分からず屋たちの讃歌



「お前は本当に父親にそっくりだな」


それが冥がこの世で最後に聞いた母の言葉だった。

鬼龍院家という大財閥の本家筋、それも当主の娘として生まれた彼女に与えられた人生。それは飼い殺され下げ渡される人形の一生である。二つ上の姉は次期当主としての資質も風格も充分に備わった御仁で、対する冥は一般的な秀才の域を出ない人間だった。ただそれだけ。それだけで彼女たちの価値は明らかなまでに二分され、こうして大きな屋敷の中で母の歯車として在り続ける。

明らかなネグレクトだった。例え使用人の世話があったとしても、彼女が最後に実母の声を聞いたのは一歳。それ以降顔すら合わせないのだ。姉は着々と母の後を歩んでいるというのに、彼女は決められた箱庭の中に囲われて決められたレールを引きずられていく。それが決定事項であり確定事項に他ならない。

だから彼女は、考えることをやめた。


「冥様は、何も感じないのですね」


とある執事の甥だという少年の言葉さえ、彼女にはどうでもよかった。

静かな表情に反して、ずいぶんと必死な口ぶりだった。金色の緩く波打った長髪も眼鏡も見覚えがあったが、彼女は彼の名前を知らなかった。それどころか彼女の世界で燦然と輝くモノは実の姉と母しか存在しない。その二人から無関心を抱かれているとくれば、彼女の世界がどれほど薄っぺらく価値の低いものか想像に易いだろう。


「御母君や姉君に無視され、使用人たちからさえも侮られているのですよ。それをあなたは、見て見ぬふりをすると言うのですか」


いつも置かれているぬるい紅茶を一口、喉を潤して膝の上の本に視線を向ける。苛立ちを含んだ雰囲気が僅かながら肌を刺したが、やはり彼女には何とも思わなかった。普通の使用人ならばチクリと一刺ししただけですぐにその場を辞するからだ。けれど相手が変われば話は別で、何とも思わなかったものの、いつまでもそこに立っていられては敵わない。手っ取り早く帰ってもらうためにすることは決まっている。うつむけた顔をそのままに、彼女は思ったことをそのまま伝えることにした。


「こっちを見る人なんていないよ」


だから、どれほど取り繕ったって意味がないのだ。

それは、唐突に冥の元にやってきた相手も例外ではない。どういう理由があれ、彼だって冥のことを皐月の妹としか見ていないのだ。鬼龍院家の籠の鳥に何を求めたところで、鳥は飛ぶこともせず止まり木で羽を錆びつかせるだけ。少年の行動は最初から無意味だったのだと。隠す気もなく明け透けに放たれたそれに、少年は息を飲んだ。そこに含まれているのは憐れみか呆れか。どっちにしろ煩わしいことには変わりない。

あとは無視を決め込めばいつも通り、気がつかない内に消えるだろう。


「そのお考えが、見て見ぬふりをしていると言っているのです」


だが、意外にも、少年の言葉は止まらなかった。


「あなたは何も知らない……皐月様が、冥様をどれだけ大切に思われているのか、ちゃんと、あなたは知るべきだ」

「知るべき……」


パタンと。分厚い本を閉じ、テーブルに置く。読みかけにも関わらず栞を挟むことを忘れていたあたり、少なからず彼女が平静でないことが分かるだろう。立ち上がった冥がゆっくりと近づいてきても、少年は微動だにせずまっすぐに見据え続けた。彼女が手を上げようと、甘んじて受ける覚悟で彼はそこに立っている。ただ、予想外なことに、降ってきたのは拳ではなく、もっとずっと柔らかいものだった。


「っな、」


眼鏡越しに覗いた黒い瞳。敬愛する御仁よりもいくばくか濃いその色が至近距離でまばたきもせずに開かれている。唇に当たる温かいソレは僅かに湿っていて、先ほどまで飲んでいた紅茶の微かな香りが少年の鼻を掠めた。

少年は、瞬く暇もなく冥に唇を奪われたのだ。


「あなたの名前を、私は知らないけれど」


間を置いて、ゆっくりと1cmにも満たない距離まで離れた唇。言葉を発すると同時に吐き出される息が少年の唇を撫でる、その感覚が生々しい。


「私が名前も知らない相手と初めてのキスを終えたとしても、お姉様にとっては些事なのでしょうね」


そんなわけない。皐月様はそんな御方ではない。

そう反論できるほどの正気を取り戻した頃には、冥の姿はなく。一人取り残された少年は、伊織は、未だ残る初めてのキスの味を苦く噛み締めた。


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