オジギソウ



高いトースターで焼く普通のトーストうまぁ。

外はサクッと中はふんわり。CMかよって出来栄え。さすが高いトースターは違いますねぇ。


「名前さんにこんな特技があったとは……」
「私はトーストも焼かない女だったの?」
「ゼリーで済ませてましたよ」
「どひゃー」


そんなんお腹空くわ。やってられん。

なんかもう記憶喪失とか以前にほぼ他人の話を聞いている気分。そりゃあ昨晩の偏食っぷりを知れば自分だとは思わない。こちとら生野菜に味噌つけて一品と言い張る人間だぞ。白米に乗っけてヘイお待ち。この家に炊飯器ないけど。

七海と向かい合って食べるトースト、スクランブルエッグと簡単サラダ。肉類はない。何故なら私が食べないかららしい。「ソーセージかベーコンがあればホテルの朝食っぽいのにね」とこぼしたら全身全霊の「は?」をお見舞いされた私である。そんなに肉食べたらおかしいのかい。

いやさ、そもそも一晩経ってこの状況ってのもおかしいんだけどもね?


「七海さ」
「はい」
「七海建人?」
「は?」


本日二度目の全力の「は?」いただきました。


「いや、確認をね? 確認は大事かと、うん」
「やはりまだ記憶は戻りませんか」
「あー、うん、そうそう、記憶がね」
「それでも私の名前は分かるんですね」


漫画読んでるからね、とは言えない。記憶喪失よりヤバい扱い必至。


「そりゃあ一緒に住めるくらい、好……きなら、覚えてるんじゃない?」


たぶん、きっと、恐らく。

自分で言ってて違和感がすごい。漫画の登場人物と同棲ってのもアレだし、他人と同棲できるガッツが私にあったのかっていう驚き。あ、もしかして生まれ変わって性格も変わった?意外と恋愛楽しいタイプ?

改めて目の前の人をまじまじ観察してみる。仕事着のスーツでもオマケで描かれてたシャツに丸メガネでもなく、丸首シャツにカーディガンを合わせた裸眼の七海。髪はもちろん下ろしている。目つきが悪いのを除けばイイ男だ。むしろ目つきが悪い顔でちょっと照れ臭そうに視線を逸らすのとか、堪らないので、は……?


「もしかして照れてる?」
「自分でもどうかと思うので見なかったことにしてください」
「アッハイ」


み、見てぇ〜〜七海の照れ顔見てぇ〜〜でも居た堪れねぇ〜〜。好きって言ったら照れる七海なに。同棲してるのに? 同棲ってなんか、こう、恋人同士のステップアップ的な、一通りこなした後の、こう……ね?

思わずろくろ回しポーズをしかけた。トーストが手にあって良かった。


「えと……私たち、同棲ってことは、お、お付き合いしてるんです、よね? 馴れ初めは?」
「自分で思い出してください」


できないから聞いてるんだよなあ。

誤魔化しでコーヒーに口をつける七海。私生活ではシャイマンなのか。遊び人、とまではいかなくてもそれなりに経験豊富そうなのに。

しばらくスクランブルエッグに舌鼓を打っていると、落ち着きを取り戻した七海がフォークを置く。


「あなたの記憶喪失は意図的なものです」


妙に重々しく口を開いたと思えばコレだ。


「なにそれ。忘れたいほど嫌なことでもあったわけ?」
「、さあ、私からはなんとも。しかし、任務前後でスイッチを切り替えていたことは事実です。現に帰宅後のあなたは理性的な会話が可能でした」
「待って、任務中は理性的でなかったと?」
「否定はしません。少なくとも伊地知くんに足を向けて寝れませんね」


本当になんなんだろうね、この私。

意図的に記憶喪失になって何のメリットがあるんだろ。集中力高めるためとか、どんな手を使っても忘れたいことがあったのか。ん? もしかして昨日いくら「ここはどこ私は誰」しても「はいはい」て対応がおざなりだったのは私のせいか? おのれ私。


「とにかく、一晩経っても元に戻らないのは異常です。午後に家入さんにアポをとりました。私も付き添いますから一緒に行きましょう」
「わぁ至れり尽くせり」
「ふざけている場合ですか」


本心なのにな。昨日、やっと休日が被ったって言ってたのに、わざわざ職場に送ってくれるなんて。献身的を通り越して過保護にすら思える。恋人じゃなくて保護者みたいだ。

七海に遅れて朝食を食べ終え、テーブルの片付けとお皿洗いをし始めると、洗い流したところで乾いたタオル片手に七海が皿を受け取った。流れ作業で洗ったそばから拭かれて食器棚に収納されていく。図らずしも息ピッタリ。ちょっと楽しくなってきて口から勝手に鼻歌が漏れた。選曲はPVがお皿洗いのヒカルさんだ。まあ二人分のお皿なんてサビに行く前に終わるんだけど。

手を洗って水を止めたあたりで顔を上げる。隣からの視線がかゆくてね。分かりやすいくらい幸せそうな微笑を浮かべるイイ男が皿を拭いてたわけで。

この人が好きなのは“前の私”であって私じゃないんだよなぁ。

当たり前のことを思い出して、ずっと感じていた居た堪れなさの正体をやっと掴めた。そりゃあそうだ。他人のふんどし履いて相撲とってるようなもん。親に書いてもらった作文が佳作とったみたいな。ぜんぶ自分らしいのは嫌でも理解したけどさ、記憶にない人間関係ってちょっと気持ち悪いよね。

家入さんに治療してもらったら、この気持ち悪さもどうにかなるかな。思い出したらちゃんと自分のことを認識できるのかしら。それとも今考えてる私が消えて元の不健康な私だけが残るのか。せめて食生活だけどうにかならんかねぇ。


「炊飯器買うかあ」
「本当に食べるんですか?」
「食べるんですよ。なんなら今日の帰り電気屋行こうぜ」
「重症者がよく言う」


最後のお皿が食器棚に吸い込まれていく。ムキムキの腕を袖の下にしまった七海は、やっぱり眩しそうな目をしている。アカン。

たった一晩でその目が苦手になってしまった。そんな目で見ないでくれってヤツだ。


「そういえば、伊地知くんに糠床の件についてお願いしました。分けてくれるそうですよ」
「炊飯器を買います。いいヤツを買います。決定事項です」
「はいはい」


唸れ、貯まりに貯まった特級の給料。マネーイズパワー。




***




「名前は?」
「もえ、もえさき? 名前です」
「重症だな」


美人だ。クマがべっとりついてるのに全然マイナスじゃない。むしろプラスに働いてる影のある美人。その分すげなくバッサリ切られたのは痛かったけど。

だって実際問題なんて読むの? 茂餌木って、……もえぎ? 萌黄色の? どんな当て字じゃい。

午前いっぱいお部屋のダンボールの中身を整理して自分探しをしたものの、あんまり収穫がなかった私である。結局家を出る時間になったので、途中のキッチンカーでお昼を済ませつつ七海と東京高専にやって来た次第。

ダンボールの奥から引っ張り出したシャツワンピースに、昨日着てたのと似た黒ジャージの上着を羽織った私。七海はしっかり仕事着のスーツだったから慌ててね。休日だし普段着でいいって言われても、あそこの人たちみんな黒いからさ。水色ストライプと白の爽やかさはあまりに呪いとミスマッチ。いや上着を変えたところでって話だけど。

お昼済ませてタクシー捕まえて、いいところで降りて途中から歩き。特級術師ボディはほんの20分の山歩きで汗なんかかかない。最高だぜ。富士山の初日の出とか見に行けるんじゃなかろうか。筋肉は全てを解決する。

ちょっとウキウキしてる私と対照的に七海の方がなんだか憂鬱そうだ。そりゃ休日出勤だもんね。すまねぇ。謝ったら「あなたのことが心配なんですよ」とマジレスされた。す、すまねぇ……自分のことなのに他人事で……。ぶっちゃけ未だに他人の人生ってイメージが抜けてないが、恋人が頭おかしくなった七海は気が気じゃないはず。とりあえず反省の証として真面目な顔を作っといた。

長い坂道と長い階段登ってたどり着いた古めかしい建物の、さらに奥まったところにあった部屋。高そうなオフィスチェアに体を預け、フレンドリーに手をあげてくれたのがアポ取ったお医者さん。家入さんだった。


「名前が悪化したって聞いたが」
「こんにちは、よろしくお願いします」
「マジっぽいな」


失礼では?

髪の毛の先をくるくる指で巻いてるところ大変恐縮ですが、私は挨拶もできない女だったのか? ……もうこのノリ飽きてきたな。どんな反応が返ってきても「へぇ」で済ましといた方が楽かもしれない。

そんなこんなで家入さんは紙を取り出してお名前確認から始めたわけなんだけど、まず私の名字が前と違かったんだよね。茂餌木て。全国に何世帯いる名字ですか。そっからは今日の日付とか、100から7引いてった数とか、野菜何種類言えるかなとか。ひとしきり質疑応答を終えて総評。


「点数的に認知症ではなさそう。単純にいつもの小細工だとは思うんだが……」
「いつもの小細工とは?」


挙手して尋ねると、あからさまに面倒そうな顔をされた。


「そっから忘れてるのか」
「ぶっちゃけ人の名前と顔が一致する程度しか」
「めんどくせぇ」


声に出して言っちゃったよ。

家入さんはマジでダルそうにボールペンでデスクをトントン。チラッと私の背後、付き添いの七海を見た。


「名前と二人で話したい」
「……分かりました」
「え!?」


これに困ったのは私である。だって七海がついてきたからここまで来れたわけで、たとえ漫画で知っている家入さんだとしても二人きりは怖い。えーん。かわいこぶって上目で七海を振り返った。めちゃくちゃ戸惑っててすぐにやめた。そんな身を引かんでも。「ずいぶん懐かれたじゃないか。いつの間に保護者になったんだ?」「記憶がなくて不安なんでしょう」「コイツがそんなタマか」そんなタマですぅ。


「吹聴するなと言ったのは名前だぞ。記憶が戻ったオマエに恨まれるのは避けたい」


後で困るのは私、と言われると食い下がれない。

退室する七海を渋々見送って、足音が遠くに行ったのを確認。家入さんがペンを置いてちゃんと私と向かい合う。ほっそりした足を組んで、左の肘掛けにデロンと上半身の重心を置いた。真面目なんだかダラけてるのか分からないけど、何故だかがん宣告を受ける患者の気分。ゴクリと喉が鳴った。


「とりあえず、ココ、指で9回タップして」


はい?

グッと左横にのけぞるように首を見せる家入さん。右耳の裏? よりは遠いし、真後ろよりは近い? とにかく微妙な位置の首筋、髪の生え際を指差している。なんか、すごく嫌な予感がする。SF映画でアンドロイドが電源ボタン隠している位置みたいな。え、まさか生まれ変わりは生まれ変わりでも呪骸に憑依したそういう? はわわ、衝撃の事実。知りとうなかった。にしても9回って多くね?

なんとなくここら辺かなーってところを探って、人差し指でいち、に、さん、し……きゅう。震える指でタップした。途端に頭の中がピリッと痺れて、遅れてすぅーーッと視界が広がる感覚。清涼感がある目薬差したみたい、と思ったのは一瞬で、気を抜いたところで思いっきり頭の中がぎゅるぎゅると高速回転し始めた。えっ、えっ、えーー??? なんかすごく、すごい。語彙力は安定のクソ。代わりに動体視力が半端ない。家入さんのちょっとした筋肉の動きとか瞳孔の開き具合とか分かるし、次どう動くかとか勝手に計算して見事に当てて見せる。それどころか背後の窓から見える木の揺れで今の風速とか枝に何羽雀がとまってるとか、いやそこ分かっても役に立たないでしょ。


「名前は?」
「はぇ、も、茂餌木名前でふ」
「歳は?」
「にじゅうろくしゃい」
「生年月日」
「1994年4月29日」
「七海との関係は?」
「え……こ、こいびと?」
「もっと根本的なところだよ。学生時代の」
「タメ口だから同学年なのでは?」
「なるほど。今の気分は?」
「ふわふわしてます。なんだろ、楽しい、かも?」


最初の方はさっきと同じ質問。七海との関係以降は初めて聞かれた。理由は、記憶の連続性を見ている。さっきの9回タップが引き金か。……どうしてスッと答えが出た?

「術式を術師本人に説明するなんてな」小さく小さく、ひとりごとのつもりで呟いたのだろうそんな声まで耳が拾った。「タバコ吸いてえ」それは後でにしてほしいな。


「まず、自分の術式が影を媒体にしてるのは知ってるか?」
「あー、手首とかから出る?」
「そ。体の影になったところから植物を出せる。服の下も、前髪の裏側も、口の中だって影は影だ」
「種のマーライオンできるじゃん」
「昔やってたな」


バカ。シンプルにバカ。
昔っていつだ。流石に成人前の話だよね。


「“口の中がアリなら、頭蓋骨の中もアリだね”」
「なんですか急に」
「名前が言ったんだよ。一言一句そのまま」


また意味不明なこと言ってんな前の自、ぶ、…………んん?


「……待って」
「やっぱり回転が早いな。流石ドーピング」
「え、いや、嘘ですよね?」
「オマエが考えてるのであってるよ」


いやいやいやいや、だって、そんな、そう言われればそうなんだろうし、できたからやっちゃったんだろうけど、いったい何の意味が。漫画の読み過ぎということでスルーしたかったのに、ドーピングとくればもう答え合わせしたようなもんだ。

──頭の中に草を生やして、脳味噌いじくってるんじゃ? なんて。


「実際さ、神経伝達物質を植物由来のアミノ酸で無理やり代用したんだって。人体がそんな簡単に操れてたまるかって、医者としては頭が痛かったな」


待ってください待ってください。いきなりドパミンとかアドレナリンとかエンドルフィンとか言われても分からないっす。カタカナ憶えられない。いやそれ以前にちょっとかなーり気持ち悪い。さっきから思考がスゥーーッとクリアなのは現在進行形でなんかの植物が脳味噌いじくってるからでしょ? うわっ、鳥肌。いっそのこと麻薬漬けで脳味噌ハイになってますって言われたほうがまだマシだった。


「コツを掴むまで大変だった。どこをどう刺激すればいいか暇さえあれば私のところに押しかけてきてたな。変なところ押して失語したり精神疾患に似た容態になったり。記憶喪失は一番多かった。延髄だけは死守させたが」
「なん、で、そんなことを?」
「その必要があったから、としか」


そりゃそうだ。無意味にやってたらただの狂人(くるんちゅ)でしょ。


「じゃ、もう一度9回タップして」
「え……え!? まず説明してもらえません?」
「シャットダウンだよ」
「そんなパソコンみたいな」
「ああ、似てるな。酷使し続けるとぶっ壊れるあたり」


ひえ。いちにさんし……きゅう。ピリッとな。あ、なんか落ち着いた。そんでもって頭がぼんやり重い。あれ、この感じ昨日の帰りの車で体験したな?

「私はちゃんと忠告したんだけどな」今度は家入さんがなんて言ったか聞こえなかった。さっきよりぼんやり、いや、元に戻ったのか? まあとにかく鈍い感覚で頭をふらふらさせていると、手渡されたアメ。蜂蜜ミント味。有り難く口の中に放り込んだ。


「落ち着いた?」
「はひ」
「じゃ、また同じ質問。名前は?」


アメでもごもごしつつ、さっきと同じことをさっきより素早く答えた。家入さんはまた髪の毛をくるくるいじりながら背もたれに身を預ける。「変わってない、な」そりゃね。なんも変わった感じしないし。

ボケッとした私を尻目に、家入さんは深々とため息を吐いた。なんだかさっきよりクマが濃くなったように見えるのはどうしてだろう。


「学生やってた頃、私が四年に上がる前か。名前が押しかけてきたんだ。術式の解釈に行き詰まった、拡張術式で扱いきれないモノができたからどうにかしたい、と」


突然、思い出話をするように始まった説明。

最初は呪力が見える五条悟に会いに来たけど腐っても特級だし、なかなか会えなくて代わりに家入さんと話すようになったのだとか。それで思いついたのが、脳を直接いじくるドーピングだった、と。

えー、つまり緊張しないツボ押して学会を乗り切るノリで、呪霊退治前に脳味噌いじくって頭良くしてたってことか。それで最強の五条先生と肩を並べたと。うそやん。


「おかげで特級呪術師になったんだ。オマエは正しかったよ」
「発想が狂人のソレ」
「新手の自虐か?」


返しの切れ味すごない?

脳味噌ぼんやりどころかパンクしそう。オーバーキルにも程がある。昨日から衝撃の過去がお腹いっぱいで過去の自分にはうんざりだ。

呪術師になって呪霊退治するために身を削るって、そんなに私って仕事人間だったっけ。そこそこ手を抜いてちゃっかり生き延びるのも手だと思うんだけど。強術式付きでテンション上がって友情努力勝利ってガラでもないし……。

………………救済、とか?


「ここで訂正だ」


ハッと思考が現実に戻る。今まで何を考えてたっけ。


「戸籍上、茂餌木名前の生年月日は1991年になっている。七海の一つ下だな」
「は、じゃあ私いま何歳です? にじゅう……29歳?」
「いや、26歳。いま2017年だよ」


そっからかぁ。前世があるのに前世より三年早く生まれてるなんてタイムパラドックスにもほどがある。現実とよく似た異世界に転生したって感じ。まあ漫画だから異世界で合ってるか。混乱するぅ。あとサラッと七海が年上だって言ったね? え? 私今まで年上にタメ口きいてた?


「一応シャットダウンしたならある程度のバグは改善されるはずだが……同じ間違いを三回連続、となると上手く機能していないっぽい」
「つまり?」
「今回のは小細工じゃ済まないかもな」


それは、私の記憶は戻らない、ということだろうか。

家入さんお得意の反転術式で治療するまでもない、と言わんばかりに両手が上げられる。これに不安な気持ちと、ちょっと安心する気持ちが半々。だってあまりに前の私がクレイジーで、思い出した瞬間にガンギマリで呪霊ハントに突っ込むイメージが頭を過った。捨て身特攻じゃん。ヤダヤダ早死にしたくない。


「ところでいつから七海とデキてたんだ?」
「私も知りたいっす」
「残念」


家入さん恋バナいけるんだ。











文字通りお手上げを食らった私は高専の廊下をとぼとぼ歩いていた。急患が入った家入さんに解散を告げられ、部屋を出たら待っていると思っていた七海がいなかったのだ。

ここまで来るのに完全に七海頼りだった私である。こっからどう戻れば良いか分からず、迷子の鉄則動かないを思い出したのは似たような角を5回は曲がった後だった。完全に戻ることもできなくて、某ネズミモンスターみたいなシワシワ顔で木造建築を歩くしかない。そういう歴史的建物と思えばかなり見所のある場所にいるのに、呪術師の施設ということを加味すれば下手なお化け屋敷より怖い。変なの作動させそう。アラートとか。


「あれ、なんでいんの?」


推定6回目の角を曲がったその先に生五条悟がいた。は?


「教室の方に顔出すの珍しいじゃん。教職に興味湧いた? 一緒に後進の育成頑張っちゃおうぜ」
「い、いや、あの」
「あ、憂太。コイツ茂餌木。僕らと同じ特級だから困ったら頼って。使える時は使えるから」
「は、はじめまして! 乙骨憂太です!」
「はゎ」


目が生き生きとした乙骨パイセンがいる。そういえば五条先生の目隠しも白い包帯だ。原作より前、というか0巻じゃん。

ぎこちなく「どうも」した私の肩を五条先生はバッシバッシ叩いてくる。いってぇ!と叫ぼうかと思ったのに体幹を鍛えすぎているマイボディ。よろめきもしなかったので、あうあうしながら耐えるしかない。その間にも至近距離からの五条先生の軽口がベラベラベラベラ。低くて良い声なのに軽薄ってなんだ。


「そういや婚約者くんとは最近会ってるわけ?」
「は? 知りませんけど」
「まだそのスタンスなの。さっすが〜!」


なんか勘違いしてるな。うりうりとほっぺを人差し指で潰されて、ふと思う。そういえばこの私は七海と同棲している。一緒に住んでる恋人ってなったら婚約者と勘違いされてもおかしくないかも。私と七海、婚約してるのか? 分からんけど一応訂正しとくか。


「婚約してない、と思いますが、一緒に住んでますよ。仲良く」
「高校生と住んでんの? 犯罪?」


オマエがマジレスするなや。

秒でイラッとしたし、なんならちょっとガン付けてたかもしれない。めちゃくちゃナチュラルに眉間にシワが寄った。もしかして前の私、五条先生と仲良くない? クレイジーなのに別のクレイジーとは化学反応で爆発する劇物か。あとどっから高校生が出てきた。


「七海、さんは高校生に見えませんけど」
「…………ああ、今日は使えない日か」


ええ、会話する気ゼロか?

それからしばらく包帯越しに私の顔を観察した後、思いっきり舌を出して「げぇ」と呻いた。


「とりあえず硝子のところ行っとけよ」
「え……さっき行きました」
「ふぅん」


それっきり顎をさすさす首を捻って、一つ頷いた。


「ま、いっか」


何が?

「おつかれ〜」身構えてた分、アッサリと私の横を通り過ぎていく五条先生。会釈しながらついていく乙骨くん。

残された私は、嵐が過ぎ去った後の謎の疲労感でぼんやりしてしまった。


「名前さん!」


そこにタイミング良くやって来たのが七海である。さては五条先生と会いたくなくて隠れてたな、と勘繰ってしまうようなタッチの差だった。

ポーカーフェイスにサングラスかけたいつものスタイルは変わらず、けれど軽く髪を撫でつけたあたり急いで来てくれたんだろう。探させた私が悪い。謝ろうと「ご」の口にしたところで年上である事実に慌てて「す」の形に矯正した。


「すいません、七海さん」
「なんですか突然」
「年下なのにタメ口でした。すいませんでした」
「やめてください鳥肌が立ちました」


立っちゃったかあ。


「高専では私の方が先輩でしたが、呪術師としてはあなたの方が先輩です。話しやすい口調で結構ですよ」


淡々と諭すように言うわりに、なんだか柔らかく包み込むような声音で。聞いているうちに耳の裏がゾワゾワッと。強い術師の条件に“ええ声”が入っとるんか。


「それで、家入さんはなんと」
「いやあそれがね、」


素直に言おうとして、ハッとした。そのまま結果をお伝えして良いものか。

家入さん曰く、自主的記憶喪失を繰り返した結果ガチ記憶喪失に陥っていつ治るかも分からないってことでしょ。私はまあ、気持ち悪いなぁ嫌だなぁで済んじゃったけれど、七海にとっては記憶が戻らない恋人なわけで。いつ戻るか分からないってかなりショッキングなことじゃない?


「どうかしましたか?」
「あ、うん、ちょっと頑張りすぎただけで、しばらく休んだら元に戻るよーって」
「そう、ですか」


うそをついてしまった。

いや、もしかしたら本当にちょっと頭を休めたら戻る可能性もあるし。しっかりご飯食べて、目の下のクマがとれるくらい寝たら脳みそリフレッシュに成功するかも。うん。知らんけど。心の中では冷や汗ダラダラでヘタクソな口笛を吹いている。ぴゅーぴゅー。


「伊地知くんからこちらを預かってきました」


悲しむなりなんなりリアクションがあるかと思った七海は、アッサリと納得して右手を掲げて見せた。重そうな手提げに入った、年季が入った容器。独特の香りは、


「ぬ、糠床……?」
「さっそく持ってきてくれたみたいです」
「はやんい……お礼言わなきゃ……」
「先ほど任務の引率で出ました。取り急ぎメールを送って後日にしましょう」


我ながらゾンビみたいな飢えた顔でじっくり凝視してしまった。もう口が糠漬けの口になってんだわ。でも今から漬けたところで浅漬けもいいところ。今日は無理でも明日。となると美味しい白米も必要なわけで。


「とにかく米、炊飯器」
「落ち着いてください。電気屋は逃げませんよ」
「うん、走ろ」
「聞いてませんね」


ここからタクシーが拾える麓まで糠床をどっちが持つか揉めた。

ついでに電気屋で買った炊飯器もどっちが持つか揉めた。結果七海がどっちも持ってったので、私は近所のスーパーで手早く買った食材を全部持った。

そうこうしている内に空はすっかり夕方である。

とりあえず一回分、ということで妥協して買った二合の米を炊飯器にセット。今日は私が作る、と名乗りを上げた時の七海の顔が傑作通り越して心外だった。そんなに前の私って(以下略)まあ食べたい物作るよ。旬のタケノコとジャガイモと玉ねぎを使って、タケノコといんげんと牛肉の醤油炒めでしょー、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁でしょー、余ってたキャベツと白胡麻と塩昆布の和え物でしょー、あとカブときゅうりの浅漬け。こっちは塩のシンプルなの。もう簡単に作れるのしか作らない。

炊き立てのご飯を辛うじてお茶碗っぽい食器によそって、おかず類は無駄にオシャレな平皿と小皿にドバッと入れて、ダイニングテーブルにセッティング。これで昨日の借りは返したぞ。

はい、おてて合わせていただいます。まずはお味噌汁をズズッと。うーん、知らん味噌の味。これはこれで美味い。お口がスッキリしたところでメインのタケノコを一口。こりこりこりっと。あ、うまーい。


「美味しいです」
「ねー、さすが旬の春野菜」
「それもありますが、名前さんの手料理だから、というのもあります。最高の調味料ですね」
「っ、っん!?」


旬野菜に殺されるところだった。いや責任転嫁は良くない。七海に殺されるところだった。

堪らずビールをグビグビグビッ。うっま。ビールにも合うタケノコうっっっま。よし正気に戻った。


「不意打ちは汚い。さすが忍者」
「何故ここで忍者が出るんですか。私は正直に言っただけです」
「ぐわっ」


辛めのビールが癒し〜。もう一口グビッと行って、我ながら恨めしげな目で睨んでしまった。


「そういうのは思い出してから言ってくれません?」
「記憶があろうとなかろうと、あなたは私の大切な人です」


もういい、わかった。分かったから、ストップストップ。


「馴れ初めを聞いたのは名前さんの方ですよ」


そういえば今朝聞きましたね!? でも答えるのは今かな!?

人質に銃口を向ける犯人を宥める警官の気分で、箸を持っていない方の手を突き出す。それでも七海は止まらなかった。


「あなたと初めて出会った頃、私たちは学生で、お互いがむしゃらに任務に明け暮れていました。名前さんは既に特級になれるポテンシャルがあり、心身ともに強い人だと、勝手に思っていたんです」


でも、と箸が置かれる。大きな手が所在なさげに彷徨って、結局両手で指を組んだのが緊張しているみたいだったから。私もなんとなく箸を置いてしまった。


「あなたは存外弱かった」


じっとりと熱っぽくて、ほんの少し湿っぽい緑色の目。目が見えてるってことはつまりサングラスをかけていないってこと。サングラスをかけていない七海は漫画ではあまり見ない顔で、漫画の七海建人じゃなくて普通の大柄な男の人にしか見えなかった。

この時、私は初めて七海建人が実在の人物だと強く実感したんだ。


「あなたの心を、私が守ってやりたい。私だけがあなたに寄り添える人間になりたいと、心から」


七海は一切動いていない。ダイニングテーブルを挟んで距離があるのに、視線だけでどうにかされそうなほどの力強さがあった。


「前のことを思い出さなくてもいい。どんなあなたになっても構わない」


グッと寄った眉間のシワとか、一瞬噛んだ唇とか、大きく上下した喉仏とか。嫌に目ざとく見つけてしまったのは、この体が特級ボディだからで、相手の本気度をダイレクトに受け取ってしまったのも、きっとこの体だからだ。



「名前さんが好きだ」



この体が、七海が好きだと叫んでいる。





>>>>>>>>>




「私って、小さい頃呪霊が見えなかったんですよ。一般人並みの呪力で、家も呪術界の存在知ってる程度のほぼ一般人。フツーの女の子としてフツーに七五三すませたんです」


初めて顔を合わせた後輩に自分語りされるのはかなりウザかった。

それでも耳を傾けたのは、夏油がやらかしたせいで教室が広くなって、五条がイイ子ちゃんの真似をし出した辺りで、歌姫さんとの交流も減っていた時期だったから。後輩でも、“優等生の五条”と噂の術師でも、女子は女子だ。ちょうど手持ちの煙草を吸い切って手持無沙汰になっていたからかもしれない。

せめてもらったガムの味がしなくなるまでは聞いてやろう。


「小三だったかな、まあ、そんくらいの時に事故って頭打って、そっからですね。私の呪術師人生」
「ほぉーん」


ちょっと興味が湧いた。呪力と脳の関係は仄めかされていてもブラックボックスの内だった。


「それでも並っていうか、並以下、みたいな。雑魚に毛が生えた程度だったんですよね」
「雑魚が準一級になれるわけないだろ」
「がんばったんすよ」


えへんと胸を張るあたり五条よりぜんぜん可愛げがあった。ガムはまだ味が残っている。


「それで高専に入る前にね、母に言われたことを思い出したんです。──私って眠っている時の方が呪力が多いらしいですよ」


眠っている時。レム睡眠か、ノンレム睡眠か。そこに呪力と何の関わりがあるのか。


「一緒に勉強しません? 家入先輩」


ガムはとっくに味のしないガムになっていた。それでも私は知的好奇心のおもむくまま、茂餌木名前の話に乗ったんだ。

味がしなくなったところで、席を立てばよかった。




>>>>>>>




この二年、あれやこれやと勉強して分かったことは、名前がイカレていること。術式を扱うために自分の脳で実験するようなヤバいヤツだ。いや、現実が見えてないっていうか、まるで他人事みたいに人生を生きている。

頭の中に呪力でできた水草を生やし、生命維持に不要な部位を一つ一つチェックしながら潰していく。言語野は理解する方は残して言葉を発する方は潰したり。短期記憶を潰して疑似的な記憶喪失を作ったり。表情筋だけを動かなくしたり。いっそ直立できる分だけの神経を残してそれ以外を捨てたり。最低限心筋や呼吸器や血管平滑筋や、とにかく命にかかわるものは触れないように注意した。それでもたまに心肺停止になって慌てて反転術式を施したっけ。

ここまで危険なことを何度も繰り返したのは、ちゃんと結果が付いて来たからだ。


「天与呪縛、ね」


ブラックボックスからとんでもないレアケースが飛び出したもんだ。

“植物状態に近付くほど呪力が増す”。一時的に神経を遮断し脳の使用領域を制限することで名前は膨大な呪力を得、三年の終わりに領域展開を習得するまでになった。今は意識がない状態でも戦えるようにオートマ化を熱心に研究していた。


「そういや婚約者できたってマジ?」
「知らんジジイが勝手にボケてるだけっす。だって相手小学生ですよ?」
「犯罪じゃん。やっべー」
「犯罪教唆だよマジ」


その時の名前は変わらず元気で、アホみたいにイカレた後輩だった。

可愛い後輩だったんだ。




>>>>>




私が医師免許を引っ提げて高専に戻ってきた頃。異変は確かに感じていた。

名前は昔と変わらない笑い方で私に話しかけてきた。滅多に怪我を負わない特級だからこそ、自主的に手土産持って会いに来てくれた。どこかから私が禁煙している噂を嗅ぎつけてそこそこ値が張る飴を置いてったり、たまに居酒屋で駄弁ったり。何も変わらないはずだ。けれど、どこかやつれて見える。

その答えは、珍しく任務に同行したあの時に知った。


「うぁっしかおうぃえうんどしっぁっを」


瞳孔の散大。上腕筋と表情筋の弛緩。言語能の衰退。明らかに潰し過ぎている。

あんなに精密にコントロールしていた植物を雑に扱っている。雑に潰して、雑に呪力を絞り出して、雑にオートで術式を展開し、雑に呪霊を祓っている。パサパサの髪を振り乱し、口の端からヨダレをこぼして、植物に支えられながら直立する名前。まるで自傷だ。

明らかに、異常だった。


「もうやめな。アンタ、ダメになるよ」


心からの忠告だった。呪霊と戦って殺されるより先に、頭が爆発して死ぬ方が早い気がした。

正気に戻った名前は、うっすらとクマが乗った涙袋を持ち上げて、昔と同じ笑い方をした。


「硝子さん、前世って信じますか?」


「忘れれば忘れるほど、前世を思い出せるんですよ」突拍子もない、統合失調症の陽性症状にも似たテンションで、歌うように囁く。

もう、手遅れかもしれない。









「硝子、アイツの頭ン中最悪だよ。脳みそびっしり草だらけ。動いて会話できてんのが不思議なくらいなんだけど」


「手遅れじゃね?」軽い調子で報告してくる五条に無言で頷いた。

ああ、タバコ吸いてー。




***




言ってしまった。あんな、食事中に言うべきではなかったのに。

あまりにも、幸せなことが連続するから。名前さんが、しばらく元に戻らないと言うから。思いのたけをそのまま口に出して、まるで学生のように拙い言葉を彼女にぶつけてしまった。

あんなこと、今まで一度だって言ったことがない。馴れ初めなんてものはないのだから当然だ。

それでも名前さんが、学生のように狼狽えて、学生の頃でさえ見れなかった顔で私を見た。あの衝撃が計り知れなくて、忘れられなくて。いつまでだって覚えているのだろうと確信してしまった。

もうこれ以上は望まない。このままが永遠に続けばいい。本心から思っているのに。



「七海のポテンシャル半端ねぇ。すごくドキドキした。やっぱりそういう、気持ちってやつ? 体が覚えてるのかなー。……なんちゃっ、」



これ以上を容易く超えていくようなことを言うから、もっともっとと強請ってしまった。


あなたの唇だって、ずっと欲しかったんですよ。








← back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -