神の内



信仰とは、唯一人間が神様を縛れる手段である。


「やめてください。お願い、ここで人を殺さないで」


神様がいるんです。ここにはまだ、神様が。

呪霊を放とうと掲げられた手を取る。両手で挟んで、捕まえるように、祈るように。力を入れると節くれ立った手がぶるぶると震えていることに気付いた。怒りだ。冷静な先輩の尋常ならざる怒りが脳天から末端までを支配している。──人を殺そうなどという、恐ろしい思考に染め上げられている。だから一度冷静になるべきなのに。


「神様神様と、馬鹿の一つ覚えだ。……神に呪われている君がそれを言うのか」


夏油さんは、私に一瞥もくれて寄越さなかった。




***




七つまでは神の内、とはよく言ったもので、生まれてすぐの視力が未発達の頃から人間じゃないものが見えた。

日焼けした畳に寝かせられて、泣けば祖母がやって来る平屋の日本家屋。この古めかしいお家が特別出るのか、と言えばそうでもなく、最初に住んでいた小綺麗なアパートにも何かはいた。光の明暗くらいしか分からない視界にくっきりと、どんな進化体系を辿ってもそうはならないだろうという見た目の生き物が覗き込んでくる。その度にビックリして泣いたものだから、母はノイローゼと癇癪を起こして私を捨てた。

元々予想外の妊娠だったのか、産んだのは病院ではなく祖父母の家だった。病院にかかるお金がもったいなかったのだろう。お産婆経験のある祖母が時代錯誤な方法で取り上げて、元気になった途端私を連れて家に帰った母。母乳はいくらか貰えたけれど、一週間でほとんど愛想を尽かされて欠食気味だった。道端やコインロッカーでなく祖父母の家に捨てられたのはむしろマシだった。


「神様にお願いしに行きましょうね」


祖母の口癖だった。赤ん坊を抱えて曲がった腰で石畳の階段を登り、お社の前でさらに腰を曲げる。きっと祖父母以外の人間は来ていない薄汚さ。埃や葉っぱを掃除をして、お茶とお饅頭を供えて柏手を打つ。すると朧げな視界のすぐ目の前で何かがユラユラと揺れた。そうすると鼻がムズムズおかしくなって、ぎゃあぎゃあ泣く私に祖母は困った顔でおんぶをした。今思えば、あれは文字通り粉をかけられていたのだろう。

ユラユラと揺れるソレは、白い着物を着た巨大な菊の花だったから。私はお盆の菊の花が苦手になった。あの神様に見られている気分になって、怖かった。本当は、生まれた時からずっと見られていたなんて、気付くのに十五年もかかってしまった。

お参りに行くたびに揺れる巨大な菊も、私に気付いてほしそうに近寄っては離れていく異形も、八歳になると全く見えなくなった。アレは前世なんてものを持って生まれてきた私が一時的に狂った幻だったのだろう。もしくは、普通は幼少期に見えるもので、大人になるに連れ忘れる記憶だったのか。そう結論付けて八歳以降の私は忘れることにした。

祖父母が参るから、祈るから、願うから。あのお社には行くし、足腰が弱くなった二人のために掃除もお供えもする。けれど、本心からあの化け物を信仰しようとは思わない。

山深いところにある集落には年寄りしかいない。若い夫婦が移住してきたところで就ける職もなくあぶれる。年寄りは体を壊して山を降りるか、死んで共同墓地に弔われるか。そしてダメ押しで私が十四歳になる頃には近くにソーラーパネルの実験的設置だかで立ち退きをする家が増えていた。反対はうちだけ。

孤立していくことに耐え切れなかった祖母は持病を悪化させて急死した。祖母を亡くした祖父も追うように。私が十五歳になるまでの一年の出来事だ。すると私の引き取り手の問題になる。母はどこにいるのかも知れない。元々通信教育で義務教育を終えてしまった私は、山を降りて働くことになった。悼む暇も参る暇もなかった。

平屋の小さな家とはいえ、一軒家の片付けなど勝手が分からない。業者に連絡して祖父母の少ない遺産でどうにか話がついた頃、久しく聞いていなかった呼び鈴が鳴った。


「すいません、ちょっと話を聞きたいんですが」


ソーラーパネルの設置工事の人ではない。明らかに若い声だった。


「あれ、誰もいないのかな。工事のおじさんたちは人がいるって言ってたのに。すいませーん! こんにちはー!」
「灰原声を抑えろ。うるさい」


躊躇したのは数秒。仕方なく玄関を開けないまま「はい」と返事した。


「あ、いたいた! 僕たち学校の課題で集落を見にきたんですけど、お話いいですか」


学校。課題。山の麓からここまでバスの本数も少ないし、そもそも学生が興味を持つような伝承なんてない。そう思いつつ、やっぱり生まれ変わってから初めて聞く(肉体的に)同年齢の声に惹かれ、玄関を開けた。黒い壁。そう錯覚してしまうほど背の高い男の子と、ニコニコ人当たりの良さそうな男の子。学ランに似た制服を着た二人組が、ほとんど手ぶらに近い格好で立っていた。


「あれ、年近い?」
「老夫婦と聞いて来たのですが」
「……祖父母は去年他界しました。私ももうすぐ引っ越します。何かご用でしょうか」
「そうでしたか、すいません」
「引っ越し作業中にごめんね。手短に終わらせるから!」


元気な灰原さんと、眉間にシワを寄せる七海さん。玄関先で話をしただけで、学校の課題じゃないことはなんとなく分かった。なんだか、探られている気がする。疑われている、とも。


「幽霊って信じる?」


気さくな話し口の途中でポロっと混じった冗談。七海さんの目がじっとり見下ろしてくる。


「いいえ」
「そっか。忙しいのに話してくれてありがとう! 失礼します!」
「ありがとうございました」


そう言って、アッサリと二人は帰って行った。本当に世間話ばかりで、何も有益なことは教えられなかった。……家の裏手にある階段の先に、化け物がいるなんて。教えたって信じないと思ったから。

──あの時に教えていたなら、どうなっていただろう。たまに思い出しては、胸の内がシクシクと痛んだ。

その日の夜、布団に入って三十分もしないうちに目が覚める。はじめての経験で、体を温めようかと台所で白湯を飲んだ。ざわざわする。鼓膜を知らない何かで擦られているような、頭に響く違和感。風邪かもしれない。早く布団に戻って寝てしまおう。早足で廊下を突き進んだ、その途中にある仏間の奥。暗闇の中で目に入った。

祖母の位牌が倒れている。

……ぞぞぞぞぞっ。違和感が焦燥と恐怖となって私の体を支配した。この感覚を覚えている。あのお社に行った帰りに、振り返って見た化け物の姿。ユラユラ揺れる全容が手を振っているみたいで、──手招きしているみたいで恐ろしかった。怖かった。八歳から見えることはなくなったけれど、祖母が死んで、祖父も死んで、もうアレがいる場所に行かなくていいんだという安堵。二度とあそこへは行かなくていい。行かない。行ってなるものかと決意した。なのに私は────。


「はっ、はぁ、は、」


家の裏手にある階段は葉っぱまみれでよく滑った。それでも少し前に誰かが登ったのか軽く脇にどけられている。数ヶ月ぶりに登ったから以上の息切れを感じながら。駆け上がったその先で、私は七年ぶりに化け物を見た。

全く、見たことのない姿をしていた。

どこから説明すれば良いか、ソレには首がなかった。頭のない茶色の獣。薄汚れた毛皮は泥とも違う液体でベトベトに濡れていた。極め付けは尻尾の代わりに生えている蛇。これも鱗の隙間までベトベトの何かをこびりつかせていて、目だけは爛々と赤く光っている。

人一人飲み込めそうなほどに巨大な化け物。それを挟み込むように、灰原さんと七海さんがボロボロで立っている。手には武器のようなものまであって、あれは鉈か何かだろうか。光源が月明かりだけの中、二人は人とは思えない速さで化け物に武器を振り下ろした。弾かれる。斬る。弾かれる。繰り返し。攻撃を入れるたびに二人はどんどん消耗していって、なのに化け物は鋭い爪や蛇を容赦なく振るう。振るって、揺れ、て……。月明かりしかない、薄暗いお社の開けた場所で、私はハッキリとソレを見た。

獣の首に、菊の花。

毛で覆われているように見えたその場所に、大きな菊の花が一輪、埋もれていた。首がないと思ったのは、それが茶色かったから。着物と同じく、元々白かった花弁が枯れて茶色く変色していた。それが毛の色に埋もれて同化していたから。祖父母が参っていた化け物──“神様”だと気付かなかった。


《オねがイオねがイシマスシマシヨオ》
「かみさま」


その場にいた誰もが私を見た。


「来ちゃダメだッ!!」


一番大きな声を出したのは灰原さんで、目を凝らして見るとその顔には大きな傷ができていた。それどころか、黒い制服で分かりにくいけれど血がたくさん出ているようにも見えて。トドメとばかりに吹いた風が鉄臭い臭いを運んできた。「灰原ッ!」突然の七海さんの叫び。赤い目が、蛇が、灰原さんに向けてチロチロと舌を出した。そのまま鎌首をもたげたかと思えば、次の瞬間に、……ぁ、だめ、それはだめ、


「神様! お願いします!」


自分でも驚くくらい大きな声が出た。最後まで言い切る前に目の前に茶色い菊が現れる。屋根より高いところから見下ろされ、止まる。獣の体はお座りに近い形で静止し、引きずられた蛇がビタンビタンと石畳をのたうつ。目と鼻の先に寄せられる菊。もう鼻がムズムズするほどの花粉は感じなかった。だって枯れているから。枯れてしまうほどほったらかしにされた花が、それでも私の声を聞こうと、私の顔をジッと見つめている。待っている。


《オねがイシマスオねがイシマス》
「お、願い、します」


生臭い臭いがする。夏に魚を放置したみたいな嫌な臭い。浴びせかけられ、止まっていた時間が動き出す。『神様にお願いしに行きましょうね』祖母の声を思い出すと同時に、震える手が二度柏手を打った。


「殺さないでください」
《オねがイ》
「殺さないでください、誰も、人を殺さないで」
《オねがイオねがイオねがイ》
「お願いします、お願いします」
《オねがイオねがイオねがイオねがイオねががイオねがイオオオねがイオねイがねがねがねがねイ》
「お願いします、神様」


たすけて。

深々と腰を折り、そのまま膝をついて土下座する。後頭部に風を感じる。刺激を感じる。圧を感じる。獣が首を折って至近距離から私を見ている。体がガチガチに固まって、冷や汗が落ちるのすら恐ろしい。何か一つでも間違えれば死ぬよりも悍しいことが起こるのではないか。漠然とした恐怖は、次の瞬間に凍りついた。


「十劃呪法!」


びぢゃびちゃっ。









《────────────》


獣の血肉が降り注ぐ中、神様の声を聞いた。


「はい」




***




「ククリヒメの神。三県に跨る白山に本社があり全国に三千ほどの分社を持つ山の神。神仏習合で十一面観音からの流れを汲んだとも、龍神とも言われている。古くは日本書紀の黄泉比良坂でイザナキとイザナミの仲を取り持ったとして縁結びや和合の神ともされる。漢字の表記から又の名を── 菊理媛 キクリヒメ
「の、偽物の偽物の混ざり物か。菊の字だけで花の姿になったわけだ」


黒髪をお団子にしている人と白髪でサングラスをかけている人。知らない男の人二人に上から見下ろされ、椅子に座ったまま縮こまった。

あれから、血塗れの灰原さんを担いだ七海さんに腕を取られ、無理やり黒い車に乗せられた。道中の車内は無言だった。一度だけ、七海さんの「何故、」という声を聞いた気がするけれど、あとは全く視線が絡まない。私は一睡もできなかった。

寝巻きにカーディガンを羽織った格好のまま車に揺られること五時間。朝日もまだ出ていない早朝に、お寺のような建物に車が停まった。それから白衣を着た人が灰原さんを連れて行き、七海さんは無言のまま私の腕を再び取る。乗る時とは比べものにならないほど優しく、緩く握られたのに、腕にはビリビリとした痛みが走った。


「すいません。強く握り過ぎました。痣になっているかもしれません」


袖を捲ろうにも、握られていては確認できない。

俯いて、七海さんと自分の足が石畳の階段を上って行くのだけ見ていた。


「アレは、何だったんですか」
「……貴女がそれを聞くんですか」
「ぁ、すいませ、」
「いえ、失言でした。呪霊という言葉をご存知ですか」
「いえ」
「アレと似たような化け物や幽霊は」
「幼少期に見えていましたが、今は」

「──“神様”も?」


小さな間から躊躇いを感じた。


「はい、八歳以降は見ていません」
「そうですか」
「なんで、今になって、その……見えたんでしょう」
「命の危険を感じると能力がなくても見えます」


それって、つまり。


「七海さんは、能力、があるんです、か?」
「ここはそういう場所です」


七海さんの淡々とした話口に力が入った。私は怒られているような、責められているような気分になった。いや、本当は車に乗り込んだ瞬間に怒鳴られると思った。だって私はあのお社のことを黙っていた。言っていたら何かが変わっていたのかもしれない。灰原さんが怪我をしなくて済んだかもしれない。


「ありがとうございます」
「……?」
「貴女のおかげで事件は解決しました」


なんでお礼を言われたのか分からない。咄嗟のことで返事もできないままでいる間に、七海さんは静かにことのあらましを語って聞かせた。

ソーラーパネルの工事で仮設住宅に寝泊りしていた作業員が死体で見つかったこと。死因が熊や猪では到底つけられない大きさの爪や牙によるものだったこと。呪いの痕跡があったこと。なのに気配が山に紛れて全く分からなかったこと。それを祓いに来たのが灰原さんと七海さんで、あの夜やっと気配を見つけて辿り着いたのが家の裏手のお社だったのだと。


「手応えがなかったんです」


いくら叩いても斬ってもダメージが入らない。その原因は、頭が見えなかったこと。


「貴女が来るまで、ずっと8:2を叩き続けていた」
「えっと、どういう意味ですか」
「貴女が“神様”と呼んだ瞬間に、呪霊の頭が見えたんです。浮かび上がった、と言った方が正しいでしょうか」


8:2の方を聞きたかった。

そこで七海さんの息が止まる。また躊躇い。私に対するものではなく、言ってしまっても良いのかと自問自答するような。ある種の恐れに似た力のない声が、見えない横顔から漏れ聞こえた。


「アレは、呪霊とは別の何かだった」


それっきり、空き教室のような部屋に待機するよう声をかけられるまで、七海さんは何も喋らなかった。

七海さんと別れて、さらに三時間。うとうとと椅子の上で寝ていた私を起こすように、ガラガラと大きな音が聞こえて、男の人が二人部屋に入ってきた。


「おはよ。起きてる?」
「悟、自己紹介くらいしっかりしろ。灰原と七海の先輩の夏油です。こっちは五条」


二人は簡単に自己紹介。いくつか質問に答えた後、初めて聞く呪文のような説明を目の前で始めた。

ククリヒメ──菊理媛。それがあの神様の大本にあたる女神様の名前らしい。お姫様だったんだ、という無味乾燥な驚きが降って湧く。確かに綺麗な着物を着ていた。

白い花を揺らすばかりだった神様が、何故獣の体を手に入れたのか。人を襲うような呪いになってしまったのか。


「しかし分からないね。獣の体に蛇の尾とくれば有名どころは鵺だが、一番の近場で京都だ。北陸では土地が違うだろう」
「言ったじゃん、混ざり物だって。いろいろとごちゃってて見難いんだ」
「ふぅん? ……混ざり物だとして、蛇は龍神と同じ水神に繋がりがある。なら獣は? 茶色い毛皮の四足獣なんて判別がつかない」
「茶色い毛かぁ……うーん……菊……着物…………貉菊か!」
「むじな? 穴熊や狸の?」
「着物の柄だ! 獣の毛並みのように広がる細い花びらの菊、延命長寿に不老不死の縁起物だね。実家で着てるオバサンがいたよ」
「そういうところで育ちを出すよな、君」
「坊ちゃん言うなよ」
「まだ言ってないだろ」


五条さんと夏油さんは仲が良いようで、難しい単語をポンポン投げながら楽しそうにお話ししている。私は寝不足の頭で考える。これからどうなるのだろう。話が終わったら家に帰してもらえるのか。着の身着のままで車に乗せられたから新幹線やバスに乗るような手持ちもない。


「それで、だ」
「悟?」
「ちょっとごめんね」
「はい?」


五条さんが急にかけていたサングラスを外す。びっくりするぐらい綺麗な青色。虹彩すら惑星のクレーターか何かに見える瞳が爛々と輝いて。しばし見惚れていた私の目前に、徐に白い人差し指が立てられる。何の変哲もない、爪が短く切られた男の人の指。なのに、夏油さんはジッと見つめているし、私の背後がにわかにザワザワと騒がしくなった。

瞬間、今まで見えていなかった青い球体が目の前に現れた。


「見える?」


とっさにコクコクと頷く。五条さんが軽く笑う気配がした。


「俺も見えるよ」


君の後ろの化け物が。

────化け物?

この時の私は、自分でもどうかしていたと思う。本当に、何かに操られたみたいに、足の裏からゆっくり火で炙られて、最後は首から上に、脳みそがグラグラと茹っていくイメージ。頭の中がお風呂場みたいに声を反響して、意味も為さなくなるほどに言葉が重複していく。

化け物、化け物、化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物バケモノバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノ《ばケものばケものばケものばケものばケものばケケヶものものばケものばケものものばばばケものばケケケケケ》


ぺちん。



「悟、女性に対する口のきき方がなっていない」
「女性って、十五だろ? がきんちょだ」
「それでも、だよ」


頬を叩かれた、と気付いたのは、夏油さんの手が顔に添えられていたから。ほとんど触るような柔いタッチでも、意識がクリアになるには十分な威力で。


「結局、彼女は今どんな状態なんだ」
「まあ……呪われてるね」
「のろい」
「そ、呪い。これ見える?」


またさっきみたいに指が立てられる。それだけしか分からない。続いて夏油さんも同じように指を立てたけれど、何がなんだか。


「なるほどね」
「だから、一人で納得しないで説明してくれ。君しか見えないんだから」
「ぶっちゃけ俺にも見えない」
「は?」


こんなこともあるんだな、と五条さんが頭をかく。


「見えたのはさっき、この子に術式を向けた瞬間に急速に呪力が跳ね上がった」
「それは私も感じたよ」
「それまで、俺は一切ソイツの気配を感じなかった」
「……今もか?」
「ああ」


白い睫毛が震える。


「感じなさすぎて、むしろ分かりやすいくらいだ。その分空間にポッカリ穴が空いてるから」


五条さんの目が私の背後を見つめる。振り返っても教室の壁があるばかりで何もない。けれど、五条さんには“何もない”ものが見えているんだろう。


「何もしなければただの草、敵意を向ければ呪力が跳ね上がる。らしいっちゃらしい」
「守り神らしい、か?」
「神様なんて信じてないけど、実際いちゃったもんだし。あーヤダヤダ」


そうして五条さんは教室の外へ出て行こうとする。夏油さんがそれを気にしていないあたり、もともと何か用事が入っていたのだろう。「そうそう」そのまま出ていくかに思えた五条さんが、くるりと振り返る。


「その神様はオマエを守る代わりにオマエを呪っている。さっさと解呪しないといつか死ぬよ。俺の見立てでは、うーん、」



二十年後かな。




***



産土神とは、簡単に言うと土地神である。土地に産まれ、土地を育み、信仰する人間を守護する。氏神との違いは加護を与える範囲。氏神が祀る氏族氏子に加護を与えるのに対し、産土神はその土地に産まれた人間に加護を与える。産まれたその土地で骨を埋めようと、外に出て一生を終えようと。どこにいても加護は続く。神の目はついてくる。

信仰が絶えない限り、永遠に。


「今回の件は工事による土地の侵襲と急激な住人の減少、熱心な信者だった君の祖父母がいなくなったことで神の側面が崩れた。信仰が薄れていたんだろうね」


ズズズ、ストローを吸う夏油さん。気もそぞろに黙る私。ファストフード店の窓際の席に向かい合って座っている。目の前には当たり前に私の分もトレイが置いてある。急なことで動揺して夏油さんと同じものをお願いしてしまった。大事な話をしているというのに、手の内で汗をかいている紙コップが気になって仕方ない。


「どうかした?」
「その、こういうお店初めてで」
「マックが?」
「ファストフードだけじゃなく、ご飯屋さんとか全般が」
「嘘だろ」


前世では行ったことがあるし、覚えてもいる。でもそれは十五年前の話だ。十五年、祖母の素朴な味で育って来た。ファストフードどころか洋食すら食べていない。お店なんてあの集落にあるわけもなく、長年のブランクでかなり緊張している。

恐る恐るストローを咥えて、吸う。瞬間、痛いくらいの炭酸が口の中でばちばちと弾けて、思わずむせてしまった。


「まさかコーラも初めて?」
「初めてです」
「はは、天然記念物だ」


苦笑いされてしまった。

ポテトを食べてビックリし、チーズバーガーでビックリし、「しばらく置いたら炭酸が抜けて飲みやすくなるよ」というアドバイスの元、蓋を取ってストローで混ぜてみた。「オレンジジュースにすれば良かったね」と言われても、オレンジジュースすらこの体では飲んだことがない。おずおず伝えれば今度は苦笑いすら浮かばなくなってしまった。

灰原さんと七海さんに初めて会った日から三日経った。私は一度家に戻り、家の権利書や処分の契約書などの書類と必要最低限の荷物を持ってまた戻ってきた。これからは東京の呪術の専門学校の寮にお邪魔して、来年から改めて一年生として入学するらしい。

通信教育を終えた今の私は中学生でも高校生でもない。現在の肩書きは一応ある。“一級被呪者”。一級呪霊に呪われ続けているから、らしい。夏油さんや五条さんは特級術師でちゃんと学生証があるけれど、私には仮に紙のカードを渡された。そこにも“一級被呪者”としか書かれていない。

学校の敷地内は、生徒の入れる範囲なら自由に行き来できている。けれど外に出るには一級以上の術師が同行しないといけない。背後に連れている一級呪霊がどんな拍子で暴れるか分からないから、と。

私は、この一級呪霊という呼び方が好きになれない。だって“彼女”は私にとって、呪いでも、霊でもなく、──。


「君の落ち着きが常軌を逸しているのは育った環境のせいかな」


ポテトを二本まとめて食べる夏油さん。まだコーラをかき混ぜていた手が止まる。


「神に呪われているんだよ。二十年後とはいえ、平均寿命よりずっと早く亡くなる。悟が言うんだから間違いない」
「……信頼しているんですね、五条さんのこと」
「アイツは最強だから」


言うわりにどこか上滑っている、気がする。たった三日の付き合いで分かるわけもないけれど。

それにしても、二十年後……享年三十五歳、か。前世ではいつ死んだんだろう。

混ぜる手を止めてストローを咥える。ギリギリ飲めそうな微炭酸でやっと喉を潤せた。


「あまり、呪われている実感が持てなくて」
「確かに、少し前まで呪いも見えなかった一般人が急に化け……失礼」
「いえ、」


夏油さんが言いかけた言葉は分かっている。化け物。確かに、花頭の女性はオバケの類だ。私だって少し前まではそう呼んでいた。……もう二度と呼べないけれど。


「やっぱり、あの時怒ったのは君だったんだね」
「あの時?」
「悟が、君の後ろを見て“そう”言った時だよ」


思い浮かぶ。体中を火で炙られて晒されたようなあの感覚。

夏油さんは続ける。五条さんが術式を編んだ時と同様に、私の怒りに呼応して見えなかった花頭の着物の女性が姿を現した。特別な目じゃなくてもハッキリと呪力の流れが分かったらしい。“彼女”が私を呪うと同時に私は呪力を得て、その間は呪霊として“彼女”が術師にも見えるようになる。


「君を守るために君を呪っている。不思議だね」


言われたことに理解が一瞬追いつかなかった。おかげで余計なことを漏らさなくて済んだから幸運だったのだろう。曖昧に頷いて誤魔化した。

私が胃もたれしそうだからとあげたポテトを、夏油さんがどんどん消費していく。ペロリとたいらげられた前世が懐かしいな。ぼんやり眺めていると、涼しげな目元が少しだけ強張っていることに気付いた。


「夏油さんはポテトが嫌いなんですか?」
「いや? 私も同じ物を頼んだろう?」
「嫌そうに食べるから」


小さな黒目がまんまるに引き絞られた。言ってはいけないことだったかも、と遅れて察する。

祖父母しかいない家では気を使う相手の傾向を知り尽くしていて逆に緊張感がなかった。これからは傾向を知らない人にも気を使わなければならない。それはファストフード店に初めて入るより大変なことだ。


「あの、もしかして他人と分け合って食べるのがダメなんですか? すいません、食べきれなくて」
「いや……違う、そういうわけじゃない。君は仲間だ。私と同じ、術師の」
「? 術師なら大丈夫なんですか?」
「それは、」


ブツブツと、頭の中で何かを一つ一つ片付けて、分かりやすく言い聞かせるように夏油さんの唇が動く。


「君は、神に呪われるまで全く呪力がなく、呪われている間だけは呪力が漲っている。途中から術師に変化……進化した稀有な人間だ」


唾を飲み込む。喉仏の上下が嫌に目立った。


「少し、希望が持てた。これでも感謝しているんだ。──ありがとう」


クシャッと笑った夏油さんは、やっぱり無理をしている風に見えた。

その時、夏油さんの視線が私の足元に行く。遅れて靴のあたりに何かが滑る音が聞こえて下を見る。姿は見えないのに、チラチラと影のような靄のような細長い気配がこちらを見上げているようだった。


「おかえりなさい、蛇さん」


振動とは別の手段で頭に直接言葉が伝わった。お礼を言うと、頷きのような動作の後に私の背後へ消える。なんとなく白い着物の裾の中に入っていった、ように感じた。


「やっぱり地下に潜り込んでいるみたいです。ここから近い赤い看板の……うにきゅーろ?」
「ユニ○ロだね」
「の、下あたりのマンホールが一番近いです」
「うん、おおむね合ってる」


いつの間にか最後になっていたポテトが夏油さんの口に消える。そのままゴミ箱に包装紙を捨てて私たちはお店を出た。

そもそも私が夏油さんと外出しているのは、私ができることの確認を急務でしなければならなかったからだ。

一昨日は引っ越し、昨日は五条さんを交えて学校の敷地内で実験をした。呪われて一時的な呪力を持った私に何かおかしなところはないか、どんな危険があるのか。その結果分かったことは、私から半径3mほどの範囲に呪霊が入ってこれないことだった。試しに五条さんがバリア(のようなもの)を張って、範囲を狭めていって3mの効果範囲が分かった。夏油さんの手持ちの呪霊で一級でも入れなかったのがその範囲。恐らくは“彼女”の守護だろうと五条さんは言っていた。

一級呪霊を退けられるほどの力を持った呪霊だから、私の肩書きが正式に“一級被呪者”になったみたい。

そして昨日、朝になって私のベッドに寝ていたのが姿が見えたり見えなかったりする二匹だった。

“彼女”が暴れた時に見えた獣の体と蛇の尻尾は本体から生えてきたのではなく、他所の呪霊を取り込んだ末の変身だったらしい。だからこそ術師には姿が見える。今では“彼女”の支配下で、“彼女”がついている私のお願いを聞く役割に落ち着いている。夏油さんの呪霊操術のようでもあり、間にワンクッション挟まっているから厳密には違う。けれど使役の仕方を学べるのは彼くらいだろうと、三日目の今日は簡単なお仕事に同行させてもらっている。


「安易に名前をつけてはいけないよ。ソレらはただの呪霊ではなく、神に降った眷属に近い。名を与えれば君には扱い切れないものになるかもしれないからね」


曖昧に頷いたのは仕方ないことだった。何せ二匹の名前は何となく頭に浮かんでいたし、既に一度呼んでしまった後だったから。


「もちろん君の神様もだ。呪いが強まる可能性がある。早死にしたくないだろ」


本当は“神様”とも呼んで欲しくないことを知っている。学校の人たちが極力“ソレ”や“呪霊”と呼んでいるのも察していた。それでいいと思う。

神様を信じるのは私だけでいい。


「灰原さんには見せない方がいいですね」


灰原さんとはあれからまだ会えていない。五条さんや夏油さんが言うには意識が戻ってピンピンしているとのことだったが、あの怪我を治すのは大変だったろうに。もしかしたら後遺症があるかも、とか……。体が震えて仕方ない。


「何故? 怪我をさせたから、という理由なら問題無いよ。私が取り込んだ呪霊ももともとは敵だ」
「……なら、嫌われるのは私だけですね」


ちらと夏油さんの視線を感じた。赤い看板の近くまで来て、人目が多いからと路地裏に入ったところだ。そこから入り口を探して鼠のような呪霊が地下へと入っていく。


「灰原は気のいいヤツだよ。落ち込んでいる女の子を傷付けるような真似はしない」
「一生残るような怪我をさせたのに?」
「負わせたのは君の神様だ」
「私のせいです」


ポロッと口からこぼれたそれが、本心からのものだと遅れて気付く。胸の支えが取れたようで、無自覚を自覚できた安堵感が広がった。


「責任感が強すぎるのも考えものだな」


しょうがない、という夏油さんの苦笑は本当に苦くて。……でも、本当のことだから。私のせいで神様は一度呪霊に落ちてしまったから。胸に刻まなければいけない罪だと、これからも大事に抱えて生きていかなければならない。

俯いた私の足元をサワサワとした何かが駆け抜ける。見えない彼らに慰められている。それがまた辛かった。あなたたちだって私のせいで“そう”なってしまったんだよ。


「神様は、優しいですから」


優しくないのは、私だったから。

鼠が帰ってきて地下の入り口に案内される。そのまま夏油さんが言うところの取るに足らない三級呪霊を祓って学校に戻った。

そういう任務にいくつか同行させてもらって、日々は過ぎていく。



***



九月の終わり。初めて泊まりがけの任務に同行することになった。

今まで学校から近場ばかりだったのに、急に県を跨いで遠くに来た。それは『神様が思いの外静かで何もしてこなかったから』というだけではない。

面倒を見てくれる夜蛾先生が言うには、今回の集落には土着の信仰が生きているらしい。

私の神様は、恐らく神がいるところをよく見る。分社した神社の鳥居に視線をやっているのをたまに背後から感じる。そういうことが何度もあったから、任務で神様発見機の役割を果たせるだろうと学校の人が話しているのを聞いた。

神が混じった呪霊は信仰の畏れを恐れに変換して呪力を高めてしまうらしい。私の神様の時のような、灰原さんたちの二の舞を防げるなら、と。夜蛾先生に頼まれる形で夏油さんについてきた。夏油さんは特級術師で、誰かを連れ歩くことは足手まといでしかないけれど、私が呪霊を避けられるから放っておいても大丈夫だという判断らしい。

制服で軽々と山道を歩く夏油さん。同じく作ってもらったばかりの制服でついていく私。ノリの利いた上着と脹脛までのプリーツスカートにはまだ慣れない。スカート自体この体で履いた記憶もなく、山歩きには向かない格好だと思った。


「あ、」
「どうした」
「いえ、祠が見えて」


紛らわしい声を出してしまった。

少し開けたところの、大きな木の根本にある小さな鳥居。その先にある祠と同じく人一人分の背丈しかない。それでも神様の視線がそこに向かっていることが分かった。あそこに別の神様がいる。そして、綺麗に整えてくれる誰かが参っていることも。


「ちょっと寄ってもいいですか」


ダメ元だったのに夏油さんは快く頷いてくれた。できるだけ手早く二礼二拍手一礼し、また元の道に戻る。


「こうして見ると、君は差し詰め巫女のようなものだね」
「巫女さん、ですか。それは大袈裟なんじゃ、」
「あながち外れてはないと思うよ。巫女はその身に神を降ろし神の声を聞く。君は神様の視線を辿ってその通り行動したじゃないか」


そんなんじゃない。

私はただ、ちゃんとしていることを見せたかっただけだ。神様に、夏油さんに、ちゃんとした人間ですって見られたかっただけ。巫女さんなんてすごい人にはなれない。

食ってかかって否定するのもおかしな気がして、草を踏む音ばかりがしばらく続いた。


「神が信仰を失えば待っているのは二つ。消滅するか、呪霊に落ちるかだ」


振り向くことなく夏油さんが言う。

知識を淡々と伝えてくるこの声が好きだ。感情が乗っていなくて、普段の無理して優しい雰囲気を出そうという空気がなくて、とても楽だ。



「君の信仰は、人を助けるのかもしれない」



だからこそ、その言葉が心底身にしみたんだと思う。

たとえ嘘だとしても、適当に言ったことだとしても、──嬉しかった。


嬉しかったんです、夏油さん。










なんてことはない任務だった。

山の中に隠れ潜んでいた一級呪霊を発見。夏油さんの呪霊が危なげなく圧倒するのを神様の結界の中で眺めたり、たまに蛇さんにお願いして足止めの手伝いをしたり、そうして最後は夏油さんの口の中に呑み込まれて終わった。……はずだった。

「まだ見てもらいたい物がある」キツイ訛りで必死にお願いされて、私たちはだだっ広い民家に足を踏み入れた。

そこから話がおかしくなった。

「ムジナさん、お願いします」足元からトコトコと飛び出した何かが格子の隙間に無理くり体を押し込んでいる、気がする。顔を腫らした双子が呆然とそれを見ていた。私には見えないけれど、ようやっと抜け出したムジナさんが彼女たちの元に辿り着いたのがなんとなく分かる。九月なのに冷え冷えとしたお家だ。きっと彼女たちの冷たい体を温めてくれる。そうお願いした。


「待っててね、すぐ戻ってくるから」


おじさんとおばあさんを外に出るように促した夏油さん。もう見えない背中を探して、やっと追いついたのは広い庭に面した縁側。ちょうどその時、人を簡単に喰いちぎれる大きさの呪霊が夏油さんの背後から姿を現した。

顔が向いている先は、


「何してるんですか」


とっさのことだった。

走りながら神様を呼ぶ。ちょうど3mの範囲内に夏油さんの体が入ったからか、呪霊の姿は煙のように掻き消えた。そう、私は今呪霊の姿が見えている。呪力が乏しい人間でも死の危険が色濃い場所では呪いが見えるのだと教えられた。

ここは死が近い場所で、危険だからこそ神様は私を呪っている。神様からの呪力が私に力を与えている。

ここで一番危険なのは、夏油さんだ。


「やめてください」


迷いなく辿り着いた確信。やっぱり、とどこかで思ってしまう薄情さを横に置いて、項垂れていた心が前を向くには十分だった。


「お願い、ここで人を殺さないで」


再び姿を現そうとした呪霊を、夏油さんの手を直接握ることで押し留める。あからさまな舌打ちが降ってきても、大きな手を祈るように挟み込んで、包んで。ぶるぶる震える怒りが、今この時だけでも包んで隠してしまえればいいと、強く強く願った。

花粉が黒い袖に降ってくる。神様。神様もそう思ってくださいますか。


「神様神様と、馬鹿の一つ覚えだ。……神に呪われている君がそれを言うのか」


夏油さんの目は真っ直ぐに、呪霊を見てしまって腰を抜かした二人を見ている。私の手なんていつでも払い落とせるのに、そのまま同じ姿勢で、無味乾燥な表情を凍りつかせていた。


「呪われたのは、私のせいなんです。私が神様を無視したから、自由にさせたから、呪霊に落ちて、人を傷付けた。私のせい」
「君の卑下にはうんざりだ」


とうとう私の手から夏油さんの手が逃げていく。今度こそ本気でいくのだと、思い至った瞬間に掲げられた腕に縋り付いた。


「人がいなくなれば信仰が絶えます。そうしたら呪霊に落ちるんでしょ、術師が死ぬかもしれない。ここには人が必要なんです。私みたいなことになってほしくない……」
「君のようなケースは圧倒的にレアだ。人が消えたところで神も消えるだけ。何も心配する必要はない」
「それでもゼロじゃない」
「ハァ……子供の相手は嫌いだ。駄々に耳を貸す暇はない」
「っ子供じゃなくて、私が嫌いなんでしょう!?」


夏油さんが突然黙る。やっぱり。また同じ感想が頭に浮かんだ。

ずっと気になっていた。一緒にポテトを食べた時もそう。任務に同行させてもらっている時もそう。口では親切で優しくても、周りを見る目が冷たかった。私に話しかける時の張り詰めたような親切さが、いつか限界まで膨れて、弾け飛んで、何もかもが手遅れになるんじゃないかって。

それが今なんだ。


「術師じゃない人が、嫌いなんですよね。呪いが見えない中途半端な人間が、あなたたちの中に入っていくのも、すごく嫌なんでしょ」


体重をかけるようにしがみつく力を強める。


「呪いが見えない人が嫌いでも、殺したいくらい憎くても良い。でも、本当に殺したらダメです。殺したら夏油さんが術師の人たちに嫌われちゃう。憎いもののために好きな人たちに嫌われるなんておかしいです」


人生でこんなに喋ったことはない。舌が攣りそうでも、言い切らなければ、全部言わなければ。何か、何て、何を言えば。

理詰めじゃなくて、私の気持ちを言わなきゃ。


「 夏油さんみたいな優しい人が、嫌われるなんてイヤ!」


誰かを殺すことより、夏油さんが人殺しだと謗られることの方がずっと嫌だ。

人としてどうかしていると思う。けれどコレが私の本心だったのだから仕方ない。

夏油さんが私のことを嫌いでも、私は夏油さんのことが好きだ。義務感で自分の感情を押し殺して、仲良く円滑な関係を築ける人。そんな風になるまで、十代の男の子がどれだけ頑張ったのだろう。どれだけ努力してきたのだろう。

何かのために頑張って、苦しんでいる人。報われてほしいと思うことの何がおかしいのか。

その果てにあるのが孤独なんて、彼には似合わない。


「嫌うなら、私だけを嫌ってください…っ」


私なら神様がいるから。神様がいればいくら詰られたって傷付かない。きっと孤独でも生きていけるに違いないから。



「帰ろう、夏油さん」



もう、縋った腕に力はなかった。


「子供はずるいな。泣いてなんでも解決しようとする」


深い溜息の後、ポケットから携帯を取り出してそのまま3プッシュ。発信。呼び出し音が響く。



「そういうところが嫌いだ」



人に嫌いだと言われて嬉しく思うのは、初めての経験だった。




***




「オマエって元々こっち側の人間だっただろ」


ガコンッ。

学校内の自販機の前で五条さんがジュースを奢ってくれた。何でもいいと言ったら迷わずコーラを買われてしまい、少し後悔。


「こっち側?」
「見えてたんだろ」


取り出し口の前でしゃがんだまま、サングラスの下の無感動な目が見上げてくる。


「ええと、七歳くらいまでは」
「分かれよ、俺らと同じ術師側ってことだ」


五条さんが自分の分のコーラを開ける。軽く一口煽ってから立ち上がり、今度は見下ろされる形になった。自分のコーラで手のひらを持て余しながら、言われた内容を咀嚼して納得する。


「やっぱり私の呪力だったんですね」
「は? 気付いてたなら言えよ。間違えた俺が恥ずいじゃん」
「五条さんの方がプロだから、勘違いかなって。すいません」
「謝んなって、余計恥ずい。あーあ、俺もカミサマにビビってたわけね」


嫌だ嫌だ、軽く首を振ってまた一口。私はまだプルタブが開けられなくて爪でカリカリしていた。

五条さんの特別な眼からは神様から私への呪力の流れが見えた。必然、神様が私を呪うために使っている呪力だと考える。けれどある時、五条さんは疑問に思った。


「呪霊の呪力にしては馴染みすぎてね? って」


それはそうだろう。大前提として、神様が持っている呪力こそが私のものだったのだから。

七歳の時、いつも通りのお参りでいつも通りありきたりなお願いをしようとした。『幸せになれますように』漠然としすぎていて困る願いだ。姿が見えている化け物にお願いするのに、具体的な内容を言うのは怖かったから。でもある時、──あの時、ふと魔が差した。

暗がりから、森の中から、道の端から、トイレから、天井裏から、いたるところから見つめてくるたくさんの目。異形。お化け。化け物。見えなくなったらどれだけ楽か。……神様と呼ばれるワケの分からない化け物が見えなくなったら、どんなに救われるか。


『怖い物が見えなくなりますように』


それ以降、私は見えない人になった。

思い出したのは、灰原さんと七海さんがやって来たあの夜。土下座する私の後頭部に降ってきた、人の言葉を成した女性の声。

──《怖くない? もう無視しない?》



「神様は、呪霊が見えないように私から呪力を吸い取ってくれた」



私のお願いを叶えてくれたんです。


「ふぅん、お優しいこって」
「はい、優しい神様です」


だから、呪霊に落ちた。

信仰がなくなり、神様の存在も忘れられれば人から向けられる恐怖──呪いもなくなる。だから呪霊になることはない。なのに神様は呪霊になった。和合の逸話を元に他の呪霊を取り込んで一級にまで急成長した“彼女”。夏油さんはレアだと言っていた。つまり、信仰がなくなっただけじゃなく他の要因も絡んでいる可能性がある。

私という人間の呪力を持っていたから呪いになったんじゃないか。

この学校に来て学ぶにつれ、その考えが頭から離れない。

怖かった。恐ろしかった。私のお願いを聞いたから、神様は本当の化け物になってしまった。なんて、……なんて可哀想。

可哀想な神様を、これ以上裏切れないと思った。


「その感じだと解呪法も知ってるだろ」
「……知ってる、というか、なんとなくの当たりはついている、といいますか」
「試せば? 俺も二十年後とか言ったけど正確な数字は微妙だし」
「こればかりは一人じゃできなくて」
「なにそれ、教えてみ?」


軽い調子で耳を寄せられて、渋々とコソコソ話。聞き終わるか否かのタイミングで五条さんが舌を出した。


「サイアク……上のジジイどもと大差ないじゃん」
「神様的には譲歩した方じゃないですかね……」
「俺カミサマとか信じないわ」
「それでいいと思いますよ」


やっぱり人じゃないものって怖いですから。

なんて、普段から呪霊を祓って回っている五条さんには言いづらい。曖昧に頷いた私を一瞥してから五条さんはコーラを飲み切った。私はまだプルタブすら開けられていない。


「で、本題だけど」
「え……今までのが本題じゃなかったんですか?」
「“死にたくな〜い”って泣きべそかいたら 本気で揶揄っ本題にしてやるよ」


そうやって口ではひどいことを言いつつ、サングラスの向こうの眼がなんとなく泳いでいる気がする。


「ドMってマジ?」
「…………はふぇ?」


変な声が出た。


「あ"ーー、違う。いや違わないけど。あのさァ、傑と喧嘩した?」
「前後の繋がりが、よく……」
「ドM言い始めたのは硝子! 俺じゃない!」


結構本気で引いた顔をしていたのかもしれない。慌てて取り繕う五条さんなんて初めて見た。

五条さんが言うには、私にキツく当たる夏油さんを見かけたこと。一度のみならず何度か見たから、家入さんと一緒に聞いたところ、私に許可を得ていると真顔で言ったらしい。

人に見られるくらいの頻度になったのか、と感慨深く思う。そういえばもう十月だった。

夏油さんの乱心事件の後。夏油さんはまず高専に連絡してから警察に通報した。児童虐待と殺人容疑で。あの人たちの言葉と双子が監禁されてて両親が見当たらないことから、何かしらの危害を加えたのでは、という疑いを持った。結果、傷害致死罪の容疑で村人複数人が逮捕されたらしい。そこらへんの情報はテレビで報道されているのを見たきりだけれど。

その二日後、学校に補助監督の人に連れられて双子がやって来るとは思わなかった。さらにしばらく気配がしなかったムジナさんが二人についていたことも。

双子は、数日会っていなかった内に顔の腫れが引いていた。どころか頬が少し赤い程度でほとんど普通と変わりない。どうしてか考えていると、足元で自慢げな鼻息が聞こえた、ような。

見下ろす。見上げられている気がする。

『あ』思い付いたことを実行に移すため、とっさに抱き上げて保健室まで走った。

知らなかった。きっと元気にやっていると思っていた灰原さんは、あれから一月以上寝たきりだった。体や顔に傷を残したまま、点滴に繋がれて死んだように目を閉じている。


『お願い致します。──被綿キセワタ様』

これは真名なのか、その場で簡易的に執り行った名付けの儀なのか。

呪力が安定しない私の目にも、茶色い毛並みの巨大な穴熊がベッドに乗り上げている姿がくっきりと見えた。

こうして一月ぶりに灰原さんは目覚めたのだった。

中途半端な呪力持ちが高専というテリトリーに入ってきたこと、勝手に灰原さんに変な術を使ったこと、何より止められていた呪霊の名付けをしたこと。あと元々の心証から、夏油さんは私のことが本気で嫌いになったらしい。

人目を避けて、優しい笑みを全部削ぎ落とした顔で言う『嫌いだ』。憎しみや苛立ちや疲れや虚しさ。任務中や日々の生活で溜め込んだ感情を混ぜこぜにした『嫌いだ』。破裂する前に私に言いに来る十八歳の男の子に、わずかに残った前世の私は安心した。きっと十五歳の私も傷付きながらホッとしている。『嫌いだ』と口に出して言えるうちは、人を殺そうなんて発想に至らないから。

『嫌いだ』と言われるたびに、言葉を噛み締めるように返事をする。笑みを浮かべてしまうくらいには、夏油さんの『嫌いだ』を心待ちにしてしまう。

そこだけ切り取れば、確かに詰られて喜ぶ変態に見えるかもしれない。


「誤解です。嫌いって言っていいのは夏油さんだけです。夏油さん以外に言われたら悲しくなります」


ドサドサドサッ!

急に大きな音がして振り返ると、カバンを地面にぶちまけた夏油さんが立っていた。


「何を言っているんだ君は」


グシャリ。何かの教本を踏んづけても気にせず近付いてくる。『嫌いだ』という時よりも迫力のある雰囲気に思わず五条さんに縋るような目を向けてしまった。無情にも逸らされてしまったけれど。


「傑、悪い。知るつもりはなかったんだ」
「悪趣味な妄想を膨らませるなよ。中学生が好みだったのか?」
「まんま熨斗つけてお返ししてやる」
「表に出ようか」
「ここが表だろ」


二人の会話は前よりも柔らかいというか、肩の力が抜けているように感じた。夏油さんのストレス発散が上手くいっているからだろうか。それとも私が良いように見ているだけか。人間、見たいと思ったものしか見えないものだし。どっちだろう。


「君も君だ。誤解を与えるような表現は避けてくれ」
「え……? 誤解を解いていたんですが」
「ご覧の通り余計に深まっている」


どこらへんがご覧の通りなのかサッパリ分からない。

困った顔で夏油さんをうかがう。渋い顔で見つめられてさらに困ってしまった。


「だいたい飲めないコーラを買ってどうする気だったんだ」
「あ、これは五条さんに奢ってもらって」
「悟。後輩に自分の好きなものを押し付けるなんて感心しないな」
「だって何でもいーって言われたもーん」
「まったく」


まだ開けてない缶が夏油さんの手に取られる。そのままズボンのポケットに無理やりねじ込み、自販機で新しく買ったものを私に手渡した。100%リンゴジュース。その後プシッと音がして夏油さんがコーラを飲み始めた。「ぬるい」小言を漏らしつつ全部飲み切って缶を捨ててしまうと、さらに私がまたプルタブを開けられないでいるのを見かねて、無言で缶を取り上げてプシッと。


「ありがとうございます」
「ん」
「……そういうのヨソでやってくんない?」


そういうの?

五条さんの言いたいことが分からず、首を傾げるとさっきみたいに舌を出して「うげぇ」と言われた。夏油さんは夏油さんで、ハッとした表情の後に手で口を隠してしまう。本当になんなんだろう。


「心配するまでもなかった。今すぐにでもできるじゃん」
「っ、五条さん!」


それは流石にダメでしょう。

珍しく大きな声を出してしまった私。訝しげな夏油さん。飽きてどこかへ去っていく五条さん。


「何ができるんだ?」
「なんでもないです! ジュース代後で返しますね!」
「あ、おい!」


言えるわけがないし、頼めるわけもない。
絶対に無理。
五条さんったら。適当すぎる横暴さんめ。

顔を赤くしたり青くしたり。どうしていいかパニックになった私は、飲みかけのリンゴジュース片手に家入さんの元へ逃走した。たぶん私の足ではすぐに追いつかれるだろう。そうなった場合、意地でも誤魔化さなければならない。どうしよう。そんなこと私にできるだろうか。

走り始めて数秒で空いている方の手を取られて、フワリ。芳しい花びらが視界の端で舞った。ああ、そうですよね。神様とはいえ、女性ですものね。的外れな福が良くも悪くも身に染みた。


2007年10月。紅葉舞う秋真っ只中に、菊が咲いた日の出来事。





***





『この子が素敵な人と結ばれて、可愛いひ孫が産まれますように』



お願いします、神様。






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