していますか?」
「は」
「うん?」
「いえ、一応ファンデーションを塗ってるので。舐めるのはオススメできない顔なんです」


ファンデーションって、食べて良いものじゃないですし。

純粋な疑問は、一拍置いて背後から降ってきた爆笑と、不機嫌な舌打ちと、ポカンとした顔に流されてしまった。


「呪術師って変な人多いね」
「コイツは特に変な部類だから、悠仁も気をつけなね」
「私は普通のつもりなんですが」
「えー? じゃあ宿儺の言葉に無反応だったのはなんで?」
「神様の敵と対話は不要かと」
「ほらね」
「夏油先生……」


だって神様、まだ消えてない。警戒している証拠だ。神様の敵とどうして仲良く敬語でお喋りできるのか。当然の顔で答えれば虎杖くんから残念そうな目で見られた。何故。

私という人間は、生まれた時から前世の記憶があったことに加えて、十五年祖父母ばかりと会話してきた影響で、どうにも人とのコミュニケーションが上手くないらしい。それでもこうして職を得ているのは呪術師が数が少なくて虎杖くんが言うように変な人が多いからだ。その変な人たちに変だと言われる私は、一周回って普通なのでは。そう飲みの場で吐露すれば同意してくれたのは歌姫さんだけで、硝子さんや冥冥さんには無言で酒を注がれたっけ。

……やっぱり私は変なのかもしれない。


「虎杖くん、私が何か変なことを言ったら遠慮なく指摘してくださいね」
「急にどしたの先生」
「これから長い付き合いになりますし、仲良くしましょう」
「待って。去年やらかしたばっかでしょ、こりろよ」


ちょっと声のトーンが低くなった五条さん。首を傾げる虎杖くん。“去年”で思い至ることといえば夏油さんの暴走。でも最近はあまり心配する必要がなくなってきた。

夏油さんのマンションに引っ越したから。

婚姻届を提出してから急に決まったことだ。同じところに住んでいるとストレスチェックしやすいし、ミミちゃんナナちゃんも喜んでくれたし、引っ越して良かったかもしれない。勝手に荷物が移動されたのはちょっと驚いたけれど結果オーライということで。

まあ高専の仕事が忙しくて結局週一しか帰れてないけれど。結局新しくお布団を買って前の部屋で寝起きしている現状に、夏油さんは何も言ってこない。夏油さんもお忙しい人だもの、いちいち私に構ってはいられないよね。

五条さんは親友のプライベートが心配なんだろう。ここは安心させなければ。無愛想な印象をできるだけ和らげたくて、両手で思いっきりガッツポーズをして見せる。


「大丈夫です。私に任せてください」


所信表明のつもりで宣言したというのに、五条さんから目隠し越しに不安そうな顔をされてしまった。ダメでしたか……。信用がないのは悲しいことだ。いつかの伊地知さんを思わせる執拗な念押しをされ、その日は虎杖くんとお別れした。

次の日から私は毎日虎杖くんにお弁当を作っている。


「夏油先生の卵焼き甘いんだ! なんかプリンみてぇ」
「祖母の味なんです。おかずというよりはデザート感覚で食べていました」
「へえ、先生ばあちゃんっ子なの?」
「そうですね、祖父母に育てられたので、ばあちゃんっ子のようなものです」
「そうなんだ! 俺もじいちゃんに育ててもらったんだ! 一緒一緒!」
「本当ですね、一緒一緒です」


途中で乱入した卵焼き泥棒の五条さん。「距離感考えろって僕言ったよ? 言ったよね? ね?」再三念押しして虎杖くんを訓練に引きずっていってしまった。そんなに信用がないのかな。

虎杖くんはずっと人目を忍んだ生活をしていてあまり外に出れない。食事も食堂から運ばれることもあればインスタントやコンビニ弁当の日もあって、映画を見ている時はポテチとコーラ。流石に栄養バランスが心配だったので、自分の分と一緒に虎杖くんの分も作るようになった。「ふぅん、料理上手な嫁をもらってアイツも幸せだな。こんなん毎日作ってるの?」「毎日作ってますけど、そういえば人に作ったのは初めてですね」「夏油にも?」「作ったことないです」「ハハッ、ウケる」硝子さんのツボはイマイチ分からない。

虎杖くんの呪力操作を見ながらお昼は一緒にお弁当を食べる。そんな毎日が続いたある日、久しぶりにマンションの方に伺うと、珍しくリビングにラフな私服の夏油さんがいた。革のソファの背もたれに肘を置いて、片手で文庫本を読んでいる。私が来たことなんてすぐに分かっただろうに、のんびりと1ページ分を読み切り、しおりを挟んでからローテーブルの上に置いた。


「高校生を誘惑しているとのタレコミがあったんだが、何か申し開きは?」
「……誘惑の基準を教えてください」
「その口ぶりだと思い当たる節があるね」
「当たらないので確認させてください」
「どうぞ」
「お弁当を作って持っていくことは」
「誘惑だね」
「申し開きもございません」


どうしよう。誘惑のハードルが予想外に低い。

両手を上げて降参のポーズを取ると、夏油さんがソファから立ち上がった。平均より低い私と平均以上の夏油さんが向かい合うとあまり顔が見えない。見えないのにつむじあたりが気になって気になって。そろりと見上げれば、何の感情も浮かんでいない顔の中で目だけが私を詰っていた。


「もう一つ。何故、見合いの話が止まないんだ?」


五条さんからのタレコミだ。すぐに気付いたものの、今の段階ではどうしようもできない。見合いの話も、いつものことだからと流していたのがいけなかったのかしら。

私は見合いに対して好感を持っている。お互いの利害が一致して、人として尊敬できるところがあるなら結婚すれば良い。結婚する前は便利なシステムだと評価していた。何度か受けてみると、相手が人として尊敬できなかったので全部辞退してきたけれども。

向こうが欲しかったのは神様の加護。今来ているのなんて特に、急に力が強まった神様をどうにか利用したいための手段だ。決して私を欲しがっているわけではないことは重々理解している。何より私は神様を利用する人間を許さない。見合いに対する好悪より神様を下種な目で見る人間に嫌悪感があった。

それを夏油さんに伝えたとしても、伝えなかったとしても、何も変わらないと思った。


「向こうが既婚者だと知らないからじゃないですか?」
「君が周知していないからだろう」


するりと取られた左手。この十年で傷や豆が数えられないほどついて、いつの間にかムジナさんが治してしまうので白くて柔らかいまま。呪術師としては有り得ない手だ。その薬指を、夏油さんの指が意図を持って撫でさする。


「私の指輪はお気に召さなかったのかな」


何も嵌まっていない指。質問の意味が分からず、固まる私に、触れる力が強まっていく。


「今さら嫌になったのか? 子供までできたのに、私のそばは地獄かい? 家にも帰ってこないで、高専で寝泊りなんかして」


──傷付くなぁ。

耳元にフッと吹き込まれた息。勝手にピクリと震える肩。夏油さんは私の左手しか触れていない。すぐ目の前にある体は一切寄って来なくて、なんだか寂しい。

……寂しい、なんて思うような人間だったんだ、私は。


「夏油、さん」
「うん」
「ハグしてもいいですか」
「うん?」


右手だけで相手の胴に抱きつく。固い胸板に頬を当てて、体温を感じながら目を閉じる。温かい。寂しくない。心地良い。こんな素晴らしいことが簡単にできてしまって良いのだろうか。今までこの感覚を知らずにどうやって生きてきたのだろう。ただでさえ背中が涼しくて物足りないのに、縋る体温が無くなってしまったらどうなるのか。想像して、怖くて、怖いという感情が残っていることに驚いて、やっぱり怖いと思った。


「夏油さん、どうしましょう」
「……どうしたのかな」
「夏油さんがいなくなったら生きていけないかもしれない」
「………………、ああ、うん、それは光栄だね」


左手が自由になった代わりに背中に腕が回って、全身がまるで毛布に包まれているみたいに温かくなった。強すぎず弱すぎない力加減。落ち着く。冬の朝のお布団の中みたい。シャツからふわっと香る洗剤の匂いが自分も同じ匂いなのに特別に感じる。なんだか眠くなってきた。

ずっとくっついていたいハグなんて、恐ろしいハグだ。


「虎杖くんのハグと全然ちがう……」

「──────なんだって?」
「この前、五条さんにお願いされてハグしたんです……こんなに落ち着かなかったし、その後、両面宿儺に顔を舐められまして。……あんまり良い気がしませんでした……」


夏油さんはすごいですねぇ、としみじみ感想を言った。つもりだったのに。──ミシッ。


「いっ、!?」
「君、教え子と抱擁したのか?」


地獄の底から響いてきたような低い声だった。


「は、はい……」
「立派な淫行じゃないか。しかも両面宿儺に舐められた? は? 顔面に吐瀉物投げつけられたようなものだろ危機管理能力ゼロなのか?」
「す、すいません……?」
「分かってないのに謝るな不愉快だ」
「いえ、あの、虎杖くんには謝りましたし、顔はちゃんと洗いましたよ。アルコール消毒もバッチリです」
「そういう問題じゃない」


一週間も前の話なのに。

背中にふんわり回っていたはずの腕がいつの間にかガッシリ腰を掴んでいて、着替えも何も用意できないままお風呂場に放り込まれてしまった。

ところで、指輪の話はなんだったんだろう。

すりすりされた左の薬指を眺める。指輪って記念日やお出かけでつけるものじゃないのかな。今日は何かあったっけ。夏油さんは何を不安に思っているんだろう。──どうして、あんなに傷付いた顔をしたんだろう。

言ってくれなきゃ分からないけれど、言葉に出したらきっともっと傷付いてしまう。そんな繊細な人なんだ。私が頑張って受け止めるしかないんだ。

短くなってすぐに洗い終えてしまった髪。そういえば寝ぼけた夏油さんは私の髪が好きだったらしい。思い立ったが吉日と言わんばかりにバッサリ切ってしまった。本当は長い方が好きだったりするのかな。

うーん、と唸りながらお風呂場から出て、バスタオルと一緒に並べられた着替えに有り難く手を合わせた。髪が短いと乾くのも早い。ドライヤーでブローしつつ、ちょっと眠くなってきた頭で去年のことを思い出した。

去年は忙しくて夏油さんに会えない時期があった。その反動で乙骨くんに迷惑をかける事態になってしまった。五条さんもそのことを心配している。虎杖くんにも同じような迷惑をかけてしまわないか、私を激励したに違いない。戸籍上は家族になったんだから協力して生きていくんだ。うん、頑張ろう。


「夏油さん、お風呂いただきました」
「ああ」
「どうぞ」
「ああ……あ?」


短い髪の襟足をかき上げて、耳の裏あたりを夏油さんの方に向けて見せる。


「ここならいくらつけてもいいですよ、見えないですし、目立ちません」
「なんの話をしている?」
「赤いヤツです。皮膚がキュッてするの」


つけるの好きですよね?

体も温まって思考もホカホカのまま、ソファに座っていた夏油さんの隣に座って、つけやすいように身を寄せる。喜んでくれるかな、とウキウキ待っていると、ムジナさんが唸り声を上げたのかと勘違いするような音が至近距離から聞こえてきた。ビックリ顔を上げると、ものすごく険しい顔の夏油さんが歯軋りをした。



「私の術式は呪霊操術といって、力によって調伏した呪霊を生きたまま取り込むことで完全に支配下に置く。取り込む前に殺してしまっては元も子もないから、呪霊絡みの任務では常に手加減するよう命令してきた」


突然の術式開示。
何故? ここに呪霊はいないのに。


「私は今その気持ちを味わっている」


大きな深呼吸を二度三度。次の瞬間に、私は荷物のように小脇に抱えられて、大股で自室のベッドにまで運び込まれた。そっと寝かされた後は顔が隠れるほどに布団をかけられて、顔を出す前に電気を消されてしまった。


「おやすみ」
「え、は、はい、おやすみなさい」


遠ざかろうとする足音がひとつ、ふたつ。ぼんやりとした思考の中で、最近ずっと悩んでいることがふにゃふにゃと口から漏れた。


「もう、『嫌い』といってくれないんですか」


足音が止まる。光源は廊下から差す電気のみで、夏油さんの顔は逆光で見えない。何より妙に瞼が重い。そんなに疲れたのかな。それとも、ここに来て安心してしまったのか。

お邪魔しているのではなく、帰る場所になってしまったのか。

足音が近付いてくる。半分被っていた布団がそっと剥がされて、顔が全部外気に晒された。瞼は薄くしか開かなくて、それでも廊下の光源が完全に遮られていく過程をじっくりと眺めていた。



「好きだよ」



唇に触れた柔らかさは、夢のようだった。









「すいません。虎杖くんの分のお弁当を持って来れなくて。私の分で良ければ」
「いいって! 先生が食べなよ、俺○平ちゃん食うから」
「いいんです、久しぶりにコンビニ寄ったので。限定のピーチパフェも買ってきたんですよ。はい虎杖くんの分」
「気ぃ使いすぎだって」


使わせてください……。

今朝のことだ。マンションのキッチンで自分と虎杖くんの分のお弁当を作って、蓋を開けて冷ましていると夏油さんが起きてきた。『美味しそうだね』とニッコリ笑うから、夏油さんの分も作った方が良かったかと後悔した。昨日のうちに聞けば良かったなぁ。お礼を言いつつ、素直にごめんなさいする直前で、大きい方のお弁当をヒョイッと持ってかれてしまったのだ。

『私の分も作ってくれたんだろ? ありがとう』あまりの圧に私は黙って頷くしかなかった。

虎杖くんが好きそうなお肉中心の濃い味付けと、男子高校生の胃袋に見合ったご飯の量。夏油さんは食べ切れるだろうか。心配だ。


「この肉巻きうんめー! 甘辛くってご飯が進む!」
「味は濃すぎませんか? 冷めても良いように味付けを変えたんですが」
「ちょうどいいよ! 先生って本当に料理上手だよな!」


素敵な食べっぷりだなあ。

久しぶりのコンビニのお弁当を食べながら、いつもより小さいお弁当箱を丁寧に持つ虎杖くんを見る。男の子の手ってデカいんだ。私のお弁当箱なんて片手で覆えてしまいそうだ。やっぱり量が少ないから、すぐに中身は空っぽになってしまった。すかさずコンビニスイーツを渡すと輝く笑顔で「あざす!」と言われる。この業界には珍しいタイプの素直な子だ。灰原さんを思い出す。


「──ね、先生ってさ」


プラスチックのスプーンを持ったまま、虎杖くんは悩み出した。口を数回パクパクとした後に、若干耳を赤らめながらおずおずと尋ねてくる。


「あーー、……彼氏いんの?」
「彼氏、ですか」
「変な意味じゃなくてね!? ただの確認っつーか!」


聞いた側がとてもテンパっているのは何故だろう。質問の意図は横に置いておいて、答えとしては一つしかない。


「いたこともないです」


付き合う前に結婚してしまったから、彼氏は人生で0人だ。正直に伝えると、虎杖くんは余計に恥ずかしそうに頭をかいた。


「そ、そっか……あっぶねぇ」
「あぶ?」
「ちょっと変な勘違いしちゃって……あのさ、ここなんだけど」


デカい手を自分のうなじに這わせ、人差し指がトンッと耳の後ろあたりを示す。なんだか既視感がある場所だと、思い至る前に予想外の指摘が飛び込んできた。


「虫に刺されてるよ。かゆくない?」


虫、に、刺されてる……耳の裏……耳……?


「窓開けっぱで寝た? 最近暑いもんね」
「…………ええ、そういえば夜中はずっと開けてましたね」
「やっぱり! にしても変なとこ刺すよな。ここらへん血ぃ上手く吸えなそうなのに、3回くらい刺されてるじゃん」
「そう、ですね。物好きな蚊ですねぇ」


教えられてスッキリした、と言わんばかりの晴れやかな虎杖くん。可愛い教え子の笑顔からほんの少し視線を逸らして、昨夜の記憶をできるだけ遠くに押しやった。


『赤いヤツです。皮膚がキュッてするの。つけるの好きですよね?』


やっぱり、好きなんだなぁ……。




***




妊娠してからというもの、私の仕事は主に内勤。生徒たちの訓練を見たり、座学をしたり、事務仕事のお手伝いをしたり。たまに出かけるのは簡単な任務の付き添いばかり。けれど、どうしても私が適任の任務もあって、今日のはまさにそれだった。

お社に深々と礼をしてから鳥居の外に出る。石畳の端を歩きながら、次はどこだったかと補助監督の方と確認。車に乗り込んで移動する。上手くいけばそれだけの仕事だった。

神様は神がいるところが分かる。お社や祠に祀られている神なら視線を向けるだけ、敵意ある呪霊ならば姿を現して私を守る。神が呪霊に堕ちれば等級の高く厄介な存在になるため、被害が大きくなる前に見回りをするのだ。東京校から行ける都心部が今の私の管轄だ。妊娠前は定期的に長期任務として山間の集落に足を運んだものだ。

虎杖くんの訓練は順調に進み、私が基礎を見る必要はなくなってしまった。今では五条さんや事情を知っている呪術師と一緒に任務に行っているらしい。確か神奈川の方にまで足を伸ばしているのだとか。私もちょうど神奈川にいる。もしかしてどこかで会えたりして。


「“任務中に失礼します。確か今横浜市にいますよね? 至急川崎市へ応援に向かってほしい案件がありまして……じ、実は虎杖くんが……!”」


……冗談のつもりだったのに。

伊地知さんからのヘルプがかかり、私は急遽行き先を変更することになった。

車に乗ってたどり着いたのは住宅地のど真ん中。透明な箱を墨でコーティングしたような壁。見えないその先にあるはずの学校は、里桜高校。

──パンパンッ。柏手を二回。


「《おいでくださいませ》」


体の中から呪力が抜き取られる。


「《どうかどうかお助けください》」


ずるずるずるり。抜き取られる。

呪霊がぼんやり見えるばかりの、最低限の呪力が目に留まる。それ以外は全て神の内に、花の内に、──お捧げ致します。



「《お招きありがとうございます、お菊様》」



肩に手が置かれる。桜貝の爪、白魚の指、新雪の甲。少し前まで、その手は異形だった。獣の爪が尖り、白い鱗が浮かび、手首からは薄らと茶色い毛が覗いていた。それがここまで綺麗になったのは……綺麗に戻ったのは、神様の力が強まっているからだ。私が七歳まで見ていた菊頭の綺麗な女性だった。

妊娠してお腹に子供がいることを実感した直後から、ゆっくり時間をかけて神様は元に戻りつつある。だからこそできることが増えた。

花粉が舞う。花の匂いが濃くなる。着物の袖がふんわり広がる。そうやって徐々に背後の気配が強まって、代わりに軽くなっていく体。吐息さえ、もはや“私のもの”ではない。予感が確信に変わった瞬間、帳の中へ足を踏み入れた。

ここに来るまでの車の中で伊地知さんから簡単な資料を送ってもらった。人間を呪霊に変える人型の呪霊に、巻き込まれた呪力持ちの一般人。この高校に在籍していることから、彼が関わっている可能性が高い。虎杖くんはその一般人と仲良くなったために今回の単独行動を強行した、と。ならまずは一般人の確保を優先すべきだ。おのずと虎杖くんとも合流できるだろう。

足元にいる蛇さんにまずは人の気配を呼んでもらう。密集しているのは体育館の方。逆の校舎の方に二人。呪力の衝突があるのは校舎の方だ。蛇さんの先導で校舎に侵入し、階段を上る。蛇さんがいなくても居場所が分かった。少年の悲痛な声が廊下中に響き渡ったから。

虎杖くんと、写真で見た一般人、確か吉野くんが向かい合って何事かを話している。私はまず吉野くんの保護と虎杖くんの回収のために小走りで近付いた。教室一つ分の距離が縮まったあたりだろうか。二人の間に第三者の声が割って入る。階段からの足音を認識したと同時にぶよぶよと肥大化した腕が虎杖くんを磔にした。そこでやっと声の持ち主の姿を視認する。灰色の長髪、ツギハギが目立つ青年。情報にあった人型呪霊の特徴と一致した。

軽薄であり酷薄。呪霊は親しげに吉野くんの肩を抱く。脳裏に流し読みした呪霊の能力が浮かんだ。

“手で触れた人間を呪霊に変える術式。”

思い至った瞬間に私は床を蹴った。大して長くもない廊下だ。帳が降りて暗くとも常人の視力で分かる距離。校舎の端から真ん中の階段まで駆け寄る私を誰も見ない。吉野くんの目の前に立った時でさえ、誰も気付かなかった。

誰も彼も、何もかもに無視された状態で、私は吉野くんの顔を両手で挟んだ。


「《彼女は神様です》」
「え」


長い前髪を横に流し、あらわになった黒目がきゅぅと絞られる。吉野くんは目の前の私と、私を背後から抱き締める神様を見た。見たということは認識したということ。認識したということは信じたこと。

つまり、彼は神を信じたということ。


「《死にたくなかったら“神様たすけて”と言いなさい》」
「な、なに」
「《“神様たすけて”》」
「……かみさ、ま?」


きっと周りからは吉野くんが気が触れたように見えるに違いない。現にすぐ近くで声を聞いた呪霊が分かりやすく嘲笑したのだから。


「今さら神頼み? もしかして順平って、君が馬鹿にしている人間と同じくらい馬鹿かもね」


ペロリと唇を舐める舌が血のように赤くて。呪霊の腕に捕われた虎杖くんが「逃げろ!」と叫ぶ。それさえ素敵なBGMとして楽しんでそうだ。

楽しむ。楽しみ。そう、楽しいのはいいことだ。一人で勝手に楽しいのも、家族や友人知人、恋人と楽しいのも、かけがえのない時間だと思う。生きていく上で楽しみを見つけるのは良いことだ。苦しみや悩みや悲しみばかりを抱え込むくらいなら、楽しみに逃げてくれればとすら願ってしまう。楽しいことを、全力で楽しんでほしい。楽しく生きて、楽しく死んでほしい。

でも、でもね。


「──だから、死ぬんだよ」


呪いを楽しませるための命なんて、一個もないんだよ。


「《“たすけて”と言えッ!!》」
「無為──」

「ったすけて!」

「──転変」


黒い上着だけが、廊下に残された。

呪霊は色違いの目を瞬かせて手のひらを確認する。その後に残った上着をまじまじと見つめた。それは呪霊の手のひらに直接触れていた布だ。呪力が吉野くんに布一枚まで迫っていた証拠。神様が呪霊と判断して弾いたものだけが廊下にハラリと落ちた。吉野くんは変わらず立っている。

神様の内にいる。


「順平! 順平ェ! 順平をどこにやった!?」
「……さあ、どこだと思う?」


「虎杖くん、ここだよ!」私の腕の中で吉野くんが叫ぶ。もちろん外には聞こえない。手を伸ばせば触れる距離、なんなら今でも手がかすっているというのに呪霊は気付かない。認識できない。だってソレは神様を“信じていない”から。

よく見れば満身創痍の吉野くんを引きずって、堂々と虎杖くんの隣まで移動する。タイミングよく戦闘態勢に入った呪霊が巨大な腕をどかした。難なく着地した虎杖くんが、まだ名前を叫びながら吉野くんを探している。このままでは喉を潰してしまうかもしれない。私は虎杖くんを回収し、一旦退くために腕を伸ばした。

神様の内にお招きしようとして。


「宿儺ァ!!」


最大の誤算。……私の最低のミスは、


「なんだ?」


──虎杖くんの中には神様の敵がいる。

気付いた時には遅かった。虎杖くんの頬に擬似的に作り出された目と口。呪いの王が表層に現れ、私の手が呆気なく弾かれる。両目宿儺ではなく神様からの拒絶。招くどころか触れるのすら拒む潔癖さで抵抗された。

虎杖くんは、隠せない。

「《走って!》」「ぐぇ、は、」吉野くんの腕を引っ張ってその場から離脱する。訳が分からず虎杖くんを呼んだり振り返ったりする吉野くんを「《虎杖悠仁を助けたかったら走れ! 走らなかったら死ぬぞ! 走れ! 早く!》」と脅せば泣きそうな顔で一緒に走ってくれた。時間にして30秒。私たちは体育館に到着した。息も絶え絶えの吉野くんの肩を引っ掴み、早口でまくし立てる。


「《ここで何もせず待機すること。体育館から一歩でも足を出した瞬間にあなたを呪詛師と認定します》」
「待って! どこに行くんですか、虎杖くんはどうなるんですか、虎杖くんが、真人さんにっ」
「《虎杖くんを助けに行きます》」


肩から手を離す。これまでの怪我のせいか、私の言葉のせいか。辛うじて立っていた吉野くんが膝をつき、呆然と私を見上げている。


「あなたは、なんなんですか」


こういう時は、こう名乗るべきだろうか。



「《呪術師ですよ》」



ずるずるずるり。吉野くんの呪力が外へと抜けていく。神様の内から出た彼に対して、体育館でうずくまっていた男性が声を上げた。「《お願い致します被綿キセワタ様》」着物の裾から巨躯を現した被綿様が体育館の出入り口を塞ぐ。被害者の回復と外敵からの防護、吉野くんの監視をお任せして再び校舎の方へ走り出した。

“神内隠遁”──文字通り神様の内側に隠れること。簡易的でありながら列記とした神隠し。力が強まったことで普段の呪霊に対するオート結界が一時期的に別のものへと変貌した。普段の結界は信者が呪霊に触れられることを神様が厭って自動的に発動する距離。対してこれは私の方から神様の中へ入る。人や呪いが生きる世界とは一層別のテクスチャにある神の領域にお邪魔する。こうすることで、私を視認できるのは神様とその眷属のみになり、別の層からの干渉は受け付けなくなる。空気のように掴めず触れられず全てすり抜け、それでいて私が手を伸ばせば人の世界に干渉できるのだから、正しく神の為せる業だろう。

これは蛇さんムジナさんが神様の裾から出入りしているアレに近い。眷属として神様の元で暮らす。すなわち“神内隠遁”。一時的な眷属とはいえ、己を信じる者なら神様は許容してくださる。

だって神様は優しいから。

時間にして1分の離脱。虎杖くんと呪霊は校舎から校庭へ移動して戦闘を開始していた。

私のせいだ。私が確実な方法一択で事を進めたから虎杖くん一人で戦わせる事態に陥ってしまった。まさか虎杖くんが神様から拒絶されるなんて……しかも追い詰められた彼が両面宿儺に縋るのも想定外すぎた。

神様の内にいる間、私にできるのは信者を増やすことだけ。何者からも害されない代わりに、こちらからも攻撃を加えることはできない。声も伝えられない。存在を認識してもらえない。かと言って、あの場で神様の外に出ればせっかく保護した吉野くんを再び呪霊の目に触れさせることになった。だから苦渋の決断で被綿様を置いた安全地帯に避難させてから戻る選択をした。

それが正しい判断だったかはまだ分からない。目を離すべきではないのに離してしまった事実が重くのしかかる。見ただけでは虎杖くんが宿儺とどんな内容の会話をしたのか、縛りを交わしたのかなんて分かるわけがない。

考えて分からないことは、今は後回しにしよう。

ずるずる、ずるずる、ずるり。吸い取られた呪力が戻ってくる。神様の手が肩から離れて、いつもの定位置で白い着物を引きずって私についてくる。敵意ある呪霊がいるからこそ、神様は姿を見せたままだ。

この状態では呪霊の攻撃はすり抜けず、ある一定の範囲で──バチンッ!


「え、夏油先生!?」
「遅れてすいません、虎杖くん」


弾かれた腕をそのままに、呪霊は好奇心を隠さず私を見る。虎杖くんを庇って距離を取れば、相手は幼く首を傾げた。


「ゲトーって特級術師でしょ? 五条悟の次に強い呪術師。女だったなんて初耳だよ」
「それは私も知りませんでした」


次の瞬間、呪霊の背後に現れた人影が足を狙って鉈を振るった。──七海さんだ。体勢を崩したところを追い討ちをかけるように二度三度。振るったそばから腕だけで器用に避けてさらに距離が離れる。三対一。向かい合う僅かな時間で情報を共有する。


「伊地知くんから聞いています。現状報告を」
「校内の生徒と教師の保護は完了しています。被綿様にお任せしました」
「結構。虎杖くんは」
「二人……助けられなかった……」


場違いにも喉の奥がひりついた。十六歳で、もう“助けられなかった”なんて言葉を使ってしまう……なんて痛ましい。まだ助けられて然るべき子供なのにと、眉を下げるのは簡単だ。だから私は努めて無表情を保とうとした。子供のままではいられないのが呪術師の世界なのだから。


「あなたの神様はどうですか」
「目測で1メートルほど。問題なく弾けます」
「では遠慮なく」
「虎杖くんも、危なくなったら私を盾にしてください」
「え!?」


戸惑う虎杖くんを余所に戦闘が再開される。

七海さんが鉈を振るう。かわされて変形した腕が飛んでくる。私が間に入って弾く。虎杖くんが背後から呪霊を殴る。器用に受け流して足技。虎杖くんが避けたそばから私が突っ込み、反動で弾き飛ばす。そこに先回りした七海さんが頭を狙って叩く。かわされて変形、殴る、弾く、叩く。その繰り返し。虎杖くんのパンチで徐々にダメージを溜めていくが、いつまでも続ければ消耗戦だ。そうなると先にへばるのはこちら。真っ先に私が足手纏いになってしまう。どうにか相手のペースを崩さなければ、と頭を巡らせているうちに呪霊は口から何かを吐き出した。


「短髪のガキを殺せ」
「ッ朝露アサツユ様!」


虎杖くんが下がる。その距離を追いかけて小さな呪霊三体が肉迫。呼びかけに応じてくださった朝露様が大口を開けて食らいつく。「待っ!」虎杖くんが何か言う前に朝露様は二体を牙で噛み砕いた。虎杖くんが何故傷付いた顔をしているのか、理解が及ぶより先に残り一体を追いかけて朝露様が身を滑らせる。再び届こうとした牙は、間に割って入った虎杖くんによって停止。彼はそのまま身を投げ出して呪霊を抱え込んでしまったのだ。


「大人にやってもらうんだ? やっぱりアイツ、人間殺せないだろ」


人間。──アレが?

情報の中にあった人間を呪霊にする術式。文字だけでは弱かった実感が急に湧いてくる。人が生きたまま呪霊にされて、呪いのおもちゃにされる。……そんなこと、あっていいはずがない。


「怒ったの? ゲトー」


一瞬の隙だった。呪霊から意識を逸らした数秒で肥大化した腕が私を捕らえた。1メートルの距離を空けて、まるで私の周りの空気を掴んでいるように巨大な手が止まる。すかさず七海さんが追撃。虎杖くんが腕の中の呪霊に暴れられ、飛び出した先の校舎の死角に入っていく。それを見ても朝露様をけしかけるのを躊躇ってしまった。

私は、既に二人も殺したのに。

「もしかしてアンタも人殺したことなかったの? 特級にしては弱っちいしさ。本当にゲトー?」
「……何か勘違いをしているようですが、私は準一級ですよ」
「そうなの? おっかしいな、そこら辺ちゃんと覚えたはずなのに」


私を掴めないことをやっと理解したのか、腕が元の大きさに戻っていく。着地して体勢を整えれば、すぐに降って湧く自己嫌悪。

またミスをした。
私は何度繰り返せば気が済むんだ。

せめて七海さんだけは触れさせないように、これ以上失敗をしないように身構えた、その時。パリンッ! 虎杖くんが頭上から降ってきて呪霊に一撃を食らわせたのだ。

虎杖くんの腕にはあの呪霊はいなかった。つまりは、そういうことなんだろう。目が合って、真剣な顔からほんのりとした葛藤が滲み出る。


「ごめん先生、さっき邪魔しちゃって」
「謝らないでください」


謝りたいのは私の方だ。

呪霊を三人で囲んで、今度こそ身を引き締める。七海さんの鉈と、虎杖くんの拳。私は彼らの盾に徹するんだ。

たとえどんなことがあっても。









「七海さん! 虎杖くんは私が!」
「頼みました!」


逃走した呪霊を追って七海さんが駆けていく。その背を見送ることなく、虎杖くんの出血箇所を見ていく。よく見れば手のひらにも体にも複数穴が空いていて、さらには領域に穴を開けた拳が酷く腫れている。高専の制服はぐっしょり濡れていた。止血しようにもらちが明かない。伊地知さんに連絡を入れつつ、意識のない虎杖くんをどうにか担ぐ。もちろん持ち上げる筋力はないから、足の方は引きずっているけれど。

なるべく早く応急処置で被綿様に傷を塞いでもらう。まだ脅威が完全に過ぎ去ったかは確認できないため、こちらに呼ぶことはできない。どうにか体育館まで運ぼうと苦心していると、耳元に聞き覚えのある邪悪が現れた。


「やはり呪術師よな」


両面宿儺。

ケヒッケヒッ。特徴的な嘲りが鼓膜を引っ掻く。虎杖くんを運んでいる今、耳を塞ぐことはできない。あちらも分かっているのか、虎杖くんの頬から無遠慮な舌が伸びてくる。前回と違って、今回は耳のあたりをべろり。ファンデーションを塗っていないところを狙ったのかしら。気の抜けた思考を上書きするように、ほぼゼロ距離から忌々しい声が注がれる。


「使えるものなら呪いも人も、未知の化生にすら何でも差し出す。腐った性根はいつの時代も変わらんときた」


愉快愉快。言葉も声音も偽物の口すら愉快に歪んでいるのだろう。下品な舌舐めずりを一つした後、今までで一番愉悦を纏わせた呪いを、私に向かって浴びせかけた。



「胎の子を贄にしてまで助かりたいか」



踏み出す足から、力が抜けた。

そのまま前に倒れそうになったところを朝露様が受け止めてくださる。ああ、最初から朝露様に頼めば早かったんだ。蛇の背に器用に乗せられて、さっきとは比べられないほど滑らかに体育館に近付いていく。肩を回して担いでいたから、今はうつ伏せで虎杖くんに押し倒された格好になっている。流れていく地面を眺めながら、耳殻から穴まで唾液を含ませながらねぶる呪詛を聞き続けた。


『そうかそうか、呪うために子を孕んだか』
『絵に描いた人でなしめ』
『種馬になった男が哀れよな』
『ただの女ならば、身重の腹を裂いて子に会わせてやったのに』
『オマエには無意味だろうよ』
『なにせ感情がない』
『欠陥』
『そも、オマエが仕えるソレは本当に神か?』
『大方適当な化生を煽てて利用しているだけなのだろう』


人を殺した。

人死は何度も見たけれど、私が殺したのは初めてだった。

一度改造されたら元には戻らない。痛みなく息の根を止めてあげるのが彼らのためだと頭には入っている。でも、きっと七海さんなら少しでも悲しさとか苦しさを感じるはずだ。彼が初めて人を手にかけた時なんてもっと顕著だったはず。さっきの虎杖くんみたいに。

私は、“殺したんだ”だけだった。

今だって、呪いの王直々に言葉をかけられているのに、心は凪いだまま。疲れたな、とか。虎杖くんを治療しなくちゃ、とか。もうすぐ定期検診だな、とか。別のことを考える余裕がある。

余裕が、あったのに。



「────神など信じておらんくせに」



目の前が真っ赤に染まった。気が抜けた体に頭の天辺から爪先まで熱した鉄を垂らしたように力が入った。息が荒くなって、頭が追い付かなくて。無視できたことが無視できない。

ああ、そう。やっぱりそうなんだ。



「死体が喚くな」



結局のところ、私は神様を理由にしか怒れない。
情の薄い人間もどきだった。




オマケ1

週に一回マンションに帰ると、私はお弁当を三つ作る。自分のと、虎杖くんのと、夏油さんの。正直に言うと私は自分の料理に自信がなかった。私の味は祖母の味だ。私にとっては舌に馴染みがある味でも、都会で育った人にとっては物足りない味かもしれない。しかも肉料理のレパートリーがない。肉が入ってるのなんてカレーだけ。そして洋食もカレーしか作ったことがなかったのだ。
虎杖くんのお弁当を作ろうと決めた時だって、内心は少し緊張していた。男子高校生の味覚に合ったものか、タンパク質は足りているか、量はちょうど良いか。最悪気を使わせてしまうかも……と恐々していたものの、虎杖くんは素直だったので「うめぇ!」が嘘じゃないことが分かりやすかった。ホッとした。ちゃんと残さず食べてくれるし、お弁当箱は備え付けの簡易キッチンですぐに洗ってくれる。なんてできた子なんだと心から感動した。
だから、申し訳なく思いながらもお願いをしてみた。

「どう、ですか」
「うーん……これはこれでうめぇけど、なんかロールキャベツっぽくないような? なんつーか、洋風つみれ汁?」
「なるほど」

先日、夏油さんに「君の手料理が食べたい」とリクエストされて、頑張って洋食にチャレンジしてみようと思えた。そのお手伝いを虎杖くんにお願いしたんだ。
同じ料理を何度も食べさせてしまったのは本当に申し訳ないけれど、おかげで試行錯誤の末に満足がいく出来になった。これなら大丈夫、きっと。いつもより早くマンションに帰って夏油さんが帰ってくるまでになんとか夕飯の準備を終えた。
夏油さんは手放しでロールキャベツを褒めてくれた。「美味しいよ」と言ってもらえると、なんだか体中がソワソワして、意味もなく髪を撫でてしまった。夏油さんはいつものお弁当だって褒めてくれるし、不味いなんて一度も言われたことはないのに。すごく特別な宝物をもらえたみたいで、思わず俯いてしまった。

「実は、今日のためにたくさん練習したんです。夏油さんに褒めてもらいたくて」
「そうなのかい? 私のために頑張ってくれたんだね、嬉しいよ」
「ふふふ。私だけじゃなくて、虎杖くんにも味見を手伝ってもらって」
「うん?」

メキャッ。夏油さんのフォークが二つ折りになった。


オマケ2

呪術師って変な人多いなぁとは思ってたけど、普通っぽい人もたまにいる。一番普通だと思うのは補助監督の伊地知さんだけど、その次に普通なのは夏油先生だ。
うなじでサッパリ切られた黒髪、色白の肌の大人しそうなお姉さん。日によって灰色のスーツだったり黒い袴だったりする。いつも狸みたいな呪霊(ムジナさんって呼んでる)を膝に乗っけてて、控えめで丁寧に笑う人だった。
夏油先生は俺に気を遣って弁当作ってきてくれたり、呪力操作のコツを教えてくれたり、映画の話を聞いてくれたり。たまに伏黒や釘崎の様子を話してくれたりもする。二年の先輩たちと元気にやってるらしい。
夏油先生にはいつもお世話になってるし、いい人なのはよーく知っている。それでも最近、気になっていることがある。

「え、夏油さんが虎杖くんに会いにきてるんですか?」「夏油さん自ら訓練をつけている?」「夏油さんが虎杖くんに差し入れ? 手作り弁当!?」「夏油さんが!?」「“あの”夏油さんがッ!?」

全部伊地知さんのリアクションだ。
何がおかしいのか分からなくて聞いてみてもゴニョゴニョ濁されてしまう。先生ってもしかしてヤバい人なのかな。でも先生、天然で抜けてるだけで普通にいい人なんだけど。
おんなじ話をナナミンにしたら、ものすごい速さで肩を揺さぶられた。

「いいですか虎杖くん。夏油さんは嫉妬で高専生三人を昏倒させ、高専生一人と殺し合いをして死にかけた人です。絶対に煽らないようにしてください。五条さんと似たり寄ったりでヤバい人ですから。分 か り ま し た ね ?」
「お、応……」

とにかくナントカって先生に近付かなければ夏油先生はマシな人でいられるらしい。ナントカ先生には会ったことないけど、絶対忘れないようにしとこうと肝に銘じた。


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