零の外



「憂太の先輩を紹介してあげるよ」


五条先生に連れてこられたのは高専のとある一室。職員準備室のプレートが下げられたところで、ノックする前に五条先生が僕を無理やり押し込んだ。体勢を立て直したところで扉はピシャリと閉められてしまい、途方に暮れる。なんなんだ一体。


「乙骨くん?」


ハッとして粗相がないように“気をつけ”の姿勢を取った。部屋の中には一人の女性が座っている。

五条先生は先輩と言っていたから二年か三年の人だと思ったけれど、相手は見るからに成人していた。濡れたような長い黒髪を一纏めにして、灰色のスーツに黒いタートルネックを合わせたOLのような格好をしている。


「乙骨くん、ですよね?この前転入して来た」
「はい!乙骨です!突然すいません!」
「いいんですよ。五条先生の無茶振りでしょう?」


首を傾げると前髪が揺れて目の見え方も変わる。丸くて黒くてキラキラとしているのに、どことなく憂鬱そうにも見える。恐ろしく赤い唇も相まって人間味が薄い。立ち上がって目の前までやって来た体躯は細く華奢で……良くも悪くも儚い人だと思った。


「私も五条先生と同じでここの教師をしています。文系教科も担当しているので、分からないことがあったらここに来てくださいね」


唇を控えめに緩める、たったそれだけの動きで何かを許されている気になる。顔は似ていないのに、笑みの作り方は昔の里香ちゃんに似ていて。思わず赤面してしまってから、僕は自分の失敗を悟った。


『ゆうた』


視界に挟まる、腕二本。


『ゆぅた" を みるな"あ ぁ"あ ぁ ぁ』
「ッ里香ちゃん!」


隠れていた呪力が跳ね上がる。僕に近付く女性が嫌いな里香ちゃんを怒らせてしまったのだ。

大型獣が雑巾絞りされたような音に記憶の中の里香ちゃんの声が被さって、狭い部屋中に不協和音が響く。初対面の先生に怪我をさせてしまう。殺してしまうかもしれない。制止の声を上げようとした、その時。シャンッ、シャンシャンッ。鈴に似た風が吹いて、瞬く。僕は初めてソレを認識した。

──菊だ。

大きな菊の花が僕を見ている。一番近いのはカーブミラーだろうか。それくらいの高さから腰を折り、こうべを垂れるようにこちらに花を向けている。一見真っ白に見える花びらはところどころが茶色く変色していたり、纏う白い着物の裾から鱗や毛が張り付いた手足がはみ出していたり。チグハグな化け物が突然姿を現した。

呆けた僕をそのままに、里香ちゃんの手が先生に伸びる。僅か数十センチの距離で弾かれてビックリした。再び捻り潰そうとした屈強な腕が何かに阻まれるように押し返され、謎の膠着状態に陥る。


「流石特級。消えもしないし逃げないんですね」
「せん、せ……これは」
「私の神様です」


かみさま。……アレが?


「乙骨くん、彼女の説得はできますか。生徒に手を出す教師扱いは心外です」
「あっ、はい!やってみます!」


先生から2mほど距離を取って里香ちゃんを宥める。渋々と引っ込んだあたり、敵じゃないことを分かってくれたのかもしれない。里香ちゃんと意思疎通が取れた。なんて奇跡だろう。


「意外と話せるものでしょう?」
「はい……」


さっきまで顔より大きな手に潰されそうになっていたテンションではない。薄い笑みで淡々と話しかけて来る先生。あの菊は、もう見えなかった。


「すべての呪いに当て嵌まるわけではありませんが、私たちの場合は単純な恨み辛みではありませんから」
「私、たち?」
「私の肩書き、教師だけじゃないんです」


おもむろに目前で掲げられたカードは、僕が持っているものとは違いヨレヨレの紙製だ。そこには先生によく似た女の子の写真と、横に並んだ“一級被呪者”。


「十年ほど、呪われ続けています」


君の先輩ですね。
先生は晴れやかに笑った。


「自己紹介終わった?」


扉からひょっこり顔を出した五条先生。ずっと廊下で待っていたのかな? 里香ちゃんが出てしまったのに、五条先生は何も手出しをしなかった。この先生が一人で対処できるのが分かっていたんだ。


「五条先生、いたずらに特級過呪怨霊を刺激しないでください。私の神様に迷惑です」
「刺激したのはオマエだろ。いや、憂太もかな? ダメでしょ、綺麗なお姉さんに鼻の下伸ばしちゃ」
「それを控えてくださいって言ってるんです。……乙骨くん、また出かけてます」
「里香ちゃん!? 違うから落ち着いて!」


指の先に向かって必死に弁明する。奥さんに浮気がバレた旦那さんの気持ちだった。


「まあ、僕が言いたいのはね。コイツなんて人殺し未満の呪いと十年もずるずる生きてるんだから、憂太も面の厚さを見習おうぜ! ってこと」


人殺し未満。人を殺しかけた、ということかな?

それなら確かに僕の先輩だ。僕だって運良く相手を殺さなかっただけで、いつ未満が取れるか気が気じゃない。五条先生は、同じように呪われている先生と引き合わせることで、僕が生きていていいと思えるようにしてくれている。言い方はどうかと思うけど。


「──訂正してください」


ゾッと背筋が泡立つ。先生の空気が急激に冷えた。



「神様を人殺し未満にしたのは私のせいです。私が、人殺し未満なんです」



五条先生を見上げる先生の顔は、大人の女性でも同じ境遇の人でもない、不気味な日本人形のようにのっぺりとしていて。目だけはビー玉みたいに光ばかり反射している。怒らせた、と言うよりはスイッチを押してしまった感じが近くて、恐る恐る五条先生をうかがうと、「ほらね」と半笑いで先生を指差した。


「面の皮が厚いだろ」
「五条さん、私が厚顔無恥なのは百も承知ですが神様は、」
「分かった分かったカミサマ万歳」
「神様を讃えていいのは私だけです」
「オマエ面倒な人間に育ったね?」
「おかげさまで」


あ、あれ……?

いつの間にか気安い空気に戻っている。さっきのアレは軽口の範疇、だったのか?


「乙骨くん」
「っはい!」


ボケッと眺めていたから、急に話しかけられて大袈裟なリアクションをとってしまった。先生は2mの距離を置いたまま僕に向き直った。里香ちゃんを警戒している……にしては怯えている様子はない。


「私の術式はさっきのように呪霊を寄せ付けません。君の呪いもです」
「はい?」
「なので、私は君に殺されません」


目から鱗が落ちた。ついでに涙まで落ちたんじゃないかと錯覚するくらい、視界が大きく開けた気がする。

先生は僕に殺されない。
絶対にリカちゃんが殺せない人。
僕を人殺しにしないと、安心させてくれた。


「呪われ者同士、相談はいつでも乗りますよ」


──適切な距離でね。

ほんの少しの茶目っ気が潤みかけた目を乾かしてくれる。なんて良い人なんだろう。確かに少し、ほんの少し、呪術師らしく変わってそうな人ではあるけれど。里香ちゃんのことを知っていて僕に関わろうとしてくれるなんて有り得ないことだった。


「ありがとう、ございます……っ」


こっそり鼻をすすった。2mの距離じゃバレバレだったと思うけれど。


「コイツの対年下への包容力ってなんなんだろ……年上だって誑し込んでるくせに。誰の毛布になる気だよ。せめて一人に絞り込めって」


五条先生がぼやいた内容はよく聞き取れなかった。先生が尋ねても「なにも?」と誤魔化されたし。

それから先生とは適切な距離で、困ったことがあったら話に行く程度の仲に落ち着いた。僕が準備室に行く時は、部屋の扉は開け放して2m以上の距離で座って会話するし、任務に同行する時もギリギリ2mの間を置く。先生曰く、神様の範囲内で絶対安全なのが5mらしい。


「これでも広がった方なんですよ」


初対面で、里香ちゃんの手は先生から定規一本分くらいにまで迫っていた。アレは結構ヤバかったんじゃ……。僕の不安に気付いた先生は、安心させるように「大丈夫」。やっぱり怯えの一つもなくて、それだけ自信があるんだと得心した。

先生は神様を信じている。

僕がリカちゃんの愛を疑っていないように。








「あー! お姉来た!」
「姉さん!」


先生と補助監督の伊地知さんに引率された任務帰り。高専に戻ってきたところ、門の前に立っていた二人組が先生に抱き付いた。って、おねぇ?


「ナナちゃんミミちゃんどうしたの? 待ち合わせは駅じゃなかったっけ」
「それがね、いいニュースがあって!」
「姉さん、お仕事お疲れ様」
「うん、ありがとうミミちゃん。ナナちゃんは少し落ち着こう」
「だって最高なんだもん!」


お団子の子と黒髪の子。僕と同い年くらいの女の子に挟まれて、先生はマイペースに話を聞いている。「以前保護された術師の双子です。中学に上がるまでは高専の寮にいたんですよ」伊地知さんに耳打ちされた内容によると、先生が学生の頃にとある一件で保護した双子らしく、双子は先生ともう一人同行していた術師を兄姉として慕っているらしい。通学の関係で、現在はそのもう一人の術師の家に身を寄せている。寂しくなるとこうして会いに来るくらいには先生に懐いているんだとか。


「私の在学中に来たのですが、姉というよりは母に甘えるようでしたね」
「伊地知さんもここの生徒だったんですか?」
「ええ、彼女は私の一つ下の後輩です。……胃に優しくて悪い人でしたよ」


小声で付け足された言葉の意味はよく分からなかったけど、伊地知さんは任務帰りを差し引いても疲れて見えた。


「あのねあのね、今日は傑兄が仕事早く終わったんだよ!」
「兄さん、車出してくれるって。四人でお出かけ久しぶり」
「え、夏油さんが?」


げとうさん。初めて聞く名前だ。話の流れからして保護したもう一人の術師のことみたい。手持ちの無沙汰に話を聞いていると、先生がくるりと僕に向き直った。


「お待たせしてすいません。乙骨くんは伊地知さんと報告したら寮に戻っていいですよ」
「え、は、はい」
「伊地知さん、報告書は明日でも」
「どうぞ、早く行ってあげてください」
「いつもありがとうございます」


先生は申し訳なさそうに眉を下げた。その横の双子は妙にシラけた目をしている。先生に話しかけている時とすごいギャップだ。本当に先生が好きなんだろう。僕以外と話している時のリカちゃんみたいでちょっとだけ懐かしくなってしまった。

挨拶もそこそこに、双子に手を引かれて元来た道を戻る先生。今日の服装は黒い袴姿で、髪は巫女さんのように一つ纏めにして和紙を巻いている。あの格好で出掛けるのだろうか。と思っていると「お姉はやっぱり足出したほうがいいよ! ミニスカ一択!」「だめ、姉さんは花柄ワンピース。可愛く清楚」「ミニスカ!」「ワンピース」「お姉!」「姉さんはどっち」「間を取ってミニスカワンピースにする?」「「賛成(!)」」女の子だけで楽しそうだ。

伊地知さんと顔を見合わせて肩を竦めていると、遠くから車のエンジンの音が聞こえてきた。高専の敷地付近は自然に囲まれていて、車といえば補助監督の人が回してくれるのしかない。目を向けた先に一台の黒い車が停まる。「お兄!」「兄さん!」運転席から降りて来た男の人が、後部座席のドアを開けた。先生や双子と並ぶとかなり長身だと思う。五条先生と同じくらいかも。スラっとしていて、上下黒い服を着ているだけで様になる。長髪ハーフアップだってだらしなく見えない。表情は柔らかいのに、どこか威圧感があって。初対面なのに、なんだか……怖い?

ぶるりと震えたその時、男の人がこちらを見た。

細い目をさらに細めて、人当たりが良さそうなのにやっぱりどこか食えない雰囲気。ヒラリと手を振られて慌てて頭を下げる。先生にも手を振られ、そっちには軽く会釈すると、隣の男の人が途端に無表情になった。あれ? 男の人が何事かを先生に言い助手席を開ける。たったそれだけの動作で怖さが減った。

後部座席に双子が、助手席に先生が乗り込んでから、男の人の運転で車が遠ざかっていく。ボサッと見送ってしまったのはなんでだろ。それだけ男の人に気圧されていたのかな。隣で深々とした溜め息が聞こえるまで、僕は山の緑を延々と眺めていた。


「彼が先ほどの双子を保護したもう一人です。それと、」


──五条さんの同期で、君と同じ特級術師でもあります。

それが僕と夏油傑との初対面未満だった。

先生は高専の敷地内の職員寮(とは名ばかりの空き部屋)に住んでいて、双子は勝手知ったるなんとやらで先生を訪ねてくる。僕が相談に乗っている時もお構いなしにズカズカ入ってきて先生を捕まえる。


「お姉のタイプってどんなの?」
「髪色は?性格は?身長は?」
「そこまで細かくはないかな」


僕の目の前で、僕なんて視界に入っていないとばかりに双子は恋バナを始めてしまった。僕としては真希さんやパンダくんあたりに助けてもらいたかったけれど、二人はいつの間にかどこかへ消えていた。薄情。ちなみに狗巻くんは花壇の水やりでいない。話の途中で勝手に消えてもいいか迷う。その間にも双子が先生の腕に一人ずつ抱きついて質問責めにしていく。


「なんかあるでしょ、イケメンとか」
「塩顔? 醤油顔? お酢?」
「お酢顔なんてあるの? 初めて聞いた」
「ちゃんと答えてよー」
「知りたい」


塩に醤油にお酢か。嫌に薄味の顔を推すなあ、と不思議に思った時、急に遠目で見た男の人──夏油さんの顔が浮かんだ。あっ。


「んー、強いて言うなら」
「「なら?」」
「伊地知さんかなぁ」
「はぁ!?」「(絶句)」「えっ」


遠くから哀れすぎる悲鳴が聞こえた気がした。

そういえば一つ違いの先輩後輩だっけ。学生時代からの知り合いならそんな仲なのかも。意外だな。素直に関心した僕と違って双子は前に見たことがある白けた目をしていた。というか舌打ちした。「ゲロウザ眼鏡」「間男」え、なに。


「あの眼鏡のどこがいいの」
「どこ」
「頑張ってる人が好きなの。応援したくなって。二人のことも好きだよ」


……あ、好きってそういうこと。


「そういう意味じゃなくてぇ」
「真面目に答えて」
「ええ?」


すごい、この一瞬で前に伊地知さんが言ってた“胃に優しくて悪い人”の意味が分かった気がする。先生は真面目に答えてるつもりで本当に欲しい答えをくれない。それどころか無意識に周りを振り回している。双子は慣れっこなようで次の瞬間から竹下通りのクレープの話に移っていた。

僕の知り合いの女の子は今年に入るまでは里香ちゃんしかいなかった。妹とも最近話してない。真希さんの口からそういう話題は出て来ないし、これが今時の中学生なのか。帰るタイミングを失って、結局最後まで居座ってしまった。

この流れで解散だろうか。先生への挨拶もそこそこに廊下へ出ると、さっきとは打って変わって怖い雰囲気の双子に捕まってしまった。なになに、リンチ? カツアゲ? 先生の身内に里香ちゃんで怪我をさせることは避けたい。戦々恐々で冷や汗をかく僕の眼前に、QRコード画面のスマートフォンが二つ。……え?


「アンタでいーや。私達の代わりにお姉のこと見ててよ」
「来年入学するまで心配」
「お姉も傑兄のとこ住めばいいのにさぁ。そしたら四人で家族になれるのに」
「変な虫つけたくない」


な、なるほど。

年下の女の子二人に寄ってたかってスマホをカツアゲされ、僕の友達アカウントが二つ増えた。

美々子さんと菜々子さんは先生と夏油さんがお付き合いするように画策しているらしい。二人きりだと事務的な話しかしないからと、わざわざ四人で出かけて仲を取り持とうとしている。

そこまでして関係が変わらないのなら脈がないのでは?
そもそも先生と夏油さんの間には先輩後輩以上の感情はないんじゃ?

そう言いかけた途端に怒りのスタンプ爆撃を受けた。藪を突くのはやめようと思った。









秋になり、京都校との交流会で里香ちゃんを暴走寸前まで戦わせてしまったのを除き、僕は驚くくらい高専に馴染んでいた。同級生の三人や五条先生。補助監督の人たち。たまにやり取りする双子。相談に乗ってくれる先生。

僕は人に恵まれている。囲まれて、支えられて、助けられて。生きていてもいいのかもしれない。時たまそう思い浮かぶくらいには幸せな日々が過ぎていった。

だから、自分が呪われている事実を忘れかけたんだ。


「初めまして、かな。私は夏油傑。悟の代理で任務に同行することになった。よろしくね」


にこやかな自己紹介の後、フレンドリーに握手を求められ、握り返せばついでとばかりに肩を叩かれる。距離の詰め方が異様に早い。遠目で見た時と違って今日は黒い着物を着ている。僧衣というお坊さんが袈裟の下に着ているものらしい。お坊さんなのか尋ねると「どちらかと言えば宣教師かな」と返された。

人の良さそうな笑みでお近付きの印にと渡されたキーホルダー。大きな菊を背景に寝転ぶタヌキと蛇。見覚えがあると思ったら美々子さんと菜々子さん、あと狗巻くんが持ってた。真希さんが外せと言っても「おかか」って嫌がってたっけ。円らな瞳はマスコットらしくて可愛いけれど、それ以上にシュールだ。


「これって、先生の……」
「ああ、見たことがあるかい? そうだとも、彼女の神様さ」


続いて渡された名刺を摘むように受け取る。和紙のようなちゃんとした紙で、よく分からないけどすごく高そう。

【宗教法人“菊の水盤”はらからの会代表 夏油傑】

余計に夏油さんが得体の知れない人になった。


「会話に花を咲かせたいのは山々だけれども、まずは仕事を済ませてしまおうか。帰りに何か奢ろう。乙骨くんはマ○ク派? モ○派? それともロッテ○ア?」
「え、じゃ、じゃあ、マ○クで」
「ポテトが美味しいよね。私も学生時代はたまに行ったよ」


夏油さんは感じの良い雰囲気のまま柔らかく喋る。

五条先生と同期で、噂によると親友らしい。昔はヤンチャだったと聞いたけど全然そんな風には見えない。テンションが高い五条先生とは別の意味で話しやすくて落ち着いた大人って感じだ。僕があまりお喋りが得意じゃないのを気遣って話題を振ってくれる。始終和やかな空気のまま二級呪霊を祓い終えた。

宗教の人だと、少しだけ身構えてしまったのが申し訳なるくらいに夏油さんはいい人だった。

最初の言葉通りにマ○クに寄って、メロンソーダだけで遠慮した僕にハンバーガーとポテトまで奢ってくれた。「後輩に遠慮される方が悲しいよ」なんて眉を下げるものだから、深々と頭を下げて受け取るしかない。


「懐かしいな。彼女とも学生時代にここに来たんだ」
「え、先生ってジャンクフード食べるんですか?」
「食べるよ。というか出されたものはだいたい食べる。元は私がここに連れてきたせいだね」


そう話す夏油さんの口は一瞬不快そうに歪んで、すぐにコーヒーの紙コップで隠れてしまった。……気のせい?

口から紙コップを離した夏油さんは、元の柔らかさに戻っていた。コーヒーで湿らせた舌は落ち着いた調子のまま滑らかに今日の総評や世間話、高専のあるあるネタにと話題が尽きない。同じ一般家庭出身ということで親近感もあったし。楽しく時間は過ぎていく。最後のポテトを摘むまで気付かなかったくらいだ。


「ずいぶんと彼女のことを信頼しているんだね」


水っぽくなったメロンソーダを飲み切った頃、夏油さんは前触れもなく話題を変えた。

長い指を組んで口元に添える。細い目が瞬くことなく僕を観察している。

その時になって突然、遅すぎるほどにやっと、僕は相手の違和感を理解した。人当たりが良かったのは唇だけで、細まった目元は笑っていないこと。

笑っていなかったんだ。はじめから、ずっと。

得体の知れない人、という印象は間違ってなかった。それでも席を立つことはできない。足は夏油さんの車で、補助監督の人はついて来ていなかった。特級の人から逃げ切れる自信もなく、何より逃がさないと言わんばかりの圧があった。


「そ、れは、先生は優しい人ですから……相談にも乗ってくれます、し」
「何より、同じだから。──呪われ仲間だから、かい?」
「は、はい」
「確かに、同じ障りを背負っている者同士、仲間意識を持つのも仕方がない。分かるよ。だからこそ、許せないこともある」
「許せないって、なんの話を」


ぐしゃり。夏油さんの手の内で紙コップが潰れる。大袈裟に自分の肩が揺れた。


「彼女は君に不誠実だ」


不誠実。なんて先生から一番遠い言葉だろう。

先生は僕の声に耳を傾けてくれた。生徒として、仲間として真摯に寄り添ってくれた。任務で危なくなれば庇ってもらったし、呪いとの付き合い方だって先生のおかげでどうにかなった。そうじゃなきゃ、僕は今でも里香ちゃんのことで怯えて閉じ籠もっていたかもしれない。


「否定したそうだね。そういう目をしている」
「っ、だって先生は良い人です」
「そうかもね」
「真剣に、真面目に、僕に接してくれます」
「うん」
「不誠実なんて、」
「嘘をつかないことはイコール誠実かい? 嘘にならないように黙っていることは不誠実ではないかな」
「は……」


黙っている? ──何を?


「一つずつ確認して行こうか」


今日の任務では呪霊を転がしていた指が、今は見えない空気を転がしている。その空気はこの狭い二人掛けのテーブル席に漂っていて、僕もその一部に組み込まれているのでは。途端にコメカミから冷や汗が滲んだ。


「乙骨くんは六年前に死んだ幼馴染に呪われている」


人差し指が一本立つ。


「彼女は九年前に呪いに堕ちた土地神に呪われている」


隣の中指も続いて。


「元が人か神かの違いはあれど、まあ同じ呪われ者同士だ。ここまではいいね」


二つ立った指が、ハサミのようにチョキチョキ開いたり閉じたり。それを注視している僕もどうかしていた。尋ねられるままに頷いたのも、きっとおかしくなっていたんだと思う。


「大きく違うのは、君たち二人の意志だ」
「意志……?」
「乙骨くんは呪いを解きたいと思っている」


そうだ。初めて自分から里香ちゃんを呼んだ時、頼った時。僕は誓った。里香ちゃんの呪いを解きたい。それは先生だって共感してくれた。僕と同じはず──



「彼女は呪いを解きたいと思っていない」



……一瞬、理解が追いつかなかった。


「その証拠に、とっくの九年前に解呪法を見つけているのに未だに呪われ続けている」
「────え」


なに……僕は何の話を聞かされている?


「好きで呪われているのさ。狂っているだろ? あと十年のタイムリミットが迫っていても、暢気に後進のカウンセラー気取りだ」
「待ってくださ、話が……タイムリミットって」
「おや、誰からも聞いていないのかい? 説明なしに生徒の相談に乗っていたなんて、やはり不誠実だね」


障子の隙間から朝日が差し込むように、夏油さんの視線がゆっくり注がれる。


「君たちの決定的な違いだ。君はそのまま幼馴染に守られていれば良い」


それこそ朝日のように柔らかい口調なのに、心のどこかで突き放されたような冷たさを感じた。守られていれば良い。──君は弱いんだから、と。


「けれどね、彼女には守られる時間に限りがあるのさ。あと十年もすればあの“神もどき”は彼女を呪い殺す。私たちが学生の頃から周知されてきた事実だ」


チャリ……。

ポケットに突っ込んでいたキーホルダーがヤケに気になった。

先生との初対面の時に現れた菊頭。白い花弁をところどころ茶色く枯らした、人の頭よりも大きな花。まるで先生の小柄な体躯を守るように背後から覆い被さっていた。先生は見える見えないに関わらず、いつも丁寧に感謝の言葉を並べる。

いつも自分を呪っている相手を、──いつか自分を殺すだろう呪いを、神と崇めて頭を下げる。

日常の一コマが当たり前じゃなくなった感覚。さっきのポテトが逆流しそうになり、慌てて口を手で抑えた。


「なんで呪いを解かないんだと思う?」
「……知ってるんですか」
「確信はある。限りなく憶測に近いね」


そうは言うけれど、夏油さんの中ではきっと真実になっているだろう憶測だ。だって、今までの柔らかさが嘘みたいに低い声で、たった数文字を重々しい呪いの言葉に置き換えたのだから。



「贖罪」



罪をあがなうこと。罰を受けたり、善行を積んだりすることで償いをすること。キリスト教における自己犠牲による救済だとも、夏油さんは語って聞かせた。

なんで、先生は呪われている側なのに、罪なんて仰々しいものが出てくるんだろう。疑問と同時に、初対面の時のあの先生が思い出された。ガラス玉の目で五条先生を見据えた先生。一人の女性でもなく、人間でもない何かに決定的に変わってしまったあの瞬間。僕は確かに怖かったはずだ。

『神様を人殺し未満にしたのは私のせいです。私が、人殺し未満なんです』


「死にたいとは思っていないが、死んでも良いとは思っている。消極的な死にたがりなんだよ、あの女は」


最後だけ、まるで吐き捨てるような呟きだった。夏油さんにしては荒く、人臭い一面。瞬く間に元に戻ってしまったけれど。「私はね、心配なんだよ」僕のすぐそばに近寄って、いつかの時みたいに肩を叩く。ポンポンと、規則的な律動が心臓の音よりゆっくりとしていて、むしろ僕の心臓が嫌に早くなっていることに気付かされた。


「彼女の巡礼に、君も巻き込まれやしないか。感化されて若い身空で命を散らしてしまわないか。ねえ、乙骨くん」


肩に置かれた手に、一瞬、恐ろしい力が込められる。ギリギリと鳴る制服。ふわりと薫ったお線香とポテトの匂い。耳に寄せられた口元が、まったく笑っていないことだけは確かだった。



「彼女に気を許してはいけないよ」



あの時の僕は、頷いたんだっけ。









夏油さんとの任務の後から、僕は先生の顔をまともに見れなくなった。授業はちゃんと出るし、話しかけられれば会話はするけど、自分から準備室に行くことはなくなった。真希さんやパンダくん、狗巻くんは不思議そうにしてたし、美々子さんや菜々子さんは最初だけ突いてきたが、それだけだ。

肝心の先生は何も言わない。あの憂鬱そうな笑みで普段通り接してくれる。それがむしろ居心地悪い。意識している僕が悪い気がして、堪らない気持ちになった。

先生のことで気付いたのは、彼女が誰にでも平等に優しい理由。夏油さんが笑っているようで笑っていなかったのと同じだ。そう見える態度が素なんだ。特別僕たち生徒に優しいんじゃなくて、きっと昨日今日の初対面の相手にも今の僕と同じような優しさを与えている。それは優しさかもしれないけれど、ショックなことでもあった。

僕は先生の本当の仲間ではなかった。


「こんばんは、乙骨くん」


それから一度だけ、先生と二人きりになったことがある。正確には里香ちゃんと先生のムジナさん……神様も入れて、だけど。

忘れ物を取りに夜の校舎に入った僕と、任務帰りの先生が鉢合わせた。着替えたばかりだろう、いつもの袴ともスーツとも違うラフなワンピースにカーディガン姿。これから簡易キッチンでココアを淹れるからと誘われて、断ろうとしたのに何故だか頷いてしまった。


「この前の任務、五条先生がびっくりしてましたよ。待ち合わせ時間に七分遅れで着いたらいなかったんですって。それでしばらくしたら夏油さんが報告書を出したんですもの」


チャンスは今しかない。


「あの、先生は、死にたいんですか」
「え?」


直球すぎたと後悔しても遅い。

2m空いた距離。湯気を立てるマグカップ二つ。先生の膝に寝転んだムジナさんが僕を見ている。幸せそうに腹を見せていたのが嘘みたいに真っ黒な瞳がジッと観察してきて。そこから視線を逸らすと自然と先生の目と目が合った。ムジナさんと打って変わって先生の方が目をまんまるにしてとぼけた顔をしていた。なんで。

なんで、なんでそんな顔ができるんだ。


「あと十年で死んじゃうなんて聞いてません。いや、僕なんかにそんな大事なこと話すわけないのは、重々分かっているんです。でも、呪いの解き方は知ってるんでしょ。なんで、そのままにして、るんです、か」


死んじゃうのに、神様を信じられるんですか。

震えるノドが、ちゃんと聞き取れる音を出したか心配だった。いっそ泣いてしまいそうなほど、決死の覚悟で尋ねた僕に対して、先生はゆっくりと首を傾げた。


「この前の任務で夏油さんに動物園の話を振られました?」


返ってきた答えが予想外すぎて。自然と眉間に寄っていたシワがなくなった。真剣に答えてくれない、と。一瞬悲しくなったけれど、今までの付き合いからして先生は真剣だ。真面目に接していてコレなんだ。


「それか猿山? 牧畜の話とか?」
「えっと、いいえ」
「でも、夏油さんの話を聞かされたんでしょう? 私の神様のことまで話すなんて、よっぽど盛り上がったんでしょうね」


夏油さんと動物園の話はどういう繋がりがあるんだろう。「ストレス溜まってたのかな」という呟きが聞こえて余計に分からなくなった。


「私は死にませんよ」


突然、先生は質問の答えを寄越した。ビックリしている間にも畳み掛けるように言葉が続く。


「神様のために、健やかでなければいけませんから」


それは、僕が欲しかった言葉ではなかった。
僕に吐き気を催させる言葉に違いなかった。

神様。神様神様神様。先生は神様のことばかり考えている。死なないと先生が言ったって、神様に殺されてしまうのは変わらないんじゃないか。そう、叫んでしまいたかった。できなくて、手の中のマグカップを震えるほどに握り締めた。


「乙骨くんは祈本里香ちゃんのことが怖いですか?」
「……はい」


里香ちゃんは僕を理由に人を傷付ける。僕の言うことを聞いてくれない怖い存在だった。それが変わったのはこの学校に来てからで、先生が付き合い方を教えてくれたからだ。


「それでも、嫌いにはなれないでしょう?」
「もちろん」
「どうして?」


どうして?


「里香ちゃんは、僕のことを守ろうとしてくれている、から……」


……僕のことが、好きだから。

『ゆうた』足元の影から現れた指が控え目に僕のズボンの裾を掴んだ。きっと破かないように力加減をしている。僕が危険な目に遭っていない時、里香ちゃんはこんなにも大人しい。いくら怖い目に遭っても、人が暴力で崩れるところを見ても、里香ちゃんを嫌いになることはできなかった。むしろ、こんなに僕のことを想っている里香ちゃんを人殺しにしたくなかった。

人殺しにするとしたら、それは僕のせいだ。


「一緒ですね」


一緒で、真逆です。

先生は、いつかの初対面と同じように笑った。


「私は神様のことは怖くありません。乙骨くんの里香ちゃんと同じで、呪いであるだけで悪意はないんです。ただ私の幸福を願ってくれた人のために呪っている、私の神様ですから」


先生が手元のココアを含む。そういえば一口も飲んでいなかった。釣られて僕も飲むと、想像よりも甘ったるい。鼻の奥に温い風味が残った。


「でも、好きかは分からない」


ほぅ、と。ココアで温まった息が白くなって空気を漂う。あまりにも突き放した言い方が、いっそ言霊じみて白い色をしたのではと勘違いしてしまうくらい。先生の声は真っさらだ。


「呪いを解かない私に対して、五条さんや夏油さんから何度か“祓ってやろうか”という申し出はありました。十年近く顔を合わせてますし、あのお二人は最強ですから、もしかしたら無理やりどうこうするなんて簡単なことだったかもしれない。けれど、」


先生は断った。

だからこそ、こうして呪われたまま残り十年のタイムリミットを刻んでいる。


「好きかどうかも分からずに、消えてほしくないんです」


──だって可哀想じゃないですか。

自分を呪っている相手に対して言う言葉ではない。けれども、やっぱり、これも先生の本心なんだと思った。同情だけで自分の寿命を指折り数える人生を送っている先生は、夏油さんの言う通り狂っているのかもしれない。消極的な死にたがりで、神様に傾倒しているヤバい人なのかも。

それでも、僕は本気で共感してしまったんだ。


「まだ十年もありますし、ギリギリまで考えていたいんです。私と神様は、あなたたちのように死後会えるわけではありませんから」


それは確かに……寂しい、なあ。

一度は死のうと思った僕も、生きていてもいい気がしている僕も、いつかは死んでしまう人間だ。その時は里香ちゃんと同じところに行くんだろうと勝手に考えていた。

先生はそれができない。

できないから、好きかも分からない神様に呪われ続けて、自分の気持ちを知るために制限時間いっぱい使って考えているんだ。そう思えば、何も不思議なことではない気がしてくる。


「私はまだ死にません。──死にたくありません」


そっか。先生は、そう、なんだ。

満足感じゃない。安堵感でもない。気分が浮き足立つとも、沈み込むとも違う。変なガス溜まりのような感情が胸の中に居座っている。でも、確かに最初に感じた吐き気はもうなくて。頷くしかなかった僕は、黙って先生の甘ったるいココアを飲み干す。そうして当たり前のように挨拶をして僕たちは別れた。

あれがきっと、先生との最後のお喋りになるんだろう。







あの味を先生の思い出として、あの世まで持って行こうと思った。



「愛してるよ、里香。一緒に逝こう」



その日は高専内に人がいなかった。

先生たちも補助監督の人たちもいなくて、一年生の僕たちばかりがいつもの校舎に揃っていた。五条先生が言うには、特級になるかもしれない呪胎を新宿と京都に複数隠した、というテロの犯行声明が出されたとかで、東京の窓が視認しただけでも五十。もしかしたら百に届く可能性もあって、しかも呪霊まで放たれたらしく、術師総出で捜索と排除に当たっているらしい。パンダくんと狗巻くんも先生たちについて行ってしまった。

今日はクリスマスイブなのに大変だね、と。残された真希さんといつも通りに話していたのに。

大きな地響きがして、様子を見に行った真希さんが帰ってこない。堪らず飛び出した僕。辿り着いた先で、新宿にいるはずのパンダくん、狗巻くんが倒れていた。そして、同じように意識のない真希さんも。三人の赤い点を辿った先には、複数の呪霊を従えて立つ僧衣の男。──夏油傑。

そこからは無我夢中だった。夏油傑はパンダくんや狗巻くんとの友情を褒めたかと思えば真希さんを猿と罵ったり、力ある呪術師が力ない一般人に使い潰される現状に大袈裟に嘆いたり、里香ちゃんを僕より有効活用できるとかプレゼンしたり。全部全部ぜんぶ嘘っぽい。本心からの言葉じゃなくて、余計に気持ち悪い。

フリでも何でも、僕の友達と里香ちゃんを貶められるのは許せなかった。僕の大切なものを傷付ける男なんて、

ブッ殺してやる。


「やはりあの女に感化されたか! それとも自ら迎合したのか!? 女誑しめ!」
「失礼な。純愛だよ」


里香ちゃんと一緒にあの世に行く。

先生、僕は寂しくないよ。寂しくないから死ぬのは怖くない。先生より早く死んでしまう僕を許してください。

初めて口づけた里香ちゃんの唇。そこに集まる呪力は、里香ちゃんにとっての僕の命の重さ。解き放たれればただでは済まない。結局里香ちゃんを人殺しにしてしまうな。そう思うとほんの少しの躊躇いが湧く。

でも、もういいんだ。

いいよね、里香ちゃん。


朝露アサツユ様!」
「すとーーーーっぷ!」


白い鱗が僕の視界を覆い尽くした。

瞬間、経験したことのない衝撃が全身に襲いかかる。


「乙骨くん!」
「へ」


むぎゅぅ。柔らかい感触が僕の顔に押し付けられる。抱えるよう後頭部に回った手。見たことのある着物の合わせが鼻先をかすった。

嗅いだことのある、お線香の匂い。

どこで、と思い至る前に抱き締める力が強まる。先生だ。顔を上げると、大きくなった蛇さんが僕らを内側に仕舞い込んでとぐろを巻いていた。里香ちゃんは見えない。聞いたことのない高音の悲鳴は蛇さんのものだろうか。

ダメだ。先生を巻き込めない。そう言いたいのに、先生はしっかりと僕の頭を抱え直した。って、この柔らかい感触って先生のむ……む……!?


「遅くなってごめんなさい。ごめんね、私のせいで」

混乱に混乱を重ねて、アドレナリンが切れたのか。抱き締められすぎて酸素が不足していたのか。体から力が抜けて、目の前が暗くなっていった。


「(……夏油傑と同じ、お線香の匂い)」


最後の最後に、最悪な答えを導き出して。









夏油傑の目的は何だったんだろう。

突然高専に現れて僕の友達を傷付けたクソ野郎。でも、三人ともほとんど擦り傷で意識を失っていただけで、反転術式を受けるまでもなかった。

新宿と京都に放たれた呪胎も呪霊も本当にテロリストのもので、夏油とは無関係だった。異様に人がいなかった高専は、上の伝達ミスだということになったらしい。「表向きはね」と笑った五条先生が本当に笑っていないことを肌で察した。真実は分からないままだ。

夏油が僕たち高専一年生を襲った事件は、特級術師による高専生への実践的な訓練として罪に問われなかった。そんなことありえない、と言い募っても、実際に擦り傷で済んだのだから証拠がない。僕が里香ちゃんを失ったのと、夏油が重傷で治療を受けたこと、先生が血を流したこと以外の被害がなかったのだから。

里香ちゃんとお別れした後、僕は五条先生を急かして一緒に治療室に行った。僕を庇った先生のことが心配だったし、何より夏油と同じ部屋だなんて聞いたら居ても立ってもいられなくて、みんなとの会話もそこそこに駆けつけた。

そこには信じられない光景が広がっていた。


「お疲れ様です。生徒たちの怪我は大丈夫ですか」
「自分の心配しなよ。血止まった?」
「ムジナさんが粗方やってくれました」
「生徒たちの治療もでしょ? ちゃっかり働くよね、狸ちゃん」
「怒りますよ。ムジナさんが」


出血が酷かった先生の肩。そこにしがみついていたムジナさんが牙を剥いた。男に対して淡白なのはデフォルトだけども、五条先生に対してはもっと別の意図を感じる。

平和だな。一瞬、逃避しかけた意識が五条先生に肩を叩かれることで現実に戻って来た。


「先生……ソレ、どうしたんですか」
「それ?」


不思議な顔でハテナを飛ばした先生。その膝に、さっきまで僕と殺し合いをしていた夏油が頭を預けて寝ていたのだ。


「早くどかした方がいいですよ、足が腐ります」
「ブッ、ははは! 言うね〜憂太」
「なんなら僕が蹴り飛ばしましょうか」
「んん? 性格変わった?」


だって、思い返してみればコイツは先生のことも馬鹿にしていた。僕が先生に感化されて自殺するだのなんだの。あの時は何故だかちゃんと信じてしまって、長いこと先生とギクシャクしていた自分が恥ずかしいくらい。コイツはクソ野郎だ。そんなヤツが堂々と先生の膝枕で眠っている。ここでトドメを刺しておくべきじゃないか。

このままだと先生が巻き込まれるから里香ちゃんの仇を討てない。


「乙骨くん、すいませんでした」


呪力を込めた足が床から浮かした瞬間に、先生は深々と頭を下げた。纏めていたものが壊れて長い髪が肩からぜんぶ滑り落ちていく。あらわになった頸が白くて、……え?


「私のせいなんです。私の監督不行届で夏油さんは暴走しました。そのせいで生徒や里香ちゃんが……謝っても謝り切れません。それでも謝らせてください」
「あの、先生?」
「本当にすいませんでした」


待って。待ってください。
こっちはそれどころじゃないんです。

なんで先生が謝るんだ。ぜんぶ夏油のせいで先生は無関係だろ。……なんて言い返す余裕もないほど僕はテンパった。とにかく頭を上げて欲しいのに、先生はもっと深々と下げてしまって、もう膝に寝ている夏油の顔は一切見えない。むしろ覆いかぶさっているせいで余計に、その……。


「あのさ、言いにくいんだけど」
「はい?」
「ついてるよ、ココ」


とうとう、見かねた五条先生が自分の首を指差すことで教えてしまった。ちょうど髪の生え際辺りにポツンとついた、アレのことを。

顔を上げた先生が、無表情のまま凍りついた。


「…………」
「ふぅん? やることやってんじゃねーか」
「…………カウンセリングの、一貫で」
「僕の生徒に爛れた思想を吹きこまないでもらおうか」
「面目次第も、はい……」


それは肯定したということで。認めたくない現実に赤くなればいいのか青くなればいいのか分からず、僕は顔を手で覆った。知りたくなかった。できれば一生。二人から同じ匂いがした時点で察するものがあったけれど、絶対に気のせいであってほしかったのに。


「先生、絶対に別れるべきです」
「? できません」
「な、何か弱みでも握られてるんですか!?」
「ええと……そもそも付き合ってないものは、別れられないでしょう?」
「ブッ殺してやる」
「やっぱり性格変わったよね?」


先生どいて。そいつ殺せない。

先生が膝枕をしていなくて、五条先生に全力で肩を掴まれていなければ、今すぐにでも殴り転がしていたのに。


「乙骨くん落ち着いて。まだ眠っていますし、蛇さんもいますから」


違うんです先生。起きて襲ってこないか警戒してるんじゃないんです。暢気すぎやしませんか先生。

言われてよくよく目を凝らすと、夏油の首元にはマフラーのように巻き付いた蛇さんがいた。ところどころ鱗が剥げて、茶褐色のシミを作った痛々しい見た目をしている。きっと里香ちゃんと呪霊の攻撃の板挟みになって負傷したんだろう。それでも真っ赤な目と舌が剣呑に夏油の顔に向けられていて、渋々と拳を下ろした。


「で? “私のせい〜”って言うくらいだ。動機は聞いてるのかな」
「……最近の、ストレス管理を怠りました」
「だろうな」


五条先生が珍しく重苦しい溜め息を吐いた。「傑も三十路近いのにまーだガキ扱いされて。勘弁してほしいよ」五条先生も同い年だったような。ブーメランじゃないかな。……って、


「どこ行くんですか!?」


肩を竦めて踵を返した五条先生。僕はてっきり夏油を別の部屋に移すなり叩き起こすなりすると思っていたから、びっくりして大きな声を出してしまった。ここで帰るなら何しに来たんですかって聞いても、「確認」の一言で済ませられて余計に納得がいかない。

わぁわぁとしどろもどろに言葉を並べ立て、どうにか先生の膝を自由にしようとした、その時。「……っぅ、んん」先生でも五条先生でもない低い呻き声が近くから聞こえた。ゾッとして身構えた僕。意識を失っていた夏油の目がほんの数ミリ開く。先生、離れて! そう声をかけようとした。

夏油の手が、ゆっくりと先生の髪に伸びるまで。


「夏油さん?」
「まだ……もすこ、し……」


今は胸元を通って椅子下まで垂らしている先生の黒髪。濡れたような艶を二度三度。無骨な指が撫で梳いて、指を絡ませた後に口元に持っていく。まるで口づけるみたいな動作をして、そのままスコンと寝落ちてしまった。

──あの夏油傑が、寝ぼけたまま爆弾を落として二度寝した。


「…………」
「…………」
「ほらね、早くしないと巻き込まれるって言ったでしょ」


言ってない。
言ってないよ、五条先生。

俯いたまま動かなくなった先生を残して、真っ赤になった僕を五条先生が無理やり連れ出した。

せっかくのクリスマスイブ。みんなが事後処理に追われている。そんな中、高専の寒々しい木の廊下には僕たちしかいない。


「結局、夏油は何がしたかったんですか」


高専がもぬけの殻の時を狙って一年生を戦闘不能にして、里香ちゃんと戦って、最後は五条先生の術式がクッションになってギリギリ五体満足で生き残った。先生たちが間に合わなかったら腕の一本でも吹っ飛んでいたかも、と五条先生は溢した。


「んーー。憶測でいいなら話せることはあるかな」
「分かるんですか!?」
「憶測だって。ま、憂太には知る権利があるよね」


包帯を取って目があらわになった五条先生はもはや別人だ。それでも軽口や動作の陽気さで僕が知っている人だという確信が持てる。


「上層部は憂太を処刑したかった。里香が怖くて仕方なかったんだよ。上の思惑と傑の目的が一致しちゃったんじゃないかな」
「僕を、殺したかったんですか?」
「いや?」


ここから全部僕の予想だけど、と重ねて前置きが挟まる。


「傑はたまに暴走するけど、同じ術師を殺すようなイカレ野郎じゃない。単純に里香を手持ちに加えたかったんだよ」
「里香ちゃんを……」
「特級なんていくつ持っててもいいからね。上もさ、呪いに振り回されている憂太と術式で完全に縛れる傑なら後者を取るでしょ」


そっか。そういえば僕って処刑されるはずだったんだ。

ほんの数ヶ月前のことなのに、遠い昔のように感じる。あの時は早く死んでしまいたかった。誰かを傷付けて殺してしまうくらいなら自分がいなくなってしまえばいいって。本気で考えてナイフまで持ち出したっけ。

そんなことも忘れてしまうくらい、僕はちゃんと生きている。


「っていうのは建前で」
「は?」


たてまえ? 建前って言った?


「憂太が呪いを解くことで、アイツの意識を変えたかったんじゃないかな」
「アイツって、」


先生のこと……?

見上げた先の青い目。言動とは裏腹にすごく静かで、仕方ないなぁとでも言うような呆れが浮かんでいた。きっと先生に対するものに違いなかった。


「憂太も聞かされたでしょ。アイツが暢気に十年も呪われ続けているの」
「はい」
「傑はね、ずっと焦っているんだ」


十年も、そばにいるから。

十年。僕が里香ちゃんに呪われるよりもっと前から先生は呪われていた。呪われ続ける先生を見ていたのは周りで、夏油もその一人だったんだろう。いつか死ぬ呪いを解けるにも関わらず放置している後輩。普通は気が気じゃないはずだ。僕だったら必死に説得する。

夏油も何か言葉をかけたのだろうか。あの辛辣な態度だけ見れば、そんな親しい仲だとは信じなかったけれど。

あの赤い痕がその答えだ。


「似たような境遇の教え子に先を越されたら、あのマイペースも流石にその気になるだろって」


夏油は、先生に死んでほしくないんだ。──先生のことが、好きだから。

呑み込みにくい珍味を食べてるみたいに口の動きが鈍る。ものすごく苦い顔をしてる自覚があった。そんな僕をしばらく眺めた五条先生は、空気を変えるようにパンッと手を叩く。


「で、こっからが僕的大本命なんだけど〜」
「まだあるんですか!?」


もうお腹いっぱいだよ。

「まあまあ聞いてよ。憂太には特別ね」とかなんとか軽口を言いつつバシバシ背中を叩かれて、つんのめった瞬間に意味不明なセリフが。


「馬に蹴られたんだ」
「へ」


五条先生は、自分の顔の綺麗さを十分理解しているキメ顔で、あんまりな現実を僕に突きつけた。



「男の嫉妬さ」



憂太、アイツと距離近かったもん。









久しぶりに先生のことを思い出した。と言っても二ヶ月前に会ったばっかだ。日本とは違う空気で旅をしていると、やっぱり恋しくなるんだろうか。

フリーの術師のミゲルと一緒に任務に当たることになった僕。久々にスマホの電波が届くところまで来て、何とはなしにメッセージアプリを開いた。狗巻くんのモーニングコールならぬモーニングおにぎりの具だとか、パンダくんの高専日報とか、真希さんの素っ気ない報告とか。怒涛の勢いで更新されていくトークルームを眺めていると、珍しく菜々子さんと美々子さんとの三人グループが動いていた。

夏油と先生をくっつけたい二人とは敵対関係になってしまったけれど、その話題以外では比較的仲良くできている。その二人からの連絡だ。

まず目に入ったのは一枚の写メ。花柄のトレーナーと黒いミニスカートの菜々子さん。花柄の白くて丈の長いワンピースを着た美々子さん。その間で控えめにピースする花柄の黒くて丈の短いワンピースを着た先生。三人とも同じデザインの花柄で、お揃いコーデというヤツだと思う。仲が良いなあとほっこりした。

それにしても、双子はなんで先生のお腹に手を当てているんだろう。

首を傾げた僕。そのまま無防備に下にスライドして、問題の一文が目に飛び込んできた。

目が潰れるかと思った。



『美々子:家族が増えます^_^』



………………。

……、………………。

………………、……ああ、うん。そっか。

そうだよな、僕を使って先生を解呪させようなんて考えるヤツだ。里香ちゃんとずっと一緒にいる僕に嫉妬するようなヤツだ。先生に解呪するように、長生きしたいと思わせるようにするには、確かに効果的な方法かもしれない。守るべきものが増えるんだから。あと十年で死ぬなんて無責任なことを、先生は良しとしないはずだ。すごい、すごい発想だよ。

けどさ、これは流石にあんまりだろ。


「ミゲル、僕日本に帰るね」
「What!? Whay!? マダ仕事ガ残ッテイルゾ!?」
「ちょっとやらなきゃいけないことがあって」
「勘弁シテクレ! 俺ガ夏油ニ怒ラレル!」
「安心して、僕が先にブッ殺すから」
「憂太!?」



絶対土下座で謝らせるから覚悟しとけよ。




***




私の目の前には一枚の紙がある。

夏油さんが置いていったに違いない。だって夏油さんの名前が書いてある。ついでに証人のところに五条さんと伊地知さんの名前も。……伊地知さん? なんで? そこは同期の硝子さんじゃないのかな?

しばらく置き場所に困って、仕方なく空いてるファイルに挟んでデスクの引き出しにしまった。ちなみに置いてあったのは準備室の私のデスクだ。

必要な書類をいくつか済ませて事務室に向かった。そこでばったり硝子さんと会った。「お疲れ様です」「お疲れ」いつも通り挨拶して、なんとなく並んで世間話をする。今月になって一年に転入生が来たとか。「乙骨くんみたいですね」「似たり寄ったりのワケありだぞ」「へえ」コツコツ二人分のヒールを鳴らしている最中、「で」と突然硝子さんが話題を変えた。


「夏油のヤツ、五条以外の証人は誰にしたんだ。伊地知?」
「なんで知ってるんですか?」
「近場ですぐ書いてくれそうな後輩はアイツか灰原だろ」
「確かに」


伊地知さん、また五条さんに脅されたんだろうか。


「最初に頼まれたの、私だったんだ」
「あ、やっぱり」
「秒で断ったけど。責任の取り方が古いんだよ。養育費だけ出しとけっての」


これだからクズどもは、と硝子さんが吐き捨てた。硝子さんは学生時代からあの二人のことをクズと罵っていた。私は結構助けてもらったし、あまり酷いこともされなかったからイマイチ分からないのだけど。

『素敵な人と結ばれて、可愛いひ孫が産まれますように』

祖母のお願いを神様はずっと叶えようとしている。今までずっと、祖母が出産した三十三歳までに子供を産むことが解呪法だと思ってきた。けれど、まずは“素敵な人と結ばれ”る前提がいるとしたら? このまま夏油さんと結婚したとして、神様は夏油さんを“素敵な人”だと認識してくれるだろうか。

クズ…………クズって、“素敵な人”?


「で、書いてやるの?」
「今猛烈に不安になってきました」
「遅すぎる」


「奴隷卒業おめでとう」という謎のお祝いをされて会話は終わった。

婚姻届はしばらく引き出しの肥やしになってもらおう。


「私は何故一週間も放置されたんだ?」
「はい?」


青いベルベットの小箱を片手に突撃されるまでの儚い肥やしだった。

高専内に月一で来る夏油さんが、今月三回目の来校を果たした。準備室の扉を開けたら気配もなくそこに立っていて、圧倒的な圧で部屋の中に逆戻りする。そろそろ春の忙しい時期を抜け出して落ち着いた夏だというのに、何か不測の事態が起こっているのだろうか。

珍しく僧衣じゃないジャケットを着た小綺麗な格好。髪型も珍しく下の方で結んで流している。何か用事でもあるのか聞くと、眉間にグググッとシワが寄った。嫌な用事なのかも。


「ストレス溜まってます? 今晩は空いているので大丈夫ですよ」
「それは良かっ……いや、良くないな」
「どっちですか?」


一瞬考えて、「ああ……」と察する。


「流石に妊娠中でお相手はできませんね。すいません、忘れてください」
「夜の誘いじゃない」
「えっ」


じゃあ、なんで?

いつもは高専にやって来た夏油さんとたまたま会ったり、お互い夜に予定がなかったら適当なホテルで一緒に過ごした。それが今月はまだない。きっとストレスが溜まっているはず。去年の乙骨くんの事件みたいな、大きなやらかしが起こる前に吐き出してもらいたいのに。

みんなの前では、頑張っている優しい夏油さんでいてほしいのに。


「言っただろう。君と子供を守ると」
「はい、嬉しいです」
「ならなんで婚姻届を書いてくれないんだ」
「あっ……あー」


痛いところを突かれた。

あからさまに明後日の方向を見た私。夏油さんの目が剣呑に吊り上がっていく。意図的にスルーしてたのがバレてしまった。

何人かの同僚や上司にアンケートを取ったところ、灰原さんを除いて九割近くから「クズ」と言わしめた夏油さん。彼と結ばれたとして神様は納得してくれるのだろうか。納得してもらえなかった場合、私は呪いを解くために夏油さんと別れて、別の素敵な人を探す覚悟があるだろうか。考えれば考えるほどサインができなくなった。


「夏油さんは、私にはもったいないくらい素敵な人です。でも、神様が……」
「チッ!」


言い切る前にとても大きな舌打ちが響き渡った。そんなところまで特級なのね。


「守ると言ったのは、一生君のそばにいるということだ。私の隣で、幸せになってほしい」


大きな咳払いの後、(直したばかりの床板の横に)恭しく膝をついた夏油さんが持っていた小箱を開いた。ダイヤモンドが埋まったシンプルなシルバーリング。この世の綺麗なものだけを吸い込んだようにキラキラと輝いている。

下から見上げてくる夏油さんは、眉を下げて、心底“不安です”と目を潤ませながら、懇願した。


「私と結婚してください」


心臓が大きく跳ねる。

この夏油さんは、私に『嫌いだ』と言った後の、途方に暮れた夏油さんだ。どうすればいいか、何に縋ればいいか分からず、堪らなくなって痣になるまでぎゅうぎゅうに抱き締める。寂しがりな夏油さんだったから。

それを、こんな昼間から見せるなんて……。


「……やっぱり無理してません? 体調不良? 夏油さんも呪われました?」


この後、きゅるるんとした顔を再び怒らせた夏油さんに手取り足取りサインを書かされ、晴れて名字が夏油になった私。一週間の葛藤が一瞬で無かったことにされるなんて。ショック状態に陥っているうちに、左手の薬指には綺麗な指輪が嵌っていた。

頭上で花びらが舞っているから、たぶん神様も祝福している、はず。柔らかく嗅ぎ慣れないジャケットに抱き締められながら、自分に言い聞かせた。




乙骨「無理やり孕ませやがったギルティ」
夏油「冤罪」

五条「傑の代わりに婚姻届置いて来たよ〜まったく意気地なしなんだから〜……え? 傑が素敵な人かって? うーん、微妙!」

ミミナナとのスリーショットを撮ったのは夏油さんです。


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