花の内



十年ぶりに髪を切った。


「一応聞くけど、夏油と別れた?」
「そもそも付き合ってないですよ」
「知ってる」


たまたま廊下で会った硝子さんと並んで事務室まで歩く。軽くなった頭とスースーする首筋が落ち着かなくて、首あたりを嫌に触ってしまう。十年伸ばした後髪はお手入れが大変だったから、やっと切れた達成感があったのに。いざなくなってみると寂しく思う、ままならないものだ。


「巫女さんの真似のつもりだったんですけど、そろそろ辞め時かなって」
「十年続けてきたことだろ。どんな風の吹き回しだ」


十年。改めて聞くと、長くこの世界にいるんだな、という実感が湧いてくる。

高専を卒業した私はそのまま大学に入って教員免許を取った。それから高専で教師と術師の二足の草鞋を履いている。

五条さんは昔より丸くなったものの、破天荒なところは相変わらず。教師としても術師としても直属の先輩のまま。たまに振り回されてはヘトヘトになって硝子さんに飲みに連れて行かれる。呪霊を寄せ付けない術式柄、治療役の硝子さんとは昔以上に一緒に過ごすし、変わらずに可愛がってもらえている。

灰原さんは十年前に肺をやられたせいで身体能力が落ちて術師を引退した。今は高専に勤めながら補助監督をやっている。七海さんも一度は術師を辞めたものの、数年前に復帰した。二人が喧嘩別れして云々の噂は聞いたけれど、そこら辺の話は深く突っ込まない方がいいと思う。特に私は。

他にもミミちゃんナナちゃんが高専に入学したり、蛇さんムジナさんの姿がやっとハッキリ見えるようになったり、最近になって神様の力が強まった気配を感じたり。

夏油さんが副業で教祖をやっていたり。

いろんなことが起こった。

硝子さんになんと伝えれば良いか悩んでいる間に事務室に着く。中では五条さんと七海さんがデスクで何か書き物をしていて、珍しく高専にまで来ている夏油さんと灰原さんが話し込んでいた。

高専を出てフリーの術師になった夏油さんは、いつからか仕事着に黒い着物を着るようになった。副業の時だけ上から袈裟を着るらしい。カルトじゃないか不安になって名刺を盗み見たところ、菊にムジナと蛇が戯れているシンボルがデカデカと。なんだか見覚えがあるなぁ……見なかったことにした。私が知らないストレスが溜まっているのでは、と不安になったけれど『君のお節介にはうんざりするね』通常運転でホッとした。

チラッと夏油さんと目が合って、先日のことが頭を過る。



「妊娠したんです」



「ブフォッ」「!?」「えっ」「…………?」


「ああ、巫女って未婚の女しかなれないんだっけ。納得した」
「真似なので別に続けてもいいんですけど、流石に子育てにあの長さの髪は大変かなぁと」
「確かに。──で、相手は?」


ここで言うべきか。

悩んだのは一瞬。まん丸の目と目が合って、思わず。


「灰原さん」


ガタガタッ。
ズシャッ。
バキバキッ。
メキャッ。

「誤解です夏油さん違うんですッ! 誓って自分じゃありませんッ!!」「…………?」「うっそ、灰原やるぅ」「灰原が、不貞を……」「違うんだって!」「…………?」「ちょっと〜傑さっきから首捻ってばっかなんだけど! ウケる〜」

事務室中の書類がぶちまけられたような。どこかから伊地知さんの悲鳴が聞こえたような。備品が変な曲がり方をしたような。……これも見なかったことにして。


「避妊具って本当に完璧じゃないんですね」
「まあな。保健体育で習っただろ」
「まさか自分の身に起こるとは思わなくて」
「デキちゃった奴はみんなそう言うんだよ。で、相手は?」
「…………」
「つまんねぇ嘘ついてんなよ。オラ、さっさと吐け」
「硝子さん硝子さん、昔に戻ってます」


観念して硝子さんにそっと耳打ちする。周りが急に静かになったのは気のせいかな。


「知ってた」


興味なさそうに髪の毛をいじりいじり。そんなに付き合ってそうな雰囲気を出してたかな。誤解なのに。


「やることやってるじゃないか」
「なんででしょうね」
「告白くらいはされただろ?」
「いいえ?」


「はぁー!? バカ! シンプルにバカ!」今度は五条さんが叫んだ。誰に言ってるのか気になりはしたものの、すぐそばに夏油さんがいると思うと……何となく見れない。これは、後ろめたいって気持ちなのだろう。


「冗談の一つも言えないつまらない女ですし。私も必要な時に声をかけてもらえればそれで」
「ドM通り越して奴隷か」


今度は硝子さんが明後日の方向を睨んだ。確かにあのタイミングでアレは空気が読めていなかった。やっぱり冗談なんて私には向いていないんだ。

それにしても、奴隷?


「そんなことないですよ。言葉はキツいですけど、変な人に絡まれたら助けてくれますし。むしろ私が使ってるんじゃないですかね」
「また絡まれたのか。ストーカー?」
「いえ、人違いをされて」
「たぶん間違ってないナンパだぞ、ソレ」


『危機感皆無め』そういえばそんなことも言われたな。神様が呪霊から守ってくれることに慣れきって、危険察知能力がかなり落ちている。むしろ人間の方が危険だと注意されるくらい。逃げ足ならかなり速くなったのにね。


「ストーカーとは? 私は聞いてないが」
「ほら、来たよ旦那」
「旦那じゃないです」
「君はちょっと向こうで話そうか」
「しっかりケジメ付けろよクソ野郎」


腕を取られ引きずられる形で事務室を後にする。振り返った先で、なんでも知っている五条さんが「おめでとう」と口ずさんだ。

辿り着いたのは教員準備室で、つまり私の城。資料がごちゃごちゃな部屋に当たり前に入り後ろ手で鍵をかけた。


「さっきのタチの悪い冗談はなんだ。灰原が可哀想だろ」
「夏油さんがこの前、冗談の一つも言えないのかって」
「私のせいにするのか。まったく、君のそういうところが本当に、き、」


『嫌いだ』に続くはずだった言葉が途切れる。薄い唇を目一杯噛んで夏油さんが耐えている。耐えなくていいのに、と見上げると余計に苦虫を噛み潰した顔になった。


「妊娠は、いつ分かったんだい」
「昨日。病院に行って確定しました」
「もっと前から予感はあったね?」
「……神様が、」


神様の力が強くなったから。

産土神。土地神。守り神の力が強まるとすれば、守るべき子供が増え栄えること。お腹に新しい命が宿って喜んでいるのではないかと考えた。


「そろそろ呪いを解く気になったか?」


どうだろう。

本当に私が考えた通りのことをやれば呪いが解けるのか、そこらへんも分からないし。そもそも、神様は祝福のつもりで呪いをかけたのだ。祖母にお願いされたから、今でも私を呪い続けている。

この呪いが解けたら神様はどうなるか。今度こそ消えてなくなるのではないか。そう考えれば考えるほど躊躇してしまう。私の無神経で呪霊に落としてしまった神様を、私の勝手で消してしまうなんて。それは非道だ。そんなあんまりなこと、私にはできない。

ポロポロ涙をこぼすように。私は十年間黙ってきた本心を夏油さんに打ち明けた。


「そのための副業なんだが」
「え」


親指で眉間をトントン叩く。夏油さんの癖。考えをまとめる時にたまにやる動作。いつもの『嫌いだ』と似た温度の、けれどもう少し柔らかい声が上から降ってくる。


「君の神様が消えても信仰は残る。そのためにせこせこ信者を増やしたんだ。……これで心置きなく、解呪できるだろう」


なんだか、いつもの夏油さんじゃないみたい。

夏油さんは優しいから、嫌いな私にも心を裂くことはしてくれる。それはこの十年で理解していた。でも、私の解呪のために副業を始めたとなると話が変わってくる。


「呪いが消えた私は、術式なしの一般人になりますよ。呪力もどうなるか……。夏油さん、まだ非術師のことが嫌いですよね?」
「ああ、非術師は嫌いだ。もちろん君も嫌いだ」


ちょっとホッとしたのは条件反射を通り越して病気かもしれない。真正面から見た夏油さんの顔もグッと歪んでしまったし。

『嫌いだ』に安心して、かこつけて。夏油さんが私に誰かを重ねているのも利用して。夏油さんをこちら側に引き止めようと必死になっていた。


「嫌いなだけじゃないから、ここまで頑張ったんじゃないか」


そんな十年が、今、崩れようとしている。

大きな手が肩に置かれて、視界いっぱいに夏油さんの顔が映る。泣きそうなほど潤んだ目なんて、初めて見た。



「好きなんだ」



……ああ、そっか。



「君と、……お腹の子を、私に守らせてくれ」



好きと嫌いって、両立するんだ。

肩に置かれていた手が、いつもなら考えられないくらい柔らかく背中に滑っていく。そのままそっと抱き寄せられて、カーテンみたいに着物の袖が私を包んだ。本当に腕に力が入っていなくて、お腹あたりに空間を作ろうと必死になっていることに遅れて察した。いつもなら力加減なんかせずにぎゅうぎゅうしがみついてくるのにね。

本当に、大事にしようとしてくれてるんだ。

夏油さん、私のこと好きなんだ。



「はい、喜んで」



肩口に額を擦り付けて、初めて私からぎゅうぎゅうと抱き締め返す。慌てて腰を引いた夏油さんがおかしくて、可愛らしくて。──好きだなぁ、と思った。


「夏油さん、すき」


バゴッッ。

……足袋と草履の足で床板をブチ抜く人、初めて見た。きっと老朽化が進んでいるに違いない。こんなに分かりやすく動揺する人だったか。


「笑うな、見ないでくれ」
「こんなこと初めてで」
「そう何度もあって堪るか」
「いえ。……夏油さんとちゃんとしたスキンシップって、初めてな気がして。照れますね」


肌を重ねても、愛情表現なんて全然してこなかったもの。触り方だってもっと遠慮がなかった。きっとストレス発散の一貫だと思っていたから。

押し黙ってしまった相手から何とも言えない震えが伝わってきて。寒いのかと腕の力を強めると、背中に回った手に少しだけ力が入った。あたたかい。いつものよりこういう触れ合いの方が落ち着く。そう伝えると、一旦体を離されてから大きな手が私の頬を撫で、唇を撫で、鼻先が触れ合って──。


「……っ」


今日は初めて尽くしの日だ。



『素敵な人と結ばれて、可愛いひ孫が産まれますように』



神様。私の神様。──お菊様。

あと九ヶ月、よろしくお願いしますね。





***




『帰ろう、夏油さん』


──『帰ろう、理子ちゃん』


あの時は帰れなかったから、今度こそ二人で一緒に帰りたかった。それだけのはずだ。

初めて会った時は、きっと天内理子に重ねていた。生きていればこれくらいの歳になっていただろうと。思い出すほどに感じる、熱した鉛を飲み込むような嫌な味。呪霊とどちらがマシだろうと生産性のない思考が巡った。


『嫌いだ』
『はい』


けれど今では、彼女に自分を重ねている。

あの時『帰ろう』と伸ばした手が埋まらなかった。空っぽのまま寮に帰った、あのどうしようもない虚しさ、どこにもぶつけられない憤り、悔しさ、悲しさ。悟と二人で最強を自負していた自分がとんでもない思い上がりに思えて仕方なかった。

非術師が猿なら、己は井の中の蛙だ。大海に出れば社会の真理に押し流され、悪意なき理不尽に打ちのめされる。守るべきものの実態を何も知らず、強者として弱者におもねる無意味さを痛感してしまった。

神様の信仰がどうの、人殺しの私が嫌われるのはイヤだの。どうでもいい彼女の詭弁は全て聞き流せたくせに、あの一言だけは無視できなかった。


『君なんか嫌いだ。憎い。ムカつく。腹立たしい。なぜ私がこんなことのために。ああ、どうして。血が、血が点々と先まで。なぜ流れる。あそこで笑っているのは誰だ。私たちではないのか。なぜ。私たちはどうしてこんなことを。何のために頑張っている。あんまりじゃないか』


彼女はいつの間にか背が伸び、肉がついて触り心地の良くなった。子供から女に熟れ始めた体は、荒むばかりの精神を柔らかく受け止める。


『嫌いだ、嫌い嫌い嫌い嫌い』
『はい。はい。聞いてますよ』
『本当に、嫌いなんだ』
『いいんですよ。嫌いでいいんです』


非術師を憎む己。それを悪として否定するばかりの己。己の代わりに、彼女が肯定してくれる。なんと快い。


『嫌いだ』


彼女に向けるコレは、自己愛であり自己嫌悪である。所詮は自慰行為でしかないんだ。



『傑は鏡に欲情できるわけ? 流石の僕も自分の顔で抜けねーわ』



悟に指摘されるまで、ずっと気付かなかった。

キスはしなかった。抱く時以外には体に触れもしない。任務で抱えたり引っ張ったりもするがそれだけ。そもそも特級術師と高専の準一級術師が一緒に任務など稀だ。たまたま高専で鉢合うか、美々子と菜々子にせがまれて四人で出かけるか。……性欲処理に付き合わせるか。

何故、彼女を抱こうなどと思ったのだろう。

自分を呪う化け物を神と崇めるおかしな子供を。巫女のように清廉としながら陰鬱な気を漂わせる女を。年下なのに年上のように私を見守る鬱陶しい人間を。元は猿だった中途半端な術師を。



『夏油さん、すき』



理由なんて、とっくに気付いていたんだ。



「突然現れた両面宿儺の器に、新たな子を得て力を増した元産土神。んー、連鎖してるって考えてもいいかな」
「彼女も、時代の波に組み込まれているのかい」
「さあて。それは僕らの頑張り次第じゃない? パパ」
「気が早いんじゃないか、五条先生」
「オマエに言われたくないね」


あと十年の猶予があるのに、と悟は言うけれど。こちらからすればたった十年しか残されていない。もしかしたらそれより早く、彼女は信仰する神に呪い殺されるかもしれないのだ。

そう考えれば、盤星教の残骸を利用しようと思い至った時点で拗れていた。

呪いの面を凌駕するほどの信仰を集めて神の面を補強すれば。呪いはただの神に戻る。加護とは名ばかりの見ることしかできない役立たずの神に。そうすれば正規の解呪法でなくとも呪いから逃れることができるのではないか。思い至って実行したのは何年前だったか。


『お願い致します、朝露アサツユ様』


それなのに、彼女は出し惜しみせず神の力を使う。伏黒くんの式神の訓練のために蛇の眷属を引っ張り出すなんて。引っ叩いてでも止めたかったが、彼女の意思に従って勝手に出てきてしまうのだから仕方ない。考えなしの狂信者だと罵ったところで手遅れなんだ。

腕の中に閉じ込めたあの熱を、内に眠る命を。決して逃してはいけない。

神にだって渡してなるものか。



「今度こそ守るよ。私だって最強だからね」



まずは指輪の一つでも見繕ってやろう。式は神前式が良いだろうか。いや、毎日神前にいるようなものなのだから、いっそチャペルで賛美歌でも聞かせてやろう。美々子も菜々子も喜んでベールガールをしてくれるはずだ。ウエディングドレスはどんなものがいいだろう。髪を切ってしまったのが悔やまれるが、暗い雰囲気が和らいだのは良い誤算だった。あれはあれで似合っている。


「あー、御思案中のところ大変申し上げにくいんだけどー。プロポーズは?」
「…………もちろん」



まだしてない、な。






オマケの蛇足(後のストーリーのネタバレ含んだり含まなかったりします)


・主人公
術師側として生まれたのに呪力を持ってかれたせいで一般人になった人。呪霊除けの術式は神様のじゃなくて自分の。最初に呪ったのはこっち。「怖いの見たくなーい」程度のぼやきに反応して神様が「それならできそう」て呪力ダイソンした。後に「助けて」ってお願いしたので「じゃあ子孫産んで信者増やしてね」って呪われた。解呪法は祖母の日記でなんとなく察した。ちなみに呪力ダイソン時に感情も軽く吸い取られているので元の性格よりかなり淡白。前世の記憶のせいでママ味も出すし未亡人感も出てる。25歳時は袴かスーツ。安定期に入ったら渋谷で特級呪霊の矛VSパワーアップした神様の盾の矛盾対決がありますん。

・祖父母
遠くから嫁いで来て知り合い誰もいない上に三十過ぎても子供ができなくて神頼み。結果三十三歳で子供ができて本格的に信仰し始めた。実際は神様何もしてない。祖父は祖母の精神安定のためにお参り付き合ってただけ。なので実質祖母だけが信仰していた。母親は祖母の実家で産んだため神様の加護範囲外。

・神様
主人公に呪われて呪い返した。本家菊理媛の似非信者が勝手に持ち出した写の写が元々いた山の女神と混ざって混沌としている。花御に近い。子供が産めない女は不幸だという認識。子供が産める年代を過ぎた女=不幸=生きてても仕方ない。二十歳でも高齢出産だと思ってたけど、最近の信者が三十三歳で産んだので「人間すごっ」と期限を伸ばした。本領発揮は妊婦さんを守っている時。解呪されたとしても見えないだけでそこにいるかもしれないし、本当はいないかもしれない。そんな普通の神様に戻る。眷属の力関係はムジナさん>蛇さん。

・夏油さん
五条の軽口で一回鏡を見ながら抜こうとしたことがある。できなかった。主人公が生まれつき術式持ちのお仲間だったことを知らない。解呪法が出産なのも知らない。もう呪いが解けかけているのを知らずに頑張って解呪法を模索中。親友の方が彼女の事情に精通しててモヤるまであと二ヶ月。

・五条さん
「(解呪達成)おめでとう」
適当だからとっくに全部説明した気になってる。


長々とした蛇足でした。ここまで読んでくださってありがとうございました。


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