清冽2



糸師凛は物事をあまり深く考えない人間だった。

きっと今までは兄の冴が代わりに考えて守ってくれていたのだろう。兄ちゃんが褒めてくれるから、兄ちゃんが隣にいるから、凛は自分の感覚を信じてサッカーをして来られた。

だから、冴がいないサッカーはとても頭が疲れる。

シュートが点に繋がらない。
欲しいパスが来ない。
チーム全体での意思共有ができない。
同じ世界を視れない。
……兄ちゃんの誉め言葉がない。

それもこれも世界一になるための苦しみだと受け入れた。チームが勝つためならばと、自分の直感を殺して、チーム全体を俯瞰して、敵も味方も操って、譲りたくもないシュートを恵んで、ぬるいチームプレイに甘んじて────。


これで本当に兄ちゃんに近付けているのかな。


立ち止まって振り返ると、楽しかったサッカーがキラキラと輝いている。

そうだ、あの試合は楽しかった。名前が初めて試合に出て、凛と一緒にハットトリックを決めた時。冴が妹にFWを譲ったことに最初は不満だった。世界一のストライカーになるのに人にポジションを渡すなんてって。それに、妹のためなら絶対やらないポジションも代われるんだって嫉妬もあったと思う。

けれど、いざ試合が始まってみれば名前はすごかった。凛の方をちっとも見ないのに、凛がどこにいるのか分かっているみたいにパスをくれた。凛のシュートコースが潰される数秒前にいてほしいポジションに滑り込んで待っている。まるで冴のように立ち回る名前とのサッカーは、冴と一緒のサッカーとほとんど変わりなくて。

変わり、なくて……。


「名前……」
「なぁに?」
「兄ちゃんの真似っ子、まだできるか?」


中学校の図書室で居残って勉強している名前は、学校が閉まると自転車に乗って凛を迎えに来る。個人練で凛がシュート精度を上げている間に、教科書を何度も反芻して日本語の勉強をしている。凛の練習が終わったら二人乗りで帰るのがいつものことだった。

その日も自転車で迎えに来た名前に、凛は自分のジャージのズボンを渡した。

制服にズボンを履いてスカートを脱いだ変な格好。足元は動きやすいコンバースでもサッカーのスパイクのようには動けない。それでも、名前は昔のようによく動いた。


「(足に吸い付くようなドリブル。ボールに糸付けて蹴ってるみてぇ。あんな小さな足首の動きで回転変えやがった。俺より小さいのに全然押し負けない。すごい、すごい────)」



兄ちゃん・・・・はやっぱりすごい。



『凄いぞ凛。俺とサッカーしろ』


「名前、俺とサッカーしろ」
「あい」



中学一年生の秋。妹に寄りかかった。


凛と名前は似ていないとよく言われる。

黒髪の凛と比べて白と赤が同じ比率の髪をした名前は良く目立った。似たような赤毛の冴が間にいればギリギリ血縁だと納得されることもあったが、冴はスペインにいる。二人きりの双子の兄妹は同じ中学に通い、良くも悪くも浮いていた。

日本の至宝、糸師冴の弟妹。同じくサッカーをしている凛は常に冴と比べられてきたし、サッカーを辞めた名前は奇異の目に晒され続けた。

冴の真似っ子を止めた名前は、学年1位をキープしている。

……本気で成績まで真似していたのか。

凛がクラブチームの練習後に自主練をするように、名前も毎日居残って勉強し、家に帰ってからもプラスアルファで日本語の勉強をしているらしい。そのくせしゃべり方は変わらず幼児のようにほにゃほにゃで、糸師家特有の怜悧な美貌から放たれるギャップに皆すべからく宇宙を背負った。


『なにあれ』
『不思議ちゃん?』
『(頭くるくるジェスチャー)』
『ふざけてる』
『キャラ作り乙』
『宇宙人』
『マジで言ってる?』
『あの髪染めてんの?』
『あんな妹で恥ずかしくないの凛』
『糸師冴かわいそ〜』
『ギフテッドってやつ?』
『カンニングだろ。服の下調べろよ』
『せんせー。糸師さんが日本語しゃべってくれませーん』
『なんでアイツは染めてンのにうちらはダメなわけ?』
『なぁ凛、お前の妹もうちょっとどうにかならないか。コミュニケーションとか』
『変な髪』

『お前ら本当にキョウダイ?』


うるせえ。
うるせえうるせえうるせえうるせえ。

他人の心配するよりテメェの人生心配してろよ。

糸師冴という有名人との繋がりが欲しくて、自慢したくて、周りの人間は凛と名前を見ない。知っているから、凛も周りに期待しない。凛だって見ているのは兄と夢見た世界一だったからお相子だ。

でも、妹は違う。


「お前さ、友達いなくて寂しくねえの」


などと、自分を棚に上げて訊いてみる。

凛はサッカーの練習のために遊ぶ時間なんて作らない。必然密接な友達付き合いなどできるわけもなく、友達と呼べる人間は限られてくる。それでも話し相手には困らない程度の関係性はクラスやチームで築けているのだ。

対して名前は一切そんな相手はいない。何度か冴目当てで友達を自称する女がやって来たが、凛が真偽を確かめると秒で首を振るので、そういった輩はめっきりといなくなった。


「ない」
「本当か? 強がっても意味ねえぞ」
「ない」


だろうな。

自分から尋ねたくせに予想がつく答えだった。この妹が女子と連れ立ってトイレに行く姿なんてちっとも思い浮かばなかったから。

ナイター仕様で明るく照らされた練習場。始めからジャージに着替えて迎えに来た名前がコンバースでボールを操る。凛としかボールを蹴っていないはずなのに、技の冴えは一切損なわれていない。12歳の糸師冴を克明に記録し続けている。

ボールを蹴ればいつでも兄ちゃんに会える。

それがどれだけ救いになったか。


「兄ちゃん、この間後半からの交代で点に絡んだんだぜ! すごいよな!」
「にーちゃ、はすごい」
「だよな! 次あたりにゃスタメンに入ってるかもしれないぜ。あのレ・アールのスタメン! すごいや兄ちゃん!」
「すごい、すごい」
「こう、足の土踏まずのとこでボールタッチしてさ、」
「つちふみゃず」


衛星放送の画質の荒い映像。俯瞰のみの豆粒みたいな選手の動きを、じぃーーっと目を凝らして観察した。小豆色の頭をした小柄な体が大きな体の隙間を縫って走る。ゴール前に駆け寄っていた選手にパスを繋ぐための超絶技巧。どうにか聞き取れるようになってきたスペイン訛りの英語で冴の名前を聞いた。

冴は目標に向かって着実に進んでいる。

なら、凛は?


(もっと頑張らないと)


もっと、もっと、もっと頑張ったら。世界一のストライカーの隣に立てる。世界二のストライカーにならなくちゃ。兄ちゃんとの夢を叶えるんだ。

画面の向こうの冴の動きを凛が真似し、凛の動きを名前が真似する。そういうことをいくつか繰り返して凛と名前は冴に近付いていった。


中学三年の夏。名前が髪を染めた。


キッカケはそんな大層なものではない。

三年に上がっても名前は変わらず学年一位をキープしていた。学校では友達を作らず一人きり。放課後は図書室で自習してから練習終わりの凛と一緒にボールを蹴るのも変わらない。変わっていくのは周りばかりだ。

進路の話。名前は推薦で地元の進学校に、凛はユースとの兼ね合いで近所の高校に行くつもりだ。まだ願書は出していないが、両親や担任とはおおよそそういう話になっている。

その最中でたびたび口の端に上るのが髪色だ。


『黒髪だったらもっと確実なんだがなぁ』


ぶっちゃけると、地毛がツートンの生徒は名前以外にもいる。生まれもった色を隠すような校則は表立って推奨はされていない。教師や生徒たちの反応は偏見と区別に基づいた“イジメ”に片足を突っ込んでいる。ただ本人たちにその意図は一切なく、向こうが非常識なのだと言わんばかりの姿勢であった。

ただ単純に、糸師名前という存在が悪目立ちしすぎていた。

糸師家特有の長いまつ毛に涼しげなターコイズブルーの瞳、スッと通った鼻筋と花弁みたいな慎ましい唇。中学生に上がってからスラっと伸びた手足。セーラー服のタイを押し上げるまろい胸のライン。図書室に籠りきりなせいで日焼けを知らない白い肌。シャープペンを持つしなやかな指。針金が通っているかのように伸びた背筋。ブレない体幹。無の表情。

白い髪と赤い毛先はどこにいても目立つ配色であったが、それ以上に存在が目立つ。そこに立っているだけで目を向けてしまい、顔を覗き込めばとんでもなく静かな美貌がジッと見つめ返してくる。鈍色が敷き詰められたキャンバスに一点落とされた純白。初対面でたじろがない人間なんてかなり稀だ。

そんな凜とした美少女の口から脳みそツルツル幼児言語が垂れ流されるのだから、視覚的にも聴覚的にも我が身を疑う。脳が情報を受け取り拒否するミスマッチ。俺たちのリアルは洋画の吹き替え版だったのか? ゲスト声優に変なアイドル使われた? そんな感じ。

そのくせ学力的には問題ない……どころか、全国上位10%圏内の実力とくればもう訳が分からない。衝撃が遅れて何度も来る。どう無視すればいいのかという話である。

──という周囲の心境に毛ほどの興味もない凛は、薄っすらとした嫌悪感を全方位へ持ち続けた。

名前は頭が良い。とても良い。良すぎるから置いていかれた周囲が文句を言っている。自分たちが理解できる範疇にいてもらわなきゃ困る、配慮しろと、大きい声で妹に追い縋っているのだろう。

黒髪にしろというのも、日本人の大半の髪色と同じにすれば視覚的にはどうにか理解の枠に収められるだろうという、一方的な押し付けでしかない。だから無視してれば良い。そういう考えだった。

ただ最近、ユースの試合で冴の弟妹だからと無許可で近寄ってきた地方局のアナウンサーが、名前を見てこんなことを宣った。



『冴選手にそっくりですね。特に妹さんが!』



背景に雷がピシャンと落ちた。

衝撃だった。

その時の名前は、ツバが広い麦わら帽子をすっぽりと被っており、白い髪がすっかり隠れてしまっていた。冴に似た赤錆色の毛先が鎖骨下まで伸びて揺れる。ツバの下から覗く瞳がターコイズブルーなら、確かに冴にそっくりに見えるだろう。

周りから散々凛と似てないと言われ続けたのに、たかが白い髪を隠したくらいで冴に似てると他人が言う。

不可解に思い、同時に嫉妬した。

兄ちゃんとお揃いの髪色をしている名前にも、名前に「いっしょ」だと言われる兄ちゃんにも。どっちにも嫉妬して、ずるいずるいと駄々をこねかけて、グッッッと寄った眉間のまま名前に耳打ちした。


『俺だって兄ちゃんに似てるし……お前もここらへん黒けりゃ俺にそっくりだろ』


ちょっとした八つ当たりで、ちょっとした甘えのつもりだった。

まさか次の日曜日に一人で美容室に駆け込み、頭のテッペンから毛先まで全部真っ黒けに染めてくるとは思わなかった。


「ここらへんっつったろーが」
「んぅ?」


顔周りの白い部分だけ良い感じに黒くなんねーかな、上から白・黒・赤にしたらちょうど兄弟全員の色になるし、とかいう無責任な無茶ぶり。

それがどう捻じ曲がったのか冴と同じ色の毛先まで見事に黒くなってしまった。元に戻そうにもすぐにやると髪が傷んで大変だと母が言うので、渋々とチョップ一発で許してやった。名前は凛の言う通りにしたのになにが悪かったのか首を傾げていた。

英語で言った方がまだマシだったな。凛は口に出さず一人で反省した。

事態が思わぬ方向に転がって行ったのはそれからだ。

黒髪で登校した名前は一気に注目の的になった。学校の方には黒染めしたことについて母親から連絡を入れていたが、当然生徒たちはそんなこと知らない。糸師凛の女バージョンにしか見えない黒髪の美少女の登場にビックリ固まり、頭がおかしい糸師妹の席に座ったことでやっと現実と仮説を結び付けた。

端的に言って、名前に友達ができた。

たかだか髪を黒く染めただけで、コミュ力の高い女子が寄っていき、聞かれたからにはと辿々しく答え、意外と話せることに驚いたヤツらが誘き寄せられ、奇特な女子グループに招き入れられたのだと。

凛は名前に友達がいようがいなかろうが別段構わないが、ことあるごとに妹を気にかけていたことで友達作り推奨派だと名前が推理したらしい。

これに喜んだのが担任と両親で、凛も別に妹の交友関係に口を挟むようなタチではなかったし、放課後のサッカーは何も変わらなかったので、別に気にならなかった。

修学旅行でぼっちにならなくて良かったな、とだけ。

まあ俺の妹だしな。凡人の中にも名前の良さが理解わかるヤツがそれなりにいたんだろう。

たかだか黒髪になっただけで、という釈然としない気持ちは横たわっていたけれど。


「凛と激似じゃん。お前らマジで双子だったんだな」
「ああしてるとめっちゃマトモに見える。詐欺すぎ」
「つーかさ、なんか普通に可愛くね?」
「分かる。綺麗すぎておっかないけど、こう、話してると可愛げがあるよな」
「俺タイプかも」
「うわ軽っ」


髪を染めた程度でここまで変わるか?

サッカーの夜練で今まで直帰してたヤツが思わせぶりに居残り練習をし始めたりもした。凛に繋ぎを頼んで来たから「ハットトリックを決めたらな」と口約束して追い払った。未だに果たされていない約束である。

そして訪れる決定的な事件。



『“頼むよ、先生が卒業式の代表は糸師さんにするって急に言い出してさ。今まで俺が学年の代表だっただろ? 糸師さんの代わりに頑張ってきたわけじゃん。母さんも楽しみにしてて、糸師さんが卒業式休んでくれたら丸く納まるんだ。な?”』

『“……なにそれ。断るってこと? はァ?”』

『“急に髪染めるとかなんだよ。今さら内申点稼いだって遅いから。ずっとヤバいヤツごっこしてれば良かったのにさ”』

『“なぁ、ホントにズルしてないの? みんな言ってるよ、先生に体触らせたとか、制服の下にカンペ隠してるとか。なんかズルなんだろ。じゃなきゃどうして俺がずっと2位なんだよ。不公平じゃんか”』

『“今日の小テスト満点だったよな。もしかしてまたカンニングしたんじゃねーの? ズルじゃないならここで脱いで見せろよ。カンペ仕込んでないか見てやっから。ハハ、それとも脱がされてーの? じゃあお望み通りにし────は、や、糸師くん? ちょっと待って誤解だから、な? 俺ら勉強の話をしてただけだよ。糸師さんからも…………はッ? ブべッ!?”』


「わたし、パンチした」


左頬を痛々しく腫らした名前が、録音していたスマホをテーブルに置いて証言する。別室では同じく左頬を腫らした件の生徒が話を聞かれていることだろう。

名前に用事があって教室まで訪ねた凛。そこらへんのヤツを捕まえて尋ねると、多目的室の掃除からまだ帰ってきていないと言う。練習まで時間がないからと立ち寄ってみれば、名前のタイを引っ張る男がいた。

ただならぬ凛の様子と廊下に響いた悲鳴で他の生徒が覗き込んだところ、明らかに殴られた名前と仰向けに倒れている男子生徒、呆然と立ち尽くす凛がいたのだった。

指導室で教師に事情聴取を受けながら保護者を待つ二人。名前の隣に座らされた凛は完全にブチギレていた。ついさっき人を殺しましたと言わんばかりの眼光だ。だからか名前の自供が兄を庇っているようにしか聞こえない。

録音された声と教師が駆けつけた状況から、逆恨みで名前を殴った男子生徒に凛が殴りかかったようにしか見えない。しかし名前は自分が男子生徒を殴ったと言うし、男子生徒も名前に殴られたと言っている。ただ男子生徒は始終怯えてモゴモゴ歯切れが悪く、名前も言いたい言葉が見つからないとばかりに困っている。頼みの凛に尋ねれば、「コイツのツラ見て分かんねーのかよ」と静かにキレまくっている。状況は明白なのに真実の輪郭が妙にボヤけた話だ。

駆けつけた男子生徒の母親は、息子の頬の腫れに怒りを露わにしたが、黒髪の清楚な女の子が顔半分に大きなガーゼを貼っている痛々しさに言葉を失った。泣きも喚きもしない無表情ながら、引きちぎられたタイを胸元で揺らして、白い柔肌を赤く腫れ上がらせた美少女は視覚的にインパクト大。息子はこんな子を殴ったのかと、怒りよりも失望が勝った様子だった。

結局、受験も迫っているからと警察沙汰にはせず、二人で謝って痛み分けとなった。凛は「なんで名前が謝んだよ」とブチギレていたが、殴ったのはお互い様だからと納得させられた。

ジュニアユースの全国大会を控えていた凛を庇って名前が殴ったことにしたのでは。そういう教師たちの疑惑は当て推量として無かったことになった。

とはいえ、明らかに殴られた顔で登校すれば周りの生徒も注目してしまう。勝手に推測して本当か嘘かなんてどうでもいい噂が立つ。


「女子の顔殴るとかマジか」
「やば……あの感じで暴力ふるうんだ」
「頭良い自慢ウザかったんだよねー」
「殴った女子に殴り返されて謝るって。ダサ」
「そんな人だったんだ。無理すぎ」
「なんで学校来れるの」


男子生徒は不登校になり、中途半端な時期に転校していった。


「まだ痛むか」
「いたいないよ」
「……そっか」
「ん」


いつもの自主練。蝉の合唱とナイターに集る羽虫の明滅。

汗一つかかずにヒールリフトを披露する名前から、凛は容赦なくボールを奪っていく。それでもゴールネットを揺らす気力はなくて、その場でリフティングを繰り返し、寄って来た妹の足元にソフトタッチでパスをする。

足の甲で受け止めた名前が、凛を真似してリフティングをする。ガーゼはすっかり取れて腫れなんか微塵も見えない。でも、凛はことあるごとに後遺症の心配をしてきた。


自分が殴った妹のことが心の底から心配だった。


“全国大会を控えた時期に暴力事件を起こしてはまずいと妹が兄を庇った。”

事の顛末としては正しい表現だが、起こった事件の真相としては少し説明不足だ。

実際は、妹のタイを引っ張ったクソ野郎にお見舞いするはずだった拳が、間に入った名前によって阻まれた。妹の左頬に綺麗に入った拳に呆然としているうちに、身をひるがえした名前が凛の代わりに男子生徒をぶん殴った。


「守ったつもりかよ」


凛は、英語以外の科目は馬鹿だけれど。決して頭が悪いわけではない。

名前を殴ったのは件の生徒だという周りの勘違いを黙って見過ごした。もっと言うと、凛の代わりに殴った名前が、凛なんて目じゃないほどに殺気立って相手を脅迫したことも見なかったことにした。その方がこちらに有利だと思ったから。

殴り損ねた苛立ちを必死で押し込めて、その場をどうにかやり過ごした。その憤りが、後悔が、未だに腹の底で燻っている。


『俺がいない間はお前が名前を守れ。世界二のストライカーになるより楽勝だろ。頼んだぞ兄ちゃん・・・・


兄ちゃんに言われたのに。約束したのに。

救われたのは、守られたのは凛の方で──。


「守ってほしいなんて誰が言った。俺は、お前の兄ちゃんにならないといけないのに。こんなんじゃ兄ちゃんに顔向けできないじゃんか」


むしゃくしゃしていた。

自分を殺すサッカーを始めて三年目。冴と違って全国制覇をしていない凛に海外からスカウトが来るわけもなく。ラストチャンスの中学三年のこの時期に、冴に託された兄貴役すら思うようにできなかった。どうでもいいゴミを殴って出場停止にならなくて良かったと妹に感謝すべきところだろうに。


「二度と勝手なことすんな。バカ名前」


頭の片隅で理解できる知能があるくせに、凛のちっぽけなプライドがダサい八つ当たりを強要する。妹に怪我をさせた不安すら口を滑らかにする潤滑油でしかない。

前髪をくしゃりと握り、心の底から泣きたくなった。


「にぃちゃ」
「あ? …………あでッ」


弁慶の泣き所を容赦なく蹴りやがった。


「〜〜〜〜ッ! 何しやがる!」
「にぃちゃのまねっこ」
「あぁ!? 兄ちゃんがこんなことするはず……、す、するけど! なんだよ急に!」
「リィンいった。まねっこしろ、いったよ」
「それは、サッカーの話で、」
「にっちゃ、リィンパンチ、とめるよ。手、いたいいたい、ダメねぇって」
「だから…………っ!」


毎日聞き慣れた気の抜ける日本語が、今だけは耳障りで。


「《一億歩譲って俺のパンチを止めたのは分かるが、俺の代わりに殴ることはねぇだろ!! お前が悪者になって謝る必要なんてなかった!! 無駄なことしてんじゃねぇ!!》」
「《無駄じゃない》」


最近やっと形になってきた英語で詰め寄ると、日本語の比じゃない滑らかな口調が間髪入れずに返って来る。


「《リィンがしたかったことを私が叶えた。そうすべきだと判断した》」


サァァァァァ。夏の湿気を含んだ夜風が二人の間を通り過ぎる。染められた黒髪がゆったり流れ、凛と冴にそっくりな涼し気な目元がよく見える。

ほんの数ミリ盛り上がった涙袋が、上に持ち上げられた口の端が、動き回って上気した頬が、名前の表情として鮮やかに浮かび上がった。



「《ににちゃんならそうするもの》」



『兄ちゃんの真似っ子、まだできるか?』


中一の秋。冴のいないチームに一人。冴の代わりになる覚悟を決め切れていない、いっぱいいっぱいで、窮屈で、苦しくて、サッカーがよく分からなくなっていた。

凛は、物事をあまり深く考えない人間だった。

だから、考えなしに妹に寄りかかった報いが今戻って来た。

凛がしたお願いを愚直に遂行し続け、褒められると思って微笑む妹が、初めて、本当の意味で普通じゃないと思った。

普通じゃなくさせ続けたのは、きっと凛のせいだ。

普通じゃないからと普通の道に軌道修正してやることもなかった。本人が友達を必要としていないから孤立していても何にもしてやらなかった。兄ちゃんとのサッカーを思い出せて嬉しいから兄ちゃんの真似で妹の行動指針を縛り続けた。────それは、兄が妹の面倒を見ていると本気で言えるだろうか。


(俺は名前を守れなかった。)


守れていなかった。漠然と、そう理解した。

なのに、名前は足音もなく近寄って来て、いつの間にか座り込んでいた凛の頭を撫でる。いつかの冴のようにわしわしと撫でる。


「リィン、すごいぞ。おれみたぃに、がんばって、えらぁい」


兄ちゃんは何もないのに褒めたりしない。ちゃんと結果が出ないと手放しで褒めないし、頭を撫でてもらったのはガキの頃くらいだ。そんなの全然兄ちゃんじゃない。

名前は兄ちゃんじゃない。分かっている。分かっているのに。

頭に置かれた手を引っ張って、倒れ込んできた名前の体を抱きしめた。同じシャンプーを使っているのに、なんだかよく分からない甘い匂いが鼻をつく。頬に当たる髪や腕の中の体の柔らかさが新鮮で、知らなくて、ぜんぜん兄ちゃんじゃないと思った。

でも、どうか。

どうか、今だけは。


「おれ……頑張ってるよね、兄ちゃん・・・・
「う、リィン、すごい。おれのとぅぎ、すごぉいぞ」
「うん……うん……」


日本一になるまでは、兄ちゃんの真似っ子に甘えさせてほしい。

兄ちゃんと同じスタートライン立てたら、今度こそちゃんと、お前の兄貴になってやるから。



***




「消えろ凛。俺の人生にもうお前はいらない」



冴の人生に凛が要らないのなら、誰が凛の兄貴になってくれるのだろう。




***



凛は、名前が双子の妹じゃないことを薄っすらと理解していた。

父が毎年、何でもない日にケーキを買ってくること。その日は母がこそこそ隠れて名前に女の子が好きそうなものを贈っていること。預かっていて出し忘れていた名前の書類に抜けがあって、生年月日のところに凛と同じ日付を書いたら不備として戻って来たこと。

どっかから預かって来た子なのかも、とはなんとなく。むしろ従姉妹という確実に血が繋がっている身内だと知って肩透かしを食らった気分だった。

血が繋がっていようがいまいが、従姉妹だろうが他人だろうが。今までずっと一緒に暮らしてきたんだ。名前は冴と凛の妹で、それ以上も以下もない。



「妹じゃなくても、嫁なら家族だろ」



そうすんなりと受け入れられたのは凛だけだったらしい。



「今さら他人になんざなれるかよ。サッサと婚姻届でもなんでもサインして、コイツはスペインに連れてく。俺が十八になったら適当に出しとけ。話は終わりだ」



雪で冷え切った体。まだ着替えていないジャージのまま、無理やり座らされたダイニングテーブルの席。隣には黒髪の名前がいて、そのさらに隣に冴がいる。凛と冴の夢を否定した口で、嫌に力強く名前の肩を抱く冴が。

その時の衝撃ったらない。

だって、結婚しなくたって名前は名前だ。妹として糸師家の一員でいることは当たり前の未来なのに、あの冴が必死になって妹を縛ろうとしている。

凛はもう冴の弟でいられないのに、名前は冴の妹という立場を確立させられてる。結婚してまで家族でいることにこだわっている。

凛は冴の弟じゃない。
名前は冴の妹だ。
妹だと思っているけれど戸籍上は従姉妹。
従兄弟と従姉妹は結婚できる。
結婚したら相手の兄弟は自分の兄弟も同然。

それって、じゃあ、つまり?


名前と結婚したら、他人になった凛でも冴の(義)弟を名乗れるのでは?


背景にピシャァァンと雷が落ちた。

コレだ! 名前の頭に手を置いて凛の方に傾かせる。



「名前と結婚するのは俺だから!」
「ハァ?」



壊れ方まで兄弟で似なくてもいいじゃない。

母の大きなため息はもちろん兄弟の耳には入っていなかった。




***




『そっちがいない間誰が名前を守ってたと思って!』


冴との売り言葉に買い言葉な口論でそうは言ったが、未だに守ってやれている自信はない。兄らしく守ってやる前にスペインに連れて行かれては叶わないと、必死の攻防の末どうにか冴を撃退できた。残されたのはサッカーへのモチベーションが地の底に落ちた凛と黒髪の名前。

黒く染めっぱなしにさせていたのは、周囲と迎合することも社会生活においては重要だと納得していたからだ。凛が冴の代わりに徹してチームを日本一に導いたのと同じ。見た目を大人しくさせておいた方が例の暴力事件のように味方が増えると踏んで。

でも、今になってみると、自分を殺して周囲に合わせる息苦しさも分かってしまって。

本当に妹を守るというなら、本人のありのままの意志を尊重すべきではないか。深く考えない凛が頑張って考えた。結果、名前を染髪OKの高校に行かせることから始めた。もちろん凛も同じ高校に進路変更した。現在の学力ではほんの少し無茶な偏差値であったが、名前の助けと英語科目のアドバンテージでどうにか、ギリギリ補欠合格で入学できた。

凛は部活に入らなかったし、ユースにも顔を出すのを止めた。ただ一人技の精度を上げることだけに注力してボールを蹴る。一蹴り一蹴り繰り返すごとに嫌でも冴の顔が浮かんで、そのたびに蹴って、蹴って、蹴って。


「ムカつく」


親愛を、夢を、人生を狂わせた冴に対して、だいぶ遅れて殺意が湧いた。

高一の春のことである。


時は進んで、ブルーロック二次選考。


「《書類整理だァ? 絵心のヤツ、人の妹をテイ良く使いやがって。バイトじゃねぇんだぞ》」


一次選考の時点で名前と引き離され、絵心直々に面会を禁止された凛。ブチギレながらソッコーでハットトリックを決めスマホを手に入れた。毎晩のアフターケアの終わり、ほんの十分だけ生存確認のために妹と通話する。どこで電話しても他人に聞かれるウザさがあったため、いつからか英語で会話するようになっていた。

ブルーロックの裏方でマネージャーの真似事をさせられていた名前は、いつの間にか語学力を見込まれて英語の書類の仕分けをさせられているらしい。高校生にやらせていいのかよとは思うが、居心地が悪いわけではなさそうなので悪態をつくだけに留めた。


「《俺は大丈夫。そこらの雑魚に負けるわけねぇだろ。……チッ……潔世一はこの後念入りにすり潰す。糸師冴に勝つ前に負けられっか》」
「は、おれ……っ!?」
「あぁ?」


電話に集中しすぎて気付かなかった。

フィジカルスタジオの入り口に忌々しい野郎が立っていたなんて。


「《邪魔が入った。今日はこれで終わりだ。風邪に気を付けてサッサと寝ろ。ああ、また》…………盗み聞きとは最低な趣味だな」
「ご、ごめんって! そんなつもりじゃなかったんだ!」


自分の名前が聞こえて来てとっさに反応してしまった潔。相手に聞かせるための盛大な舌打ちをしたが、コイツは鈍感なのかふてぶてしいのか、凛の隣にヨガマットを敷いて真似してきやがった。

邪魔するなら出て行けと言ってもしぶとく会話を続けようとしてくる。運の差でしか勝てなかった。その自覚があるからこそ適当に続けてやったが……。


「さっきの電話の相手だれ? 彼女?」
「ッ!」
「なになになに!? ゴメン適当言いました調子コキました!」
「彼女じゃねぇ。妹だ」
「い、妹! 妹か! 分かった分かった! 彼女とか言って悪かったって!」
「…………いや、ある意味あっているのか?」
「っは?」
「どうせ結婚するならその前段階で彼女扱いした方が自然か……」
「は? い、妹と結婚はできないだろ?」
「…………」
「アデッ」



“お前は一生俺に勝てない”のポーズを披露する前に凛にしばかれた潔だった。



「《あーー、この施設にいる白と赤のツートンヘアの子、君のお姉さんですか? もしもそうなら彼女のこと教えてくれません? 好きな花とか、異性のタイプとか、────サッカー選手のボーイフレンドってどう思う、とか》」



翌日。世界選抜にボロボロにされて座り込む凛のそばに近寄って、そんなことをほざきやがったジュリアン・ロキ。

試合後で本当に良かった。始まる前なら危うくレッドもらうところだった。胸倉引っ掴んでガン飛ばす凛を引き離しながら潔は遠い目をした。


ところで凛の妹は何をやったんだろ。ナンパ?




「にぃちゃ/にっちゃん/ににちゃん/にぃちゃん(レア)」など妹の兄ちゃん呼びが安定しないのを冴は可愛いなと思ってそのままにさせているし、ナイトスノウ後の凛は腹立たしくて冴呼びに変えさせようと画策してた時期がありました。

「冴」
「サーェ」
「冴」
「サァー」
「冴……っんで俺がアイツの名前連呼しなきゃなんねぇんだ! やめだやめ!」
「サァエ?」
「兄ちゃんでいい! ああクソッ!」

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