サッちゃんとエッちゃん



壊相はいつも暗闇の中にいた。

はじめは木桶に産湯を溜めて浸かっていた気がする。次に盥か、また別の桶か、漆塗りのお碗だったかもしれない。とにかく上から蓋をされ暗いぬるま湯の中を揺蕩っていた。近くに初めからあったのは自身より強大な呪力。その後次々に別の呪力が増えていき、合わせて九つ。同じ人間から血肉を与えられ、産まれる前に外に引き摺り出された。日の目を見ることなく小さな入れ物に押し込まれる日々。聞こえてくる言葉は呪詛でしかなく、己が人間の好奇によって作られた矮小な玩具であることを理解する。その間も他八つの呪力が細波のように魂の芯を震わせた。きっと自分もそう。

長く暗闇の中にいて、その間に六度、耐えがたい苦痛が魂を襲った。声帯も未発達な胎児の身で呻くことしばらく、その場の呪力がポッカリ失われていることに気付く。六度、隣の強大な呪力が蠢き、逆隣の呪力も同じように蠢いた。きっと自分もそう。

兄弟、家族、呪霊、呪物。
全て人間の呪詛から識った。

強大な呪力を持つのが兄の脹相、自分よりも少ない呪力の弟血塗。己の名は壊相。近年になりガラスの円筒に移し替えられ、初めて兄弟の姿を見た。そこに、六人の弟たちの姿はなかった。

呪術師と呼ばれる人間が自分たち兄弟の所有権を有している。母を弄び自分たちを作り上げた男と同じ呪術師が。一人を除いて呪術師に思うところはない。しかし弟たちと離されたことはどうあっても許せず、怒りとも嘆きとも知れない感情が湧く。兄からも、弟からも。きっと自分もそう。

だからこそ三兄弟は特級を冠することになったし、他者を害さない縛りを結ぶ結果となった。ただ、これ以上奪われたくなかった。ガラス越しの兄弟を見る。漏れるわずかな呪力を感じ、血の繋がりを頼りに大まかな快不快を感じ、それだけだ。だったそれだけを毎日繰り返して150年。六人の弟を六度失った恐怖は変わらない日々にこそ喜びを見出す。

今日もきっと昨日と明日と同じ今日のはずだった。

兄が震える。怒り、嘆き、恐れる。きっと自分もそう。

隣にいるはずの血塗が呪術師の手に寄って拐かされた。呪力が分からないのは忌庫の外に持ち出されたからで、血を辿って気配を探れぬほど遠くにいる。

弟とまた引き離された。これほど恐ろしいことがあるだろうか。

150年の内、六度経験した痛みが再び襲ってくるかも知れない。壊相の小さな体躯を奈落のような不安が蝕んでいく。ないはずの皮膚から冷や汗が浮かび、揺蕩うという言葉が相応しくないほど忙しなくもがいた。兄はなだめすかすような視線を向けてきたが、きっと同じ気持ちに違いない。

150年のうちで一番恐ろしい時間は、血塗が戻ってきたことで終わりを見せた。

ゴトン。血塗が入った容器が目の前に置かれる。液体の中でゆらゆら揺れる弟は些か呪力が減っているが、伝わってくる感情は安堵が強い。無事を喜びつつも、新たに増えた呪力を乗せた縛りに自然と兄の視線が鋭く尖った。

呪力の元はすぐそこから辿れた。

黒衣に渦巻きボタン。呪術師の子供の証を身につけた青年は、片腕に幼児を抱えてこちらを見下ろしていた。


「脹相、壊相、血塗。話をしようか」


青年は夏油傑と名乗った。

仁王立ちから目線を近づけるためにしゃがみ込む。それでも壊相たちより顔は上にあり、見下ろされていることに変わりはない。食えない細目が値踏みするようにガラスの縁をなぞる。話をしようと言うが、声帯が使い物にならない兄弟が言葉を交わせるわけがない。友好的な態度とは裏腹に、始まったのは話し合いの皮を被った拒否権のない決定事項の羅列。気持ちが良いとは決して言えない夏油傑の話は、血塗が腕の中の子供と結んだ縛りの内容だった。


「血塗はこちらの不手際で忌庫から持ち出されてしまってね。ある術師の術式によって一時的に呪力を抜き取られ、縛りを結ぶに至った」


兄から殺気が放たれる。
きっと自分もそう。


「ま、その反応は予想していたよ。そうだね、とりあえずサッちゃんの術式開示から始めよう。その方が話が早い」


“さっちゃん”。

突然差し込まれた第三者。明らかに真名ではない呼び名はこちらを警戒してのことだろうか。

時折縛り損ねた髪を引っ張ろうとする小さな手。無骨な人差し指であやしながら、まるで水が上から下へ落ちるように夏油傑は言葉を垂れ流す。


「サッちゃんの術式は呪力とそれに付随する意識を生得領域に引きずり込む。領域内で呪力を消化することが術式の大元だが、消化できる許容量が決まっていてね。消化しきれないと判断した段階で自動的に解除される。私はこれでも特級術師。呪力量は人間の中でも五指に入ると自負しているが、それで30分だ」


「そして」と付け加えると共に幼子の手から人差し指を抜き取り、血塗の方を指差した。


「特級呪物・呪胎九相図三番。君は恐らく数分、サッちゃんの生得領域内に這い入り、願った。──“兄に会いたい”、と」


壊相と脹相は揃って血塗に意識を向けた。血塗は変わらずガラスの向こう側で揺蕩っているが、どことなく戸惑っている気もする。


「サッちゃんの生得領域内では呪力と知性さえあれば君たち呪物でも会話が成り立つ。だからこそ言葉による明確な縛りが結べた。勘違いがあってはいけないから一応訂正しておこう。縛りを持ちかけたのは血塗、サッちゃんは頷いただけ。ゆえに血塗が縛りを放棄すればサッちゃんも代償なしで応じるよ」


放棄しろ、という圧が脹相から放たれる。いや、本人に圧をかけている自覚はなく、ただ弟の身を案じているだけだ。きっと自分もそう……そのはずだった。

壊相は血塗の戸惑いが分かる気がした。

“兄に会いたい”。今だって会っている。離れたことは一度とてない。視界が開けたことでより近しく感じられた。呪力に加えて簡単な感情の機微、生きている気泡の浮上。視覚情報を得て満足していたこの数十年。

けれど血塗は知ってしまった。会話という一方通行ではない繋がりを、“さっちゃん“なる人間の領域内で約束された自由を。

兄弟と本当の意味で会えるかもしれない、なんて。ちらつかせられて無視できるか。

壊相は兄である前に弟である。だからこそどちらの気持ちも分かって、……結局黙るしかなかった。たとえ声帯があったとしても唸るばかりで言葉は出なかっただろう。

150年の暗闇の中に、一滴の希望が落ちた。


「答えは二週間後、血塗の口から聞く。詳しい話はそれからだ。君たちにとっては瞬きに等しい時間かもしれないが、じっくり考えてくれ」


夏油傑はあっさりと立ち上がり、壊相たちに背を向ける。何をできるわけもないのに視線を向け続け、肩口に丸い瞳と目が合った。


「けぇ、まあ」
「おっと」


肩をよじ登ろうとする幼児。落ちないように抱え直した夏油傑は、可愛くて仕方がないと言わんばかりに眉を下げた。


「サッちゃんはお転婆だね」


“さっちゃん”。あの子供が。


「まあ、ねぇ」
「バイバイしたいのかい? サッちゃんはお利口さんだね。ほら、バイバイ」
「ばいばぁ」


夏油傑が振り返る。腕の中の“さっちゃん”がこちらからよく見えるようになった。今まで見てきたどんな人間よりも小さく、柔らかそうで、何より無垢だった。呪いなど知らぬ、暗闇など向こうから避けて然るべきだと。純粋な命の輝きは、生まれることができなかった壊相に爪を立てた。

扇ぐように腕を振り、勢い余って夏油傑の腕まで叩く“さっちゃん”。そうして満足したのか、二人は来た時と同じように帰っていく。

暗闇は再び静寂に満たされた。



二週間という時間感覚を壊相は知らない。向こうも理解出来るとは思っていないだろう。だからこそあの男は理不尽であり、所詮呪物だとこちらを見下している。何より、考える時間がなくとも血塗の意思が固いことなど最初から分かりきっていたのだ。


「縛りを一つ増やす」


脹相からの殺気は隠し切れていない。壊相も同じだ。そんな話は聞いていない。「言っただろう。詳しい話は後でって」睨む兄二人に夏油傑は余裕そうに嘯く。信用ならない男だ。血塗の意思に委ねるしかない今、必死に『考え直せ』と圧をかけるしかない。

夏油傑はわざとらしく肩を竦めて見せた。


「そちらの不利になることはない。むしろ目的達成のために必要なことだ。──君たちにはサッちゃんの術式の練習に付き合って欲しいんだ」


夏油傑曰く、“さっちゃん”の術式は開花したてで、術式として扱うには不安定すぎるのだとか。呪霊よりも人に影響が大きく、暴走すれば味方を傷つけかねない。その点、呪力が豊富である自分たちの方が術式と相性が良いのだと。


「血塗で数分なら三兄弟で恐らく1分も保たない。特級呪物を三つ入れても数時間保つようにする。そのための練習だよ」


「分かってくれるね?」と返事も聞かないくせに尋ねてくる。やはり気に食わない。壊相は早くも血塗を真剣に止めなかったことを後悔し始めていた。


「サッちゃん、血塗とお話しておいで」
「ぁう」
「縛りの内容は、血塗を兄二人に会わせる代わりにサッちゃんの術式確立に付き合う。双方が納得ずくの場合に限り代償なしで解除されるものとする。話し合いが終わり次第、同様に脹相と壊相とも縛りを、……!?」


────ずるり。

引っ張られる。否、押し出される。頭蓋を柔く潰されて、手足の自由が利かないまま狭い道を通っていく。痛みはない。苦しみもほとんど。ただ一度として経験したことのない感覚に自然と涙がこぼれた。そう。経験したことがないのに、懐かしい、と。

“私はこれを望んでいた。”

まだ平らな腹を裂き無理やり取り出された胎児。母に愛を囁かれることも撫でられることも乳を与えられることもなく、憎い男から名前だけを与えられた。ようやく、手に入れられなかった何かを得られた気がした。

それから起こったことは、白昼夢にも満たない瞬きの刹那。しかし壊相にとっては、そして脹相にも過ぎたる情報の奔流に違いない。

──足がある地面に立っている視界が広い腕が太い指の感覚がある鼻がヒクリと動く湿った匂い肌が寒い風が撫でる喉が震える「ぁ」が飛び出す眼球が動く睫毛が端にかする女が立っている女がこちらを見ていないどこを見ている私の横を何なになにがあるそこには緑色をした、《さっ"ちゃん》

わたしのおとうと。────パァンッ!



「こらこら、全員飲み込んだら話し合いにならないじゃないか。サッちゃん、めっ!」
「うぁん」


壊相はしばらくの間、自分が何故狭いガラスの中に閉じ込められているのか分からなかった。酷い悪夢に魘されているようにガラスにトンとぶつかる。当たり前に壊せず、衝撃で寝惚けていた思考が明瞭になった。……今いるここが現実なのだと。


「体感で3秒か。まあ私も入ってしまったからね。サッちゃんの術式体験コースということで、逆に良かったのかもしれない」


夏油傑に促され、今度こそ“さっちゃん”は血塗を連れて行った。たった数分、されど数分。弟の肉体から呪力が抜き取られる様を目の前で突きつけられる。ついさっきまでの壊相なら生きた心地がしなかったはず。けれど今は、純粋に思ってしまう。

羨ましい、と。


「縛りは正常に結べたみたいだね」


少なくなった呪力と重くなった縛り。今度ばかりは、脹相も静かに見守っていた。

壊相と弟の友達のサッちゃんとの関係は、この時から始まっていたのだろう。


最初の数年は期待した。すぐに兄と弟と会えるのではと。しかし寿命の割に人間の成長とは存外遅く、サッちゃんはなかなか術式を安定させられなかった。期待は落胆に変わった。ただ呪力を食われるばかりの弟を眺め、騙されているのではと疑念が湧く。特級呪物の呪力を少しずつ削る策なのでは、と。

出会った頃のサッちゃんは一歳で、一人で忌庫まで来ることはできなかった。ゆえに付き添いとして夏油傑もやって来る。血塗がサッちゃんの領域に行っている数分間はあの胡散臭い笑みを見ることになった。余計に不満は溜まった。今の人間はこういうのをストレスと言うらしい。疑念とストレスとがない交ぜになった視線を向けても、夏油傑は意識のないサッちゃんを抱いて手元に夢中だ。


「携帯電話だよ。遠くにいる人間とやり取りができる。君らの生まれた時代にはなかった文明の利器さ」


こういう知識や情報をたまにポツリと漏らしたり、一切合切こちらを意識の外に置いたり。そうして年を経るごとに携帯電話をいじる時間が長くなった。

それでも保って一時間だった。



「フツーに肉体が追いついてねぇわ。成長期まで乞うご期待」


ある時、一度だけ夏油傑じゃない男がサッちゃんと手を繋いでやって来た。

夏油傑と違い、こちらに話しかけることなくしゃがみ込みサングラスを外す。体の芯から凍えるような蒼い瞳を向けられ、震えすら感じた頃に血塗はまたサッちゃんの中に引き摺り込まれた。そうして一時間後。意識が戻ったサッちゃんに吐き捨てるように言い放ったのだ。


「どれくぁい?」
「15、いや、女なら12か?」
「あとななねん」
「オマエが雑魚じゃなかったらな」
「うーー」


言葉を話せるようになったサッちゃんは、一人で歩けるようにもなっていた。男の膝に預けていた頭を持ち上げ、再び頬を膨らませて寝転がる。男の指が柔い頬を容赦なく潰し、小さな口から空気とツバが外に飛び出した。「うわ汚ねっ」「うーー」「オイ、拗ねる前に頭使えって」「うーー!」「ガキだねぇホント」乱雑にサッちゃんの頭をかき混ぜ、サッちゃんが不満そうに唸る。その繰り返しの末、男はサッちゃんを小脇に抱えて立ち上がった。


「体に見合わないなら見合うようにするんだよ。無理やり広げるよりサイズダウンさせた方が早いだろ」
「さんにんいれぅの。はいらないの」
「リソースの割き方を考えろって」
「うーー……ごじょーのくせに」
「保護者を敬えや」
「!? びぇ、びぇぇぇ!」
「デコピンで泣くな……マジで泣くなよ!?」


騒がしい。きっと眉があったら顰めていた。

結局男はこちらを一切気にせずにサッちゃんを連れて帰ってしまった。

残ったのはいつもの暗闇。

男の口ぶりからして、サッちゃんの術式が安定するには肉体の成長を待つ必要があるのだろう。すると向こう七年は術式の練習をする必要がなくなる。つまりここにわざわざ足を運ぶ意味もなくなり、再び静かな時間が訪れるということ。

騒がしい子供と胡散臭い夏油傑の顔を見なくて良くなった反面、兄弟との時間が遠のいた事実。何より壊相の中で妙なしこりが存在感を主張している。その正体は、きっと血塗の方が色濃く鮮やかに違いない。隣から震える呪力が明確に兄二人に伝わり、脹相が不服そうに揺蕩った。

サッちゃんと会えないのは寂しい、と。



「こんにちわ」


再会は七年よりも早くやって来た。

黒革の鞄を背負ったサッちゃんに付き添いは誰もおらず、強いて言えば忌庫番の男が一言二言声をかけて出て行ったくらいか。

サッちゃんは両腕に抱えていた座布団を床に敷き、同じく抱えていたタオルケットに包まる。黒革の鞄からいそいそと取り出した自由帳と鉛筆。床を机代わりに何事かを書き出し、しばらくしてからこちらに見やすいように突きつけてきた。


「あたらしくお部屋をつくろーとおもいます」


なんですって?


「おなかいっぱいになるからパァンッしちゃうの。なら食べないようにすればいいんじゃない?」


見開きの自由帳を縦にし、下のページいっぱいに楕円を、上のページいっぱいに四角を書く。「こっちがいぶくろね。今までいたとこ」と楕円をぐるぐるとなぞる。今物騒なことを言わなかったか?


「んでね、飲み込まないで貯めておくの。きょうテレビでペットの番組みたの。ハムちゃん!」


今度は四角をぐりぐりなぞり、トントン鉛筆で叩く。


「いぶくろにいく前のえんとらんす! 作ろーね、ケイくん!」


まったく分からないまま、呼応するように奮い立つ弟の呪力を感じた。

弟よ、それでいいのか。

そうこうしているうちにサッちゃんは鉛筆で四角の中を黒く埋めていく。「いめーじはぁ、トト□のくさかべさんちね」だから何。クサカベ誰。粗方余白を埋め尽くしてから、サッちゃんは再びこちらを見た。いつもよりも緊張した面持ちで、血塗が入ったガラスの容器を引き寄せる。抱き抱えるようにタオルケットの中にくるんで、ゴロンと座布団の上に横になった。


「サッちゃんね、しょーがくせーになったの。これからはひとりで行きなさいって、げとーが」


タオルケットの中の血塗の容器に頬を寄せ、ポツリと呟く。暗闇ばかりが広がるここでは声量なんて関係なかった。



「おとなになりたくないや」











暗闇はどこにもなかった。

あまりにも色が多くて、壊相は頭痛のような衝撃を受けた。光がこんなにたくさんある。どこからか差すばかりだと思っていたものが全てを覆い、影という概念をようやく理解できた。

実に150年の月日を経て、壊相は初めて光の中に立っている。

呆然と立つ壊相の腕に触れる感触。引っ張る手は緑色。忘れようがない。あの時、たった数秒だけ見た色。


「兄者」


記憶の中と同じ声が、記憶よりなお鮮やかに兄を呼んだ。


「けちず」


緑色の肌の小さな体が壊相の腰に体当たりした。

サッちゃんと同じくらいの背丈で、Tシャツと短パンを着た普通の男の子。髪の生えていない頭は丸くて、手を置けば肌馴染みがよく収まる。抜けが目立つ歯をあらわに笑う顔。そこに眼球はなくとも壊相を見ていることは分かった。

踏ん張ることができずに押し倒された壊相は、後頭部に走った衝撃に驚いた。感じたことのない痛み。手でぎこちなく探れば赤い三角の木板。他にも鮮やかな色をした物が鮮やかな床の上に散らばっていて、未知の空間にしばらく固まる。

本当に知らない場所だった。忌庫と比べるまでもなく狭い立方体の部屋。天井には円盤状の白い何かがへばりついているし、倒れ込んだ床は妙に柔らかい。いつまで寝ていても体が痛くならないだろう。

呆然と光の奔流を受け続けるしかない壊相に、上から覗き込む顔が二つ。


「ケイくんが飛びついたからエッちゃん頭打ったんだよ」
「兄者ぁ、おれのせいで頭打ったのかぁ?」
「エッちゃん、もどってきて」
「ゴメンよぉ。わざとじゃねぇんだ、ゴメン兄者ぁ」


血塗の隣にいるのは見たことのない女だ。丸い目が印象的な、頭に布を巻いた女。編んだ髪を後ろに払って壊相を“エッちゃん”と呼ぶ。

いつだったか、血塗とサッちゃんが喧嘩したことがあった。いつもよりもだいぶ早くサッちゃんが目覚めて大泣きしたのである。血塗は血塗で呪力が波打っていたし、釣られて脹相も鋭い視線を向けた。初対面の時よりは幾分柔らかく、嗜めるような軽いものになっていたのを壊相だけは察していた。しばらく泣いて満足したのか、サッちゃんはポロポロと脈絡のない言葉をこぼした。曰く、『ケイくんのお兄ちゃんって呼んだの。サッちゃんのお兄ちゃんじゃないもん。別にお兄ちゃん盗るつもりじゃなかったもん』と。

兄を盗られまいと友達に怒る弟。これで照れない兄がいようか。脹相と壊相はしばらく弟の方を向けなくて大変困った。『ケイくんのばかぁ』という普段なら怒る言葉もスルーできる。それ以降、サッちゃんは明確に脹相を“チョーさん”、壊相を“エッちゃん”と呼び始めた。

呼び名を決めたなら使わなければ意味がないと、術式の練習が終わってもサッちゃんは長く忌庫に居座った。門限の5時に目覚まし時計を合わせ、その日の血塗との会話や術式の進捗についての報告、学校の宿題をしながら外の話を壊相たちに聞かせた。やはり分からないことが多かったが、それでも少しずつ知識は増えていった。


「エッちゃん、とりあえず服きよー?」


見た目は違くとも、この女はサッちゃんなのだろう。

血塗と一緒に腕を引っ張ってなんとか壊相を起こそうとしている。腹筋を使って上体を起こせば、タオルケットを肩にかけられた。

血塗と違って壊相の体は色黒で妙に筋肉質だった。呪物の自分は兄や弟と比べて細い体だったのに、人間になると大男と言っても過言ではない。これは壊相の願望だろうか。それとも、呪力がこうあれと形作ったのか。


「パパのふく入らないねぇ」
「入らねぇなぁ」
「ぱぱ、とは?」
「サッちゃんのパパ!」


そういえば、結局“トト□のくさかべさんち”は早い段階で頓挫したらしい。自由帳をぐちゃぐちゃにしてから新しいページに書き出したのは、


「サッちゃんのおうち! ママとパパとサッちゃんのおうちにしたの!」


タオルケットをぐるぐると体に巻き付けられ、血塗が飛び跳ねながら長椅子に壊相を導く。「俺アレ見たい! 赤い魚のガキが出るの!」「ぽにょは今度! さいしょは夏油が決めたの!」何やら言い争いながらサッちゃんが黒い物(リモコンというらしい)を操ってテレビをつけた。これがテレビ、これがアニメ、これが、と血塗が矢継ぎ早に教えてくれる。サッちゃんは何度もリモコンをいじくって、見せられたのは妖怪という呪霊に良く似た創作上の生き物の話だった。

父親を名乗る目玉を頭に乗せて人と妖怪の問題を解決していく少年。困った人がいて、困らせる妖怪がいて、少年が術を使って退治しよう、というところで壊相は急に領域の外へと放り出された。時間切れらしい。


「もくひょーはぽにょをぜんぶ見ることね」


現実のサッちゃんが自由帳にデカデカと書く。イマイチ理解できない目標設定に、血塗は「おー!」と言わんばかりに呪力を震わせた。

そうして壊相初めての弟との時間は呆気なく終わったのだ。

それから何度も何度も繰り返しサッちゃんの中に呼ばれた。いつもの長椅子、ソファに壊相を座らせ、サイドを血塗とサッちゃんが座ってテレビを見た。たまに絵本や積み木やぬいぐるみ遊びをしたり、チラシの裏にお絵描きをしたり。

サッちゃんのおうちは、サッちゃんの記憶の中のおうちを写しているらしい。一歳のサッちゃんが過ごした部屋でありながら、テレビの内容は成長の過程で見た番組らしい。たまに実写のドラマというものも流れたが、男女が口吸いをするところでいつも途切れてしまう。「夏油が消しちゃうの」と、大人に近い顔でサッちゃんは頬を膨らませた。

「エッちゃんも着れるふく、がんばっておぼえるね!」とは言う。壊相はタオルケットにくるまったままで構わなかったが、「チョーさんもパパのふく入らなそう」と言われれば確かにと納得した。その日はドラマを見ながら俳優の服を指して「兄者に似合いそう」「兄さんならこっちの方が」「ケイくんコレ着て!」と盛り上がった。

知らない言葉を知る。知らない文化を知る。知らない遊びを知る。

弟を抱き上げ頭を撫でることも簡単にできる。話しかけて、話しかけられて、話し合えて、笑い合える。暗闇なんてどこにもないが、見えないだけですぐそばに寄り添っていた。

サッちゃんが死ねばこの世界は終わる。どころか、縛りの効果が薄れれば終わる泡沫の夢かもしれない。また新しい150年が来て、暗闇の中で呪力の揺れと生きている気泡を頼りに兄弟を見るのか。いつか訪れるだろう血塗の死の痛みと、自分が兄に与えるだろう痛みに怯える日々が始まる。

それでも、壊相は心から笑みを浮かべられた。


「兄者?」
「エッちゃん、まつげ目にはいった?」


涙を流して、血塗に心配され、サッちゃんに抱きしめられた。小さな胸の奥から心音を聞くと、呪われた身が削られる心地だった。

母の記憶はない。父たる呪霊のも。一番古い記憶は加茂憲倫の呪詛。子守唄の代わりに力ない悲鳴と狂人の失笑を聞いた。領域内のサッちゃんは母ではない。母になる前の女だ。健やかで、柔らかくて、脆くて。悲鳴はきっと母に似ている。もしもその時が来たなら、壊相は耳を塞ぐよりも手を伸ばして背に庇う方を選びたい。

この狭い立方体の部屋の中でしか自由に動けない身だとしても。壊相は弟と弟の友達の戯れを見守っていたい。

テレビの中で、半人半魚の女の子が人間の男の子に口付けを贈った。



「本当はね、縛りを持ちかけたのはサッちゃんの方なんだ」


いつもの時間に、夏油傑が珍しく姿を現した。我が物顔でソファに座り、壊相に隣りを勧める。サッちゃんが用意したシャツとスラックスの姿で壊相は腰を落ち着けた。


「血塗が泣いていたのは本当さ。兄に会いたいと言ったのも本当。ただ“会わせてあげる”と約束したのがサッちゃんで、血塗は頷いただけだ」


『縛りを持ちかけたのは血塗、サッちゃんは頷いただけ』


「……真逆じゃないですか」
「うん。ごめんね」


今さらになって真実を明かした夏油傑は、やはり信用ならない男である。形だけの謝罪すら鼻につき、それでも前よりはいくぶん察して余りあるものがあった。


「サッちゃんを守りたいんですね」
「うん」


サッちゃんは血塗とテレビの前を陣取って、魔法という異国の術を使う少年が学校で事件を解決する映画を見ている。彼の出自は、代々術師の家系で育った術師の男と非術師から生まれた術師の女の子供だった。

初めて見た妖怪のアニメにも、それ以降に見たアニメも、半人半魚の女の子も、魔法使いの男の子も。みな異種族、異人種の混血がどこかにいて、人を助け、人を愛し、人に愛されていた。意図を感じざるを得ない選抜に気付いたのは、壊相が心揺さぶられた後の祭り。

サッちゃんを弟の友達だと認めた、後の祭り。


「サッちゃんはね、一人なら自由に忌庫に出入りできるんだ。どうしてだと思う?」
「忌庫番の手引きがあるのでは?」
「前世が星漿体だったから」


「と、私は思うんだけど」などと笑って言える神経を疑った。

星漿体。忌庫番が漏らしているのをたまに聞いたことがある。あれは何年前のことだったか。外の騒がしさに目を向けたものの、何も分からずに封印を守るしかなかったあの頃。天元という術師の次の器だと聞いたが……。


「14歳で星漿体としての役割を強要され、同化する前に殺された。サッちゃんはその生まれ変わりなんだ」


では、ここにいる顔立ちが異なるサッちゃんは、前世の姿だとでも言うのか。

セーラー服がシワになる座り方で血塗と戯れ合う女。もはや中身どうりの年齢くらいにしか思えないが、時代が時代ならば子を産める女だ。彼女は壊相たちが忌庫で暗闇に覆い尽くされている間に死んだのだと。


「天元様は今日まで安定している。可能性としては別の星漿体と同化したか、新たな星漿体が誕生したか。私は後者じゃないかと睨んでいる」
「まさか、サッちゃんがそうだと?」
「否定の材料が見つからなくてね」


そこで初めて、夏油傑は一切の感情を削ぎ落とした。細い目を半開きにし、どことも知れない宙を見つめて黙る。その横顔は地獄の釜の蓋がいつ開くのかと見定める獄卒のように触れ難い。



「今度こそ、未来を保障してあげたいんだ」



その感情は、他人事ではなかった。

壊相は少しだけ夏油傑という呪術師に対しての認識を改めた。そうか、この男も自分たちと同じなのだ。人も呪霊も呪物も関係ない。守りたいものがあり、退けぬ正念場がある。


「あなたも立派な兄なんですね」
「いや、私はママだけど」
「え?」
「ん?」


ママとは女親のことではなかったか?


「パパでは?」
「ママだよ」
「はい?」
「うん?」


壊相と夏油傑はしばらく見合って、分かり合えない現実に直面した。

やっぱりこの男ヤバい。











壊相の最近の悩みは兄だった。

弟とサッちゃんの領域から帰宅すると、いつも脹相からの視線が突き刺さる。察するまでもない。寂しいのだ。最初は警戒に警戒を重ねた場所に弟たちが言ってしまう心配があったのだろうが、サッちゃんがいちいち「きょーはケイくんとテレビを見ました」「エッちゃんと色ぬりしました」「三人でおままごと! ケイくんが旦那さんで、エッちゃんが赤ちゃん!」「夏油がそろそろドラマぜんぶ見ていいって」と報告するものだから、徐々にしょんぼりと落ち込んでいく。

一人残される脹相のために、サッちゃんは領域内の時間経過と関係なく任意の時間に目覚められるようになった。それでも弟の話に入っていけない現実が辛いのだろう。それは血塗が単身で遊びに行っていた時に壊相も経験した感情だが、脹相はそこに孤独も乗っかっている。


「チョーさんは来週ね、夏油がチョーさんもそろそろって!」


だから、サッちゃんのその言葉に壊相は心底ホッとした。やっと兄弟三人で会える、縛りを果たせること以前に、兄の悲しみを払拭できるだろうと。

脹相は目に見えて大きな気泡を量産しだし、血塗も同じようにガラスの中でおおわらわ。きっと自分もそう。

ニコニコと自由帳を開いて、「ケイくんとね、チョーさんに見せたいアニメ考えたの。さいしょはあんまり入れないからね、短いの!」あれやこれやと書き出すのを、ガラス越しに三人で覗き込んだ。

10年。サッちゃんが幼児から子供になるまで、三人と一人は短い時間をたくさん共有してきた。できることならサッちゃんが死ぬまでこの関係が続けばいいと思う。




「うっうっ、う"ぅ"、サッちゃん……なんでだサッちゃん"ん"ん"……ッッ!!」



泣いている。
大事な兄弟が泣いている。

今までの暗闇とは違う、薄暗い部屋の中で血を分けた兄弟が。身も世もなく目や鼻から汁を垂れ流している。

あまりの悲惨さに、壊相と血塗は脹相の肩を叩き抱き寄せ頭を撫でた。

やっと、やっとサッちゃんの術式が兄弟三人を許容できるようになって、来週を心待ちにしていたのに。来週が来る前に三人は誘拐された。突然真人という呪霊に拐かされ、額に縫い目がある術師に唆されるまま勝手に人間の口に押し込まれ、受肉したのだ。

これにより血塗は額に顔の名残がある球体に手足がついたモンスターになり、壊相は身に覚えのない人面瘡が背中にできた。サッちゃんの領域内ではこんなものなかったのに。普通の人型で、普通に服を着ても蒸れなかったのに!

騒ぎ出したかった気持ちは、兄の悲壮さたっぷりの泣き声ですべて押し流された。


「俺だって、血塗とぽにょ見たかったのに、ぬりえでっ、ぬり絵でぇッ、壊相と見せ合いっこしたがっ、ぐすっ、サッちゃんちぃ、サッちゃんちのソファずわりだがっだぁ"あ"あ"あ"ッッッッ!!!!」
「兄者ぁ、泣くなよ兄者ぁ。俺、ぽにょのお話ぜんぶ覚えてるからよぉ、教えてやるから、泣くなよぉ」
「兄さん……こんなに目を腫らして、いたわしい……」


受肉したての三兄弟は、泣き腫らした長兄を囲むように団子になってしばらくくっついていた。兄の気持ちを考えれば当然だ。ここで慰めなければ何が兄弟か。

野太い大泣きがすすり泣きに変わった頃、壊相はふと思い至った可能性を口に出した。



「夏油傑は人間だったけれどサッちゃんの中に入れたよ。今の私たちでも遊びに行けるのでは?」
「人間側につくぞ」



真っ赤な目でスンッと真顔に戻った脹相。
弟二人はこっそり安堵した。




・サッちゃん
お分かりいただけただろうか。一歳から言動があまり変わっていない。
テレビっ子。学校があるので見たい番組が見れなくなって憂鬱(だと本人は思ってる)。良くも悪くも大人になりたくない。

・ケイくん
サッちゃんとテレビ見るのが好き。いつかぽにょみたいに海の上を走りたい。

・エッちゃん
ぬり絵とかお絵かきが好き。芸術方面をコツコツやるのが楽しい。たぶんかぎ編みとかも好き。夜蛾学長と気が合いそう。

・チョーさん
ウォー○ーをさがせ!とかミ○ケ!とか与えたら一日中齧り付いてそう。サッちゃんちのソファで両サイドから弟サンドされるのが夢だった。

・夏油
呪物は所詮呪物。サッちゃんへの同情を存分に煽った。

・五条
呪物は所詮呪物。使えるものは使う。それだけ。


・メロンパン
「うちの子知りませんか?(大困惑)」


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