花盗人も手ぶらで帰る
※カイザーが妹がいない世界線に迷い込むif。
※潔ラッキースケベ世一。
※本編とは無関係のパラレルワールドだと思って読んでください。
ミュンヘン空港から飛行機に乗ることおよそ12時間。抑揚の少ないアナウンスと自分を呼ぶ声に目を覚ました。どうやらそろそろ着陸の時間らしい。もうすっかり雲が遠くなった低空と、遠く敷かれた灰色のビルのカーペット。想像よりも全然都会だな。嫌に重い瞼をニ三度瞬かせた。
ミヒャエル・カイザーはこの日、日本のブルーロックプロジェクトに参加するためにチームメイトと共に羽田国際空港に降り立った。
空港の内装などどの国も大した違いはないというのに、異国というだけでどことなく空気が違って感じる。端的に言って肌に合わない。普段利用する欧州の空気とは湿度が違うからだろうか。移動によるストレスに慣れることもプロとしては必須技能になってくる。逸る気持ちをグッと押し込め、カイザーはいたって堂々と顔を上げた。
ガブリエルを見送ってから二ヶ月以上経つ。ブルーロックの試合中にベンチに座る姿を見てからもうすぐ二週間。つまり、およそ三ヶ月も愛しい“妹”に触れていない。どころか、顔も声も体温も何もかも取り上げられ、連絡すら取れていない始末。“妹”欠乏症末期のカイザーは、やっと会える実物を前に何周か回って落ち着いていた。何周ぐるぐるしたかは覚えていない。
「ローゼ……」
「薔薇がどうかしたんですか、カイザー」
「いやな……一人で寂しく震えているのではと心配で」
シンプルな黒の上下に大判のネイビーストールを肩にかけたカイザー。グレイのパーカーとキャメルのジョガーパンツを合わせたネスが、隣に寄って来てまあるい目をさらに丸める。
今回の入国はトップシークレット。チームジャージももってのほかであり、各々がラフな格好で空港のターミナルを歩いている。空調も程よく効いており着込む必要はない。唯一外気に触れるバスターミナルに降り、ブルーロックが手配した高速バスにつま先を向ける。表面上は怜悧な美貌そのままのカイザーだが、その実内心はクリスマスプレゼントに興奮して寝れない子供だった。
「……? 日本にガールフレンドでも? 初耳です」
「、なんだと?」
ゆえに、反応が遅れた。
ネスの意図不明瞭な返答を噛み砕くより先に、事件は起こる。
「Stop.」
起こったことを理解するより先に終わっていたが。
決して大きな声ではなかった。反響するバスのエンジン音が常駐するターミナルで、冴えわたるナイフの鋭さを持った女の声。自分に言われたわけではないのに顔が上がり、勝手に持ち主を探し出した。
鈍色の景色の中で色を塗り忘れたような真っ白い髪。黒いジャケットとタイトな膝丈スカート。ソールが赤いピンヒールがクイッと持ち上がり、目にもとまらぬ速さで振り下ろされた。
キィンッ…………。
コンクリートに跳ねる甲高い音。銀色のそれがヒールによって無人の壁まで蹴り飛ばされ、ようやく鋭利なナイフであることを認識した。
「〈て、ぜんぶうえ。すわる。はやく、する〉」
聞きなれない言語で何事かを警告する女。それを無視した男は、逆上しながらなりふり構わず女の方へと突進してくる。1mもない距離で心の準備などしようもなかったろうに、女はリラックスした状態から伸びてきた腕を軽く捻りあげ、痛みで跪いた男の脚の間に足を落とした。コンクリートを抉る勢いで突き刺さったピンヒール。ミリでもズレていたらきっとあらぬところを踏んずけていた。これには男だけじゃなく見ていた選手からも情けない悲鳴を上がった。
女は躊躇いもなく自分の腰の細いベルトを引き抜き、後ろに回させた男の手首をギチギチに拘束し始める。あまりの手際の良さに我に返ったスタッフの一人が警備を呼びに行くまで時間がかかってしまった。
ナイフを持って近付いてきた男を、女が瞬時に無力化した。後から聞いた話だと、バスタード・ミュンヘンの選手だからではなく外国人に恨みがある無差別的な犯行だったらしい。この時の一団にはあずかり知らない事実だったが。
あまりに呆気なさすぎる終わり。戦々恐々一部始終を見守ることしかできなかった選手一同。するとカイザーの背後で「なあ……」と声を上げた男がいた。ゲスナーだ。
「スカート、破れてやがる」
全員の視線が女のスカートに集中した。
確かに、足を振り上げた動きについてこれなかったスカートがスリッドから太ももの付け根まで大胆に破れてしまっている。体重移動をするたびに、糸の隙間から赤い何かがチラリと覗くし、パンストは憐れにもビリビリに伝線している。
なんというか、とてもクる格好だ。本人は何も気にせずに下手人を引っ立てようとしているのが余計に居た堪れない。
カイザーは、とっさに自分のストールを外して女に近寄った。「カイザー?」隣のネスが思わず声を上げるくらい、自分でもらしくない行為だったかもしれない。
何故か無性に、男の下品な視線に晒されるのが我慢ならなかったのだ。
「おい、これを使え」
「はい?」
「見苦しい格好を晒すなと言っているんだ」
極力下を見ないように指で示せばようやっと自分の惨状に気が付いたのだろう。しかしそれにしてはずいぶんと落ち着いた態度で一つ頷くと、女は自身のジャケットを脱いで腰に巻き始めた。
は?
「おい」
「お気持ちだけ頂戴します。選手の体調管理が最優先です。カイザーの体を冷やしてまで私に気を配る必要はありません」
そこでやっと、カイザーは相手の顔をまじまじと見つめた。
真っ黒い目をしていた。虹彩も瞳孔も真っ黒で、見つめれば見つめた分だけぐるぐるとした底なし沼を幻視する。ビッチリ生えたまつげも黒々としており、目尻はキュッと上がったキュートなキャットアイのクセに、野生の肉食獣に様子を見られている緊張感がある。
短く整えられた眉も、ツンとした鼻先も、色のない薄い唇も、全体的に主張が少ないなりに愛好家がガラスケースに入れて飾っている人形のよう。顎下でサラサラに整えられた真っ白い髪と色を感じない白肌も相まって、非現実的な存在としてぽつねんとそこに浮いてしまっている。
近寄って並べばヒールのせいかカイザーと身長が変わらない。薄いインナーシャツを盛り上げる乳房となだらかな腰のラインは女性的であり、鍛えているからこそ醸し出される柔らかい肉感を伝えてくる。
こんな女がいただろうか。
いくら記憶を漁っても自分の人生にこの女が介入したのはこれが初めてだ。バスタード・ミュンヘンに帯同しているのだから、クラブチームが雇ったボディガードかとも思ったが、男子チームに女を付ける意図が見えない。なら、この女はいったい?
警戒心を跳ね上げたカイザー。一歩後ろに距離を取ろうとした、その時。
「ルエラ」
我らがスーパースターにして絶対的な指導者。世界一のストライカーが大股でこちらに突進してきたのだ。
知らない女の名を呼びながら。
「ノア、止まって。不審人物をあなたに近付けるわけにはいきません」
「警備は呼んだ。その恰好はどうした」
「私の不手際です。スカートの可動域を見誤りました。せっかくの贈り物をすいません」
「いい、気にするな」
自分が着ていた薄手のダウンを女の肩にかけるノア。女はカイザーのストールを突っ返したのと同じように固辞したが、強い口調でノアが言い聞かせると、渋るようにゆっくりとダウンに袖を通した。体格差からか、ギリギリ尻が隠れる長さのオーバーサイズになり、ちょうどやって来た警備に男を引き渡してその場から移動することになった。
のだが。
「着替えてこい」
「時間が押していますので、現地に到着してからにします」
「お前に不自由な服装を強いたのは俺で、服装の弊害が出たとすれば俺の責任だ。お前に不自由で品性を貶める恰好のまま歩き回られると俺の沽券に関わる。着替えてきなさい」
「……わかった」
秒で言い包められた女は、そのまま走っているのと同じ速度の競歩でターミナルを逆戻り。あまりの速さに黙って見送るしかなかったカイザーだったが、ハッと我に返えると当然の疑問が口から飛び出した。
「誰だあの女」
「え……カイザー、事前に説明があったはずですよ」
「いつの話だ? まったく身に覚えがない」
「一週間前のはずですが、そうですか。カイザーにとっては些事に違いありませんね。彼女は──」
ルエラ・ノア19歳。ノエル・ノアの妹であり、ノアの通訳兼ボディガードとして常に帯同することを許された特別な女だと。
寝耳に水どころの騒ぎではない情報に、盛大に固まり何度もネスを質問攻めにしたカイザー。しかし誰に聞いてもノアに妹がいる事実は覆らず、ノア本人からも呆れたような眼差しを向けられ黙るしかない。
なんだ? 何かがおかしい。
動揺を引きずったままブルーロックに足を踏み入れたカイザーだったが、真の恐慌はこの後に残っていた。
「────Echt?」
ブルーロックにガブリエルがいない。
ガビ・ブラウも、青原ガビも、誰も何も知らない。ミヒャエル・カイザーは生まれてこの方一人っ子であり、下に兄弟がいたことなんて一度もないのだと。
そんな途方もない現実がアルプス山脈のごとく雄大に屹立した。
***
ノエル・ノアが連れ歩く妹の存在は、ノアのファンなら誰もが知っている常識だった。
といっても彼女がドイツで成人してからこの一年ちょっとの新しい常識だけれど。ピッチの中以外なら同じ画角に必ず映り込んでいる。そういう心霊写真かと当初は騒ぎになったくらい、ノアの近くにぴっとりと寄り添うパンツスタイルの女は話題になっていた。
ノアと同じ色のサラサラのワンレングスショートヘア。ある時はジャージで、ある時はジーンズで、ある時はパンツスーツでノアの隣や背後に控えている。決して練習や試合は邪魔しない場所で、本当に空気のように溶け込んではノアの視線一つでタオルやドリンクを渡したり予定をアナウンスしたり。MOMインタビューでは機械音の如く淡々とした声音で流暢に多言語を使いこなしていた。十代で使いこなせる数ではないとさらに話題にもなったっけ。
その幽霊に、潔世一は抱き締められている。
「潔、お怪我は」
「ぁ、ぇ……っす」
「? どっち」
大きい。
アッいやちがうおっぱいのことじゃなくて身長! 身長が俺より大きい! さっすが外人!
ドギマギのお手本みたいな態度で手を宙にワキワキさせる潔。だって自由なのがそこしかない。頭は正面から女性のお胸にダイブしてしまっているし、抱き留めている腕と体はビックリするほどしっかり固定されている。頬はツヤツヤしたブラウス生地と暖かくて柔らかい感触でいっぱい。鼻からは何か甘くて爽やかな香りがスッッと入って来る。ミント? ハーブ? ミントとハーブの違いってなに? 動揺と緊張から短い間隔で熱い呼気が口から出てしまい、頭上から鼻にかかった「んっ」が降って来た。潔の体温がぎゅんっと上昇した。
え、なにこれ。いつまでここにいていいんですか。というか俺のこの迷子の手はどこに置けば。だ、抱きしめ返しても!?
パニックになりながらも積極的に離れる選択を取れないままでいる潔。見下ろす黒々としたまなこは思ったよりも怖くなくて、大きくて、とても愛嬌がある。好奇心旺盛な猫ちゃんみたいなだぁ、と茹った頭が現実逃避し始めた。
俺、ここに住みたい……。
「いつまで腑抜けるつもりだ世一ぃ」
「ぐぇっ」
ものすごい力でジャージを引っ張られ後ろの転がされた潔。ジャージの首が締まり、尻餅をついてゲホゴホしてしまう。それに近寄って高そうなジーンズで膝をつき、背中をさすってくれるのがさっきまで抱きしめてくれたお姉さんで。潔はキレていいのか喜べばいいのか分からなくなった。
「カイザー、乱暴です」
「ノアの持ち物にいつまでもベタベタ触る駄犬が悪い。躾けは大事だろう?」
「潔は犬ではなく人間です」
「ジョークが通じない女だな。それとも自分から体を触らせているのか? はは、犬は一匹じゃなかったってことだ」
心底馬鹿にしたツラで腕を組んでいるカイザー。言われた内容を噛み砕いて、とんでもないことを言っているなと腑に落ちた。
「ッおいカイザー! ルエラさんに失礼なこと言うな!」
「は? 失礼? クソ事実だろうがShiba Inu世一くん」
「おっまえ口が悪いのはサッカーだけにしとけよ!? ルエラさんに謝れ訂正しろ!」
「何故世一に口出しされなければならない。これは俺たちの問題だ」
「は……ハァァ!? 俺たちって、ッんぅ!?」
それってどういう仲なんだよ。
カイザーとの口論がヒートアップしかけたその時、さっきまで背に添えられていた手が潔の唇を摘まんだ。……は? 唇をつまむ?
ビックリ目を白黒させて持ち主を見やると、さっきよりも近い距離にある黒い目が静かに潔を見下ろしている。本当に、まつげの数が数えられそうなくらい近くて。──ドッッ! 今日一番の大きな太鼓が心臓でデッカク鳴り響いた。
「カイザー、潔、時間が押しています。休憩か練習に戻ってください」
「……チッ」
「潔、体温が上昇しています。体調不良は早めに対処してください。体温計を持ってきますか」
「体調、は元気です……ハイ……」
「いつまでハラスメントを続けるつもりだ世一。さっさと立ってお仲間の元にハウス」
「は、ちがッ、変なこと言うなよマジで!!」
勢いよくルエラと距離を取った潔。しかし心臓のバクバクは治らず、ジャージの上からギュッと胸を抑える。「胸部痛ですか? やはり医務室に」と首を傾げる年上の女の人に鼓動がさらに悪化した。
「シュナイダーは、気付かなかったんですね。空間認識能力のトレーニングを提案しなければ」
「俺から言っておく。お前もサッサと持ち主のところに帰れ。邪魔だ」
「分かりました。潔を医務室に連れて行ってから戻ります」
「コイツに必要なのは医務室じゃなくバスルームだろ」
「……胸部痛ではなく、腹痛が?」
カイザーてめぇバカ野郎!
鼻で笑ってとんでもないことを言うカイザー。何を言われているのかイマイチ分かっていないルエラ。きっと俗世の汚い欲望など知らないのだろう。潔が的外れな心配をしている間に、ルエラはノアの部屋へと戻っていった。
ちなみに今回の経緯は、考え事をしながら歩いていた潔をスタメン落ちして気が立っていたシュナイダーが“誤って”突き飛ばしてしまい、体勢を崩した潔が怪我をしないように抱き留めたのがルエラだった。犯人はとっくに逃走している。
苛立ちなんかどこかに吹き飛んでしまい、今まだ鼻の奥に残っている大人の匂いにドキドキが止まらない。
「シャネルのエゴイストプラチナム。ノアのオードゥトワレットを借りてるらしい。覚えなくていいぞ、わんわん世一」
「は?」
「ルエラの匂いが気に入ったんだろ? でも残念。アレはノアの私物だ。慰めに香水だけでも同じにすればちょっとは満足するんじゃないか?」
コイツ、どんだけ犬で当てこすってくるんだ?
流石にしつこい。しつこすぎる。この場にネスがいないのでネスの分も余計に煽り散らかしているのだろうか。
兄の幽霊みたいに付き従う妹、ルエラ・ノアはノアの付き添いとしてブルーロックにやって来た。筋骨隆々のノアと並ぶと細身でスラッとして見えるが、日本人男性とほぼ変わらない長身であり、動けなくなった選手を横抱きで持ち運べるくらいには力もスタミナもピカイチ。
というかガス欠で倒れた潔を部屋に運んだのはルエラである。目が覚めて女性に膝枕されていた衝撃はいつまでも忘れられそうにない。というか夢うつつで見上げた無表情が、ノアが入室すると同時にわずかに綻んで、『のえる』と舌足らずに呼ぶあの声音が、特に……。
いや、まあ、うん。とにかく、潔に限らずドイツ棟にいる選手のマネージャー的な仕事も担っており、誰に対しても真摯に事務的で、なんだか少し距離感がバグっている。選手が怪我をしないためなら身を呈して動きすぎている。その例が今も起こってしまったわけだが。
そのたびに、どこからともなくカイザーが現れ、選手にマウントを取るなり煽るなりしてルエラから引き離してくるのだ。あのネスに対しても。
なのに、カイザーとルエラが親密な距離にいるところを一度も見たことがない。
つまりこのカイザーの当てこすりも醜い嫉妬なのではと、流石の潔も分かりやすく勘ぐってしまう。
「ルエラさんのことになるとすぐに突っかかるよな。そんなに相手にされない自分が可哀想か?」
「無駄吠えが過ぎるぞ世一ぃ。俺とルエラは下着を見た仲だ」
「な…………!?」
嘘だろカイザー。
訳知り顔の余裕が一気に崩れ落ちた。真っ赤になったり真っ青になったり、面白いほどに顔色が変わる潔。喉の奥でクッと愉快気に笑うカイザーだったが、背後から近付いてきた男に容赦ない握力で肩を掴まれあえなく撃沈することになる。
「アクシデントで見えた女性の下着でマウントを取るな。お前以外にも大勢あそこにいただろう」
「いッ!?」
「マウントのために品性をドブに捨てる気かカイザー」
我らがマスターストライカー、ノエル・ノアである。
カイザーで握力測定しながら早口で伝えられたのは、ブルーロックに来る直前の事件のこと。ボディガードの役目を果たした代わりにスカートが破けてしまい、日本に来て初めての買い物がファストファッションのクロップドパンツになってしまったらしい。
ボディガードって眉唾な噂じゃなくガチだったんだ。
「ノアは放任主義なんだな。実の妹が男に囲まれて体をまさぐられても黙認か」
「おい言い方」
「部外者は黙ってろよ」
「俺にとっちゃお前も部外者だぞカイザー」
「なに?」
ピクッとカイザーの眉が跳ね上がる。
「ルエラは俺の妹だ。お前の妹ではない」
ノアの言葉は、ただ事実を並べただけのシンプルなものだったのに。
カイザーは、空っぽみたいに完全な無表情になってしまった。
「お前に守られるほど、俺の妹は弱くないぞ」
その表情を、潔はどこかで見たことがあるような……。そもそもカイザーの顔立ちに、どこか既視感がずっとあって、確かつい最近の、ゲーセン……プリクラ…………………………あれ?
「ガビ?」
って、どこのチームだっけ。
急に降って湧いた疑問。見も知らぬ誰かの名前が徐々に色を持って輪郭を濃くしていく。そうしてある瞬間に突然、金髪碧眼の美少年が燦然と脳裏に浮かび上がった。
青原ガビ。ブルーロックを勝ち上がったドイツと日本のクォーター。
何故今まで忘れていたんだろう。説明できない不気味さに思わず顔を覆った潔だったが、
「今なんつった」
光の速さでにじり寄って来たカイザーによって思考は現実へと引きずり戻された。
***
青原ガビ。本名ガブリエル・カイザー。選手登録名ガビ・ブラウ。
正真正銘ミヒャエル・カイザーの実の弟であり、“妹”。ドイツのバスタード・ミュンヘンでカイザーが手塩にかけて育てたサッカー選手。モデル業も兼業しており、頭のテッペンから足のつま先までツヤツヤのピカピカに磨き上げられた天使ちゃんだと。
スカウティング中のディスカッション並みの真顔でつらつらと“妹”の話をしゃべり倒すカイザー。
やれ髪のメンテのここをこだわったとか、唇がふわふわでまるで本物の薔薇の花びらのようとか、お揃いで入れたブルーのメッシュがお気に入りとか、ほっそりした脚でドンピシャの位置にくるパスが良いとか、プレゼントしたピアスを毎日つけていていじらしいとか、寝ぼけた時の『ミヒ』呼びが猫ちゃんみたいで最高とか。
「高校生で二人暮らし?」「野郎の髪乾かしてやるの?」「リップを指で……へぇ……」「ガビの髪に青いとこあったっけ」「きききす!? おはようからおやすみまで!?」「アイツ結構足の筋肉ついてたような」「あーーっと、妹ってか弟の間違いでは……ない? ソッカァ」いちいちカルチャーショックを受けていた潔も、これはカイザーショックだなと気付くレベルでしゃべり倒した。
とにかく、潔とカイザーだけが“ガビ”という選手が存在したことを覚えていて、周りはまったく覚えていないのだと。
収監直後にネスに相談したカイザーが『まさかとは思いますが、その“妹”はカイザーの想像上の人物なのでは?』と決死の覚悟で諭され、否定する気も起きずサッカーに集中するしかなくなったことまで聞くと、なんだか気軽にドン引きできなくなってきた。
「クソ似ているんだ……」
「なにが」
「ルエラが、どことなくガブリエルに……」
「そん、」
なわけない、と言い切れない程度に似ているかもしれない。見た目じゃなく醸し出す空気が。
なんというか、ガビは独特なヤツで。悪いヤツではないが常識が少々ズレている。そこは踏み込まないだろうというところで踏み込み、放っておくなよという事案をドライに切り捨てる。合理的な無表情の美少年でありながら、心がないかと言われれば変なタイミングで懐きだす。猫ちゃんからワンちゃんへの変遷がゼロか百なのだ。
ルエラを思い浮かべると、確かに納得する。敬語で事務的にペラペラしゃべるから気付かなかったけれど、確かに。
「ノアとプライベートな話をしている時が一番似ているような」
「わかる……」
女子高生の“それな”みたいなノリで頷かれても。
そうとう精神的にキていたらしく、煽り散らかしマウントクソ薔薇野郎の見る影もない。どうやらガビが存在しないストレスを似ているルエラのガードをすることで紛らわせていたらしい。なるほど、どうりで『好きなの?』と煽っても怪訝なツラをするわけだ。完全な家族愛を恋愛だと誤解されたのだから。
今を生きている現実とは別の世界の記憶が流れ込んでくる。潔の心情的にはこちらが正しいが、カイザーはまるごと別の世界に紛れ込んだようなもの。世にも奇妙な〜は下手なホラーより怖い時がある。
潔はサッカーが絡まなければお人好しだ。今までの悪行にいったん目をつむって話くらいは聞いてやるかと、カイザーに向き合うことにした。
・
・
・
「潔、」
「わッ! あ、ああ、すんませっ」
「動かないでください。痛いです」
「ア、俺、揉ん……違うんですすいません!」
「いいから」
とんでもスイッチで転倒し下敷きになったルエラの胸を鷲掴みにしてしまったり。
「あれ、なんで、鍵開かない」
「システムの不具合ですね。すぐ復旧します」
「でもあの、近くないですか……」
「我慢してください」
「は、はぃぃ」
「んッ、そこで喋らないで」
「ッ、ッ!」
狭い鍵付きロッカーにハプニングで閉じ込められ、抱き合う形で二人で三十分過ごしたり。
「なっ、なななんで脱いでっ」
「鍵をかけたはずですが……ああ、ドアのセンサーに付箋が挟まっていたんですね」
「そんなことあります!?」
「以後気を付けます。退出してくれませんか?」
「ひゅわっゴメンナサイ!」(裏声)
ノアに助言をもらいに行ったマスタールームで、完全にカメラを切って着替えていたルエラの下着の色まで見てしまったり。
短い間にこれだけのラッキースケベが繰り返され、潔はもう息も絶え絶えだった。何が酷いってサッカーしている間以外はルエラのことで頭がいっぱいになる。幽霊みたいだと噂されていても、実際に目で見て会話し触れてしまえば一人の生きた人間である。しかも潔は彼女の体の柔らかさも匂いも知ってしまっている。
エッもしかしてこれって、そういうことでいいのか!?
ちょっとサッカー以外は考えたくない環境で、しかもノアの妹にそういう感情を持つってどうしようもない。浮かれるより先に手に余る。
何より潔が頭を抱えたのが、カイザーの100%殺す視線である。
「ころす」
訂正、100%殺す意志だ。
ソレ俺のセリフ……などと悠長に言っていられない。
潔とカイザーはこの世界にはいないガビという存在を打ち明けあったことで仲良くなった……わけではなく。ノアがいる手前、表立ってガードしにくい“妹のような女”への庇護欲独占欲執着その他諸々を我慢するフラストレーションを全部潔にぶつけるようになった。結果、潔がラッキースケベでルエラと乳繰り合うたびに隠しもしない殺気を浴びせかけてくる。
サッカーなら煽りの熨斗をつけた殺害予告をクール便で送り返すが、この件に関しては弁解しようもなくこちらからも手を出しているし、なんならかなりイイ思いをしてしまっているのでカイザーを責められない。でも本当に殺されてはかなわないので、わりと頻繁にノアの目がある場所に居付くことになった。カイザーの歯軋りが幼児のバイオリンになった。
なので、この悲劇はノアとカイザーの目の前で起こるべくして起こったと言えよう。
「んっ?」
「〜〜〜〜〜ッ!???」
簡単に言うと事故チュー。
なんか説明するのも馬鹿らしい悪魔のイタズラで、色素の薄い唇と潔の唇が奇跡のマッチング。
やわらか……いい匂い……ちょっと湿ってる……あ、コーヒー飲んでたのかな……ふわふわ……もっと、もっと触れていたい……きもちぃ……やらけぇ…………。
とろんとしていく意識が、突然の衝撃によって覚醒させられる。青筋浮かべて瞳孔かッ開いたブチギレカイザーが潔の首根っこを引っ掴んで無理やり引き離したのだ。
「もう我慢ならん」
「え」
「んぷっ」
カプッと。
さっきまで潔の唇にぴっとり寄り添ってくれた唇が、カイザーの大きな口によって綺麗に食べられてしまった。
「んっ、ぁ、んん、ふぁ……!」
ルエラの鼻にかかった声。ぴちゃぴちゃとわずかに聞こえる湿った音。大人のキスだ、と察するに余りある衝撃映像を、潔は黙って見守るしかなかった。一個しか違わないのに、カイザーのキスは手慣れていて、相手を気持ち良くしようという余裕がある。
ちゅるりと吸い上げた粘膜の赤が、潔の目に鮮やかに焼きついた。
「世一の甘噛みなんかキスの内にも入らない。そうだろう?」
指でルエラの耳をいじりながら唇を離したカイザー。それでも額はくっつけたまま、唇の表皮に息を吹きかけるように甘く囁く。その目はどこまでもクレバーで、嫉妬というより執着の方が強い色をしている。ルエラの黒い目に薄い膜が張った。
気になるお姉さんと宿敵が甘い雰囲気を出している。とんでもない光景に唾をゴクリと飲み込んだ潔。しかしカオスはまだまだピークに達してはいなかった。
「ぬりぃな」
「は?」
この場にはもう一人、黙って成り行きを見ていた男がいた。
世界一のストライカーにしてルエラの兄、ノエル・ノアがカイザーの腕から妹を救い出すと、筋肉が乗ったぶっとい左腕で肉感的な腰を拘束し、余った右腕が白い髪を撫で梳いてから後頭部をガッと押さえつけ────、
────ズゾゾゾッ、ぐちゅっ、ぬろぉぉぉぉ、ガジガジ、ぢゅーーーーーッッ、ぐっぽぐっぽ、ちゅっちゅっ、するり、れーーろれーーろ、じゅるるるるるるるる…………。
エッッッッッグイディープキスを3分間見せつけられた。
スターチェンジシステムってそういうことじゃない。
とんでもねぇ擬音が壊れたように過ぎ去っていき、残ったのは息も絶え絶えの女の瀕死体。世界一の腕の中で口の周りをベタベタに汚しながらビクンビクンと震えるルエラ。唇は可哀想なくらい卑猥にぷっくり腫れてしまっている。色白の肌の赤みは、カイザーのキスではせいぜい口の周りくらいだったが、今は全身余すとこなく赤くなっていた。
誰がどう見たって完敗。
「な、なにしてんだよノア。そいつは、ノアの、」
「妹だな。俺が12の時にスラムで拾った赤ん坊だ。──言いたいことは分かるな?」
実の妹じゃないから大丈夫! ……なわけあるかい。
「はーッ、はぁ、はひゅっ、のえるぅ、」明らかに酸欠気味のルエラを縦抱きにして奥に引っ込んだノア。自動ドアが閉じた瞬間しっかりロックがかかる音がした。それを呆然と見送るしかなかった潔とカイザーは、健全な青少年であった。
胸の内に渦巻く絶望と、その内側でほの暗く光る形容しがたい何か。
俗にいう“えぬてぃーあーる”の洗礼を浴びせられた二人は、それから…………。
***
「という夢を見たんだ」
「だからルームシェアをやめろとか言い出さないよな?」
「流石日本人は空気を読むのがうまい。キャンセル料は俺から支払っておこう」
「ふざけるなよお兄ちゃん」
「誰がお前の兄だ」
「“妹”が実在してくれて咽び泣いたんだろ。今くらい有難く呼ばれとけよ」
「…………」
「ま、マジで泣いたのか?」
「うるさい黙れクソ世一」
「急にIQ下がる……」
ドイツの同じクラブチームに所属することになった潔とガビは、カイザーとネスの猛反対をどうにか掻い潜り仲良くルームシェアすることになっていた。その矢先にカイザーがとんでもない夢を見たと。ブルーロックの新英雄大戦とかいう三年も前の話を出され、スマホ越しに乾いた笑いが漏れた。
「だいたいノアに妹なんかいねーし。血が繋がらないからって手を出すような人じゃないだろ」
「…………待て、俺は“ノアが自分の妹とキスした”としか言っていないぞ」
「……そーだっけ?」
「一言も血縁がない話には触れていない。どうして知っている? 正直に答えろ」
「あーあー、急に電波がおかしくなったナァ? 引っ越し終わったらかけ直すわ」
「世一!!!!」
無理やり切ってすぐに着拒。ほとぼりが冷めたら解除しよう。
夢の中に存在したノアの妹。ガビによく似た空気と性格の女に潔が淡い恋心を抱いていたことをカイザーは知っている。潔としては夢の中だけの話であり、実在しない人間を想い続ける気力は一切ないけれど。あのシスコンは似ている“妹”にまで懸想するのではと言いがかりをつけるに決まっている。ガビは本当に友達なのに、困ったお兄ちゃんだ。
せっかくの誕生日に変な夢を見たな。
「ルエラってどっから来た名前だ。そんな知り合いどこにもいねーよ」
それっきり、潔は夢の中でキスした女の存在をすっぱりと忘れてしまった。
エイプリルフールネタのつもりで書き始めたら途中でよっちゃんの誕生日だって知りました。おめでとうございます! ホントごめん!
ツイッターでアンケート取った結果よっちゃんがメインになったんですけど、カイザーが勝ってたら“妹”似のお姉さんとイイ感じになるときめきと罪悪感で情緒がバグる話になる予定でした。ぶっちゃけ“妹”はノアの妹だったら性格の相性も良く健全に生きられたんじゃないかな、という私の持論をカイザーに見てもらいたかったエゴ話です。朝起きて泣いたのはそういう意味でかもしれない。もっと馬鹿騒ぎなお話の方が良かったかな……反省……。
何気に前世の容姿のまま転生させたのはコレが初ですね。
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