「私をここから連れ出して」



いい拾い物をした。

呪術界で噂になっている予知能力者がいた。非術師の詐欺団体に匿われ、神降ろしの巫女だの現人神だのと喧伝されていた女。なんてことはない。実際は非術師の家系から生まれた突然変異で、未来予知の術式を持つ平々凡々な女だった。だからこそ金儲けの道具として仕舞い込まれる現状に嫌気が差したのだろう。騙された人間の怨嗟が煮凝り増幅した呪霊が成金趣味の神殿に湧き出たこと。建物の残骸が直哉が移動中の車に飛んできたこと。ちょうど虫の居所が悪かったこと。八つ当たりで祓った後の部屋の中で、伸ばされた手があったこと。

そういった経緯で女は禪院家の財産の一部になった。

うざったいほど長い黒髪と足し算しか知らない人間が考えた派手な着物。禪院に来て早々髪は腰までに切り揃えられ、着物は地味な藍鼠色に変えられた。落ち着いた色を合わせればなるほど、平々凡々なりに見れる顔だと思った。


「何から何まで……」


礼儀作法の何たるかを知らない雑な所作。揃ってない指先を畳につけ深々と頭を下げる女はどう見たって庶民でしかない。こんなのを崇めていた信者の目は節穴だ。所詮非術師やな、と鼻で笑い、直哉は対価を求めた。


「君の占い当たるんやってね」


初めて、女の顔から“人間”が消えた。


「俺も占ってや」


ここで女の術式の種は明かされた。占いと言っているのは非術師ばかりで、術師の目にはくっきりとソレが見えたのだ。

女の手首に生えた小さな羽。鳥のような一対が羽搏くたび、手の内のペンはするすると紙面を滑り何事かを記していく。全て書き終えたところで羽は消え、直哉の前に紙が差し出された。中身を見る前に、声を上げて笑い出したくなった。

術式などというには陳腐すぎる。コレは掃いて捨てるほどいる式紙遣いと大差ない。必ず当たる女の占いは、予知能力を持った珍しい呪霊を使役することで成り立っていた。すごいのは呪霊で、女は幸運に出会っただけ。それで巫女だの神だのとアホらしい。摘んで眺めた内容もまたアホらしい。大したことは書いておらず、意味を尋ねても「さあ?」の一点張り。使い物にならないと舌打ちすれば「それだけ平和なのですよ」と微笑む。意外と図太い神経を持っているらしい。

それから二週間後、直哉は無事占いの効果を実感した。ちゃぁんと現実に起こったから。

女の占いは紙に四行。一週間に一行の教訓めいた文言のみ。その週の内容は『失せ物は部屋の東』探していたピアスは確かに東の箪笥の引き出しに落ちていた。さらに一週間後、面倒な会合が来月に延期になった。開始早々分家筋の木っ端が乱心し部屋をめちゃくちゃにしたためだ。『集いの場に獅子身中の虫』直哉は会合をサボった。どうせ中止になるのだから時間の無駄だ。叔父や従兄弟に小言を言われたがそれまでだった。

──いい拾い物をした。

見目は好みではないし、態度は大きいが、それだけだった。何せ女には直哉に助けられた恩がある。その証拠として頼めばすぐに呪霊を呼び出して占ってくれた。

一回につき一月分、四行しか占えないのはまどろっこしいが、同じ屋敷に住んでいるのだからすぐに会える。ただし、当主から「あまり使いすぎるなよ」と釘を差された手前、頻繁には通えない。女は忌庫の呪物と同じ扱いだ。何せ宗教団体に引き取られた段階で戸籍がなく、この世に存在しない人間なのだ。

忌庫の呪物は家の財産で当主の持ち物。直哉が拾ってきたのに、総監部からの茶々を退けるために仕方なかった。


「親父が使わんなら俺が使ったる」


そう豪語する直哉に、直毘人は無言で酒を煽った。未来は知らないことが当たり前。知っている方が異常なのだ。いつか足元を掬われたら、その時は──




***




遅ればせながら女の生い立ちについて話そう。

女は普通の家庭に生まれ、普通にすくすくと育ち、悲運な事故に遭い、天涯孤独になった。ほとんど他人の親族は子供の世話などする気もなく、絵に描いたようなネグレクトの末、彼女はソレに出会った。
海蛇に似た姿で宙を泳ぐ呪霊、俗に言う蠅頭。空っぽの胃袋はもはや悲鳴も上がらない。霞む意識は死の淵を覗き、もがいた手が乱暴に海蛇を捕まえた。

──“眷属が主人を放って散歩とは悠長な。”

完全なる人違い、ならぬ人外違いな上に種族すら違う。それでも生存本能による驚異的な集中力で蠅頭は主人の眷属として意識から作り替えられてしまった。過去と未来の知識を与える毒蛇。彼女の記憶の中にしか存在しない生き物として、呪霊は人間の女の子の配下に降った。

……人間。ああ、こんなことがあるものか。小さな手が顔を覆った。

女は悪魔だった。

いやさ内面の話ではなく内容、正真正銘魂が人外だった。北欧はフィンランド生まれの純正悪魔。人間と契約することで魂を取り上げるのを本業にしていた。とはいえ長い旅路の末に日本で戸籍を取得した名誉日本人だったので、言語も文化も生活も馴染みがある。手に職があったために義兄のようにバイト地獄でひぃこら泣くこともなく、悠々自適に詐称院生をしつつ本業と副業に明け暮れていたわけで。鳥の羽音すら聞かない内に人間に生まれ変わっていたのは意味不明だった。

やはり人間の宗教は当てにならないものね。いやいやそもそも悪魔だった。などと余裕をぶっこいてられたのも今の内。悪魔は飢餓では死なないが、死なないからこそ飢餓は苦しい。極貧時代は思い出したくもない。

今まで怖くて近寄れなかった台所で消化に良さそうなものを漁り、ほどほどに胃袋を満たしてから躊躇うことなく外に飛び出す。目指すは警察、交番、お巡りさん……ではなく、「おじちゃん、取引に行ったら捕まっちゃうよ」肌に墨を入れてる怖い大人。過去と未来を眷属もどきに覗かせ、ちょうどいい裏の人間に接触した。口は悪魔の仕事道具なので。有ること無いこと存分に語って聞かせ、裏社会へのとっかかりを作った。

はじめは知人に匿ってもらう算段でいた彼女だが、どうにも知っている地名がなく、義兄のところにすら辿り着けない始末。ならばそこらの妖怪に頼ろうにもまず彼らの姿が見えなかった。人間になって見えなくなったのか、という考えは腕に巻きつく眷属もどきによって否定される。年代は最後にカレンダーを見た頃より明らかに遡っているし、時間感覚がおかしい以上の違和感があった。

人間社会に馴染めなかった妖怪は自然へ、伝手がある妖怪は人間として戸籍を持ってこの世に紛れている。戸籍を持たないが人間社会に馴染もうとする妖怪は、往々にして反社会的な方に馴染みがちだ。ついでに悪魔が餌食にしやすいのもこっち側。よってひとまず同類探しに勤しんだわけで。口八丁手八丁でいろんな組織を練り歩いた結果、詐欺集団のシンボルマークに収まったところで諦めた。

なるほど異世界。

そりゃあ知人も義兄も友人も行きつけの花屋も同類もいないわけ。祭りを探して練り歩いた時間を返せ。

ここで困ったことが二つ。一つは戸籍だ。女の戸籍は十年前の失踪によりとっくに死亡届が出されている。知人か似たような戸籍屋を見つければ簡単に買えると思っていた手前、どちらもいない現状は面倒だった。もう一つは副業について。悪魔な本業が立ち行かない時の保険で半世紀かけて蓄えた知識、薬機法的な意味で違法なお薬の製造売買で高額紙幣を得ていたのに、どうにもこちらの世界には知っている材料がお目にかかれない。妖怪妖精の住処に生えている類の薬草もキノコも虫も絶望的。

戸籍もなければ金もなく、半世紀のキャリアも役立たずとくれば流石の悪魔でも落ち込む。こんなことなら交番に駆け込んでおくべきだった。

「ガブちゃんめ」恐らく本物が聞いたら憤慨しそうなそのままの呼び名で眷属もどきを詰る。アレも古い悪魔だ。本家本元には遠く及ばないとはいえ、そこそこ強い過去視と未来視ができた。偽物にそっくりそのままコピーさせるには過ぎたる力だったのだ。しかも“自分の未来は見えない”制約は主人の方に伝播したらしい。必ず当たるが見たいものが見れるかは微妙な能力。まあ本物の方もこれくらいの薄ぼんやりな助言しかしなかったので昔と変わりない。

未来視2割、暗示3割、口車5割で予知能力者として金ヅルをやれていたのはさすが悪魔。甘言忠言お茶の子さいさい。人間の寿命など長めの休暇くらいの期間だ。いっそあのまま大事に仕舞い込まれて一生を終えても良かったのに。

半壊の建物に踏み入ってきた男に手を伸ばしたのは、退屈していたからか。

呪術師なるあまり馴染みのない人間どもの住処に来て一番の感想は『空気キレイ』だ。だってあの妖怪でも妖精でも悪魔でもない礼儀知らずの生き物が一匹もいないのだ。呪霊というらしいのは小耳に挟んだことがあったが、話は通じないわ勝手に部屋に出入りされるわでうざったく思っていた。嬉しい誤算だ。

呪術師はともかく魔術師ならいいカモとしてそこそこ世話になった。いい年して悪魔召喚とかしがちな人間はだいたい小物。騙しやすい。ここもその類かと楽に構えていれば、予想していた学者肌の老人たちとはずいぶん毛色の違う筋肉の群れ。男ばかりが目につき女は廊下の隅で縮こまっている。なるほど家父長制。こんな時代もあったね。無駄に長く生きてる分理解も早い。

早々に居住まいを正した女であったが、拾い主は想像以上に厄介な思想の持ち主らしかった。

助けてやった恩を振り翳し、誰よりも有用に予知能力を活用できる自信を持っている。逆らわないと思われている理由は前者よりは女という性別ゆえか。そもそもの扱いが対人間より対物寄りの粗雑さを感じる。戸籍がない人間は透明人間も同然。生かすも殺すも自由だと。ふむふむ、へぇ。

──女は悪魔だった。

あくまで“だった”である。魂は悪魔と変わりないかもしれないが、体は紛うことなく普通の人間。契約の元に人間の魂を徴収しようとも力になることはない。むしろそのための力がない。あるのは謎の眷属もどきと役に立たない知識のみ。人間が魔力と血を垂らした魔法陣めがけビュンビュン飛んでって契約を結ぶことはこの体ではできないし、この世界に自分の魔法陣が散らばっているのかも分からない。

目的がない。
天職がない。

本能は魂の収集に気が向くのに、体が全てを不可能にする。手の届かない場所がずっと痒い状態に似ていた。

二十にも満たない人生でコレだ。残りの余生はどう消費すれば良いか。いっそ自殺してみるのも……とは問屋が卸さないのが現状。貴重な物として大事にしまい込まれているのだから、下手に血を流すのは得策ではない。気を紛らわせるにはと考えて、一つ魔が差した。


『女の悪魔がみんな淫魔だと思うなよ』


過去の自分から盛大なブーメランを受けること。


「直哉さん、お口にご飯粒がついてますわ」
「は? 気付いたんなら取ってや」
「えー、ご自分で取れるでしょう?」
「いけずやなあ。俺は取ってほしいんやけど」
「もう。甘えたさんですねぇ」


悪魔は人間に堕落を齎すものと相場が決まっているからして。

わざと付けたであろう米粒を口に運んでから、ヌガーを煮詰めたような笑みをうっそり浮かべた。

まず始めにしたことといえば少量の毒を仕込むこと。思いつきで飛び出した身ではあるけれども、程々に使える物としての立場を確立し、最低でも食うに困らない生活を送るための苦労は惜しんではいられない。

この屋敷全体に漂う男尊女卑、選民思想、権威主義。それらに染まりきっているかに思えた男は、会話の端々からちょっとずつズレた印象が漏れ出した。女親からの愛情の欠如、奇異な視差を得たもの特有の優越感、憧れ以外を否定する頑固さ。接する機会は少ないものの、組織として動く他とは一線を画す。

周囲と馴染めない。馴染もうとも思っていない。特別であるからこそ孤高であろうとする人間なのだ。

女が混ぜた毒は、孤高を孤独に塗り替える。

当たり障りない会話の端々に些細なことに対する感謝を。徐々に態度を和らげることで“あなたは特別です”と暗に示し、作り物から本物の笑みを形作る。行き届いていない雑な所作を丁寧に直していく。“あなたに相応しくない私”を恥じ入る健気な女に見せ、男が片眉を上げたのを確認した。少しずつ毒を蓄積させ、体中に回り切ったのを見計らい、仕上げに入った。


『直哉さん、直哉さん……っ』


荒らされた部屋。乱れた着物。ボサボサの髪。張られた頬。

女の予知能力は禪院家の財産である。ゆえに直哉だけが利用するものではない。時たま訪れる禪院家の男の内、適当な男を利用し返したまでのこと。

圧倒的な力を持つ男から逃れようと足掻いた結果、手篭めにされる直前の哀れな女が出来上がった。ちょうど直哉が部屋を訪ねる時間であり、どうなったかは風通しが良くなった部屋がすべてを物語っている。襖を巻き込んで廊下で気絶している男を尻目に、涙を流して抱きつく女と茫然と抱きつかれる直哉。愛し合う男女のメロドラマが呪われた家の奥座敷で繰り広げられた。

はじめは女を使おうかと思った。次期当主に構われるポッと出の女はさぞ目にも鼻にもつくことだろう。けれどこの家の女は従順に私情を秘めて殺してしまっている。躾が行き届いているのだ。何より、同じ土俵にすら立てない存在が粗相をしたところで無感動に切って捨てるに決まっている。ならばこそ、同じ土俵に上がれる男に持ち物を傷付けられる方が効くだろうと。


『こわかった、こわかったよう』


敬語も所作も何もかも脱ぎ捨てて子供のように泣く。上等な着物に涙を擦り付け、細い肩を震わせながら硬い胸板に縋った。きっとシワになるほどに強く、爪を立てて。初対面の時ならば触れる前に叩かれて尻餅をつかされていたはず。でも、今は、背中に回った手が答えだ。

大切なものは失ってから気付く。
大切じゃないものは失いかけて大切なものになる。

人間は助けられた恩より助けた理由を深く覚えている生き物だ。“何故コレを助けたのか”。その理由を探るためになおゃの脳内では今までの記憶がぐるぐると巡っていることだろう。孤高は孤独に、孤独は恐怖に。巡って巡って、失ったもしもの未来を想像する。考えれば考えるほどに刻まれる悪循環。──正しく毒だ。


『もう離れないで』


その言葉を真に受けた直哉は、まず女の部屋を自分の部屋の隣に移した。和室に大柄のラグを敷き、大きなベッドとソファ二脚とテーブルの応接セットを置いた。着物は大変だとこぼした女にいくつかワンピースを見繕ってやった。足まですっかり隠れる長さの清楚な白。結わずに下ろした黒髪が鎖骨の上を滑った。なるほどこういう趣味。しっかりインプットしてスカートの下で足を揃えた。小柄な体に合わせるには些か幼いが、化粧を施せばそれなりに年相応に見れるもの。小首を傾げて見上げる眼差しにたくさんの親愛とほんの少しの畏れを。決して欲を混ぜてはいけない。

きっと直哉が向ける情は普通の女には向けられない物だ。人間でありながら家の財産である中途半端な女にこそ衒いのない甘えを向けられる。良家の子息にありがちな人間不信を拗らせている。ここに女の肉欲をぶつければすぐに熱から覚めてしまうだろう。だから、あくまでペットの立ち位置に滑り込んだ。

遠くの親戚より近くの他人。仮想敵の家族より近くのペットである。使い方が違う? ペット、難しいこと分からない。

向かいに座らずに同じ二人がけソファに並んでお夕飯をいただくのが最近の日課だ。腐っても良家の坊ちゃんなのか、噂の“あーん”はなかった。でも米粒を取ってもらうのも大概だと思う。

楽しいお食事を終え、お茶を飲みつつ思い出したようにソレを取り出した。


「直哉さん、昼間にコレいただいたんですけど、なんなんでしょ?」


サイケデリックなプラスチックの包装。デカデカとしたれいてんれいなんミリの表記。鋭いツリ目が余計に釣り上がった。


「どこのドブカスや」


ほうら怒った。

そうよね、“そんなん”じゃないもんねぇ。純粋な気持ちを俗なものに履き違えられたらムカつくもの。ニッコリ大満足な本心を涙で隠して、「ごめんなさい、ごめんなさいっ」と訳も分からず謝る。直哉の怒気が苛立ち程度に落ち着いた。


「誰だったかな……女の人の顔、いちいち覚えられなくて」


直哉がよく言うセリフをそのまんま返してやった。実際にはちゃぁんと顔も名前も覚えているが、コレはやり返し目的のものではないので黙っておく。同じように「しゃーないな」と黙った直哉。怯えた目でおずおず見上げると、力強く頭を撫でられた。わしゃわしゃわしゃ。


「自分、ほんまアホやなぁ」
「アホじゃないです」
「アホやアホ」
「直哉さんひどぉい」
「口答えすんなや」
「きゃあ!」


ぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜられ、満足したところで雑に撫で梳かれる。優しくしたことなんてほとんどないだろう手つきを、この世の何よりも柔らかい手のように受け入れる。そうしてうっとり目を細めた。

避妊具どころか下着も化粧も服もアクセサリーも大量に贈られてると知ったら、この男はどれほど怒り狂うだろう。

直哉に女として見られてないか。定期的なチェックを終えて、満足感のまま何も考えずにゴロゴロ喉を鳴らした。



「助かった」


数日後のお昼時。昼食の膳を下げに来た少女が小さく呟いた。


「いいよ。人を使って嫌がらせなんて姑息だもの」


ソファに行儀悪く足を乗せ、雑誌を眺めながら答える。眼鏡の反射が軽く視界の端に届いた。

禪院家次期当主のお気に入りに贈り物をする人間は3種類いる。善意と悪意と打算。この世に存在するのも同じ。つまり想定内の人間しかこの家にはいなかった。

避妊具を寄越してくる人間は善意か打算の2種類。後ろ盾もない一般人が次期当主の子を身篭ったら将来可哀想な目に遭う/目も当てられないと、贈り物としては意外と多い。逆に悪意ある人間は、子を身篭ったところで産む前に殺されるか産んで子を取り上げられるかの二択だとせせら笑っている。さっさと孕んでいなくなれと思われているのである。どちらにせよ完全に恋人か愛人だと勘違いされているのは仕方ない。だってそう匂わせてるし。

そんな中、先日珍しく悪意ある派閥から避妊具が届いた。……立場の弱そうな女の子が下品なパッケージを両手に持ってやって来たのである。


「妹さん元気?」
「オカゲサマで。変なオバサンが消えてせいせいした」
「消えたんだ? 意外と早いや」


嫌がらせと下っ端イジメを一石二鳥で済ませたつもりだったのだろうな。直哉が手を回したにしては早すぎるからきっと内輪揉めだ。こちらはキッカケを作っただけで、本当に礼を言われる筋合いはない。


「口開けて」
「あ? ──んぐっ」


どこからともなく取り出した落雁が小さな口に押し込まれる。んくんく噛み締めながら非難の目を向けられ、思いっきり肩を竦めた。


「たくさんあるから少し手伝って」
「っいらねぇ。甘ったるくて食えたもんじゃ、」
「強がりね。ついでに妹さんにも持ってってよ。本当に食べ切れないの」


かぱっと開けられた箱の中にズラリと並ぶ紅葉や栗、兎に有名な老舗の紋。適当に摘んで少女の口に押し込む。無言でもぐもぐしている以上、嫌いではないらしい。三つほど減ったあたりで茶を要求された。口の中乾くよね。


「捨てりゃ良いだろ。それか他のヤツにやれば」
「コレあなたのお父様からよ」
「お父っ、はぁ!?」
「食べ切れない量を寄越すんだもん。父親の不始末は娘がつけなきゃねぇ。……あ、うそうそ冗談。睨まないでったら」


ほらほらともう一つ差し出すと、ピッタリ張り付いた唇が兎を押し返した。機嫌を損ねたらしい。


「私に直哉さんをダメにして欲しいみたい。よっぽど嫌いなのね」


ちなみに善意悪意打算の3種類は彼女に対しての所感で、なおゃに対しては打算と悪意しかない。本当に嫌われている。

溢れる賄賂の存在を直哉に気付かれるわけにはいかないが、一切手をつけずに捨てるのも敵対行為と取られかねない。ちょいちょい消費して程々に従順なフリをしなければならないのだ。

半開きになった口に再び落雁を押し込む作業に戻る。父親の下心が無碍にされてると分かった瞬間から食欲の容赦がなくなったのが面白かった。ついでにお茶を淹れ直して差し出せばごくごく飲み干す。猫舌ではないらしい。


「そこまで苦労してクズの嫁になりたいのかよ」


妹への土産を懐に忍ばせながら、呆れまじりに吐き捨てられた。

……嫁? 奥さん、wife、vaimo? 意味を理解した途端、迫り上がってきたモノを必死に抑える努力をした。

まあ、無理だったが。


「真希さんって、ふふ、年相応にお嬢ちゃんね」
「あ"ん?」
「男と女のゴールが結婚しかないみたいな言い草じゃんっ、おもしろーい」


クツクツからケタケタに変わっていく声。長いスカートの裾を蹴り上げ、よく梳かれた黒髪をラグに寝そべらせ、ついには抑え切れないと腹を抱えて笑い出した。ケタケタケタ……ゲラゲラキャハッキャハッ!

悪魔の哄笑が部屋中に溢れ、けれど不思議と、少女を挟んだ廊下の向こうには響かなかった。ゆえに予知女の異様な醜態を知るのは真希だけ。真希だけが、女の正しい姿の輪郭を正しく捉えた。──とんでもないバケモノが家にいる、と。


「アハッ、はーーお行儀悪い。将来御当主様になりたいって御方の前だったね。ちゃぁんと礼を尽くさなきゃ」
「っ、ぁ、」


“どうしてそれを”。デカデカと書かれた顔は紙のように白い。そりゃ見やすいわけだ。

しらばっくれればいいものを。図星を突かれて固まるなんて、本当にかわいいお嬢ちゃんね。飴玉を転がすように言葉を探し、直哉に見せるのと同じ表情を浮かべた。


「私ね、本当に直哉さんのこと愛してるんです」


ツヤツヤのネイルに彩られた指がテラテラぬめる唇の上を這う。直哉の趣味じゃない濃い色も、彼女だから許される。許されるように立ち回って、高く聳え立つ石壁をスプーンで掘る作業をずっとして来た。今では落雁くらいの感覚でスプーンが入る。それなりに骨が折れる作業だった。


「愛する人の隣にいられるなら、奥さんになれなくてもいいんです」


上っ面の薄ら寒いセリフは見事少女の柔肌を鳥肌に作り変えた。


「直哉さんさえいれば。──って言えば満足?」


指についたグロスを相手の頬に塗りたくる。軽く伸ばして叩けば淡いチークに様変わり。青白い顔が片方だけ血色良くなった。無論すぐに叩き落とされたが。


「お嬢ちゃんが思うより人間はもう少し複雑なのさ」


それっきり、何事もなくソファに戻った女。来た時と同じくソファに足を乗っけて雑誌を眺めている。凍っていた時が戻った少女は、手にぶつかってカチャカチャ揺れた膳で当初の目的を思い出した。あの女が見ていない隙に、と。立ち上がったところで、「そうそう、」雑誌に夢中だった女が再び口を開く。


「家出するなら来月末がいい。そのつもりでしょうが」


来月末。一月以上も先のことを初めて口にした。いや、そもそも未来の出来事を紙に書いて占うのが女の術式で、その内容は女が預かり知らないものだと聞いたのに。

立ち去る足を止めて振り返ってしまったのが運の尽き。…………いや、運がついたと言うべきか。


「それとね、────」



思い出すのは二年後。
言葉の真意が分かるのも、もう少し先の未来だ。

まあ、それはそれとして。


「ガブちゃんめ」


羽だけ残して手首に隠れる眷属もどきを睨む。頑張って笑いを抑えようとしたのに、妙なタイミングで未来を受信したのせいで喉がガラガラになるまで笑ってしまった。……なぁんて、誰も知らない事実である。

手首を軽く小突いてから、頭の中でいくつかの連絡先を思い浮かべた。

ずいぶん短い家出だった。



「どこもかしこもやらかいなあ」
「直哉さんったらくすぐったぁい」


直哉は女の手を気に入っている。白くてスベスベでモチモチで節が目立たない。スラッとした指に触れるのも触れられるのも好きだ。

「そこらの女とぜんぜん違う」当たり前だ。“そこらの女”は皆広い屋敷の炊事洗濯掃除で頻繁に水仕事をしている。乾燥やあかぎれだらけの手と、何もせずハンドクリームを塗り込んだ女の手では比べるまでもない。直哉にしてみれば、呪霊と戦いもしない手が水ごときで荒れるなど想像もつかないのだろう。

無知だ。
でも、愚かだとは思わない。

自分が知っていることを相手が知らないという事実は、自分が知らないことを相手が知っている裏返し。女たちが家事を学んでいる間、直哉は強さを求めた。ただ強くなるために走って、たまに弱い者イジメでストレス発散して、また走って。そうやって生きてきた。

真に愚かだと思うのはこの状況だ。

睦言もかくやな声音で女の肩を抱く男。ソファの上でぴっとり鋼の身を寄せ、余った方の手は一向に女の手を離さない。時たま黒髪に頬を寄せては堪らないと言わんばかりに息を吐く。口ではどうとでも悪態をつけるくせに、誰がどう見ても恋人に甘える男でしかない。これで男女の仲を疑われれば不機嫌になるのだ。本人からすれば『毛布に欲情するのか?』という話らしい。

“禪院家に非ずんば呪術師に非ず。”
“呪術師に非ずんば人に非ず。”

禪院家じゃないから。
呪術師じゃないから。
人間じゃないから。
物だから。

否定しない、悪意を向けない、物だから。

物相手にしか衒うことなく甘えられないなんて。──なんて、愚かなのだろう。

人間は理性と本能の混ざり物。妖怪や妖精や悪魔の理性は外付けハードウェア。本能を前にすれば簡単に捨て去れるファッションなわけで。彼らの愛は人間よりも実にシンプルだ。

欲しいものは欲しいし、いらないものは興味がない。

悪魔が欲しがるのは人間の魂。中身の選り好みは完全に個人の趣味であり、質より量が基本である。なにせ個人事業主の営業職。契約を取り付けるところから後払いの対価を徴収するまでが一連の仕事。頭が足りない人間ならば不平等な契約を結ぶし、それなりに賢ければ粛々とそれなりの働きをする。

大金持ちになりたい。
恋人が欲しい。
親の仇を殺したい。
幻の景色を見たい。
不治の病を治したい。
死んだ我が子を生き返らせて。

全て全て、本当に叶えたし叶えたフリをして騙した。効率の面から考えれば愚かな人間を騙す方が遥かにお手軽で簡単なのだ。

だから、悪魔は愚かな人間が大好きだ。

それがどうトチ狂ったのか、女の中で奇妙な化学反応が起こった。


「直哉さんの手は強い人の手ですね」
「なんやそれ」
「だって直哉さんの手ですもん」
「答えになっとらんやん。アホか」


と言いつつニマニマしてるのを空気で感じた。

はぁーーーー可愛い。
愚かな人間かわいい。
略しておろかわ。

特別なものは初めから特別ではない。
ありふれたものがいつの間にか特別になっているのが世の常だ。

この世界に七十億もいるありふれた人間のありふれた男が、女の中で特別になっていた。

だって苦労した。めちゃくちゃ苦労した。この人間としてどうしようもないお坊ちゃんの内側に入り込むだけで、たった半年でかなり気疲れしたのだ。これに予知能力しか興味がない男どもの興味を惹きつけるのと、私情押し殺しがデフォルトの女たちの私情を引き摺り出すのも加わる。余所者の術師未満の女が禪院家の枠に居着くにはこれが手っ取り早かった。

疲れた。人間だの悪魔だのとか関係なく。いや、むしろ悪魔は結構短期決戦型が多い。長期間粘着するのなんてかの有名なメフィストフェレスくらいだ。物語の悪魔と混同されても困る。最長でも2ヶ月くらいで仕事を終えるハイパーデキる悪魔だった女にとって、こんなにも手の込んだ仕事は初めてだった。ああ、そもそも仕事ではなかったか。

いくら退屈していたとはいえ、趣味でもないのにボトルシップや点描画に手を出したようなものだ。伊達や酔狂に時間をかける性分では決してなかったはず。

手をかけた分だけ可愛いとはありふれた感情で、それは女にも当てはまってしまった。

その可愛いにルビを振るとしたら“愚か”の一択だけれども。


『私ね、本当に直哉さんのこと愛してるんです』


少なからず嘘は言っていなかったわけだ。

肩に回っている腕を枕にする、などと出会った頃には考えられない図々しさを発揮しながら、白い顔は喜色満面に綻んだ。


「なにがおかしいん? ヘラヘラしとったら余計に頭緩そうやな」
「ふふ、だって、うふふ」


後頭部をスリ……と発達した上腕に擦り付ける。未だ握ったままの手はすっぽりと女の手を包んでいる。なんならほとんど抱き込むように隣に陣取る体の、鍛えに鍛えた直哉の筋肉が服越しに感じられる。

こんなになるまで体を虐めて、周囲から当たり前だと一蹴されて。誰にも褒められずに大きくなった。


「とっても頑張ったんですねぇ」


甘えることを知らなかった。八つ当たりや当て擦りでしか他人に甘えられなかった男が、強くなることだけを支えに頑張ったのだろう。

もう自分の寂しさなんて麻痺して忘れてしまっているのだとしても。頑張った子には『頑張ったね』と言ってやりたかった。


「偉いねぇ」


それは失言だったけれど。

プライドの高い男が持ち物如きに上から目線で褒められても愚弄されているとしか思えないだろう。だからこそ今まで『頑張った』とか『偉い』とかいう褒め言葉は避けてきたのに、可愛さに目が眩んだ女は誤った。まあ、二度くらい頬を張られても仕方ないな、と目を瞑ったのだ。


「んぅ────?」


降ってきたのは唇で、手の平は肩を押した。

恐ろしいほど至近距離にあった顔が離れる。それと同時に、二人がけとはいえ横になるには少々手狭なソファに体を押さえつけられた。いや、抵抗できなかったからふんわり横になったけれども。照明を背に見下ろす直哉の顔は逆光になっていた。それでも薄らとうかがえた肌はピンクに色付いていたし、半開きの口や全開きの目が最大限に困惑していた。

まるで、『毛布に欲情してしもた』とでも言うように。

どうやら失言では済まない失態をしたらしい。半年の努力がどこまで無駄になったか分からないまま、伸びてきた手を受け入れるしかなかった。


そんなわけでペットから何か別の物に昇格(降格?)した女であった。生活は今までと変わらず、上げ膳据え膳で時たまやってくる男たちの未来を見たり適当ぶっこいたり。暇な時は雑誌を読んで、出て行った少女の代わりに当てがわれた妹に父親からの賄賂を横流し。何も変わらない生活だ。

変わったのは直哉があまり部屋に寄り付かなくなったこと。よっぽどショックだったのね、という憐れみと、一度寝たくらいで繊細だな、という呆れと、全てを上回る感情。


「おろかわ……」


性欲が湧いただけで恋に結びつけるものかしら。彼氏面くらいしそうだと思っていたのに、まさかの初恋面で距離を置いている。しかも本人が一番よく分かっていなさそうなのが余計に面白かった。隣の部屋に住んでいるのに自室に戻りづらそうにしている。堪らず襖越しに『お部屋変えてもらいます?』と聞いたら即答の『あかん』。ビックリするくらい冷たい声で、執着を恋心と勘違いしてるのが分かりやすい。愚か……おろかわ……。

ある時はチラチラとこちらを気にし、ある時は以前のようにベタベタと距離を詰め、ある時は確かめるように体を重ね、ある時は忘れたように無視され、ある時は今まで求められてこなかった自主性を強要された。具体的に言うと『なんで俺が会いに行く側なん?』『俺ばっかりやん』遠距離恋愛の彼女か。実際には壁一枚隔てた隣の部屋なのにね。5秒で突撃できる距離なので、クッション抱えて『こんばんは』したら『急に来んなや』と締め出された。やはり遠距離恋愛の彼女。お部屋に見られたくない物でもあったのかしら。実際は照れ隠しか動揺あたりだろうな、とすごすご帰れば『帰んなや』と突撃される。面倒臭すぎていっそ楽しくなってきた。

直哉にとって女はどんな存在なのだろう。

実際がどうあれ現実で至った答えが真実になるのが世の常。愛着か初恋か、どんなところに不時着するのか『おろかわ』と鳴きながら見守っていた女は、まさか一切合切定まらないままずるずると時が過ぎるとは思わなかった。

直哉の部屋の直哉のベッドで直哉の腕に抱かれて直哉の金髪を梳く。体力のない女が体が資本の呪術師を疲れさせるような相手はできず、直哉の意識はハッキリしている。うとうとしているのは女の方で、撫で梳いている手が時々狂って耳を引っ掻いてしまう。それに謝る女でも怒る直哉でもない。

短い家出のはずだった。頭の中には知り合いの連絡先が5つはあったし、内一つは勝手に飛び出した似非宗教団体のトップである。潮時が目に見えた段階でサッサと帰る予定だったのに、直哉が予想外の優柔不断を発揮したせいで長く居座ってしまった。

その間ゆうに二年。二年も飽きずに直哉を観察した。我ながら気が長いこと、で……、………………?

いや、二年ってかなり短いのでは?

はたと目を瞬かせる女。撫でていた手が止まり、何事かと直哉が顔を向ける。不機嫌な猫のように睨んで来る男に何も返せず、女は──悪魔“だった”人間は、唐突に脳幹を撃ち抜かれた。

一世紀同じ土地にいても飽きなかった。
半世紀同じ分野を学んでも飽きなかった。
四半世紀でやっと馴染んできたなと実感できる程度には時間の流れが緩やかな存在だった、前世。

今は五年ばかりいた組織に退屈してたまたま近寄ってきた男の手を取り、たった半年ぽっちの苦労をしみじみと慰め、二年の曖昧な期間をヤキモキした。そんなの、そんなのって、


──────まるで人間みたい、と。


思い至り、気付き、答え合わせが合っていることを五度ほど確認して、大きなため息と共に逞しい胸板に擦り寄った。


「おろか……」


「なんて?」聞き返した直哉に、珍しく返事が出てこなくて無視をした。

愚かだ。何故気付かなかったのだろう。

いくら魂が悪魔だとしても、動かす体も思考する脳も純人間。知識がいくらあったって、感情は人間のものに違いなく。人間的思考が合理的な悪魔に非効率的な時間の使い方を強要した。二年前、直哉のことなんかほっぽって本気で出奔する気だったのに。

もう少しだけ見ていたいなぁ、なんて。欲が出た段階で気付くべきだったのだ。


「ねぇ、直哉さん」


この男を“連れていきたい”と、確かに執着していたのだと。



「直哉さんは本当に当主様になりたいの?」



悪魔は人間に堕落した。




***





キショい。

ここ最近ずっと同じ罵倒を繰り返している。

予知能力だけが取り柄の凡庸な女だ。禪院家の財産で、この家では人間ですらない。見てくれも目が醒めるような美人でもなければ男の欲を誘うような豊満さもない。長い黒髪で、白い肌で、手足も胸も尻も何もかも控えめな女でしかない。そりゃあツヤツヤの髪は見ていて気分の良いものであったし、肌はいつまでだって触っていられる弾力があった。直哉の膝に乗せればすっぽり隠してしまえる体格も持ち運びに便利だと思ったし、抱き心地も危惧してたよりはじょう、ぶ、で……。

……キッショ。

こんなことを考えるようになったキッカケはアレだ。あの女の言葉だ。

『頑張ったんですね』『偉いね』

ドシンプルなたった二言で直哉の頭の中はぐしゃぐしゃに壊されてしまった。

直哉は生まれた瞬間から偉かった。相伝秘術を受け継いで、父は呪術界御三家の一角禪院家の当主で、自身もいずれそうなる人間だ。だから偉い。当たり前の事実だ。

研鑽や努力は褒められるためにするのではない。本人にしか分からない苦心を人の杓子定規で測られて堪るかという話だ。誰が直哉の考えを想像しろと言った。勝手に妄想して分かった気になるなど不快だ。気色悪いにも程がある。

不快だから口を塞いだ。気色悪いから母音しか喋れなくしてやったのだ。

『強い人の手ですね』

決してあの女に特別な何かを感じたわけではなく、ただ耳触りの良い言葉を囀らせるためだけに置いただけ。任務続きで溜まってた。アレでも女ではあるからたまたま誤作動を起こした。そうに違いない。

『だって直哉さんの手ですもん』

出ていけ。

『とっても頑張ったんですねぇ』

出ていけ。


『偉いねぇ』


出ていけ出ていけ出ていけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ──「出てけ」


「はい? わかりました」


ハッとした。直哉が呼びつけた女が部屋の前でつむじを見せつけている。そのまま部屋に帰ろうとするのを目で追って、


「帰んなや」


出てけ言うたの俺やろ自分で言ったこと秒で忘れんなや鳥頭か。

自己肯定感高く生きてきた直哉が自分を詰るという貴重な経験をした瞬間である。引き止めるために肩に置いた手が、簡単に砕けそうな感触に引っ込みかける。前まで普通に触れてたくせに今さら、と意地でも触れ続けた。柔い。脆い。知ってる。噛んだ時についた赤色まで覚えている。同じ赤でも知らない男が張った頬と比べれば淡くて、当たり前に綺麗だと思った。

女という生き物を初めて綺麗だと思った。

──キッショ。

小柄な体躯を自室に引っ張り込みベッドに押し倒す。女が抱えてきたクッションごと抱き込めば、簡単に世界から隠してしまえた。

間のクッションが邪魔だ。女の体温をじかに感じられない。直哉と女では貝合わせのようにピッタリと嵌らない。個と個でくっつき合って、極限まで隙間をなくしていくような抱擁がしたかった。乱暴にクッションを引き抜いてしまうと控えめな膨らみが胸筋を押し返す。こちらからも潰す勢いでくっつけば、高いスプリングが非難がましい高音を上げた。

ぬくい。柔い。脆い。落ち着く。高まる。嬉しい。好、す、すっ……キッショ! キショいにも程があるやろ!


「直哉さん」
「あ"?」
「少し痛い」
「早よ言えや」


なんで俺が気ぃ使わなあかんの。

不満より先に口と体が動いた。腹立たしい。自分の体なのに自分じゃないみたいだ。頭の中だっていつ自分じゃなくなるか分かったものではない。まさか予知能力の延長線上で思考まで覗いているのでは、などと馬鹿げた考えまで湧いてくる。アホらし。


「これなら痛くない」


上体を起こして座った直哉。その膝に勝手に乗り上げて首に抱きついてきた女。反射で背中に手を回せば求めていた感触が腕の中に戻ってきた。我知らず喉が鳴り、背を丸めて相手の肩に額を擦り付ける。あああキショい! キショいキショいキショいキショい!


「お疲れさまでした。今日も一日頑張れて偉いですね」



女にうつつを抜かす自分、めっっちゃキショい。




『直哉さんは本当に当主様になりたいんですか?』


自分で自分にサブイボを立てていたからか(かの有名な恋は盲目というヤツか)、女の不遜を何度となく流してきた。


『直哉さんには小さ過ぎません?もっと大きなところに出ないと』


何度も。


『ここの方々は直哉さんの強さは認めているけれど……』


何度も。


『あまりに不遜じゃない? 当主様になってからもきっと事あるごとに口答えしてきます。それをいちいち説得しなければいけないんですよ』


何度も。


『弱い人間にかかずらって直哉さんの時間を削るなんて、私イヤよ』


何度も、


『直哉さんの強さしか認めてくれない家なんて、イヤ』


────許してやったのに。



「騙しよったなクソアマ



青筋を立てて女の部屋に押し入った直哉。ソファで寛いでいると思っていた女が、肩掛け鞄に金目の物を詰めているのを見て反射的に拳を振り上げた。

女の占いは絶対だ。直哉の占いは朝の情報番組並みに日常的だったし、扇を始めとした慎重派も重宝していたほど。武闘派の甚壱や、何を考えているのか分からない直毘人は女には近寄らなかった。直毘人がやったことなど、総監部のお偉方を黙らせるために月に一度顔合わせの場を作ったくらいだ。重用はしないが、禪院家の中では確固たる信頼性が担保された術式だった。

それが何故、当主の死を当てなかった。

何故、当主の息子である禪院直哉ではなく伏黒恵が次期当主にしゃしゃり出ることを言わなかった。

何故、何故、何故、何故! 疑問と焦燥を繰り返しながら飛んできた直哉の心境は、今や怒りで真っ赤に染め上げられていた。

騙された。そうじゃなかったら、どうして女は逃げる準備をしているのだ。

知っていたんだ。直哉が当主になれないことを。知っていたから用済みとばかりに捨てて逃げようとしている。あれだけ良くしてやったのに、偉くなくなった直哉はもう要らないと。

──この阿婆擦れが。

拳一つで小さな体は簡単に吹っ飛んだ。鞄から宝石がパラパラと落ち、その上に赤色が降りかかる。長い黒髪の奥、白い顔の左半分が赤黒く変色し、鼻から血が垂れている。

たったそれだけの傷に、背中に氷を流し込まれたような衝撃が走った。取り返しのつかないことをしてしまった。そんな後悔が押し寄せてくる。女に騙された屈辱はこんなものでは晴らせないというのに。まだ髪に隠れたままの瞳を見たくないと思った。そこにどんな色が浮かんでいるのか想像に難くなかったから。きっと涙混じりの怯えを直哉に向けるのだろう。直哉を見つめる目から消えることのない純然たる恐怖が、永遠に。

喉が干上がる。汗が滲む。体の外側ばかりが冷たくて、内側はこれから浴びるだろう視線に耐えるため、止めどなく不快な熱が膨れ上がっている。一歩一歩とゆっくり踏み出し、ラグの上に座り込む女の前までたどり着く。わなわなと震えながら膝をついた直哉。女は目を前髪の奥に隠したまま、嫌にハッキリと尋ねた。


「直哉さんは、本当に当主様になりたいの?」


聞き覚えのある質問だった。

珍しく直哉は答えに窮した。アホかと一蹴することもできず、ついには「どうして?」と再度促され、ようやく辿々しい答えを出した。


「うちで一番強い男が当主になる。当主になれんっちゅうことは俺がソイツより弱いことになる。そんなん許せるわけないやろ」


初めて声に出して、ストンと腑に落ちた。

古き歴史と連綿たる血によって現代まで栄えた禪院家の当主になる。歴史に名を残す栄誉を結局その程度にしか思っていない。直哉にとって禪院家は所詮そこらの雑魚よりはマシな弱者の群れで、強者たる自分が上に立って当たり前の集団で。

そこに思い入れはなかった。


「ここ、小さすぎません?」


膝の上。握り込んでいた拳に小さな手が重なる。ハッとして顔を上げた先、同じく顔を上げた女と目があった。──笑っている。

顔の半分を腫らして、表情を変えるのさえ苦労しそうな頬を緩ませて、女が笑っている。


「もっと直哉さんに相応しい場所があるはずです。どこか別の、最高の場所が」
「なん、」


の話やねん、と。

続くはずだった唇が中途半端に止まる。急に膝立ちになった女が直哉に顔を寄せたから。途端に立ち込める血の臭い。唇の表皮にかかる吐息が熱く、同じくらい瞳の感情も熱っぽかった。危惧していた怯えはどこにもない。「ぁ」と母音を溢した直後、口いっぱいに広がった鉄の味。

女からキスされたのは初めてのことだった。

大して上手くもない舌の擦り付け合い。鼻血混じりの最低な味に、それでも直哉は夢中になった。

決して番わないと思っていた貝同士がようやくピッタリ合わさったような。今まで気付かずにいた大きな穴に似合いの鍵がやっと見つかったような。


「好きよ、んっ、好き、ふふ、好き、っ、愛してる」


どろどろと耳の穴に注がれる甘露に夢中だった。

ピッタリ合わさったのは片方をヤスリで削ったからだし、大きな穴は人為的にこっそり開けられたものだと気付かず。己の価値観も矜持も目的もズタズタに引き裂かれ、唯一綺麗な形のまま残ったのは愛される喜び。強烈な多幸感に支配された頭が麻薬中毒者のように甘露を求め続けた。


「直哉」


呼び捨てられたところで、今さら。


「ずっと一緒よ」
「……ほんまに?」
「ほんまほんま」


小首を傾げ、甘ったるい眼差しが直哉に注がれる。欲しかったものを簡単に差し出され、どこもかしこもぐじゅぐじゅになった。

不安だったのだ。こんなにこんなに離れ難いのに、好きなのに! アッサリと置いてかれる自分が堪らなく惨めで、悲しくて、悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて。どうしようもなくて、そんで、そんで?


「そばにいてくれるん?」
「もちろん。一緒に行きましょう」


女の笑みが深まる。腫れ始めた頬が引き立って、ああ、可哀想に。

女の手が伸びる。直哉が手を伸ばす。重なって、絡めて、食い込んで、────永遠に離れない。



「私をここから連れ出して」




伏黒恵暗殺のために渋谷へ向かったはずの禪院直哉。
煙のように忽然と姿を消した予知女。


同時期に失踪した二人が禪院家に戻ることは二度となかった。





Twitterの診断メーカーの『私をここから連れ出して』というお題で書いた話が無茶苦茶長くなりました。個人的に十代の多感な自分が考えてたオリ主設定が出せてとても楽しかったです。ただ推しの直哉をぐちゃぐちゃにキャラ崩壊させてしまい、背徳感が後を引く話でもあります…いつも以上に読みやすさ度外視でしたが、楽しんでいただけてたら幸いです。

以下本誌152話までネタバレのオマケと読まなくていい設定です。







はじめは寂しい女だと思った。

禪院家の奥まった座敷で申し訳程度の調度品と一緒に仕舞われた女。自分たちよりは幾分上等な仕立ての、それでも地味な着物を着せられて、未来を知りたい誰かが訪ねてくるまで待っている。小さな体は少女と変わらず、手足の細さは一般人よりも非力で。たまに茶を持っていくとほんのり薄く腫れた頬が目についた。女の所有権は家にあるが、拾い主である直哉はしょっちゅうこの部屋を訪れる。機嫌を損ねれば手をあげるような男なのだ。それでも所有物としての役目は放棄できず、鍵も結界もないこの部屋から一歩も外に出ない。まるで人形だと、そう憐んでいたのだ。


『家出するなら来月末がいい。そのつもりでしょうが』


本性を現した、あの時までは。


『それとね、────もう戻ってこなくていいよ。ここにはなんにもないから』


そうだな。その通りだ。忌庫にはなんにもなかったし、大切なものはもういない。あの女の言う通り。忘れていた自分は、正しく無駄足だったのだろう。

それでも。戻ってこなければ真依は扇に殺されていた。呪霊に食い殺されて遺体すら残らない。真希は真依の死に目に会えなかった。

同じ最悪なら、最期に話せた今を取る。

それを知っていたくせに、あの女は……。

倒壊した家屋。転がった首無しの死体。血飛沫で汚れた炊事場。手のひらに蕩ける呪具を携え、歩けど歩けど人の気配がない敷地内を歩き尽くした。


『全部壊して』


壊す。壊すよ。


『全部だからね、お姉ちゃん』


ちゃんと壊すから。

“炳”6名、“躯倶留隊”21名。壊して壊して壊し尽くして。それでも“炳”筆頭、禪院直哉を見つけ出すことはできなかった。あの女と一緒に駆け落ちしたと唾を吐いた扇は本当のことを言っていたのか。未来を見て、真希が来ることを予知して、巧妙に逃げ回っている。こうなってしまえば直哉を見つけることは絶望的だ。

脳裏に浮かぶのは禪院家を出奔する少し前。小さな体を丸めてラグの上に横臥する女の姿。悪魔のような哄笑がまだ鼓膜の奥に引っ掻き傷を残している。悪魔。ああ、そうだ。あの女は悪魔だった。未来を知っているから、同じ人間を人間とも思わない。最低最悪な悪魔の女だった。


『私ね、本当に直哉さんのこと愛しているんです』


そんな悪魔でも、人らしい感情はあったらしい。


『なんで一緒に落ちぶれてくれなかったの?』


真依と同じように、一緒に落ちてくれる誰かを探していた。それがたまたま禪院直哉だっただけで。もはや何も持っていない真希と入れ替わりに、あの女は唯一の男を手に入れたのだ。

──ひとりは寂しいもんな。



「悪魔に連れてかれちゃ、仕方ないってか」



ぽつりとこぼした諦めを最後に、真希の破壊は幕を下ろした。






読まなくていい設定。





「義兄さん、ストーカーとかいる?」
「はぁ? そんなモテ男に見えるか?」
「やっぱり? この部屋金はないし内職のダンボールだらけだし。見てる方が気が滅入るわ」
「オイ」
「そうよねー、こんなとこ盗撮する物好きいないもんねぇ」
「勝手に上がり込んでビール飲んでる女が何言ってんだ」
「うーん、義兄さんのとっておきのビールそこそこうまーい。ガブちゃんも飲む?もう一本あるよ」
「ふざけんな! 弁償しろ弁償!」
「ほい」
「ゆ、諭吉……!」


喉から手が出るほど欲しい一万円札と義理でも兄のプライドでプルプル震える義兄。ちゃっかりプルタブを開けてチロチロとビールを飲む眷属。



「ずいぶんしっかり覗かれたなあ」



狂ってなきゃいいけど。

深淵の向こうは覗かないに限る。奇跡の中の大災厄。まさか異世界の欠食児童とチャンネルが合い、覗き込んだ女の子の精神をまるっと塗り潰したなんて露とも知らず。悪魔はぬるくなってきたビールを飲み干した。



・女
体も魂も人間。本当の本当に人間。禪院家に来た時は未成年で原作時は成人してる。
餓死寸前の土壇場で深淵を覗いたことで異世界の悪魔の中身※世紀分を読み取り、あまりの負荷に狂った末に自分の前世が悪魔だったと勘違いした。悪魔の記憶や性格をトレースしているものの、年を経るごとに性格は自分のものとブレンド気味。生得術式が乙骨くんのとはちょっと違うコピー能力だった。自分に悪魔の情報を降ろし、たまたま近くにいた蠅頭に眷属情報を降ろしている途中で術式が焼き切れた。以降は呪力有り呪霊持ちのただの女になる。
人間的な思考を悪魔的に翻訳しがち。恋心もそう。


・眷属もどき
一般通過蠅頭。羽のある蛇。目がうつろ。


・悪魔
知人は薬屋。義兄はフィンランドの悪魔。行きつけの花屋の店主は中国の妖怪。戸籍取得の際に薬屋に師事してタダ働きしてた。現在院生。女との共通点は身長と嫌いなもの(空腹/飢餓)。それだけでチャンネルが合うとか普通思わない。異世界の人間が自分のつもりで生きてるなんてもちろん知らない。
私が十代の時に設定盛ってたオリ主ちゃんです。


・眷属
未来と過去を見る言葉を喋る蛇。目が爛々。人型になるとツノが生える。現在の偽名は“ガブリエルソン”。「天使の息子ですってね。アウトローでしょう?(厨二病)」


・直哉
地位も名誉も失ったけど幸せ。幸せじゃなくなっても女が責任持って幸せにしてくれるので幸せ。
お幸せに。




書き終わってから気付いたんですが、厳密には転生ものじゃないのに転生表記しちゃってますね。女本人はそう思い込んでいるからってことでご容赦いただければ……とてもとても助かります……。

最後までお付き合いありがとうございました!



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