人の内



生まれて初めて彼氏というものができた。


『待たせたかな?』
『ぜんぜん!』
『あ、今のすごくデートっぽいね』
『……デートですよ、私にとっては』
『ははは、ごめん。もちろん私にとってもそうだよ』


子供っぽく膨らませた頬を突かれて、すぐに空気が抜けていく。好きな人に触れられたところが熱い。赤くなった頬を誤魔化そうとして『暑いですね』なんて言ってみたけど、相手にはバレバレだった。爽やかで優しいのに、どことなく狐みたいなニンマリとした笑みを浮かべていたから。


『じゃあ人肌なんて熱くて仕方ないだろうね』


意地悪だと思った。

私はもっと真っ赤になって、ぎこちなく手を伸ばす。待ってましたと言わんばかりに大きな手が重なって、すっぽりと私の手を覆い隠してしまった。


『今日はどこに行こうか』
『じゃあ、この前行けなかったところ』
『ああ、私がすっぽかした映画か。ごめんね』
『ぁ、いえ、あの、そんなつもりじゃ!』
『いいんだよ。さ、埋め合わせにポテトでも奢るよ』


子供っぽい。拗ねて可愛くないことを言う私に、彼は優しかった。ちゃんと彼女として扱ってくれて、忙しい中時間を作って大切にしてくれていた。

中学生と高校生……じゃなくって、高専生って言うんだっけ。高校じゃない学校で就職に必要な技能を学んでいる、らしい。詳しいことはよく分からない。

三つも年上だと男子っていうより男の人って感じがする。日焼け止めくらいしか塗らない私と並ぶと、彼氏というよりお兄ちゃんの方が近いかもしれない。手を繋いでいても、映画館で別の料金を払う時に嫌でも差を実感してしまう。


『そういえば、高専を卒業したらどんなお仕事をするんですか?』


上映までの待ち時間。繋いだままの手は、たまにイタズラされて、ビックリして、でも上からニッコリ見られるとまた赤くなって。前から気になっていたことを照れ隠しで聞いてみた。


『うーん。実はまだ決まってないんだ。卒業までまだ時間があるし』
『五年制なんでしたっけ』
『そう。あと二年もある』


『今度は高校生になった君と制服デートできるね』なんて。大人っぽい彼が茶目っ気たっぷりに言うから、私は前よりも相手のことが分かった気になって、舞い上がった。

高校生になったら今より大人っぽくなる。彼に少しでも近付ける。そうしたら、手を繋ぐより先のことをしてくれるんじゃないかなって。

赤いリップを買った。


『げと…さ、っ、』


別の赤色で塗り潰された。

何が起こったのか分からない。分からない。分からないよ。どうして何もないところから音がするの。どうして何もないのに右足が消えたの。どうして噛みちぎられてるみたいに体が痛いの。

どうして、夏油さんが────。


『気安く呼ぶな、猿』









最悪な夢を見る。

私は呪霊も呪力も知らない。初詣かテスト前くらいにしか神様を信じない普通の中学三年生で、夏油さんは呪術高専の三年生。ひょんなことから知り合って、気持ちを伝え合って、普通のカップルになって。──最後は、非術師を殺して回る犯罪者になった夏油さんに殺される。

最悪な夢だ。本当に。まるで私が夏油さんをそんな人間だと思っているみたい。

一度人を殺したら際限なく殺して回るような恐ろしい人だと、心のどこかで恐れている。もしも私が非術師の何も知らない子供だったら、真っ先に殺されるんだと。夢の中で疑っているみたい。

私が神様とお別れしたくなかったのは、自己中心的な保身だったのかもしれない。呪力はともかく、術式は神様のものだと勝手に思っていたから。術式なしの私は夏油さんの言うところの猿なんだわ、なんて。神様が吸い取っていた不安からそれが垣間見えた。

やっぱり、自分のことばかり考えている。


「ただいま帰りました」


十年ぶりに見た祠は、何度かの台風と地震で屋根が崩れ落ち、板張りの壁も床も苔と腐食で大変なことになっていた。石畳の地面と階段も隙間から雑草が伸び放題。歩きにくくて仕方ない。誰も手入れしていなかったら、こんなに自然に還ってしまう。亡き祖母を思い出しながら地面に膝をつく。手を合わせる時に肘が膨らんだお腹につっかえて大変だった。


「神様……」


菊はどこにもいない。

見えないし、感じない。花びらも花粉も香りも落ちてこない。もしかしたら、という淡い期待は当たり前に壊された。

一週間前、神様は夏油さんに取り込まれてしまった。

黒い玉に姿を変えて大好きな人の手の中に収まった神様。私が取り縋っても何をしても夏油さんは手放さなかった。決死の覚悟で一緒に落ちたのに、簡単に抱き込まれてエイとは別の呪霊を出して地面にぶつかるより先に背で受け止められた。私たちはさっきと何も変わらず、むしろずっと深く唇を貪っていた。

人生で一番長いキスだった。その後で神様が飲み込まれるのを知っていたら、もっともっと長くキスをしていたのに。

唇が離れた瞬間に目の前で消えていった黒い玉。酷い喪失感が全身に襲いかかった。自分の体を半分削られたような気持ちになって、ふらりと傾いた体は逞しい胸板に支えられる。もう出し切ったはずの涙がぽとぽと黒いシミを作った。夏油さんの手は優しく私を慰めてくれる。頭を撫でて、髪を梳いて、背中をさすって、そのまま抱きしめてくれる。

好き。大好き。嬉しい。幸せ。大好き。ずっとこうしていたい。

有り余るほどの慕情より先に飛び出していった──衝動。



『大っ嫌い』




それからずっと、夏油さんとは会っていない。

任務で外に出ることはないとはいえ、内勤の仕事や授業はある。その忙しい時間を縫って、私は生家まで帰ってきた。家はとっくの昔に解体されて更地になっている。じゃあ祠は、と足を向ければご覧の有り様だった。とても神様が住めるような場所じゃない。

もう、見ることはできない。

重く深く実感する。本当はこれが当たり前なんだ。神様は私たちと生きている世界が違う。見える方がおかしくて、今までの私がおかしすぎた。だから、仕方ない。そう納得するしかなかった。


「お姉、いい?」
「姉さん、時間」
「うん。大丈夫」


ナナちゃんとミミちゃんに片方ずつ手を引かれて、私は十年ぶりの里帰りを終えた。

二人は何も言わないけれど、私から目を離さないようにしていることはすぐに分かった。視界に入らないところには蠅頭もいるはず。四六時中、手厚く過保護に誰かか何かが張り付いている。

私は夏油さんに監視されている。

見張っておきたい気持ちは分からなくもない。だって夏油さんからしてみればいきなり『あなたの子供は産みません自殺します』と宣言されたんだ。特級術師としても宗教家としてもお忙しい中、私につきっきりというわけにもいかない。少しでも目を離したらいけない人間として呪霊をつけている。トイレやお風呂にはついて来ないだけマシかな。疑われているのは悲しいけれど、それだけのことをしたんだもの。

『神様と一緒に死にます』涙を飲んで口にした言葉は無用になった。神様が夏油さんの手持ちになってしまった以上、決してそんなことは起こり得ない。ただ、五条さん曰く私の呪いは解けていないらしい。神様は私には見えないけれど、夏油さんの中にはいて、まだ私を呪い続けている。……そんなことがあり得るのか。夏油さんなら調伏してすぐにでも、祓ってでも解呪させるはずだ。解呪できない理由が必ずある。例えば、有名な神の神社は一つだけじゃなく全国に複数の系列で分社している。神様もどこかに分社があって、大元はそこに残っている。夏油さんが取り込んだ神様だけでは完全に呪いは解けなかった。──なら、そこに行けばまた神様に会えるのではないか。

まだ神様と離れたくなかった。私にとって神様がなんなのか、答えが出かかっていたから。


《『「“ひとりにしないで”」』》

《無視しないで》


あの時流れてきた感情は、疑問は、恐怖は、神様のワガママだった。

神様は、神様なのに、人間に偏ってしまっていた。呪霊という人間の負の感情でできた化け物を取り込んで、人間の気持ちを学んで、私に縋りついた。私にその手を取りたくなるように仕向けた。その行動原理は────。


「姉さん、足元あぶない」
「転ばないでね、一人の体じゃないんだから」


深く考え事をしていた意識が、柔らかい手によって引っ張られる。足元には太い木の根が足を引っ掛けるように顔を出していた。いけない。山歩きで足元を見ないのは危険だ。考えるべき時は今じゃない。二人の手をそっと握り返して、安心させるために唇を引いた。


「本当にそうだね。ありがとうミミちゃん、ナナちゃんもね」


最近は夏油さんのマンションに帰らず高専内の自室に寝泊まりしている。たまにミミちゃんナナちゃんに誘われて三人で寮の同じ部屋に泊まることも増えた。前はこんなこと一度もなかったから、心配されているんだと思う。心配して、何かを言いかけて口籠る二人に、私は毎日気づかないフリをしている。

十年前の車で越境とは違い、タクシーとバスを乗り継いで新幹線が通っている駅まで移動し、お土産を買って帰る。一応任務のついでに寄ったことになっている終えれど、寄り道にしてはずいぶんと逸れてしまった。二人には酷なことをしてしまったと思う。無人とはいえ、山深い村落にいい思い出なんてないだろうに。「ありがとう」何度もことあるごとに言う私に、二人は「なんのこと?」「お姉いちいち言わなくていいよ」と流してしまう。優しい子たちなんだ。

困らせるようなことはしたくない。悲しませるなんてもっとダメだ。

私はもう大人だ。十年前みたいにいつまでもうじうじ泣いて寄りかかったって仕方ない。周りに迷惑をかけるだけで、時間は止まってくれない。だからこそやるべきことをやって前に進む。その準備のために、私は通販サイトを開いた。

届くのは明後日。場所は夏油さんのマンション。今度こそ落ち着いて夏油さんとお話しするんだ。そう意気込んだ次の日。



「おら、キビキビ吐け」
「素直に喋った方が身のためよ」


私は学生に拉致された。

昨日も例に漏れずミミちゃんのお部屋で三人くっついて眠った。その朝、私は真希さんと釘崎さんに捕まって、女子寮の使われていない一室に押し込められてしまった。


「アンタら夫婦がバカップル拗らせたせいで生活領域に常時監視呪霊配備されている私の気持ち考えたことある?」
「私は眼鏡とれば気にならないけど。相手があのクソ野郎なのは看過できねぇな」
「美々子と菜々子は身内だからいいでしょうけどね。私は嫌よ。あんな胡散臭い男筆頭に生活の一端でも覗かれるなんて耐えらんない! 変態はクソ目隠しだけでたくさんッ!」


夏油さんが女子高生の更衣室を覗く変態扱いされている……!?

考えが足りなかった。そりゃあ私が女子寮に泊まれば監視の呪霊も女子寮に入る。ミミちゃんかナナちゃんの部屋だけとはいえ、移動するたびに廊下や談話室やいろいろと生活スペースを通るんだから、年頃の女の子には堪ったものじゃないはず。ほいほい泊まりに来るんじゃなかった。

マットレスもないベッドに座って両サイドから大人しくお叱りを受けることしばらく。一息ついた釘崎さんが落ち着いたトーンで尋ねてきた。


「で、原因は何よ」
「はい?」
「別居してんだろ? 初めての夫婦喧嘩で」
「ふ、ふうふげんか」


確かに、夫婦で喧嘩すれば夫婦喧嘩だろうけれど。

「虎杖との浮気を疑われたとか?」「もうすぐ憂太が帰ってくるからだろ」私が教え子に手を出す前提の話をされても。冗談に聞こえないのは気のせいだろうか。ついでに外から大きな音が聞こえたような。窓の外を見ても快晴の自然が見えるばかり。野生の猪でもいるのかしら。チラチラと外を気にする私に、両サイドの二人は肘で軽く押したり肩で寄りかかってきたり。答えなきゃいけない圧力がすごい。


「いつもの、私が悪いだけだから。夏油さんとは喧嘩になってないの。私が気まずいだけで、その……ごめんね?」


同時に深々と溜め息を吐かれてしまった。わあ息ピッタリ。仲良しさんだ。いいなあ。私の時は硝子さんは勉強で忙しかったし、女の子は入学して来なかったから。寮で仲良くできる子はいなかった。羨ましい。……うん。

あまり生々しい話を学生に聞かせるのは躊躇われる。二人には不誠実かもしれないけれど、明確な答えは避けて手を合わせた。

「……ったくよぉ」考え込んでいた真希さんが、腕を組んで俯いてしまった。


「あの双子が珍しく私らに頼み込んできたんだ」
「ちょっと真希さん! それ秘密じゃ、」
「この方がコイツも素直にしゃべるだろ」


双子って、ミミちゃんとナナちゃんが?

ビックリして固まる私に、真希さんは仕方なさそうに教えてくれた。

『私たちじゃ傑兄の味方しちゃうから、お姉の本音を聞いてあげられない』
『二人には姉さんの味方として話を聞いてほしい』

そう、頼まれたんだと。


「限定カラーのリップ奢ってもらったからいいのよ」
「私はプロテインを箱で。前金貰っちまってる身としては、アンタにはどうにかなってもらわないと困るんだよ」


ばっちり心配されていたし、迷惑もかけているし、気も回されている。保護者としても先生としても失格。頭が下がるどころか床に減り込みそう。お腹が膨らんでいなければ膝に突っ伏して動けなくなっていた。


「つーかさ、何でもかんでも自分が悪いって、相手のことを考えてないヤツの言い分よね」


えっ……。

予想外の言葉に思わず顔を上げる。隣で膝に頬杖をついた釘崎さんが、シラッとした表情で私を見ている。


「言われた方はそれ以上追及できないじゃない? “こっちが泥を被ってやってるんだからもう何も言うな”って。目の前でシャッター閉められた気分。ハナから話し合いする気ゼロでしょ」
「言われてみれば、まあ、確かに」
「巫女ちゃんに限って悪気はないんだろうけど、そういうところで夏油も困ってるんじゃないの?」
「私としては存分に振り回されてほしいが」
「あ、それは同感です」


シャッター閉められた気分。夏油さんを困らせてる。振り回してる。ぐるぐると言われたことが頭の中で渦巻いて、沸騰しそうになった。

私が、私のせいにすることで、困る人がいる。だって、夏油さんは頭が良くて、正しくて、いつも最善が分かる人で、私なんかよりたくさんモノを知っている。夏油さんが怒る時は私が何かをしてしまった時。そうじゃなかったら、夏油さんが間違っていることに……。

……ああ、でも。夏油さんだって間違えることもあるよ。ミミちゃんナナちゃんを助けた時だって、乙骨くんを巻き込んだ時だって、私を妊娠させた時だって。全部間違えて、ギリギリ最悪にならなかった奇跡だから。

全部私が悪いわけじゃなかった。
夏油さん悪いことだってたくさんあったんだ。

目から鱗が落ちる。いろんなものが腑に落ちて、今までの視界がグレーのベールで覆われていたものだったと初めて気付いた。そんな気分だった。


「この際夫婦喧嘩の理由は横に置いとく。こっから愚痴大会だ」
「旦那の不満の一つや二つあるでしょ。とりあえず吐き出してすっきりさせときなさい」
「溜め込んで良いことなんて一つもねぇからな。ここなら何言ったって無問題だ」
「おら、夏油の弱み吐け」


夏油さんの悪いところ、不満……。

視線が左上に動く。突発的に思い出したソレが飛び出した。


「初めてが外だった」
「は」
「あ?」


あ。


「あ、ぁ、ちがっ、わな、いや違います違うの初めてはちゃんと屋内でしたごめんなさいごめんなさい聞かなかったことにして本当に違うのそれっぽい雰囲気がアレで、」
「それっぽい雰囲気になっておっぱじめかけたのが外だったの?」
「おっぱじめて最後までいかなかったのが外だったんじゃねーの?」
「ぁ、っ、ぁぅ、あわ……ひぃ…………」


私は未成年の教え子になんて教育に悪い話を。

女の子たちの容赦ない推理にもう顔を覆うしかない。口を滑らせたのは自分なのに誰かに助けを求めてしまう。さっきの比じゃないくらいに頭の中がおかしくなって、しばらく使い物にならない私に構わず、真希さんと釘崎さんが「他には?」と促してくる。助けて。

自分で墓穴を掘って死にたくなるこの感覚は、実はここ最近ずっと私を悩ませていたことだ。

この一週間、私が夏油さんと顔を合わせられなかった理由。それは、今までの自分の行動を振り返って羞恥で死にかけたからだ。

外で……というのは極端だけれども、他にも人目はないとはいえあんなスキンシップを取ったり、わざと肌を見せたり、変なところにキスマ……クをつけるようねだったり。数えればキリがないほど、私は夏油さんに……ああ……ひぃ……ごめんなさいごめんなさい……。

神様、何も羞恥心まで吸い取らなくてもいいじゃないですか。

何より、私が合わせる顔がないと思ったのは、


「大嫌いと、言ってしまったんです」


口にするだけで思い出してしまう。あの時の口の中の苦さ。後味の悪さ。饐えた味とは違う、眉を顰めたくなるような嫌な感じ。大嫌い、──“嫌い”。ずっと夏油さんに言われ続けてきた言葉。マイナスな感情を溜め込まず吐き出してしまった方がきっと夏油さんのためになる。そう考えてたのに、相手のためを思って受け止めてきたのに。いざ自分が口にした時、とてつもなく苦しかった。好きな人を傷付ける言葉を吐くのが、こんなに苦しいなんて知らなかった。

私は何も知らないまま、十年も夏油さんに苦しいことを強要していたんだ。


「アホか」
「うっ」


容赦のないデコピンが顔面に襲った。手加減されたとはいえ真希さんの指は私にとって強すぎる。逆側に倒れかけたところを釘崎さんに受け止められ、ついでに呆れたような視線を向けられてしまった。


「なーんでここまで拗らせてて結婚できたんだか」
「破れ鍋に綴じ蓋だろ」
「あの旦那にしてこの嫁ってことね」


容赦ない言葉の応酬。先生としても大人としても威厳がズタズタで、ちょっと泣きたい気分だった。それでも背中をさすったり肩を抱いたりする手が優しくて。……また誰かに助けられてる。


「苦しいのも当然だろ。嘘ついたんだから」
「うそ?」
「好きなヤツに対して“嫌い“は嘘だろ」


“嫌い”って言葉自体に意味はねぇよ、と。

なんでもないように言ってのける真希さん。本日二度目の目から鱗が落ちる感覚。そう、そうなんだ。


「嘘ついた落とし前はどうつけりゃいいか、分かるよな?」


──謝らなければ。

もともとそのつもりだったけれども、前よりも気持ちは強くなった。私は神様に出会ってからずっと子供で、自分の痛みに鈍感で、他人の痛みにも同じように鈍感だった。その自覚がやっと実感として体に追いついてきたんだ。


「ありがとう、真希さん、釘崎さん」


立ち上がる。

まずはミミちゃんとナナちゃんに謝って、明日夏油さんとちゃんと話すことを伝えて、そして私は、


「おっとまだ終わりじゃないぜ」
「そうよ。アイツの弱みまだ聞けてないわ」
「女の扱いがクソってのは周知だしな」
「えっ」


えっ、え、ええ?

ガッシリと捕まってベッドに逆戻りした私。そのまま本当に根掘り葉掘り、夏油さんとの恋バナ(?)を語るハメになった。

ごめんなさい夏油さんごめんなさい……。









「そういえば、どうして虎杖くんと吉野くんが外にいるんですか?」
「あ、気付いてた?」
「双子とは別口で頼んできたんだよ。ガス抜きさせろって」



外がにわかに騒がしくなった。











「おかえり」
「ただいま、帰りました」


一週間ぶりの夏油さんの家。私の家。

両手が荷物でいっぱいで、なんとか呼び鈴を押すと、ラフな格好の夏油さんが扉を開けてくれた。雰囲気は怖くない。いつも通りの態度で微笑みかけてくれる。それがむしろ怖かった。一週間前のあのことが嘘だったみたいで。私の自殺未遂も、神様が取り込まれたことも、今までの監視も。全部なかったことにされるんじゃないかって。

本当は、その方が私にとっても都合が良いのかもしれない。


「ずいぶんな荷物だね」
「はい。やりたいことがあって」


宅配ボックスに入っていたダンボールはかなり重い。気を利かせて持ってくれた夏油さんが、配達票を見て目を丸める。何かを聞かれる前に、私はジッと相手の顔を睨んで、口を開いた。


「何も言わずに、私の言うことを聞いてください」


説明は後で必ずする。危ないことじゃない。決して夏油さんの不利益にはならない。一つ一つ丁寧に説得して、夏油さんは折れてくれた。

良かった。まだ夏油さんからの信頼が消えていなくて。思えば一番緊張したのはここだった。あとはもう、勢いで楽しもう ・・・・。肩に掛かっていた紙袋の内一つを夏油さんに差し出した。


「まずはこれに着替えてください」


それから10分後。自宅マンションのリビングで、私たちは制服姿で向かい合っていた。

実際は制服といっても安っぽいコスプレグッズだ。夏油さんの高専の制服に似たものはなかなか見つからなくて学ランを渡したし、私は着たこともないセーラー服。それもお互い太ももや腕の筋肉やお腹の膨らみがキツくて雑に着崩している。逆に着慣れた学生みたいでちょっとリアルだ。

夏油さんの髪はお団子。私は無理やりうなじを結んで、学生の頃と同じ髪型にした。姿見で確認した後、なんとなく差した赤いリップは少し浮いている。背伸びしている感じがむしろそれっぽい。

困惑を隠しもしない夏油さんは、最初にお願いした通り何も聞かずにいてくれる。私は彼に向かって頭を下げ、両手を前に差し出した。


「夏油傑さん。好きです。私の彼氏になってください」


フローリングに立つ足が微動だにしなくて、本当の本当に困っていることが分かった。でも、私は、夏油さんの返事が欲しかった。


「私と付き合ってください」


この手を握ってください。その思いで、ジッと手を伸ばして、待ち続けた。


「──はい、喜んで」


握られた瞬間に、自分の手の冷たさを知った。

髪の毛が靡くほど勢いよく顔を上げて、ギョッとした相手の顔を見て、“片想いしている異性の先輩と両想いだと知った15歳の女の子”は泣いてしまった。私は、二度ほど鼻をすすって誤魔化したけれど、大きな親指がそっと拭ってくれた。

そのまま流れるように顔を寄せられて、くっつけるだけのキスが唇に降ってくる。まるでファーストキスをしたみたいにドキドキした。耳まで熱くなったところを追い討ちをかけるようにまた重なって、隙間に舌が当たったところで慌ててパッと距離を取った。


「そっ、それは、まだ早い、です……」
「は?」


『結婚しているのに?』という心の声が聞こえた。でもあくまで今の私たちは付き合いたての先輩後輩なので、そんなに早く手を出されると逃げるしかないというか。


「そういうのは、デートとかしてからじゃないと」


上目で「ね?」と首を傾げて見せる。何とも言えない視線をもらってしまった。

それからダイニングテーブルに座って、途中で買ってきたチーズバーガーとポテトとコーラを紙袋から取り出した。わざわざトレイに配置して、放課後デートしている気分でもそもそ食べる。何の会話をすれば良いか分からなくて無言が多かったけれど、「あーん」でポテトを食べてくれる夏油さんは可愛かった。


「いつの間にコーラが飲めるようになったんだい」
「いつ? いつでしょうか? 思い出せないくらい前です」
「ずっと炭酸は苦手だと思ってた」
「ああ、だからリンゴジュースばかりくれたんですね」
「教えてくれても良かったじゃないか」


むくれる夏油さんもやっぱり可愛い。というか、なんだか少し幼くなってる気がする。お互い格好に流されていつもより素直になっているのかも。テーブルの上に乗せていた手に相手の手が重なって、思わず引っ込めてしまった。恨みがましい目をされても……いえ、あの、今の私は15歳の恥ずかしがり屋な女の子なので……。

いつもより物理的な距離があるのに、心の距離はすごく近い。呪術も大人のしがらみもなく、ただの学生として好きな人と一緒に過ごせる。はじめからこうだったなら私たちは普通の夫婦になれたのに。

普通になれなかったのは私の不安のせい。不安にさせた、夏油さんのせい。

私たちはどっちも悪かった。

私だけが悪いんじゃない。その事実は驚くほど簡単に私を楽にした。無意識に入っていた肩の力が抜けて、いつもよりも素直におしゃべりできる。笑える。ワガママだって言える。型にはまった答えはどんどん自由に崩れていった。

借りてきた映画を見る頃には、私たちの距離はいつもと同じになっていた。


「私、欲張りだったんです」
「そうなのかい?」
「はい。欲張りだから、夏油さんを困らせたの」


もしも私が呪力も術式もない一般人だったなら、夏油さんは私を好きにならなかった。出会いもしないし、目にも止まらない。よしんば付き合えたとしても非術師が嫌いな彼に捨てられてしまう。


「どんな私でも、好きになってほしかった」


何も持たない私でも、猿の私でも、好きになってほしかった。


「言ったはずだよ。もう非術師とかそういうのは関係ない」
「はい。信じられませんでした」
「それは傷付くな」
「はい、私のせいです。でも、信じさせてくれない夏油さんのせいでもあります」
「へえ?」
「だって夏油さん、一般人にはそれなりなのに、真希さんや虎杖くんにはまだ態度が悪いじゃないですか」


真希さんは特殊な体質で呪力が少ないし、虎杖くんは呪物を飲み込むまで一般人だった。ああいうのを見るたびに、もしも私がそうだったら、なんて嫌な妄想が浮かんでしまう。とても心臓に悪い。そう伝えると、「虎杖くんのは別枠だよ」と耳元で囁かれた。


「私以外の男を誘惑しないでおくれ」
「私、そんなに教え子に手を出す教師に見えますか?」
「思わせぶりな態度が多すぎる。嫉妬で呪いになりそうだ」


「そうなったら真っ先に君に取り憑くよ」と言われて、怖いより嬉しいが勝った。


「呪われるのは慣れてますから」


神様がいた場所に夏油さんが来るのもアリだな、なんて。冗談で言ったのに、困った顔でお手上げされてしまった。私も夏油さんには後ろより隣にいてほしい。

いつまでもコスプレ衣装でいるのはそろそろ辛くなって、私たちは部屋着に着替えてダンボールの前に座った。一昨日頼んで今日届いたそれは、開いた途端に新しい木の香りが広がった。

神棚だ。少々値が張ったし、通販ってどうなのかな、とは思ったけれども、善は急げの精神でコレにした。実家の祠に似た形で、屋根があって壁があって扉がある。組み立て式のソレの真ん中に、お札の代わりに夏油さんの宗教団体のキーホルダーを置いた。今度菊の花も買って来よう。

私の部屋の日当たりがいいところにある棚に設置して、私は最後の頼みを夏油さんにした。


「神様に会わせてください」


夏油さんはかなり渋った。「様子がおかしくなっているよ」と。けれど最後は諦めて神様を出してくれた。

黒い菊頭の黒い着物を着た女性。もはや私が知っている神様ではなかった。立ち尽くすばかりで、俯いて私を見ようともしない。側だけを形作ったような姿に胸の奥が痛かった。

それでも、神様は私の神様だ。


「神様」


向かい合うのは七歳の頃以来で、あの時は神様が怖くて怖くて。だから私にとっては初めてのちゃんとした対面だった。

どうして神様はお腹の子供の成長を吸い取ったのだろう。どうして私を不安にさせるような感情を流したのだろう。どうして、私を守ってくれたのだろう。

それは神様が私と一緒にいたかったから。

神様は私が子供を産むまでの時間を引き延ばそうとしていた。成長を奪うことで、出産の時期を解呪の期限ギリギリまで延期させたかった。三十三歳の限界まで私のそばにいたかったから。呪い殺す気は微塵もなくて、ただそれだけの無邪気な彼女だった。

あの山奥で忘れ去られるばかりだった彼女が、私という人間に認識される喜びを知ってしまった。一度知ってしまったものは簡単には手放せない。それは私にだって分かる気持ちで、同情してしまったからこそ、神様は私に縋り付いた。私を守るのと同時に、私に甘えていたんだ。


── 神様は、人の内に居すぎてしまった。



「お菊様」


フローリングに正座して、お腹を圧迫しない程度に頭を下げる。

私から呪力を奪って、怖いものを見ないようにしてくれた。感情を奪って、傷つく機会すらなくしてくれた。──神様は私を守っていた。

それは本当のことだったから。



「お母さん」



母のいない私の、親代わりをしてくれた神様だから。



「私は、夏油傑さんと結婚して、子供を産んで、幸せになります」



だから、見守っていてください。

深く深く、頭を下げて、今度こそ呪いにならないように祈って、祈って。


「あなたのことは、忘れません」


寂しい神様を、寂しいままで終わらせない。

私は死ぬまで、死んでもこの子が、孫が、あなたのことを思い出すから。



「今まで、ありがとうございました」



しばらくの間さようなら。
また会う日まで、お元気で。

長く長く頭を下げて、やっと顔を上げると、神様は夏油さんの中に帰っていった。部屋に残されたのは、私と夏油さんと新しい神棚。

呆気ないお別れの幕引きだった。



「夏油さん、最後に一つ、お願いしてもいいですか」
「お願いね。学生ごっこに、お別れ会に、次は想像もつかないな」
「突拍子もないことに付き合ってくれたのは本当に感謝してます。大好きです」
「打ち解けてくれて嬉しいよ。私も大好きだ」


腰を抱かれてフローリングから立ち上がる。少し冷えたお尻は、すぐにソファに移動して夏油さんのお膝に温めてもらった。あまりにもナチュラルに乗せられて、それでも降りたいと思わないあたり末期だと思う。

ううん。もう不安にならなくていいなら末期で構わない。だって私は末期までこの人に責任を取ってもらえるんだから。



「傑さん、って呼んでもいい?」



しばらくの間を置いてこぼされた「ずるいなぁ」。



「断られないのを分かってて聞いてるだろ」



肯定のキスは今度こそ夫婦らしい、大人のキスだった。






もともと『神の内/花の内=人の内』というタイトルで終わらせたかったんですが、渋谷事変まで行きませんでした。もうちょっと続きます。


尋問【前】

「母さんが言ってたんだけど、女の人って少なからず会話がストレス発散に関わってるらしいよ。気の合う人か、黙って聞いてくれる人に愚痴ると元気になるって」
「夏油先生あんま愚痴とか言わなそうだけどなあ。どう思う釘崎」
「は? 無理やり吐かせればいいじゃない」
「だな。行くぞ野薔薇」
「はい真希さん!」
「えっ、そんないきなり……」
「順平、こうなったら俺らは無力だ」
「虎杖くん……」
「仕方ねぇから隠れて様子見とくか」
「虎杖くん!?」



尋問【裏】

『初めてが外だった』
「…………」
「教祖様?」
「ああイトウさんすいません。続けて」
「私はムトウですが」

『道案内をしていたらいきなり腕を引かれて痣ができた』
「…………」
「教祖様? 何か気がかりが?」
「いいえ?」

『初めて首を噛まれた時、怖くて、しばらく不安だったの』
「…………」
「教祖様、もしや私にそんな強力な悪霊が!?」
「黙って」
「え」

『綺麗な女の人と歩いているのを見かけて、私はもう用済みかと距離を置いたらものすごく怒られたの……どうすれば良かったのかな……』
「チッ、妬けよ」
「はい?」
「本日の面談は終わりですありがとうございましたお出口はあちら」
「教祖様ッ!?」


実は呪霊越しに全部聞いてたよって。


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