(神栖川冥の悲哀)



神栖川冥の前世の話。

彼女が私立高校を受験する時、面接というものがあった。どこにでもあるありふれた面接である。もちろん、冥は面接の答えをあらかじめ用意していたし、あまり緊張が表に出にくい性質だったから、面接は滞りなく終わった。

後日、通っていた塾の講師との世間話で彼女は面接の調子について尋ねられた。その際、彼女は聞かれなかった質問の中で、密かに心に秘めていた答えを口ずさんだ。


「尊敬する人は、って聞かれたら手塚治虫ですって答える気だったんです」


手塚治虫は、漫画家である前に医者だったんです。でも、当時の漫画家は今ほど社会的地位も低かったから、彼はわざわざ医者をやめて、本職の漫画家になったんです。医者でも漫画を読んだり描いたりするんだぞって、世間に教えるために。漫画に命を賭けた、人なんです。

人づてに聞いた話だった。もしかしたら嘘かもしれないし、ほんの少しの誇張表現が入っていたかもしれない。けれど、冥はその話が心に残っていた。特に漫画に興味はなかったけれど、印象的だった。彼は地位や富よりも自分の好きなことを優先したのだと。


「いい話だけど、それって一歩間違えたら君がオタクだと思われちゃうよ?」


けれど、返されたのは苦笑い。

今思えば、医者をやめた漫画家を尊敬することは、医者になりたいと言う人間の言葉ではなかったかもしれない。

でも、その時、確かに冥は平静ではいられなかった。たったその一言で涙が溢れてこぼれ落ちそうなほどだった。

オタクでも何でも、他人にどう思われるかじゃない。ただ自分の命を賭けられるようなものを持っていたことを尊敬していた。尊敬していた自分を、否定されたようだった。

神栖川冥の渇望は、まだ芽生えたばかり。

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