七海建人が連れてる呪い





「阿久田ひな子が生きてるって言ったら信じる?」


天使が空から降ってきたらどうする?と聞かれたのかと錯覚した。それほど幼女の表情は穢れを知らない無垢なるもの。イチゴタルトの最後の一口を残してフォークを置いた涼木名前は、眼鏡の奥の虹彩をキュゥゥと絞った。


「この前にさ、頭の中を反転術式で治したら、へんな感じがしたの。なんか、いるなぁって」
「生得領域内に?」
「さあ? でもいるのはホントーだよ」


感覚的な表現は慣れたもの。

突拍子のない問いかけはよくあることだ。好きな色、戦隊は何世代、使っているワックスの種類、バッハの旋律は夜に聴くか、鉈の調達元、呪霊の多様性、神仏習合についての所感、信仰と呪いの差異、あなたは神を信じますか。

けれど、今回のコレはあまりに毛色が違いすぎた。


「阿久田ひな子に体の主導権を引き渡せますか」
「記憶ソーシツになるかもだけど、体は返してあげられるよ」
「デメリットは」
「んん? まず、私の本体がずっと体の中にいるのイタイよね。無理やりぎゅうぎゅうしちゃったし、骨とか内臓とかぐちゃぐちゃ。ガラス先生がいたらどうにかなる、かも? でも私を引っこ抜かないと意味ないよね。ずっとイタイイタイだよ」
「あなたを祓えばいいということですか」
「祓うの?」


ポッカリ奈落の底まで通じるような瞳孔。沈黙は金。口を閉ざした七海。聞かなかったことにした幼女は再びフォークを取った。


「他には」
「ニンゲンなら分かるんじゃない?」


カツン。イチゴが真っ二つに割られる。
ぶじゅ。さらに四つ、八つ、際限なく裂かれてすり潰され、白い皿は真っ赤に汚れてしまった。


「どっちがしあわせ?」


問うてくる。

死体を操られたまま意識だけは苦痛から解放されて安らかに眠るか。体を取り戻し絶えず苦痛を感じながら第二の生を歩ませるか。

どちらが6歳の女の子にとって幸せだろう。

どちらを選んでも大人のエゴが絡む。どちらも間違いで、正しさなんてありはしない二択を、あの時、七海はなんと答えたのだったか。記憶は曖昧で、後味の悪い感情だけが舌の根にこびりついている。



「ナナウミは優しいねえ」



七海建人は幼女を──────。











「お、うっかりショタじゃん」


目の前の呪いが姿を消した。

胸に当てられていた手が消え、一拍置いて足元に転がっている特級呪霊に気付く。攻撃を受けたのではない。ただ、床に流れている改造人間の血で足を滑らせたように、あまりにも無様に体を打ち付けたのだ。

渋谷駅構内、23時。特級呪霊の領域内で負った傷と、続けて遭遇した特級呪霊のマグマにより左半身はほぼ使い物にならない。生きているのが不思議なほどの大火傷を押して改造人間を片っ端から殺して歩いた。

疲れた。休みたい。もう終わりでいいじゃないか。弱々しくぼやく意識とは別に、体は夢遊病のように仕事をこなして殺してこなして殺してこなして殺して。その果てに、生きた屍の終止符を打つ呪いに出会ったのだ。

────なのに、どうして。


「この前も落とし物してったのに、相変わらずだね。足元はちゃんと見なきゃ」
「クソババア」
「お姉様って呼んでいいよ」


あまりにも空気を読まない。不遜ですらあるセリフとともに長い髪を払った。

コキリと鳴らした首はほっそり長い。その上に乗った顔は柔らかさを削ぎ落としたシャープな輪郭をしていた。下に続く体だって、肩から足の先まで長く細く繋がって、胸と尻ばかりが不必要な脂肪を蓄えている。成熟した女の体。大事なところだけが隠れる黒い布切れは、縫い目から破れて生き残った糸が肌に食い込んで悲鳴を上げていた。きっと見覚えがあるワンピースの成れの果て。

どこで見たかなんて、すぐに分かった。


「先輩でもいいかな。ほら一回呼んでみ? 名前センパイって」


涼木名前が、幼女から女に姿を変えたのだ。


「化石はすっこんでろよッ!」


腕を鉤爪付きの鞭に変化させ、振り下ろす。指の数だけ本数のあるそれは、涼木名前を避けるように駅構内のタイルを抉った。

『おまえ、舐めプで呆気なく死ぬ雑魚キャラみてぇだな』

特級呪霊・真人との初対面で放った認識汚染は未だ継続しているのだろうか。いや、あの時は脳を負傷して血を流していた名前である。たとえ三ヶ月前の認識が残っていたとして、ここまで本気で殺しにくる真人の攻撃が通らないことがあるだろうか。

無傷で平然と立つ名前に対し、真人の血管がブチブチと嫌な音を立てる。同じ特級とはいえ、肉体のない呪霊と生身の人間に受肉した呪物。なにより名前に戦闘能力は皆無だ。煽れば煽るだけ勝率は落ちるというのに、涼しい顔をして豊満な胸を張った。「そろそろかな」、と。


「ナナミン!!」


顔に傷を負った虎杖悠仁があまりにもタイミング良く飛び込んできた。

真人の注意がそちらに逸れる。その瞬間を狙ったように名前が七海の右腕を取った。「オイッ」真人が気付いた頃には一人と一つは距離を取っていて、代わりに虎杖の拳が眼前に迫っている。

虎杖悠仁と涼木名前。どちらもムカつくが、楽しめるのは虎杖の方。何せ名前と話していると老獪なババアに遊ばれている気分になるから。真人は舌打ちをして、弱いものいじめに集中した。

七海は最後まで、虎杖を怒らせるための玩具としか見られていなかったのだろう。


意識が飛ぶ。疲れた。真希さんはどこに。直毘人さんは。疲れた。どうして頑張ってしまったのだろう。疲れた。灰原が見える。疲れた。疲れた。もうやめたい。もういやだ。つかれた。


「七海建人」


引かれていた腕がダラリと下がる。恐らく七海が歩いてきた道を逆戻りしたのだろう。改造人間の死体と血がそこここに散らばる空間を抜け、比較的綺麗なシャッター街を抜け、待ち合わせ用の二人がけソファを見つける。名前は丁寧でも雑でもない妙な力加減で七海をそこに座らせた。

見下ろしている。
見下している。
見下げている。

長い黒髪がタイルの上にとぐろを巻く。背もたれに全体中をかけて真上を向いていた七海は、逆に見下ろす形で目を下にやった。真っ赤な瞳。皿の上でグチャグチャに潰された苺の色。眼鏡をかけていないから、領域内に囚われなくとも術式必中に違いない。


「七海建人、目をつぶって」


フルネームで呼ばれたとて、言うことはきけない。火傷のせいで皮膚がくっつき、顔と目蓋が一体化していたから。

仕方なさそうに名前の手が七海の顔を覆った。片手でも簡単に両眼を覆える大きさ。片方しかないのに。

視界が暗闇に閉ざされた。柔らかさを感じる皮膚機能は辛うじて残っていたのだろう。力仕事を知らない女の水分を含んだ皮膚が、何故だか母の記憶を思い起こさせる。幼児の頃はこうやって顔を撫でられていたのだろうか、と。


「七海建人、行きたいところはある?」


行きたいところ?


「想像して。頭に思い浮かべて」


行きたいところ。


「人間が想像できることに不可能なんてない。七海建人が行きたいところにだって、今すぐ行けるよ」


行きたいところ。今すぐ、行きたいところ。

それは呪いだ。不可能を可能にさせる、奇跡はあるのだと甘く囁く、──希望という名の呪い。


「海……」
「うん」
「マレーシア、クアンタン。海が見える、いえ、に……」
「うん」
「ひとりで本を読んで、ぼんやり、のんびり、」
「うん」


細波の音がする。鼻につく潮の香り。湿気のある暖かい風が前髪を持ち上げ、手元の本のページが勝手に流れていく。ああ、どこまで読んだか分からなくなってしまった。まあいい。どうせ時間はたっぷりある。最初から読んだっていい。

最初から、やり直したって……。


『七海おつかれ。頑張ったんだね』


そうだ、その声が聞きたかったのかもしれない。この終わりのない暗闇の先で、後悔ばかりを残して落ちるしかない世界で、たったの一度でも。何かを成し遂げたのだと胸を張れたなら、それは。


「会いたい、なあ」


幸せなことだよ、灰原。



「うん、いいよ」



七海建人が連れている呪いは、最後まで──。




***




「おやすみ、ナナウミ」




***




時は遡る。

涼木名前が異変に気が付いたのは20:31。奇しくも五条悟が帳を抜けて渋谷駅に侵入した時間だ。ゲーム三昧に飽きてたまたまスマホを開いたところ、期待していたハロウィンの馬鹿騒ぎがどうやら違う毛色になったらしいのが分かった。パニック映画のモブとして地味ハロウィンか?と勘繰ったのは最初だけ。徐々に、けれど加速度的にSNS上で混乱は広がっていった。

何これ面白そう。

絶対呪術師のあれやこれだ。だってこの世界には虎杖悠仁という主人公っぽい少年がいて、ツギハギの強そうな敵がいて、喋るパンダがいる。呪いとして幼女を乗っ取った自分すらまるで漫画の登場人物みたいなのだ。大きな事件の一つや二つあるだろう。

まあ、名前はこの部屋から出られない。SNSからモブが逃げ惑うのを見学するしかできない……はずだった。

──21:22。アパートの扉がキィィイと音を立てた。


「えっ、出ていいの?」


んなわけあるか。
ツッコミを入れる人間はもちろんいない。

指でつんつん。たったそれだけで、アパートの扉は外向きに焦らすように開いた。外に待機している呪術師も、呪詛師も、呪霊も、もちろん人間もいない。そろりと足を出す。誰も来ない。誰も咎めない。幼女はパッと立ち上がって裸足のまま外へ駆け出した。

特級呪物『涼木名前』が世に放たれた瞬間である。

気分は親が寝ているうちにこっそりコンビニに行く子供だ。側は幼女なので、大人に見つからないように注意を払ったが。

スマホで現在地を確認する。外観はただのアパート。その実幼女以外は呪物しか住んでいない呪われた倉庫は、渋谷駅からあまり離れていない。走って行けるのでは、と思ったのは最初だけで、だんだん短い手足に苛立ちが募った。今までだって森や山を駆け回ったことがあるけれど、今回の“イベント”はいつ終わるのかも分からない。早く早く走りたかった。

そこで、ふと。鼻が勝手にスンと鳴った。──いい匂いがする。

呪力とは恐怖と怒りと恥辱。負の感情が煮凝ってできる呪霊の元で、エネルギーで、餌に違いない。その日の夜は空気がどこもかしこも美味しくて、美味しくて、美味しくて。食べちゃいたいくらいだ。


──そういえば、芥ヒナコってどんなキャラクターだっけ。


高揚した意識が急に記憶の上で反復横跳びをし始めた。

この体になってからたまに思い出しては暇つぶしに考えていたこと。今の自分は漫画みたいな人外になってしまったけれど、漫画だかアニメだかの登場人物の芥ヒナコは人間だったのだろうか。妙に引っ掛かりを覚えるのは、芥ヒナコに親近感でも湧いているのかもしれない。

そこで化石の中から生身の記憶が蘇る。


──芥ヒナコって、何かを吸い取って食事してなかったか?

──そんなこと、人間にはできないんじゃ?


生前の自分の負の感情を吸い取って生まれた呪物。人外。涼木名前とはそういう呪いである。ならば、そんな、もしかして、


──私って、芥ヒナコの成り代わり?


名前は両腕を見た。何の気なしに眺めて、首を傾げる。芥ヒナコは成人した女性だったはず。だっておっぱいがあった。なら名前は芥ヒナコになる前の幼体なのだろうか。芥ヒナコも幼女の体を乗っ取って成長した呪いなのだろうか。分からない。けれど妙にしっくりくる。これは、本当に成り代わりと言うやつなのでは?──そう、思い込んだ。

涼木名前は、深く深く思い込んだ。


──これ、もっと長くならないかな。

──芥ヒナコってもっと大きかったよね。


ぎち、ぎちぎちぎち、にゅるっ、パキャッ、ぐぐぐぐっ、ビリリリリ。────ばちゃん。

生まれた。生まれた。生まれ変わった。幼女の体では足首までのワンピースは、お尻が隠れるくらいまでの丈に。脇下から裾までの縫合が破れて豊満な乳房が横から覗いて見える。足は股下がギリギリ隠れる布を除いてほぼ全て出てしまっていた。体と同じように、髪の毛もまた足首まで真っ直ぐ下に伸びている。一連の急成長は全て反転術式(自称)の応用で幼女の体に新しく肉を盛り上がらせた。DIY精神あふれるそれらの材料は、渋谷から流れてくる負の感情。深呼吸すれば鮮度抜群の呪力が舌を楽しめ胃の腑を悦ばせた。

邪魔な前髪をかき上げれば、真っ赤な目が渋谷の上空をゆるりと睨みつける。あそこが一番美味しそうだ、と。


「行くっきゃないっしょ。渋谷」



混沌には混沌をぶつけるんだよ。


そんなこんなで渋谷にやって来た名前であるが、やったことはほとんどない。なにせ目的は観光、物見遊山だ。阿鼻叫喚の仮装集団の中で黙っていれば目立たないだろう、と思い込んだことで半裸の痴女に意識を傾けるものは人も呪いもいない。五条悟の六眼か、両面宿儺ならば見抜けたかもしれないが、生憎と遭遇しなかった。

知り合いがいそうなところをあっちへフラフラこっちへフラフラ。たまに無人になったジューススタンドでパインジュースをちょろまかしたり、無人の本屋で悠々自適にビニールを破って新品の漫画を立ち読みしたり。急いだ意味がまるでない寄り道をしたが、とにかく長い手足で渋谷を練り歩いた。

不運なことに、遭遇したのは展開中の領域の外側くらい。普通に中が見れないし、流石に領域展開で中和したら存在がバレる。苦肉の策でスルーして外に出ると、しばらくして虎杖悠仁の暴走が見れたが、こちらも距離を取って遠目に観察した。両面宿儺は遠くから見るに限る。サーカスのライオンを至近距離で見たいかって話である。

さて、両面宿儺が満足して引っ込み、青少年の絶望顔を美味しく眺めた名前。薄々と気付いていた現実を遅ればせながら実感した。

──あれ、ここ漫画の世界じゃない?

なんだか、妙にお約束がないのだ。絶対絶命のピンチに駆けつけるいつかの敵とか、覚醒する主人公とか、大切な一人の犠牲に大多数が助かるとか。

しかし現実は絶体絶命のピンチに駆けつける両面宿儺、覚醒する両面宿儺、両面宿儺に虐殺されたモブを前に嘔吐する主人公である。

あまりにも生々しい現実がそこに腹を出して寝そべっている。

──こんな地獄の漫画があってたまるかよ。

そこから徐々に名前のテンションは下がっていった。だって今までの物見遊山は作り物だから楽しめたのだ。たまに読んでた本の出版社とか、コラボカフェとか、アニメショップとか、今度七海と行こうと思っていたカフェとか、一度行ってみたかったイチマルキュー。こんなにグチャグチャにされたらもう二度と行けない。

虎杖が地下鉄へ潜るのを見て、心なしか肩を落としながらとぼとぼ続く。当たり前に見失ったので、もう一度領域展開されていた場所へ戻った。溶岩でも流したような焼け跡と、複数の残穢。その一つが七海だった。

見つかったら怒られるかな、でも後でバレても面倒だし。

悩んだのは一瞬。さっきよりちょっと早い足取りで残穢を追って、そうして大火傷の七海とうっかりさんなショタと出会ったのだ。

名前は可哀想な男が好きだ。清く正しく美しく、自分の理念を貫き通そうと苦心して、頑張って頑張って、結局うまく行かずに、何もかもが台無しになって落ちる男が大好きだ。

七海建人は、上手に落ちれなくて苦しみ足掻く男だ。平然とした面の下でいつもクソな世の中を睨みつけている。クソじゃないものを見つけるほど、クソなことが目に入ってさらに苦しむ。名前好みの男だった。

だからこそ、最後の最後に呪いの言葉を吐かなかった。



「おやすみ、ナナウミ」



きっと海の夢が見れるよ。

善行が悪行を為し、悪行が善行を為すことがあるように。呪いが救いになったっておかしくない。












呪力の最適化?
天元の結界?
呪力の独占?
千人の虎杖悠仁の殺し合い?

──はあ????


全部に全部ハテナをつけた名前である。

ついさっきまでは普通に機嫌が良かった。持ち直したと言うべきか。虎杖悠仁アンド東堂葵vs真人という胸熱バトルが最高潮で両手を上げて観戦してたのだ。近くのダイニングバーから酒を掻っ払って酒盛りしていたくらい。

いいじゃんいいじゃん。こういうのを待ってたんだよ。ボトルをラッパ飲みしながら楽しんでいた。やっぱり漫画かも、とか軽い手のひらをクルックルして笑っていられたのだ。

額の縫い目が特徴的な僧侶が現れるまで。その手の内に五条悟を封印したという箱を持ち出すまで。

────あ〜〜めんどくせ〜〜〜〜。



「おや、見学はもういいのかい?」



名前は自ら渦中に飛び込んだ。いや、実際は半裸の裸足でペタペタ歩いて現れたわけで。大多数の青少年からギョッとした視線を受け、大人たちからはここに来ての新手かと身構えられる。


「気付いてたの?」
「もちろん。ずいぶんのんびり散歩していたんだね。こんな終わりに出てくるなんて」


なんだか、話せば話すほどうんざりする男だな。

側だけ幼女だった名前と同じように、この男も側だけ夏油傑の演技をしているらしい。果たして夏油傑がうざいのか、中身からしてうざいのか。テンションだだ下がりの名前はどうでもいいな、と思考を放り投げた。

そう、もうどうでもいい。

五条悟が封印された。見ただけで厄介な呪物の中に。そりゃああんまりだろ。

七海の代わりは誰にしようか。伏黒あたりが楽しいだろうか。猪野はヤダな。そんな呑気な思考が吹っ飛ぶほどの衝撃だった。

厄介な術式持ちの元気いっぱい幼女が元気いっぱい走り回れたのは九割五条悟のおかげだ。アレのワガママで成り立っていた自由だ。五条悟が消えれば、待っているのはテイのいい道具扱い。仕舞い込まれて眠る方が幾分マシだ。


「それで、用件は何かな? 聞くだけ聞こう」


だから、どうでもいい。



「違法ブリーダーめ」



「は?」「え」「ん?」各方面から疑問の声が上がる。それも構わず、名前は腹に力を入れ喉を開く勢いで口を開いた。


「己の私利私欲のために動物を囲って金にならないと分かったら捨てる悪のブリーダー。餌も与えられずトリミングもしてもらえなかったワンニャンの敵」


ズビシッ! 細い目をやや見開き、呆気にとられた男の顔を思いっきり指差した。


「オマエの手持ちのワンニャン! ぜぇーんぶ逃げ出したぞ!」



…………ぶにゃぁん。

わんわふ、にゃー、ふすふす、ばふ、わん、あおーーん、にゃーご、なぁ、くんくん、ゴロゴロゴロ、ふにゃーー、シャーー、ばうばう、わふ、わんわんわんわん、にゃーにゃー、にゃぁぁ、なぁん、ふすふす、みゃみゃ、ゴロゴロゴロゴロ、くぅーーーん、ふぁ、わんわんわんわんわんわん、にゃーーーご、みゃう、わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわん…………。

突然夏油傑の肉体から溢れ出した数え切れないほどの呪霊。それら全てが寝っ転がり、擦り寄り、駆けずり、鳴き出す。悍しい声帯からまるでペットの犬猫のような鳴き声を絞り出す。その全てが男の支配から抜け出していた。正真正銘、野良呪霊としてその場に留まっていた。

こんな力を涼木名前は持っていなかった。ここまで大規模な認識汚染は、幼女の体に押し込まれていた頃なら呪力切れで即自壊が始まるレベルだ。せいぜいが特級呪霊一体を役立たずにできるかどうか。だからこそ放置できたわけで、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに無視してきた。

けれど、そこにいたのは渋谷の呪力を吸い取って自分のものにした化け物。何もかもがどうでも良い、自暴自棄で後先考えない大きな子供だった。

──まずい。そう男が思い至るより先に、女の白い手が印を組んだ。



「領域展開」


垂迹弄楼曼陀羅すいじゃくろうろうまんだら



垂れてくる。墨汁のように粘度と流動性を持った液体が更地になった渋谷を覆う。その場にいた呪術師も呪霊も呪詛師も巻き込んで。渋谷の高層ビルも真っ青な高さの円筒の中に閉じ込められ、床には顔を目玉に変えた御仏が等間隔に並ぶ。巻き込まれた満身創痍の高専生たちは死を覚悟したし、九十九由基は冷や汗を垂らして事の成り行きを見守るしかない。

指が、黒い壁の外側から差し込まれる。途端に流入してくる死臭。涼木名前の前世の死体の臭い。骨に染み付いた臭いを纏ったソレは、不健康を通り越してやっぱり死体だった。

指し示す先は、もちろん。


「あなたのおっしゃる千人のお友達とは架空の存在では?」


あまりに脈絡のない問いかけ。理解が追いつくより先に、──ボゥッ!

男の足元。先ほど封を解いた紙が勢いよく燃える。封を解いてしまえば終わりのはずなのに、何もかもが台無しになっていく心地を誰も彼もが感じていた。

愕然とした。男の手持ちは今でも支配下の外で畜生の真似事をしている。領域を中和できる手札をとっさに出せなかった。裏梅は、と横を見れば先ほどよりも毒にもがき苦しんでいる。明らかに領域の何かが作用している。


「そもそもさ、脳味噌だけで生きれるわけなくない?」


ハッとした。

また脈絡のない質問。目の前で仁王立ちする女が首を傾げる。長すぎる黒髪が顔を覆って、邪魔くさそうに払われる。真っ赤な目は幼子のように無垢で、この場では最も邪悪だった。


「人の体には神経ってものがあるんだよ? 脳味噌入れ替えただけで体動かせるとかどういう理屈? 自分のこと脳味噌生命体だと思い込んでいるだけで、本当は夏油傑の別人格なんじゃない?」


体が急に重くなる。両手が上がらなくなり、足も覚束ない。まるで、体が死体になったような。


「ふざけるな。私の術式は死体さえ手に入れば脳だけで永遠に生きていける、」
「あのさぁ、ここは漫画やアニメの世界じゃないんだよ?」


名前の思考を覗いていたら大多数が『おまいう』とツッコミを入れてただろう。

何も知らない男は、呆れた声で腕を組んだ呪いがただただ腹立たしかった。けれども、今男がするべきは命乞い一択なのだと、次の瞬間に突き付けられた。



「自分が思った通りに行かないのが人生じゃん」


────ね、夏油傑・・・



重かった腕が音速を超える勢いで太い首を掴んだ。五条悟に呼びかけられたあの時、死後硬直の前の痙攣のような弱々しいものではない。肉体の魂が主導権を取り返した。夏油傑が蘇ったように、首を絞める力がギチギチと強まっていく。「待っ、」──ゴキリッ。

首が折れた。まだだ、まだ脳は無事だ。思考を読んだように左手が意図を持って頭を引っ張った。外気に晒された脳。待て、待て待て待て、──グチャッ!

──グチャッニチャッブチリッブニュッ、グリグリグリッ!!

踏みつけて、踏みつけて、踏みつけて、踏みにじって。渋谷の更地にペーストされた肉片と、その横に倒れ伏した男性の死体。

そこでやっと、名前は領域を解いた。

解いた瞬間に、体中から血という血が吹き出した。


「オイッ!」
「待て悠仁!」


虎杖が我先にと飛び出し、弟を案じた脹相が続く。

血が抜けて立っていられなくなった名前は、地面に膝を突いてビクビクと震えている。呪力切れだ。無理な肉体改造と無謀な術式の大盤振る舞い。何より格上の男と裏梅にかけ続けた認識汚染。全ての反動が女の体に返ってきたのだ。


「な、なあ、アンタ、誰なんだよ。ナナミンの時にもいたよな? なんていうの」


朦朧とする意識の中、名前は思った。


「い、いためし……」
「…………名前?」


ここで虎杖に恩を売っとこう。

しばらく呪物に戻って眠る気だったが、誰かに壊される気は微塵もなかったが。ちゃんと保管してくれる人がいればそれはそれで楽だな、と。

安直な考えで、虎杖悠仁に笑みを向けた。



「骨はひろって、持っててね、イタメシ」



燃やしちゃダメだよ、と。

肝心なことを言う前に、特級呪物『涼木名前』の受肉体はバラバラに崩れ落ちた。

肉塊と、僅かな血液と、夥しい量の骨。渋谷の更地に、絶望しきった虎杖悠仁の眼前で、瞳と同じ悍しい赤色をぶち撒けた。



「名前……うそだろ……っ」



七海建人には救いとなる呪いをかけたくせに、虎杖悠仁には呪いらしい呪いをかけた。

青少年のズタズタな心にキャロライナ・リーパーを擦り込み、呪物となってスヤスヤ眠りこける涼木名前は、──正しく呪いだったのだ。




「七海建人が連れてる幼女」一応本編は完結です。完結といいつつ後日談を2種類書く予定ですので、まだほんの少し続きます。その時はまたよろしくお願いします。ここまでお付き合いありがとうございました!


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