非常識にも美意識を
「え〜、ナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党のことでありー……」
ほとんどの生徒が居眠りなり内職なりで忙しい社会の時間。教師の淡々とした語り口と誰かの寝息をBGMに、一人ノートをとりながら冥は思う。
このままでいいんだろうか、と。
冥は分かっていた。
自分の机が他の生徒よりも高級な素材で作られていることも、学校から支給された制服が高級なだけじゃなくどこか違うこと。高校三年間の知識も前世プラスアルファで詰め込んであるし、この淡々とした授業の内容も聞くまでもない。
冥はちゃんと分かっていた。
自分の目標がこの学園に来た瞬間、崩れ去っていたことに。
思い出すのは去年のこと。一般入試で合格し、無事入学式を終えた後、冥は何故だか怪しげな部屋に連れてこられていた。オカッパの、制服にしては妙に仕立ての良い身なりの先輩に指示されて足を踏み入れれば、目の前には五人の人間。
三人の男と小柄な一人の女をサイドに控えさせ、眩いほどの後光を背負った御仁。生徒会長鬼龍院皐月が、壇上で仁王立ちして此方を睨めつける。
その姿の、なんと神々しいことか。
初対面の相手であろうとも自ら膝を着きたくなるほどの覇気を、その一身に受けた冥はしかし、呆然と立ち尽くしていた。
そして思ったのだ。
なんでこの人光ってるんだろう。
そんな場違い極まりないことが頭の中を駆け巡る。だが、それはこの世界の人間からしたらということで、前世の記憶がある冥にとっては酷く当たり前の疑問であった。
よく考えてみれば、いや、そうせずとも分かるように、人は一人でに光らない。突っ込んではいけないことのようではあるが、気になっては仕方ない。それが人間というものだろう。
背後に照明でも設置しているのか。それにしては後ろに何か仕掛けがあるようにも思えない。まさか、制服の背中に複数の電球でも備えているのではないか。明らかに規定の制服ではないし、それも可能性としてはあり得る、のか?
場違いながら、深く考え込んでいたがために冥は挨拶もせずに立ち尽くす。
「貴様ァ!皐月様を目の前にして跪きもせんとは何事かァ!」
「いい蟇郡。呼びつけたのは私だ」
目の前で何やら大声で喋っている人はなんで半ギレなのか。諌めているこの女の人は何故偉そうなのか。
増えていくばかりの謎で頭が埋まっていく冥は、跪くどころか皐月に頭を下げるタイミングすら逃していたことに気付かなかった。
いや、それ以前に、さらに驚愕の事実を言ってしまうと、彼女は目の前の支配者たる御仁を何者か把握していなかったのだ。これは、まあ、言い訳のしようがない。
だって、入学式は寝てたし。
頭を下げる意味も跪く道理もこの時点でまだ新一年生、神栖川冥には全くもって存在していないのであった。
「お前の名は神栖川冥で合っているか、新入生」
「あ、はい」
「そうか、では神栖川。私の軍門に降るが良い」
「は?」
とはいえ、その事実を知らない周囲には一連の彼女の様子はこう見えた。
学園の長たる鬼龍院皐月に無礼な態度をとる命知らず、と。
軍門に降る、の意味を思い出そうとしたが、混乱のあまり狂ってしまった頭の辞書が受け付けを拒否する。思わず漏れた声に被さるように大きな音が室内に響いた。
「貴様ァ! よくも皐月様の御言葉に対してそんな口が聞けたなァア!」
本能字学園生徒会四天王が一人、猿投山渦の竹刀が床に炸裂したのだ。
「皐月様、不本意ですが僕も彼女の態度には見過ごせない点が多々あります」
それに続くように同四天王、犬牟田宝火が眼鏡を掛け直しながら不快感を露わにする。
その様子を一番後ろで眺めながら、蛇崩乃音は呆れて首を振った。これだから男は馬鹿なんだと。
「皐月様!こいつは俺がきっちり、」
「黙っていろ猿投山。犬牟田もだ」
「しかし、皐月様、」
「私の声が、聞こえなかったか」
ほーら、やっぱり。蛇崩は飄々とつまらなさげに傍観に徹している。というより、一番最初に蟇郡苛が諌められた時点で四天王が出しゃばることは実質止められたと思っていい。皐月と一番付き合いの長いと日頃から誇示している彼女の的確な見解であった。
自分たちの主の心底冷え切った声に猿投山と犬牟田が頭を下げまた背後に控える。それを一瞥するでもなく、皐月は冥に言い放った。
「大賢は愚なるが如しと言うが、貴様の場合はただの怠惰に過ぎないぞ、神栖川冥」
その言葉の意味を考えるまでもなく察してしまい、冥の思考が一気に冴える。
さっきまで知らない場所で知らない人に囲まれて流されているだけだったのに、それほど皐月の言葉は彼女の根幹に触れるものだったのだ。
この人は、私が普通になりたがっていることを知ってる。
もちろん、皐月は冥のことをすべて知らない。以前に一目見た映像の驚くべき行動を、彼女の能力の一端と予想づけて煽ったに過ぎない。けれど、既に冥は勘違いをしてしまっていた。この鋭そうな人間ならば、自分のことなど筒抜けなのだろうと、知らず知らずに皐月の空気に飲まれていたのだ。
「……何を言っているのか分かりませんが、私は賢者でも鷹でもありませんよ」
「白を切る気か。ならばはっきりと言ってやろう」
あ、ダメだ。冥は直感で思った。この人に何かを言わせてはいけない。そう思ったところで口は咄嗟には動いてくれない。皐月の勝ち誇った、支配者たる笑みを大人しく見守るしかなかったのだ。
「眠らせておくくらいならばその力、この鬼龍院皐月のために使わせてやる」
本当に、勝手なことだ。
勝手なことを、他人に押し付ける人間が嫌いだった。意見交換や相談と称して自分の意見をひけらかす人間が、大嫌いだった。
意思が弱い故に、冥は主張に逆らえなかった。自己主張の激しい人間を、愚か者だと心の内で罵倒することでしかできない弱い存在だった。
だから、今生こそは、
「ずいぶん上から目線なんですね」
言葉に出して、抗う。
「私は見ず知らずの人のために本気にはなりません。あなたのことを私が知らないように、私のこともあなたは知らない。違いますか?私の力は、私の目標の妨げになります。だから、よっぽどのことがない限り、私は使いません。
―――私はこの生を、無駄にしたくない」
それからのことは、実を言えば冥はよく覚えていない。
ただ、皐月に高笑いかと錯覚するほど大きな声で笑われて、なんだか分からないままに翌日のお茶会の約束を取り付けられた。あまりにも有無を言わせぬ圧力に抵抗するまでもなく呑まれてしまい、一度きりだろうと頷いたその約束が現在まで有効になるのを誰が予想できただろうか。
その間、押し付けられるように制服が変わって行き、高校生にはこんなものだろうと思っていた掘っ建て小屋のアパートが、気が付けばマンション、一戸建て、豪邸にランクアップしていった。冥本人は気付いていなかった敵や四天王との戦いも同様だ。気付いていない内に相手を時には倒し、諌め、攻略してしまっていたのだから、彼女が最も質が悪い。
そして、現在。この制服とは思えないデザインの黒いワンピースを身につけて、廊下を歩く際には見ず知らずの生徒に頭を下げられ、クラスには友達と呼べる存在はゼロ。これらのどれを以て普通と言えようか。
自他ともに認める意思の弱さも伊達ではなく、この一年は流されるがままに現状を生きてきた。だが、このままで良いという理由は少なくともない。何か変わる切欠はないのだろうか。
授業が終わり、放課後になったのを見計らって教室の扉をくぐった。
真剣な顔で思案しながらも、足はしっかりと生徒会室の自身の席を目指している。本人はまったく無自覚であるあたり、既に手遅れだと指摘する者はやはり皆無であった。
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