秘すれば花



七海建人は本を読んでいる。

いつものスーツで、革靴で、背筋を伸ばして本を読んでいる。ビーチチェアの細かいささくれがスラックスをつつき、下ろした靴裏からは流動的な砂の感触。耳は細波の音を、鼻は潮の香りを拾った。

湿気のある暖かい風が前髪を持ち上げ、手元の本のページが勝手に流れていく。ああ、どこまで読んだか分からなくなってしまった。

まあいい。どうせ時間はたっぷりある。

最初から──────。



「ここまで来て読書とか嘘でしょ」



聞きたくない声の代名詞が潮騒を遮った。

本とスラックスと革靴と砂浜だけの視界に第三者の靴。長すぎる黒い足をたどった先が誰かなんて、すぐに分かった。


「せっかくみんなで慰安旅行なのにさ、ぼっち極めすぎじゃない? 寂しいね」


軽薄に煽る口調は紛れもなく五条悟その人だ。

七海は見知りたくなどなかった目隠しを見上げて、それから周囲の景色が変わったことに気付く。

まずは風。南国の乾風に海の湿気が混じった、なんともいえない優しさが削がれ、まるで突き刺すような冷たい潮風に変貌している。

次に海。穏やかな南国の潮騒が一変し、いっそうるささすら感じるほどの荒波が遠くから聞こえて来る。何より、先ほどまでは無人だと信じ切っていた砂浜に複数の人影が。


「ナナミーン! こっちこっち!」


高専生の集団の中から虎杖悠仁が大きく手を振る。

素直に手を上げて答えたのは彼の素直さに感化されたからか。下ろした先に触れたビーチチェアは、いつのまにかコンクリートの階段に変わっていた。


「これからバーベキューやるんだよー。サボってないで準備手伝う」
「冬の湘南に来てまですることですか」
「慰安旅行だよ? やるでしょ、バーベキュー」
「慰安旅行といっても日帰りですし、そこは温泉じゃないんですか?」
「日帰りで温泉は逆に疲れる」
「特級が何を……」


何を言っても無駄だ。深々とため息をつき、七海は本を閉じた。

冬の湘南。冬の海とはいえ、人っ子一人いないのは五条の差し金だろうか。さんざっぱら砂浜に絵を描いたり波と追いかけっこをして遊んだ一、二年生がバーベキューの準備をしている伊地知たち補助監督や夜蛾学長、家入のいる方へと歩いていく。その5m後ろを並んで歩きながら、七海はふと五条に意識を向けた。


「よくここまで纏まった人数を集められましたね」
「苦労したよ〜、久しぶりに駆けずり回ってみんなのスケジュール空けたの」
「あなたのスケジュールが一番過密でしょうに」
「僕のは楽勝だよ。僕の意思で空けられる」
「伊地知くんの苦労が偲ばれます」


件の伊地知といえば、甲斐甲斐しく学生に紙皿と箸を渡している。家入は紙コップに大吟醸を……まさか学生に渡さないよな? 流れるように真希から夜蛾に回っていき安堵した。家入は手酌で大吟醸を飲み始めたが。

「早く早く!」「オマエのとうもろこし全部盗られるよ」「硝子、悟に大吟醸を押し付けるのは……」「ほんとに焼き始めていいんですか?」「七海サンなんでスーツ?」「こっちだって制服じゃん」「しゃけ」

いち早くたどり着いた学生たちが振り返ってこちらを見遣る。まだ砂浜を歩く七海と五条は、それでもちんたらと足を動かした。

こんなにも気安く扱われるのは、人徳というよりキャラクターだ。昔と比べればずいぶんと話す気のある態度をとるようになった。高専の頃の七海の隣に五条が並んだことなんて一度もないのだから。

──現実では隣に並んでいても、五条悟は特級術師だ。この場にいる誰もがたどり着いたことがない、頂点に立つ存在。七海が至れなかった呪術師の極地。


『ゴダイゴはね、』

「──ゴダイゴ」
「ん? スリーナイン?」
「名前が呼んでいたのは、愛の国の方です」
「……ガンダーラ?」


確か、出会ってしばらく経った秋の頃だったか。任務に行く途中の車の中で、幼女の形をした呪いが歌を歌った。七海の世代でもギリギリのソレは、懐かしの名曲として歌番組で取り上げられていたのを覚えている。

どんな夢でも叶う国。
苦しみさえ消える愛の国。
その名を知れば皆が求めて旅に出るが、



「誰もたどり着けない、幻だと」



『ちゃんとした人間なのに、呪いよりほんとにいるのかわかんない。ふっしぎー』

流石にそれは、言えなかったけれど。

内緒話をするように囁いて、自分で言ったことにクスクス笑っていた。今でも少し鼓膜がくすぐったい。

初めて聞いた時はほんの少しでも納得してしまった。並の術師では、──七海ではたどり着けない、幻のような男が実在する。いっそ本当に嘘だったなら、きっと諦め切れたのだ。

灰原を助けられなかった不運を、諦められた。

“この人さえいれば、灰原は死ななかった。”などと、惨めったらしく呪うこともなかったのに。


「七海は僕がテレビの中の住人だとでも思ってるわけ」
「五条さんが出てきたらチャンネル変えますよ」
「オイ」


バーベキューの輪の中に足を踏み入れる。気持ちを切り替えるために家入から大吟醸を受け取った。流石にまだ何も焼いていない内から飲むのは気が引けたが、頭の中の靄を払うのにちょうど良い。家入だって既に始まっているのだから今更だ。空っぽの胃にアルコールを流し、熱くなった喉に空気を通した。


「ところでさあ」
「なんですか。メロンソーダならそちらに、」


一瞥した五条が唇を尖らせる。押しつけられたらしい大吟醸カップを伊地知に横流しし、空いた両手で腕を組んだ。

何をそんな、不可解そうな顔をして、──────、──────?



「“名前”って誰?」












「たとえ艱難辛苦が待ち受けていようと、安易に死を選ぶ理由にはなりません。人は生きてこそ、生きている内に幸せを見つけるものだ」


私たちが決めつけていい幸せなんて、どこにもありませんよ。











七海建人が高専施設内のベッドで目を覚ましたのは11月7日。ハロウィンからちょうど一週間後のことである。

気付いた家入がいくつか問診と検査をし、結果を口頭で伝えたところで飛び込んできた少年。顔に傷を作った虎杖が、七海の顔を見て涙を浮かべた。

仔犬のように四度ほど鼻をすすった虎杖は、ポツリポツリと事のあらましを語って聞かせた。七海が離脱した後の渋谷の崩壊を、真人との決着未満を、夏油傑の体を乗っ取った呪詛師の末路を、──特級呪物『涼木名前』の入眠を。


「渋谷は今、犬猫並の知能の呪霊がうようよいてさ。人間は襲わないけど、ジャレに行って殺しちゃうみたいな事故がケッコーある」
「犬猫……名前がやりそうなことですね」
「ただの呪霊よりはマシだよ。ほんとに、まだマシだ」


己を犬猫だと思い込んだ呪霊は一級以上でも術式を使わない。術式の存在すら忘れて街を闊歩しているらしい。遊んだり、散歩したり、喧嘩したり、眠ったり。そのおかげで等級関係なく呪術師が簡単に祓えるのだと。

想像もつかないカオスだ。寝起きで未だ整わない意識が理解を拒否してくる。軽く眉間を揉むと、火傷の痕がザラリと指に残った。

七海の左目はない。包帯の下でポッカリ空いた暗闇が眼孔に収まっている。灼熱の呪力に焼かれて溶けてしまった。熱傷は深度にも寄るが、少なくとも全身の50%焼けた七海は明らかに致死的な状態だったはずだ。

それがたった一週間で自立行動が可能になり、会話が成立するとなると。



「名前は、どうしましたか」



夢に五条を出すのは嫌がらせだろうに、あの幼女は。だいたいシンガポールをリクエストして何故湘南バーベキューが。一筋縄でいかないにも程があるだろう。……灰原に会えなかったのは、仕方ないとして。

あえて最後に取っておいた質問を口にした七海。虎杖は悲しみの中に戸惑ったような感情を乗せて、足元を見た。


「名前は、」



バタバタと駆けてくる音が廊下から聞こえた。「あっ待って!」伊地知の慌てた声。顔を向けた瞬間に扉がガラガラと開いた。──女の子だ。

短い黒髪の、三歳くらいの女の子がそこに立っていた。


「おに、ちゃ」


とろとろに涙で目を蕩して虎杖の足にしがみつく。泣き声の中に非難を混ぜたような、罪悪感を抱かせるために上げたような声で二度三度と虎杖を呼ぶ。「おにいちゃん」と。


「…………名前?」



すぐに高専の制服に顔を埋めてしまったから分からなかった。けれど、虎杖が仕方なさそうに抱き抱え、七海からでもよく見える位置に顔が来て。泣き濡れた赤い顔が蛍光灯に晒された。

名前だ。涼木名前をさらに幼くした、幼女よりも幼女らしい幼女が虎杖の首に抱きついている。

チラリと見えた瞳は、ありふれた黒。
弱く薄く幽かな、けれど確かに見える残穢。


「はじめまして、私は七海建人といいます。虎杖くんの知り合いです。──あなたのお名前を、教えてくれますか」


挨拶は基本。幼女といえど礼儀は持たねばならない。一週間生死を彷徨ったからだけではない、カラカラに乾いた舌を喉を震わせて、七海は尋ねた。

返ってきた答えは、予想通り。



「ひなこ」



『阿久田ひな子が生きてるって言ったら信じる?』

あの呪いは、幼女は、名前は。

きっと呪いらしく、苦悩する七海を観察するためについた嘘だと、今の今まで。快楽しか求めない人外埒外に情を傾けまいと気を付けていたこちらを嘲笑うように、本当のことを言っていたのだ。

本当に、阿久田ひな子は生きていたのだ。


「名前が骨は拾えって言うから、拾おうとしたら急に動き出して。……あっという間に、ひな子が」


ぶちまけられた赤。細切れの肉。大量の骨。それらが一人でに蠢き捏ねられ粘土のように人の形を型取り、残ったのは血溜まりでスヤスヤ眠りこける幼女。正真正銘、本物の阿久田ひな子がいたのだ。

『たとえ艱難辛苦が待ち受けていようと、安易に死を選ぶ理由にはなりません。人は生きてこそ、生きている内に幸せを見つけるものだ』

七海が名前に伝えた答えは自分自身に向けたものに違いなかった。だって自分は生きているのだ。呪術師に悔いのない死などないとしても、死までの生に幸せを見つけて何が悪い。何が幸せかも分からず、向き不向きなどと建前を並べたて、おめおめと出戻ってきた七海とて。希望を持っていないなどとどうして嘘がつける。

名前は七海の答えを覚えていた。その証拠がこの場で確かに生きている。


「五条先生が封印されている獄門彊は高専に回収された。封印は解かれてない。上の人たちは先生がいない方が都合が良いんだって」
「上が考えそうなことです」
「嫌われてるもんな。──俺たちでどうにかするよ」


赤く腫れた瞼が嘘のように、虎杖は凛々しい面差しで七海を睨む。昏い眼は渋谷で何を見つめたのだろう。覚悟を滾らせたまま、腕に抱いた幼女を撫でた。

「ひな子、にいちゃん行かなきゃいけないんだ。ナナミンと待ってられるか?」「やぁ」「頼むよ、にいちゃんからのお願い」「や!」目覚めた時から一緒にいる虎杖を、雛鳥の刷り込みよろしく慕っているらしい。拒否する幼女を簡単に抑え、そっと七海に差し出した。



「だから、その間ひな子を頼む」



虎杖から離れまいと暴れる幼女は簡単に七海の元に降りてきた。「おにちゃ、やぁ、いっしょいるぅ! いるの!」バタバタと動く手が七海の包帯にかする。軽く呻く声に、幼女の瞳がゆるゆると見開かれた。人を傷付けるのは怖いのか。それとも、実の親に虐待されていた記憶が残っているのか。確かなものは、包帯を柔く撫でる小さな手。



「いたいたい、たいたい、ねぇ」



──違う。

この子は人の痛みが分かる。普通の、優しい女の子だったのだ。──涼木名前と違って。

乾いていた眼球に、初めて涙の膜ができた。それは、可哀想な女の子の命が助かった奇跡にか。隣にいた呪いがいなくなった喪失感か。

どっちもそれらしく、どっちも嘘っぽくて。明確な答えは見つからない。


「ひな子さん。私と一緒に、虎杖くんを待ってくれますか?」


躊躇いがちに、弱々しく。左手の人差し指と中指が握られる。右手で覆うように握り返せば、手の内でさらに力が増した感触。あの呪いに手を握り返してやったことなんてない。それは呪いに情が移らないように貼った予防線で、けれど、握り返していたら自分はどうなっていたのだろう。今となっては分からない。

何も分からないが、唯一分かったのはこれからのこと。



「うん、いっしょにいりゅ」



明日か、明後日か、来週か、来月、来年、──いつかの未来。


七海建人は、きっと幼女を連れている。





Good end『秘すれば花、秘せずば骨』

主人公不在の後日談でした。海でどうしても書きたいネタが2パターンあったのでルート分岐にしました。後日談は『阿久田ひな子が生きてる〜』への返答次第で未来が変わります。私だけが楽しかった話でした。
もう一方のルートで本当に最後になります。良ければまたお付き合いよろしくお願いします。






うっそーん。なんで今になってそうゆうことするの? わたしがいるときに泣いてよぉ!

ナナウミが泣くの生で見たかったなーなんでこうタイミングわるいかなー。

ぶーぶー。

せっかくお願いきいてあげたのに。ナナウミのばーか。ケチケチ。

…………、………んーー?

あ、そっか。ナナウミわたしのこと泣くほどすきだったんだ、へえ?

そっかーバブみが足りなくてオギャっちゃったかーそっかそっかー。

なるほろねーーーー??????



「しょーがないにゃあ」



────『領域展延』




七海ひな子が「ママの名前は名前って言うんでしょ? ママが教えてくれたの! ひな子の中でひな子とパパを見守っているんだよ!」とカミングアウトし、七海の血圧をブチ上げるまであと……?




「幼女で呪いでママって属性過多よね」

(余ったお肉こねこねして)産んだから実質ママ。このルートの虎杖くんは普通に処刑されてそう。


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