えゆくりんの清冽



※もしも糸師家の妹(?)に生まれていたら。
※冴と凛のキャラ崩壊注意。
※英語には《》をつけています。



おかしいと思ったことは、片っ端から頭の外に蹴り出していた。


「名前は、父さんの弟……叔父さんの子供で、本当は冴と凛の妹じゃないんだ」


パスポートの更新と保護者のサインが必要な書類のためにスペインから一時帰国した冴。実家に長居するつもりは微塵もなかったのに、サインを盾に家族会議の席に座らされた。つい一時間前に突き放したばかりの凛も、無理やり引きずり出される形でこの場にいる。部屋に籠城しようとしたところを妹が力づくで抱えてきたから。

妹──糸師名前。

冴と凛の間にお行儀よく座る黒髪の女の子。昔と比べるまでもなくすらりと手足が伸びて、体や頬のラインも丸くなった。汗と泥と芝生が混じった仔犬の匂いが、なんだかよく分からない石鹸の匂いに変わってしまっている。

記憶の中にある名前は細くて小さくて少年のような見た目をしていた。冴と凛についてくるならとサッカーボールを蹴らせていたせいで、スカートよりももっぱら短パンを履いていた。日本の至宝・糸師冴には弟が二人いるんだと誤情報が回ったこともあるくらいだ。

黒髪の次男の凛と、派手髪の三男の名前、と。

そう。妹の髪は頭頂部から顎までは真っ白で、そこから毛先は冴よりも濃い赤錆色。遺伝子のどこをどういじったらそうなるのだと聞きたくなるような紅白(白紅?)頭だった。でも、今は……。

つむじにわずかに生えた白色を見下ろして、────たまらなく腹が立った。


「なんで染めてんだコイツ」


自分を偽らないと生きていけない環境って、なんだ。



***



糸師冴には兄弟がいる。

二つ下の凛と名前。双子の弟妹は同じターコイズブルーの目をしていつも冴の姿を追った。正確には、冴の後ろをついてくる凛につられて名前も追従する。黒髪の凛と白髪の名前がくっつくとパンダの赤ちゃんみたいだ。

今日だって、色違いの双子がコロコロ転がるように冴に寄ってきた。


「兄ちゃん」「ににちゃ」


しっかりしゃべるようになってきた凛。
たどたどしく凛の真似をする名前。

似たような顔をしているくせに、凛は力加減など知らないと言わんばかりに冴のTシャツを伸ばし、名前はワケも分からず冴のズボンの裾を摘まんでいる。これには流石の冴も渋々とサッカーボールを置いてしゃがみ込んだ。


「どうした凛。名前はまだ昼寝しとく時間だろ」
「母さんがアイスあるって。おやつ」
「おやぁっ?」
「おやつな。お、や、つ」
「お、おやちゅ」
「ん。何味?」
「チョコチップ!」
「Chocolate chip?」
「なんて?」


いま外国人いなかった?


「ちがうぞ名前。チョコチップだって」
「んぃ、ちょっこちっぷ」
「そう。えらいぞ名前」


冴の真似っ子でお兄ちゃんをする凛は、幼児特有の容赦ないチョップを名前に落す。ゴンっ。思いのほか大きな音がして、凛より冴の方が慌てて妹の頭を心配した。

柔らかい髪の毛を撫でながらタンコブの有無を確認する。前髪を避けてやれば、いつも以上にターコイズブルーの目がよく見えた。

凛と同じようで、どことなく曇っているような目。


「凛。妹の頭を叩くやつがあるか」
「だって、兄ちゃんも俺のたたくよ」
「弟はいいんだよ馬鹿」
「えー、ずるーい!」


ぶうたれる弟の額にチョップする。余計に頬を膨らませるが、どうせボールを蹴ってやれば機嫌が直る。

泣きも笑いもしない妹の手を引いて、反対の手には凛が勝手に懐いてくる。糸師家の庭にボールを転がしたまま、三人はアイスを求めて母の待つリビングに向かった。

なんてことない、当たり前になった日々のことだ。

冴が六歳になる前、名前はある日突然糸師家に現れた。

凛は覚えていないだろうが、本当に突然ベッドや食器が増えていて、真っ白い髪の子供が母に抱えられていたのだ。


『名前ちゃんだよ。体が弱くてずっと離れて暮らしてたの。元気になったから今日から一緒に暮らせるよ』


冴ももっと昔に何度か会ったことがあると言われた。確かに、頭の片隅に似たような子供に会いに行った記憶はあった。確か、何かの親戚の集まりで、その時は誰に抱かれていたっけ……。


『冴も凛も、名前のお兄ちゃんになってあげてね』


それが一番最初の違和感。



────「叔父さんと叔母さんね、名前の目の前で交通事故に遭って亡くなったの。小さすぎて覚えていなくても、ものすごいショックだったんでしょうね。名前は上手く言葉がしゃべれなくなってしまって、表情もポッカリ抜け落ちちゃって。年が近い子供がいたら元気になってくれるかもって、うちで引き取ることにしたの」



冴が八歳の時、凛が本格的にサッカーを始めた。いつも家の庭や公園で一緒に蹴るくらいだったのが、冴のチームに合流して練習するようになった。名前は体が弱いからサッカーはしないけれど、ちょっとずつ元気になってきているようで、外の空気を吸いがてら時々練習を見に来る。

ある時、練習終わりの帰り道。いつもの公園に寄って二人でボールを蹴っていると、冴のパスを凛が取り損ねた。

「あー!」「ヘタクソ」慌てて走っていく凛だったが、その向こうは車道だった。ゾッとして追いかけようとした冴。けれどその場にはウサギのぬいぐるみを抱えて練習を見守っていた名前がいた。


「名前! そこ動くなよ! ぜったい動くな!」


なんておざなりに叫んで凛の後を追った。

果たして、凛は車道の向こうの茂みに座り込んでいた。車のエンジン音はしなかったから、イヤな予感は杞憂に終わったはずなのに。あまりに動こうとしない凛に近寄る。転んで足を捻ったのかもしれない。そっと後ろから覗き込んだ冴は、低い木々の隙間で凛と見つめ合う猫を発見した。


「野良猫……?」
「兄ちゃん、しーーー!」


そう言う凛の方がうるさかった。ビックリした猫がぴょんと奥に引っ込む。「アッ」と声を上げた凛がサッカーボールを抱えたまま茂みを突っ切ってしまった。

「バカ!」ちょっと前まで人形遊びが大好きなぼんやりくんだったはずなのに、こういう時は妙に思い切りが良い。

枝でちくちくするのも構わず弟に続いた冴。白うさぎを追いかけるアリスよろしく野良猫しか見えていない凛。そうして始まった大冒険は、普段は通らない小道や林の中を歩いたり、散歩中の犬を撫でさせてもらったり、秘密基地になりそうな空き地を見つけたり。どうにか知っている道まで戻ってくる頃には夕日がほとんど沈みかけていた。


「カバン置いてきちゃった」
「取ったらすぐ帰るぞ。暗くなる前に急がねぇと」
「うん………………兄ちゃん、名前は?」


ハッとした。

親切なおばあちゃんにもらったアメをカラコロさせている場合ではない。

真っ青になった冴と、よく分かっていないまま首を傾げる凛。弟の手を引きながら、冴は冷や汗が止まらなかった。

練習と大冒険でヘトヘトの体力では思うように走れない。焦っているのに目的地までの距離が縮まらない。試合中とは違う短い呼吸を繰り返しながら公園に戻ってみれば、名前は確かにそこにいた。

およそ二時間。ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、微動だにせず同じところに座っていたのだ。


「名前! 大丈夫か!?」
「────にっちゃ」


季節はまだ夏で、半袖でも過ごせる気候だったけど。夕方を過ぎれば流石に気温は下がる。海岸が近くて海風が吹く鎌倉で、妹の白い頬は雪見大福みたいに冷たかった。

冴が、ここにいろと言ったから。

体の弱い妹は一人、二時間も、暗くなっていく街に取り残された。


「悪い、待たせた。うち帰るぞ」
「うにゅ」
「兄ちゃん? 手、カバン持てないよ」
「ああ」


凛の手を一瞬外して、カバンを肩にかけ、また凛の手を取る。反対の手で名前の手を掴み、三人は急いで家路についた。

両手は弟妹を捕まえておくことに必死で他のことに使えない。涙なんか拭けるわけがない。だから冴は意地でも泣いてはいけなかった。

なんで泣きたい気持ちなのか、なんでこんなに打ちのめされた気持ちなのか。いつも自分と凛のことばかりで、その他の有象無象なんか気にかけない冴には分からなかった。

────いや、そうか。


「っ、……、…………クソッ」


『お兄ちゃんになってあげてね』

兄ちゃんってなんだ。


「母さん、名前にもサッカーやらせてよ」



────「こんなこと言うのはおかしいかもしれないけど、……冴も、凛も、名前のお兄ちゃんになってくれてありがとう。名前のこと、大事にしてくれてありがとう。私たちだけじゃ名前のこと笑わせてあげられなかったから」



冴は安直に、自分の理解が及ぶ範囲に妹を置くことにした。

凛に遅れて半年。サッカーを始めた名前は、目も当てられないくらいヘタクソで、ドリブルをしているうちにボールを置き去りに走り去ってしまう。けれど病弱だったというわりによく動いたし、ブロックをする時は冴でもしつこいと思うほど食らい付いてきた。

体が弱かったことなんて嘘みたいに練習場を走り回り、何を考えているか分からないぼんやり顔でボールを蹴り飛ばす。ファウルすれすれのくせに一切選手と接触しない手腕が見事で、冴は凛がゴールを決めたのと同じくらい名前を褒めてやった。ストライカーの役割にしか興味がないからこそ、DFポジションの妹にアドバイスらしいことはできなかった。褒めてやるしか接することができなかったのだ。


「名前、俺の動きをよく見ろ。ボールを蹴る時、どっちに足を向けてる。体の向きは。どれくらいの力で蹴っている? 俺をよく見て、自分で同じように動けるようにするんだ」
「ににちゃん、う、うぎょきぃ? なにすりゅ?」
「兄ちゃんの、動き、真似っ子しろ」
「う。まねっこ」


それから、本当に見違えるくらいに名前はサッカーが上手くなった。

冴の動きの一挙手一投足をじぃぃぃっと観察して、しばらくするとドリブルがめきめき上達した。ブロックの仕方もただボールを蹴り飛ばすのではなくそのままキープして前線に上がれるようになってきた。パスの軌道や回転も安定してきて、名前のパスが直接シュートに繋がった時の感動は一入だった。


「名前! 俺にもパスちょうだい! 兄ちゃんばっかずるい!」
「う、わかた」


サッカーを通したコミュニケーションで会話する機会がどんどん増して、意思疎通というものが少しずつ取れてきている。コイツも意思がある人間なんだと実感できて、冴は内心ホッとしていた。誰にも気取らせることはなかったけど。

こうなってくると試合に出せないのが惜しくなってくる。名前は女の子だから、男子のジュニアユースの公式戦には出られない。練習だけ混ぜてもらっている状態なのだ。だからといって小学校低学年の女子のチームは家の近所にはない。兄たちと一緒にサッカーができるこの環境が、家族にとっても名前にとってもベストなのだろう。

そうして三人はダブルストライカーの兄と鉄壁のディフェンダーの妹としてすくすくと成長した。

八歳から十二歳の今に至るまで天才少年としてテレビの取材が来るほど有名な冴。注目を集めるのは良いことばかりではない。



「お前の妹、フリョーなんだろ」


名前の真っ白い髪は、顎あたりから急に違う色の髪が生えた。冴の髪に似た赤錆色。まるで毛先だけ染めているみたいにパキリと色が切り替わってしまっている。何かの病気かと病院で検査もしてもらったが、原因不明でどこも異常なし。悪いところがないのなら……と様子見をして数年経つ。妹はとんでもないスタミナで走り回っているし、十歳になっても子猫みたいなほにゃほにゃとしたしゃべり方をしている。この頃になると、妹の病弱は頭の話なのでは、と薄々察っしていた。

それに加えてこの紅白頭だ。何も知らないで見れば確かにオシャレか何かだと思うだろう。

でも、名前のは自然と生えてきてしまった不自然で。


「母ちゃん言ってた。フリョーは変な色に髪染めて悪いことしてんだって。バカなのにベンキョーしないんだ」
「先生も困ってたぜ。ちゃんと授業受けてるのに成績悪いんだろ」
「やーいフリョー! フリョー女の兄貴ぃ!」


コイツは名前のDFを一度も破れていないくせにスタメンで試合に出てる雑魚。コイツは凛にレギュラーを奪われた間抜け。コイツは冴に何でも突っかかってくる馬鹿。

普段ならコソコソと弱腰のくせに、大人が何かを吹き込んだらこのザマだ。もう一度実力の差というものを叩き込んでやろうか。

今にも飛び出して殴りかかりそうな凛を抑え込みながら、鼻の上にシワを作った冴。いつも通り傲岸不遜の傍若無人に言葉で叩きのめしてやろうと口を開いた。その時、

────しゃきん。


「………………は?」
「え」


無慈悲な音が、すぐ後ろから聞こえてきた。目の前の雑魚どものアホ面が嫌に場違いで、というかそんなのどうでもよくなるほど嫌な予感がして。

バッと振り返った先で、テーピング用のハサミを持った妹がいた。

────しゃきん。

自分の髪の毛を切る、妹がいた。


「っ……やめろ!」


叩き落すようにハサミを奪った冴。冴の必死の形相を見つめ、名前はザンバラになった横髪を揺らして首を傾げる。肩口まで伸ばしていた髪の毛。二房ほど赤いところが切り落とされ、頬に添うように残った白色が異様に目についた。


「どうしてこんなことした。言え」
「……だぁめ、ちがう?」
「あァ!?」
「へん。だぁめ、でしょー?」


白い手が赤い毛先を摘まむ。冴に指し示すようにふりふり。


「へん、ないない、いいねぇ」


無表情ながら、どことなく得意気な、分かっていますよと言わんばかりの態度で、冴に肯定されるのを待っている。自分の生まれ持った特徴を変だと、名前は──。


「自分の髪、嫌いか?」
「? ううん」
「じゃあ好きか?」
「ううん」
「………………俺と同じ色だとしても、か?」


パチリ。曇ったターコイズブルーを瞬かせて、さっきまでぞんざいに摘まんでいた毛先をしげしげと観察する。そうして兄の髪の毛と見比べて、小さなお口がポッカリと開いた。



「ににちゃん、いっしょだねぇ」



目を細めて、まろい頬を緩めて、ゆっくりと唇を綻ばせて。

それは、名前にしてはとても珍しい、はっきりとした微笑みだった。少なくとも冴はそう受け取った。

コイツにも感情というものがあるのかと、そんな当たり前のことを、今になって……。


「俺と一緒は嫌か?」
「ううん」
「じゃあ切るのはナシだ。分かったな」
「あい」


しっかりと頷いたのを確認して振り返る。ジロリと睨みつけてやると雑魚どもは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。散々フリョーだなんだとバカにしてきたくせに、いざハサミを持ち出されてビビったらしい。

逃がしてやるかよ。

冴は練習場に入る直前のコーチを捕まえて、簡単な“お願い”をした。


「次の練習試合に名前もスタメンで出せ。フル出場な」
「えっ」
「公式戦じゃなきゃいいだろ。凛と名前のFWツートップで俺がDFやる。反対すんならこのチーム辞めるから」
「え゛」


辞める気なんて一ミリもないけど。
つーか辞めるなら雑魚の方だろうが。

チームの主力の冴を簡単に手放すわけがない大人は「練習試合だけなら……」という条件で渋々と頷いた。


「俺も毛先だけ赤くしよっかなぁ」
「リィン、へんする?」
「兄ちゃんと一緒は変じゃないって」
「ん。いっしょねぇ」
「お前ら……」


下のガキどもは能天気でいいことだ。

淡々と策を練る冴の横で、双子はのんきにお互いの髪の毛を引っ張り合っていた。

それから練習試合までの数週間、冴は名前にみっちりとサッカーを教えた。今までポジションが違うからと温く接していたのが嘘のように自分の美学を叩き込んで。もはや冴二号でしかないストライカーを作り上げ、そして迎えた試合当日。

名前が出場する分スタメンから外れた雑魚その一の悔し泣きを鼻で笑い、双子がハットトリックを決めたのを尻目に一度も点数に絡めなかった雑魚その二を無視し、同チームなのに冴につっかかる雑魚その三から重点的にボールを奪って蚊帳の外に放り出してやった。

敵味方問わず蹂躙した糸師三兄弟の独壇場。荒れ果てて草の一本も残らないような試合は、6-0で当然のように勝利した。


「すっげーー! 名前、兄ちゃんみたいだった!」
「う。まねっこ、いぱいすりゅた」
「あんなんで満足してんなよ」
「いって」
「う」


大興奮の凛とうっすら頬を赤らめた名前。両手でそれぞれの額にチョップをかます。いつだかに妹にチョップするなと凛に怒ったことを全力で棚に上げた。


「最後の凛のシュートは相手のGKがヘボだから入ったごっつぁんだし、名前はまだまだ俺になれねぇよ」


試合中ずっと後方からすべてを見ていた冴は、なんだかようやっと見えていなかったものを視れたような気持になって、どうにも重たかった肩が軽くなった心地だった。

ああ、そういうことかよ。


「名前、サッカー楽しいか?」
「ううん」
「へ?」
「よし、サッカーやめろ」
「あい」
「ええええ!?」


知っていた。分かっていた。名前にサッカーの才能なんてないってこと。

今日の試合では名前は確かに凄まじい活躍をした。普段のゴール前の門番は成りを潜め、積極的にボールを奪いに行き、凛と連携して三点ももぎ取った。まるで普段の冴と同じことを、教えたように、望まれたように、十全に実力を発揮した。

けれど、それはあくまで冴のコピーでしかない。

少なくとも、初めてゴールを決めた六歳の凛ほど冴は妹に魅力を感じなかった。四年も一緒にやっていてソレなのだから、これから急に才能が開花することなど万に一つもないだろう。なにより本人が“冴に言われたから”以上の意義をサッカーに見出していない。そんな中途半端にこれ以上を望むのは酷なことだ。

それに、冴の方こそそろそろ区切りをつけるべきなのだろう。


「サッカーをしていなくったって、他の何をしてたって、お前は俺の妹だよ」


サッカーでしか妹と繋がれないと決めつけた、弱腰の冴との決別である。









「ていうか名前って頭いいよね。二桁の掛け算秒だし」
「は?」
「この前も俺の忘れた宿題やってくれたよ。ぜんぶ合ってた」
「お前妹に宿題やらせたのかよ」
「アッ、なんでもない」
「遅ぇよ」
「アデッ」


凛にデコピンしてから名前に振り返る。


「お前も変な舐めプやめろ。俺たちと違ってサッカー選手にならないんだ。勉強はちゃんとやっとけ」
「? にーちゃのまねっこ、するした」


悪かったな成績悪くて。


「俺の真似っ子はサッカーだけでいいんだよ」


目をしっかりと合わせて念押し。ついでに凛と同じようにデコピンをお見舞いする。両手でおでこを抑えながらちっとも痛がっていないぼんやり顔の妹。こんなヤツに付き合えるのは冴と凛くらいだろう。

まったく。仕方のない妹だ。

勉強なんかできて損なことはきっとないだろうし、この前の雑魚のように変な言いがかりをつけてくるヤツも減るだろう。コイツの地頭がどれほどのものかは知らないが。

などと期待せずにいた冴だったが、後日いきなり平均90点を取りカンニングを疑われ学校に呼び出された母に妹そっくりのアホ面を晒すことになる。



「お前、頭良いのか」
「う、あちゃまいー」


頭悪いのはしゃべり方だけ説がにわかに急上昇した出来事だった。

思っていたよりうちの妹は普通じゃないのかもしれない。凛に勉強を教えようとしてほにゃほにゃ言葉が通じていない空回りを眺めながら、冴は一つ頷いた。

まあ、俺の妹が普通なわけないか。

その認識がさらに強固になるのはそれから一年後。

日本クラブユース選手権で日本一になった冴は、世界最高峰のチーム『レ・アール』にスカウトされスペインに渡ることになった。その話し合いとマネージャー兼向こうの保護者との顔合わせで糸師家に外国人が二人やって来た。

通訳も兼任しているマネージャーは想像していた外国人像とかけ離れた日本人好みの柔和さであり、両親もホッと胸をなでおろしていた。あれやこれやと生活面や学業の保証などを詰め、和やかにお開きになった頃。

大人のつまらない話にあくびを溢していた冴を尻目に、ボロボロのウサギのぬいぐるみを抱いた名前がとてとて近寄っていく。


「《にーちゃはどこに行くんですか?》」
「にーちゃ? あ、ああ、brotherのことね」
「《はい。兄はどこにどれくらいの期間留学するのですか》」
「《期間はまだ決まっていないよ。スペインって国のチームでサッカーをするんだ。そこで才能を認められたらサッカー選手としての将来を約束されるんだよ》」
「《そう。ありがとうございました》」
「《どういたしまして。英語上手だね》」
「《え、えいご? と言うんですか、この言語は》」
「《えっ、何語しゃべってるつもりだったの?》」


ポンポンと会話のパスが繋がっていく。流暢な発音の英語。冴がまだ完全に使いこなせないネイティブ発音を、日本語さえおぼつかない妹が簡単に駆使している。

「賢いお嬢さんですね」とのほほん褒めてくるジローラン氏に上手く答えられない両親。それに不思議そうに首を捻る外国人二人がシュールだった。

いやこっちの方が混乱しているんだが。

「赤ちゃんの頃から英語を聞かせてたのかしら」「──がそんな教育熱心だったなんて」小声で何やら話し込む両親を尻目に、冴は戻って来た妹の顔をマジマジ覗き込んだ。


「お前、いつの間に英語覚えたんだ」
「ずっとまえ」
「いつだよ」
「にっちゃん、《コレあげる》」


ずずいと抱きしめていたぬいぐるみを差し出してくる名前。


「《あげる》」


“あいるぎぶゆー”の発音が良すぎて何て言ったのか分からなくても、何をしたいのかは長年の付き合いですぐ分かった。


「いらねーよ。お前のモンはお前が持っとけ」


それから名前は相変わらずよく分からない鳴き声で何事かを説明しようとして失敗していた。さっきまであんなにすらすら英語をしゃべっていたくせに。難儀なことだと少しだけ可哀想に思った。


コイツ、生まれる国を間違えたんじゃないか?


なんの悪気も悪意もなく、冴は優しく妹の頭を撫でてやった。



────「本当は名前が高校を卒業するあたりでこの話をしようと思っていたんだ。でも冴は普段スペインにいていつ帰ってくるか分からないだろ? 家族全員が揃った今しかチャンスがなくてな。実は、名前はまだ叔父さんのところの籍に入っていて、正式にはうちの家族じゃないんだ。名前が大人になったらうちの子になるか、叔父さんの娘のままでいるか決めてもらおうと………………冴?」



***



コイツも、俺も、生まれる国を間違えた。


「なんで染めてんだコイツ」


いつかの日に自分で切り落とした赤い毛先。冴が撫でたりチョップしたり忙しかった白髪。それらがすべて、真っ黒に塗りつぶされている。

名前のことは凛に任せたはずだ。冴よりもすぐに妹の存在を受け入れて当たり前に双子として育ってきた。冴よりもずっと兄らしく接していた弟だった。だから、冴はサッカーに集中できたのに。

サッカーにのめり込んで、サッカーに絶望して、サッカーを辞められなかったのに。


『消えろ凛。俺の人生にもうお前はいらない』


弟だけじゃなく、妹まで、冴の人生からなかったことになるのか。


「………………この国では、いとこ同士の結婚はアリだったよな」
「冴?」
「ど、どうした急に」
「明日役場に行く。適当に書くから面倒なところは代わりに書いとけ」
「に、兄ちゃん?」


名前越しに凛をギロリと睨んで黙らせる。



「妹じゃなくても、嫁なら家族だろ」



冴が壊れた。

神妙な家族会議をしていたつもりだった両親は、あまりのことに固まって動けない。雪が降りしきる夜に否定されたばかりで、睨まれたてほやほやの凛も同じように。


「今さら他人になんざなれるかよ。サッサと婚姻届でもなんでもサインして、コイツはスペインに連れてく。俺が十八になったら適当に出しとけ。話は終わりだ」


ガタンと席を立つと、隣に座っていた名前も無理やり立たせる。すんなりと冴に肩を抱かれた妹は、冴の鼻先に目線が来るほど成長していた。骨格からして華奢で繊細な生き物になっていたが、冴を見上げる目は相変わらず曇ったターコイズブルーだった。


「にぃちゃん」


舌足らずな言葉もそのまま。


「荷物まとめろ。引っ越しだ」
「また、にぃちゃんのまねっこ?」
「あ? まあ、そうなるな」
「サッカー、ちがう、まねっこするな、言った」


いつの話だよ。

ぼんやりとした表情筋は、感情が無いくせにこちらの感情を鏡写しにしてくる。冴は、途端に自分が妹に無理強いをしている悪者に思えて来て、沸騰した意識がほんの少し冷たくなった。


「この国はお前にとって窮屈だ。せめて英語圏なら普通に話せるだろ」


スペインに人種差別が全くないと言えば嘘になる。しかし他国が国境を挟んで隣り合っている立地と陽気な国民性は個を重視することに長けていた。出る杭は打たれて平らに均される閉鎖的な島国とは比べ物にならないほど名前にとっては良い環境だろう。

そういう意味でも、冴は己の考えは間違っていないと思った。


「んだよ、ソレ」


あくまで、“冴は”。


「勝手に決めてんなよ、く、クソ兄貴!」
「は?」


凛、初めての反抗だった。

初めてクソ兄貴と呼んだ動悸で変な方向に振り切れた凛。急に予定を早めて帰って来た兄がなんか急に否定してきて急に妹を誘拐しようとしている。この現状に心底納得いっていない状態で、どうにか言い返そうと立ち上がった。

間に挟まっている名前の頭をガッと掴んで。


「名前と結婚するのは俺だから!」
「ハァ?」


凛も壊れた。


「クソ兄貴はお義兄さんってことで! 俺たちずっと家族だから!!」
「お前自分でも何言ってんのか分かってないだろ」
「兄貴こそイカレてる自覚しなよ! ぁ、し、しろよバーーカ!!」
「どっちがイカレてるか火を見るよりも明らかだろーが。俺は十七。あと一年で結婚できる。お前十五。あと三年も名前を他人でいさせるのか? あ?」
「名前だって年近い方が嬉しいに決まってるだろ! にいちゃっ、お義兄さんなんてジジイだ!!」
「ガキが耄碌してんなよ。俺は既に金を稼いで自立してんだ」
「そっちがいない間誰が名前を守ってたと思って!」
「守れてねーからこんな髪にされてんだろ」
「こっちの方が双子だって分かりやすくて楽なんだよ! 俺とお揃いだし!」
「俺とお揃いじゃなくなっちまったじゃねーか!」


「籍入れるってそういう話じゃないからね?」



という、糸師兄弟の不毛な言い争いはド低い母の一喝によって霧散。


「あんたたち、とりあえず一回シャワーなりなんなりでスッキリして正気になって来なさい。話はそれから」


母って強い。

名前は無言で兄弟に揺さぶられ、真っ白な父は一言も口を挟める機会もなく、糸師家の重大家族会議はイカレた空気のままお開きになった。



「いいか、名前と結婚するのは俺だからな。テメーみたいな腰抜けがしゃしゃり出るなよ間男」
「は???? テメーこそ急に帰って来てしゃしゃんなクソ兄貴。名前は俺と結婚して日本ですくすく守られるんだボケ」



一周回って仲良いだろ。




***




「クソ兄貴が帰って来るかもしれないから無理。俺がいない間に妹誑かして婚姻届出しに行ってたらお前らを一生恨む」



ブルーロックプロジェクトの大本命・糸師凛が辞退を申し出てきたので鎌倉まで説得に駆け付けた絵心甚八が期せずして糸師冴の特殊性癖を知ってしまった瞬間である。


「あーーーー、ご両親はどんなお考えで」
「反対に決まってんだろタコ」
「ウン、そうだね。一応の確認だから気にしないで」
「俺との結婚まで反対してんのは心底気に食わねえが」
「……その結婚相手って」
「妹に決まってんだろタコ」


「コイツもやべぇじゃん」リアルに両手を上げた記念すべき瞬間だった。今日は記念日だな。

日本がW杯で優勝するためには狂った人材が必要だ。狂っている方向性にはだいぶ疑問が残るが、とにかく糸師凛には参加してもらわなければ話にならない。

絵心はドブ川の目で渋々と一つの提案をし、糸師凛もまた渋々と頷いた。

こうしてブルーロックプロジェクトの裏方に糸師名前が名を連ねることになったのである。






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