天使がおわすだけの国



※兄弟での行き過ぎた身体接触あります。あくまで家族愛です。
※キャラ崩壊(定期リマインド)



ガブリエル・カイザーは男の子です。

娘で、妹で、姉で、女として生きた彼女の記憶がある、普通の男の子です。

前のガブリエルは人殺しでした。とっても怖い殺し屋さんのおうちで、お父さんとお母さんとおじいちゃんに大切に育てられました。

彼女には兄と弟が二人いましたが、三人とも子供の頃に亡くなっています。だから、彼女に兄弟の記憶はほとんどありません。

でも、両親とおじいちゃんは覚えています。たくさんたくさん覚えています。何をして死んでしまったのか。電気椅子や毒や仕事でどんな死に方をしたのか。覚えているから、一人になってしまった娘を大切に育てました。

死なないように、殺されないように、執拗に育てました。

痛いことがたくさんありました。苦しいことがたくさんありました。けれど、悲しいことではありません。痛いのも苦しいのも娘を強くするための家族の愛です。少なくとも彼女は信じています。愛という言葉を知ったのは大人になってからですが、彼女の愛は家族から教わっていました。


『おかしいよ、そんなの愛じゃないよ』


子供の真っ黒い瞳は鏡のように彼女の顔を映しています。

熱を持たない闇人形。家族の愛の結晶です。

おかしい。それはそうでしょう。みんな自分の人生を生きているのです。自分以外の人生を生きている人間は、自分にとっておかしくて当然です。みんなのおかしいを集めて割ってできているのが普通なのです。

彼女は怒りませんでした。子供の言葉だって本当はすぐに忘れるはずのものでしたが、尊重すべき本家の坊ちゃんが連れてきた大事なご友人だったので、仕方なく心にとどめています。

……本当に、そうだったのでしょうか。


『自分のしたいことはないの? 好きなことは? ないなら探しに行けばいいんだよ!』


ずっとずっと後のこと。
死んでしまった後から考えてみると、その時感じた胸の痛みは“悲しい”でした。

動物園の動物が野生に放たれたとして、一匹で生きていけるでしょうか。
籠の中の鳥が空に飛び立ったとして、一生飛んでいけるでしょうか。
水槽の魚が大海に飛び込んだとして、優雅に泳いでいられるでしょうか。

子供の言葉は、彼女にとって“死んでしまえ”と同義でした。

『死ね』と言われても動じない心がつきんつきんと痛みます。

だって、見当はずれも甚だしい無意味な言葉なのです。手遅れですらなく、彼女は生まれてからずっと“こう”なのです。“そう”としか生きられない人間に、──他の道で生きたいとも思わない人形に、今さら自分探しの旅をしろなんて、それは人格否定に他なりません。存在を根底からひっくり返すような、とってもひどい言葉なのです。

それでも、ひどい子供の隣で尊重すべき坊ちゃんが健やかに笑っている。同じ育ち方をして、違うのは兄弟が全員死んだか、生きているか。


『アンタ、イルミみたいな考え方してるくせに、どっか憎めないんだよな。なんかの間違いでちょっとずつズレてたら、オレもそうなってたんじゃないかって気がして、堪んない気持ちになる。なぁ、ちょっとくらいさ、

──自分の気持ち、もっと大事にしてよ』



キルアの言葉を12歳の時に聞いていれば、繝ォ繧ィ繝ゥは何か変わっていたのでしょうか。


ガブリエル・カイザーは普通の男の子です。

地球という星のユーラシア大陸に存在するヨーロッパ大州西部のドイツという国に生まれました。お父さんとお母さんとお兄ちゃんがいる普通の男の子です。

普通の男の子なので、生まれつき普通にしゃべれるのはおかしなことです。前世で習得している言語だからといって、簡単に大人と同じ言葉を使ってはいけないのです。

普通の男の子なので、痛くて苦しい訓練はありません。暗くてジメジメした地下室も毒を含んだ離乳食もありません。だってここは普通のおうちなのです。

普通の男の子なので、お友達を作らなくてはいけません。仕事以外はお屋敷にこもって優雅に暮らす殺し屋さんならともかく、人間社会は横のつながりが必要不可欠なのです。

普通の男の子なので。
普通の男の子なので。


──普通の男の子ってなんでしょう?


ガブリエルはとても困りました。困って困って、お兄ちゃんの真似をすると、今度はお兄ちゃんに嫌われてしまいました。

お母さんが『ガブリエルが笑っていればみんなもあなたのことを好きになるよ』と教えてくれたので、お外ではいつも笑っています。

何も感じなくとも笑っています。
誰にも話しかけられなくても笑っています。
一人になっても笑っています。

『お友達はできた?』首を振ると、お母さんは苦しい顔をします。

いつも笑っているのに、お友達はできません。そもそもみんなって誰でしょう。どうして笑うと好きになってもらえるのでしょう。好きになったら友達? 友達の基準が曖昧です。

ふわふわ抽象的な命令は苦手です。でも、やらないという選択肢はありません。


ガブリエルは六歳の時に家出をしました。


あてどなく近所を歩き回ります。短い手足でテクテクテクテク。天使のお顔に笑みを張り付けてテクテクテクテク。そうしていると、広場でサッカーをしている少年に声をかけられました。


『人数が足りないから混ざってほしい』


ガブリエルは笑顔で頷きました。

この国の人間はサッカーが大好きです。ちょっとビックリするくらいサッカーを愛しています。でも、ガブリエルが知っているサッカーはマフィアが裏賭博で資金回収する手段でした。そのお金でどれだけの武器と麻薬がばら撒かれるのでしょう。

ガブリエルはサッカーが分かりません。
サッカーに夢なんかないのです。

子供たちが早く早くと急かします。足元にはボールがあります。ちょっと蹴ればどこまででも転がって行きそうなボールです。

ガブリエルは人の真似をすることにしました。“ちゃんぴおんずりーぐ”で見た選手の真似です。


『メッシのスーパーシュートだ!』
『今のクローゼに似てる!』
『アンリの真似!? すっげー!!』


とても本人には及ばないテクニックです。曲芸でしかないガブリエルの動きを、子供たちは喜んでいました。試合なんかもうやめて、みんなでガブリエルを囲んであれやこれやとはやし立てました。

ガブリエルは乞われるままに覚えている動きを披露しました。笑ってくれる友達ができたのです。友達には、友達としてお願いを聞かなければならないのですから。

そうして時間は過ぎ、夕方に差し掛かると、子供たちは上機嫌におうちに帰っていきます。ガブリエルも、確かな手ごたえを感じながらおうちに帰りました。

おうちを出たのは朝。おうちから三時間歩いたところが今の場所。夕方から三時間かけて帰ると、お夕飯の時間はとっくに過ぎていました。

リビングにはお母さんとお父さんとお兄ちゃん、見知らぬ大人が一人いました。

消えたガブリエルを探してくれた警察の一人でした。

ガブリエルは誘拐されたと思われていたのです。


『ガブリエル……! どこに行っていたの!?』
『探したんだぞ! みんな、お前を心配して、』
『怪我は? 誰か変な人に遭わなかった? 怖いことはなかった?』
『ああ、こんなに体が冷えて……どうしてお前は目を離したんだ!』
『わ、私はキッチンで料理していたのよ? あなたこそ休みの日くらい子供を見ていてよ!』
『見ていろなんて言わなかったじゃないか!』
『言わなきゃやらないの!? あなたの子でもあるのよ!?』
『だから、俺はミヒャエルとサッカーを見ていて、』
『ソファに座っていただけじゃない!!』


お母さんとお父さんは喧嘩を始めてしまいました。ガブリエルなんか見えていないみたいに。

ガブリエルを見ているのは、怖い顔をしたお兄ちゃんだけでした。


『ミヒ、』
『お前なんか弟じゃない。いらない、大ッ嫌い』


地団駄を踏むように階段を駆け上がっていくお兄ちゃん。お母さんとお父さんはまだ喧嘩しています。警察の人もとても困っていて、おうちの中はしっちゃかめっちゃか。

ぜんぜん普通のことではありませんでした。


────普通の男の子になれなかった。


ガブリエルは静かに学習しました。











『母さんと父さんの言うことは忘れろ。他人におもねってバカの真似をする必要なんてない。俺が、──この兄が、お前を“妹”として大事にしてやる。お前に最高の人生を歩ませてやる』


10歳、ガブリエルはミヒャエルの“妹”になった。


『お前にはそこらの木っ端よりサッカーの才能がある。その蕾を育てず腐らせるには惜しい。俺がそばで見守っててやるから、存分に力を示せ』


13歳、ミヒャエルはガブリエルをローゼと呼ぶようになった。


『俺の可愛い青薔薇ちゃん。兄の傍らで美しく咲き誇っておくれ』



そして16歳の今、ガブリエルはミヒャエルとルームシェアをしている。


「また寝落ちしたのか? タブレットの充電が切れそうだぞ」
「ん、みひ、」
「おやおや、俺の“妹”はとんだ甘えたさんだな」


ベッドの上で胎児のように丸まるガブリエル。シーツの上には一時停止されたタブレットとブルーライトカットの丸メガネ、ゆるく三つ編みにしてまとめてある青い尻尾が一緒に寝そべっていた。

ノックをしてから入室したミヒャエルは、当然のように“妹”の横髪を梳き頬を撫でさする。するとガブリエルがせっかく開けた目を閉じて受け入れるので、兄は大袈裟なほどに眉を持ち上げた。


「どこでこんなおねだりを覚えたんだ?」
「みひ」
「そうか俺だったか! よくやったぞ俺!」


そうして前髪を避けると、露わになっている額に唇を落とした。大事な物を大事にする。ミヒャエルの決まりきった愛情表現であり、一種のパフォーマンスでもあった。

俺はお前との約束を守っているぞ、と。


「朝食ができている。冷める前に顔を洗っておいで。髪は、後でだな」
「うん、おきる」
「よろしい」


勢いをつけて起き上がったガブリエル。今度はつむじに一つキスを贈ってからミヒャエルはリビングに戻って行った。

残されたガブリエルといえば、さきほどの寝ぼけ眼が嘘のように俊敏な動きで身支度を整える。兄が喜ぶからと、朝のガブリエルはのんびり屋のフリをしている。それに気付いていながらミヒャエルも猫かわいがりをしているのだ。兄が兄なら“妹”も“妹”だった。

本当はノックする直前までサッカーの試合を見ていたことは、決して気付かれないようにしている。

睡眠時間四時間。午前零時に寝て午前四時に目を覚ます。そこからはデータ分析の時間だ。気配に聡いガブリエルは、午前六時に兄が起きてロードワークに行き、帰って来て朝食の準備をしているのを頭の片隅で伺っていた。

そして部屋に近づく十秒前にタブレットとメガネを放って狸寝入りするのである。

スリッパを履き洗面台までやって来たガブリエル。ミヒャエルが使用したばかりなのか、シャワールームからは薔薇味の湯気が立ち上っている。スチーマー代わりに顔面に受け止めながらヘアバンドで前髪を上げた。

十代の肌は成人に比べて皮脂量が多い。清潔に保つのはもちろん大事だが、過剰に洗い落としてしまうのもニキビの原因になりかねない。ニキビができることは年齢的に仕方がないことではあるし、現代の技術では撮影後に修正をかけることもできる。けれど、決して妥協を許さない男が毎日毎日至近距離から観察してくるので、ガブリエルは自分磨きに余念がなかった。

泡洗顔後、基礎化粧品をペタペタ塗り込んで、うがいを一回。ヘアバンドを付けたままリビングに向かうと、低糖質高たんぱく食物繊維ビタミンたっぷり蒸し鶏サラダと固焼きスクランブルエッグ、砂糖不使用100%オレンジジュースとヨーグルト入りのアサイーボールがテーブルに並んでいた。もちろんミヒャエルが用意した朝食だ。

ミヒャエルは今年18歳になった。ドイツで成人と認められる歳であり、家を借りることも結婚することも度数の高い酒を飲むことも解禁される。ミヒャエルは18歳になると同時に前から決めていた練習場にほど近い家具付きアパートを借り、ガブリエルを実家から引き離した。

ガブリエルは、両親から虐待を受けたことはない。前世基準ではなく、今世基準で普通に育てられた。むしろミヒャエルという上昇志向が高すぎる兄がいる分、ぼんやりとした弟を心配して過保護気味だったと思う。それが許せなかったのがミヒャエル・カイザーのプライドだ。

できるのにできないと決めつけられる弟が、たまらなく許せなかったのだろう。


「日本に行くのは明日か……」
「うん、午前11時26分」


ミヒャエルの皿にだけあるブルストにフォークが差し込まれる。あらゆる節制を強いることで少年の形を保つガブリエルと違って、生粋のストライカーには動物性たんぱく質が必要なのだ。

彫刻が動き出したような端正な顔で豪快に肉を噛みしめる兄。フォークで丁寧に蒸し鶏を細かく切り分ける“妹”。小さなカイザー家の穏やかな朝は、今日を終えれば一週間もお預けになる。……この時点の予定では。


「俺は見送りにはいけないが、本当に大丈夫か?」
「マネージャー、タクシー呼んでる」
「心配だ……」
「外の仕事、何回かやった」
「飛行機まで乗るのは滅多にないだろう」
「しなない」
「死んでたまるか!」


安心させるためのレスポンスが逆に不安を煽る。ガブリエルあるある。

ガシャンとフォークを持つ手がテーブルにぶつかり、刺さっていた齧りかけのブルストが宙を舞う。すかさずサラダボールでキャッチしたガブリエルは、何事もなかったようにミヒャエルの皿にお転婆をリリースした。


「やはりキャンセルにしないか? 仕事とはいえ未成年を国外に連れ歩くなんて非常識だろ」
「契約違反じゃないよ?」
「契約の内だからとなんでもやりそうで怖いんだよ」
「仕事だもん」
「ほらな。仕事熱心が行き過ぎてもヌードだけは絶対に断れよ。クソ児ポ……ん"ん"! いかがわしいと思ったら何が何でも逃げるんだぞ?」
「海水浴では上半身裸」
「俺の目の届く範囲のビーチでやるのとはわけが違う」
「ミヒャエルがいればいい?」
「すべて断れ」
「むずかしい」
「キャンセルにしないか?」
「むぅ」


堂々巡りになってしまった。

レタスをしゃくしゃく噛みしめるガブリエルは、うっすらと困惑した感情を浮かべている。

今回のブランドは今受けている仕事の中でも大きな取引相手であるし、ドタキャンした場合の違約金は計り知れない。ミヒャエルが気に入って身に着けている時計もそこのものだ。

何より、今回の渡日の目的は日本の極秘合宿に参加することも含まれている。ノエル・ノアの指示に背くことは今後サッカーを続ける上で推奨されない。

喉に刺さるレタスの芯をやり過ごし、脳裏に浮かんだのは等価交換の文字。


「あした、朝ごはんつくるよ?」
「それでこの兄が誤魔化されるとでも? カリカリのベーコンが食いたい」
「うん。今日のパーティーいってらっしゃい」
「クッ!」


ミヒャエルは今夜、パーティーにお呼ばれしている。

プライベートでは“妹”を優先するミヒャエルだが、サッカー関係の交流はむげにはできないのが実情だ。なにより今夜のはバスタード・ミュンヘンのクラブオーナーと選手たちが顔を出す。未成年のガブリエルはともかく、飲酒の制限がないミヒャエルやネスは出席した方がメリットがデカい。

明日ドイツを離れるガブリエルとの最後の夜なのに。大仰に嘆いて見せるミヒャエルに、「玉ねぎスープもつくる。くたくたの」と付け足すガブリエルは通常運転だった。


「………………………………行く。帰りは遅くなるから先に寝ているように」
「うん」
「明日は必ず朝食を一緒に取ろう」
「うん」


機械的にサラダを消費し、スクランブルエッグに取り掛かる“妹”を目に焼き付けるミヒャエル。幼少期に拗れていた分、幼げなガブリエルの仕草に飢えているらしい。口の端から飛び出た卵を親指で押し込めると「行儀が悪いぞローゼ」と満面の笑みを浮かべた。わざとやっているし、わざとだと気付かれている。

綺麗に朝食をたいらげ、皿を食洗器にセットした後は本格的な身支度に入る。

今日は二人とも学校に顔を出す日だが、朝から登校するミヒャエルと違い、ガブリエルは午後からになっている。その前に事務所に行って仕事の話を詰めなければいけないので、家を出る時間は一緒だ。


「おいでローゼ」
「うん」


ブラックジーンズに首元がザックリとしたオフホワイトセーターを合わせたミヒャエルがブラシとコテを持って“妹”を呼ぶ。対して、ホワイトタータンチェックのワイドパンツにボリュームのある黒いタートルネックを合わせたガブリエルがメイク道具を持って兄に近づいた。

先に兄が“妹”の青い毛先をゆるく巻き、前髪を軽く流してやる。次に“妹”が兄の目を惹きたてる赤いアイラインを寸分の狂いもなく引いてやる。兄が“妹”の唇に乗せたローズピンクを中指でぼかし、“妹”が兄の青い後ろ毛をアイロンで丁寧にまっすぐ伸ばす。

そうしてすっかりミヒャエル・カイザーとガビ・ブラウが出来上がってしまうと、二人は仲良く戸締りをして外に出た。


「カイザー! ブラウ! おはようございます!」
「出迎えご苦労ネス」
「おはよネス」


寮からわざわざ迎えに来たネスがカイザーと合流し、一緒に登校するのが通例であり、ついでとばかりにガブリエルと顔を合わせるのも当たり前の日常だ。

けれど最近のネスは、いつにも増して張り付けた笑顔を向けてくる。まだ怒っているのかと首を傾げると、「お前の可愛さがやっと骨身にしみたんだ。見逃してやれ」とミヒャエルが訳知り顔。兄が言うならそうなのだろう。ガブリエルの自己認識としては自分の顔はミヒャエルの顔のようなものなので、美しいだとか可愛いだとか褒められても「知ってる」ことなのだ。


「ネス、今日のパーティ楽しんでね」
「たっ、のしむような会じゃないんですよ。仕事の一貫。カイザーのアシストなら言われずともです」
「うん、よろしくね」


無表情をほんの少し緩めて小首を傾げるガブリエル。ネスの視線が直線的に瞬間移動した。


「おこってる?」
「怒ってません!」
「はっはっはっ!」


程なくしてマネージャーが手配した車が目の前に到着し、ガブリエルと二人は軽い挨拶(ミヒャエルとはハグ、ネスは手を振り振り)の後で別れた。











夜。もうすぐ24時を回ろうかという時間。

玄関から荒々しい物音がして、ガブリエルは気配を消した。

体重移動により足音を極限まで失くし、息を止め、明かりもつけずに暗い廊下を進む。玄関が目に入ったところで、無遠慮な金属音と共に扉が開け放たれた。


「ミヒャエル?」


顔を真っ赤に染めて扉に寄りかかる兄だった。

朝丁寧に整えてやった金髪はボサボサ。目元のアイラインはヨレヨレ。ジャージの上はわきに抱えられ、Tシャツから出た腕の棘タトゥーが露わになっている。顔どころか全身が薄ピンク色に火照っているあたり、体調不良による発熱というよりは……。


「強いお酒のんだ?」


ドイツでは14歳以上で保護者の監視下では飲酒可能である。16歳以上ではビールやワインが、成人の18歳でウォッカやブランデーなどの蒸留酒が解禁となる。ミヒャエルは食事やシャワー上がりにワインを飲むことも多かったが、まだ度数の強い蒸留酒には慣れていなかった。

息を整えるための溜息が酒精に乗っ取られている。サッと駆け寄って肩を貸したガブリエルは、自分より上背も筋肉もある男を掴まらせ、ベッドのある部屋まで誘導した。

モノトーンの家具にトロフィーや額物の金でアクセントをつけた部屋。丁重にベッドに寝そべらせたミヒャエルから靴を剥ぎ取る。本当はシャワーを浴びさせてやりたいが、この前後不覚の状態では事故を起こしかねない。


「お水のむ?」


就寝前のひんやりとしたガブリエルの手を火照った頬にくっつける。気持ちが良かったのか、ミヒャエルは目を閉じたままぐずるようにガブリエルの手に懐いた。


「このままねる?」


ガブリエルのとは違う生まれ持った金髪をゆっくりと梳き、顔にかかった横髪も邪魔にならないように分けてやる。ギュッと閉じていた目がうっすらと開き、潤んだブルーアイが硬質な無表情を捉えた。



「────ガブリエル」



その名前で呼ばれるのは、久しぶりのことだった。

それに気を取られた……わけではなく、抵抗する気が一切なかったので、力が入っていない酔っ払いに引っ張られ、あっと言う間にミヒャエルの腕の中。辛うじて腕と膝をベッドについたので兄を押し潰してはいないが、背に回った腕は潰してほしいと言わんばかりにぎゅうぎゅう抱きしめてくる。

鼻先がこすれそうなほど近くにある顔は、泣きそうなほどに切なく色っぽかった。


「結婚するのか、俺以外のヤツと」
「しないよ?」


誰とも。

突拍子もなさすぎる話題に大量の?が飛んだ。

しないというか、できないというか。ミヒャエルのためになるなら誰とでも籍は入れられるが、自由意志で結婚する気は微塵もない。意味のないことはしない主義だと、既に報告してあるはずだが。



「お前が妹だったら良かった」



王冠が刻まれた左手でガブリエルの頬を撫で、目元をもにもに無遠慮に揉み込む。やっぱり力の入っていない、らしくない手だ。

常日頃から“妹”と呼んではばからず、チームメイトにもそれを強要するミヒャエルが、“妹”扱いも目覚めのキスと同じパフォーマンスだったのを認めてしまっている。

本当に酔っているんだろうなぁ。


「どんな男よりも極上の男がここにいる。どこから勘違いクソ野郎が湧き出したって俺が上だと分からせてやれる。お前が妹だったなら、だが……弟はダメだろ」


重力に従って滑り落ちるかに思えた手が、顎付近を猫相手のようにゆったりとくすぐり、薔薇色の唇を親指でふにと押し潰した。


「いくら俺が最高の男でも、極上の女にはなれない。お前をどこぞの皮だけ整ったクソアマに奪われる。女ってだけでお前と一生共生できる権利が公的にあるなんてズルだ。許されない大逆に違いない。そうだろ? なァ!」


その前に兄弟(妹)で結婚は公的には認められていない。

ガブリエルが男であれ、女であれ、ミヒャエルと結婚できるわけがないのに。

ちょっとズレれば口内に入ってしまいそうな親指に気を配りながら、ガブリエルは困った。何を求められているのか分からない。兄が何に怒り悲しんでいるのか、本当に分からなかったから。通常営業の淡々としたマジレスをぶち込むことしかできなかった。


「女の人と結婚できないよ。えっちもできないもの」
「エッチとか言うな」
Geschlechtsverkehrセックス?」
「ガブリエルはそんなこと言わない」
「? 今いった」
「言わねェんだよクソが……!」


なんか変なスイッチ入った。


「んんー……安心して。ちんちんたたない」
「やめろやめろガブリエルにクソ下品なことを言わせたのはこの口かッ!?」
「んみ、」


とうとうミヒャエルの親指がガブリエルの口の中に差し込まれる。これ以上変な言葉を言わせるものかとばかりに舌を押さえつけられ、ちゃんと閉じられない唇の隙間から唾液が漏れた。

つぅー、と顎を伝った唾液がミヒャエルの青薔薇を濡らす。深夜の時間帯であるというのに、朝露を纏って煌めく本物の薔薇のようであった。

そのくせ、眼球を覆う膜はグツグツ煮えたぎるほどに熱く。呼気にはアルコールとは別の湿っぽいものが混ざり合って「フーッ、フーッ」と荒々しい。

グリグリと舌を押す親指、頬と顎に食い込む四指の、なんと乱暴なことか。


「み、みひ、ぃ……んっ、んぅ、ゆび、じゃむぁ」
「大事にすると言った。誰でもなく、俺が、ガブリエルを!」


──『俺が、──この兄が、お前を“妹”として大事にしてやる。お前に最高の人生を歩ませてやる』

言った。覚えている。そういう契約だと10歳のガブリエルは納得した。

性差による身体的変化にはもう慣れていた。女体の柔軟性を失い、筋肉量の増加による膂力アップも今の生活では望めないが、もはやガブリエルは暗殺者ではない。普通の男の子に頑強な肉体など要らないのだから。

女から男に生まれ変わった弊害は、後継ぎを産んでやれないことくらいで。ミヒャエルが不要だというのなら、それもまったくデメリットになりえない。


「最高の人生とはなんだ。お前は、結局女になりたいわけでも、有名になりたいわけでもないんだろう」


弟だろうが、妹だろうが。ガブリエルにとってはどうでもいい。ミヒャエルも分かっている。理解した上で、“妹”扱いにこだわったのはミヒャエルの方であり、ガブリエルはそれに応え続けたまでで。

この兄は、なにを今さら不満に思うことがあるのだろう。

兄の言うことは何でも聞いてきた弟の、何が不満なのか。


「みひ、」
「どうやったら、お前は幸せになるんだ? アァ!?」


ぐでんぐでんの酔っ払いなりに青筋を浮かべる器用さ。理性が乏しい状態だからこそ力加減を忘れているのか。そろそろ顎が痛い。

答えを求めるように親指が引き抜かれ、一瞬だけ繋がった糸が途切れる。やっと自由になった舌はなんだかだるくて仕方ない。

唾液でてらてらした唇は、むにゃりと間髪入れずに思ったことをそのまま尋ねた。


「しあわせってなに? 私がしあわせになったら、ミヒャエルうれしい?」


その時の表情は、なんと表現すればいいのか。ガブリエルは分からなかった。今晩のミヒャエルは分からないことだらけだ。

でも、きっと、


「……、おまえ…………、そんなこともわからないのか?」


今のはガブリエルが間違えたんだろうということは分かってしまって。

見開いた目の奥の、瞳がゆらゆらと迷子のように憐れっぽい。あのミヒャエルが、こんな弱弱しい青を滲ませるなんて異様だ。とんでもない緊急事態だとガブリエルは判断したので。

両手でもにゅッと頬を挟み、端正な顔に天使の微笑みを浴びせかけた。

兄の体から強張りが抜けるように。



「ミヒャエル」
「? ……んんっ!? んッ、フ……ガブ、……っ! 〜〜〜〜ッ!」



ぷっちゅーーーーーーーー…………っと。

至近距離にある唇に唇を被せ、頸動脈を的確に圧迫しながら、舌と一緒に空気を吸いだす。ベッドの上の筋肉質な体がビクビクッと跳ね、ブルーアイがグルンッと上向く。そうして実の兄を酸欠と血流不足で落とした。

わずか十秒のありえない神業であった。



「よし」



この“妹”、目的のためなら本当に手段は選ばない。











一晩寝て酔いが覚めてから改めて話し合おうと考えたガブリエルだったが、飛行機の運航ダイヤが狂ったと連絡が来たため、想定よりもかなり早く家を出なければならなくなった。

カリカリのベーコンにふわふわスクランブルエッグ、くたくたに煮た玉ねぎスープとちぎっただけのサラダ、昨日買っておいたベーグルを温めるだけの状態にセット。いつもの時間に起きてこなかったミヒャエルの部屋の前で「いってきます」と挨拶をして、ガブリエルはさっさと家を出た。

『パーティーでブラウの恋人を騙る女から馴れ馴れしく絡まれてカイザーの機嫌が最悪。飲み慣れないシュナップスを空けまくっていたから心配です』というネスからのメッセージに気が付いたのはミュンヘンの空港に着いた後だった。


「ん?」


チームサッカーと仕事以外の時間はミヒャエルと一緒にいるガブリエルに恋愛する暇なんてない。そもそも恋人とは結婚の前段階のお試し期間であり、結婚とは子孫を残すための共同体でしかなく、性欲がないガブリエルが女性と子孫を残せるわけがない。つまり結婚などガブリエルの人生にとってありえないイベントなのだ。

ミヒャエルとは10歳の“契約”時に意思共有を終えているはずだが。



「……サッカーしてほしい、じゃなく、結婚してほしい、の?」
「ガビ、熱愛報道だけは絶対にやめてちょうだい」
「でも兄弟で結婚できない……」
「ああ、またお兄さんが拗らせたのね」



「誰が聞いているか分からないところでお兄さんの話はやめてね。常識が疑われる」とたしなめるマネージャーに形だけ頷き、窓の向こうの雲を眺めた。


帰ったら、契約内容の見直しをするべきだろうか。











「俺は、俺は実の“妹”と、結婚願望があるのかもしれない……どうするべきだネス」
「カイザーまだ酔ってます?」
「どこぞのクソドブ牛女にやるくらいなら俺が、とは何度も思ったが、まさか夢にまで見るとはな。しかも向こうから迫られたいなどと……」
「カイザー寝ましょう。あなた疲れてるんですよ」
「もしや兄としてのプライドが足りていないのか? どう思うネス」
「これ以上変な方向にプライド積まれたら僕らが困ります」
「──クソッ! どうして電話に出ないんだローゼ!」
「フライト中だからでしょう。今日は僕からコーチにお休みの連絡を入れておきますね」
「ああ、早く帰って来いローゼ。気がクソ狂いそうだ」
「安心してください。もう狂ってます」



二ヶ月後。ブルーロックのBの字が出るたびに条件反射で瞳孔が開く皇帝陛下に、世迷言を言ってくれていた方がマシだったとネスは痛感する。


バスタード・ミュンヘンのBでもあるんですがそれは。




***




一度目の覚醒は午前四時。15歳の時にノエル・ノアに指示されてから一年ほど続けた4時間睡眠のルーティンだ。しかしこの青い監獄では起床時刻は午前七時と決まっている。そのため、いつもは目を閉じて三時間ほど浅い睡眠に戻るのだが、


「おはようガビ」
「……はよ、アンドリュー」
「珍しく寝起きが悪いな。疲れが出たのか」
「わりゅ、ない」
「そうか。それはグッドオシャ」
「アンドリューも、オシャ」
「当然」



その日、青原ガビの一度目の覚醒は午前七時一分だった。

日本に来てもうすぐ二週間。一次選考最後の試合が行われる日の朝。

二つ結びのアンドリューと日課のオシャべりをしながら布団を畳んだ。少し前までガビも三つ編みで緩くまとめていたが、今は何もせずに降ろしている。

首筋を刺すちくちく毛先を軽く撫でつけ、ヘアバンドをして丁寧に洗顔する。ブルーロックに持ち込めたケア用品はシャンプーとコンディショナー、洗顔料と化粧水と乳液のみで、美容液のたぐいは何故か許可されなかった。それでも肌の調子が良いのは十分すぎるほど睡眠がとれているからだろう。

人生でこれ以上ないほどよく寝てよく食べ、よく体を動かしている自覚がある。

ドイツでの生活は一週間のうち平日の三日をクラブチームでの連携に費やし、筋トレはほとんど行わなかった。走り込みやロードワークが主であり、インナーマッスルがある代わりに全身ミルフィーユのようなうっすい筋肉しかついていなかった。

それだけではいけないのだと、先日のチームZvsチームWの一戦で実感した。

一人で10点分のゴールを決めた試合直後、ガビの肉体は悲鳴を上げた。というか後半開始直後からずっと限界を感じていたのだ。あれほど足に負担のかかる試合はなかった。極力ハンドリングと楽な体重移動によるフェイクで相手のプレスをやり過ごしたものの、決定打はラストの超超超ロングシュートだ。センターサークルからゴールへ凡そ40mを超える距離をとんでもないパワーでゴリ押ししたシュート。試合終了間際で全選手が疲弊しており、なおかつ圧倒的な点差に相手チームが戦意喪失していたからこそできたとんでもモンスターシュート。

普段からボディメンテナンスに人一倍気を使っていなければ、あそこで腱が切れていてもおかしくなかった。

人がいる手前、震える足をなんとか動かしてシャワー室まで移動できたものの、その日はアンドリューとの食事も言葉少なで、入念なストレッチを終えてから瞑想もそこそこに布団に入った。それでも午前四時に一度覚醒したというのに。

ゴールポイント10点を消費して外出した。ネットカフェのパソコンから事務所にオンライン通話するためだ。今後の仕事の無期限休業をもぎ取った。本当は辞めてしまっても良かったのだけれど、流石にミヒャエルが示した道を相談もなく辞めるのは憚られた。

次に絵心が指定したサロンで髪を切った。毛先に枝毛ができていたから。本当は坊主にしたかったのだが、店員が頑として肩口までしか切ってくれなかったので、ミディアムボブに抑えられた。青いメッシュはすっかり切り落とされてしまった。

次は目についたネイルサロン。青いマニキュアを落とした。中指の爪が剥げていたから。この施設でネイルを維持できる気がしなかった。ずっと美しいアンドリューはとても努力していると思った。

ブルーロックに戻ってすぐ、帝襟にピアスを預けた。財布のコインケースに入れて、他の貴重品と一緒に。なんとなく、外した方がいいと思ったから。

全部ぜんぶ、サッカーをするための準備だ。


『《やっとサッカーに夢を見る気になったか、寝坊助》』


再び入監する際にわざわざ顔を出した絵心の言葉だ。神経質な英語の発音で、とても抽象的な言葉をかけられた。

夢。ガビにとって、サッカーはあくまで道具だ。ミヒャエルが示した生きるための目的の一つでしかないのに。


──《ガビはパスをくれるのが分かるから安心感がある。なによりパスの回転が常にオシャ。オシャポイントが高い。誇れ。他のヤツらは、意地でも渡してこない分、無理やりパスを出させた時の高揚感がある。シュートするにふさわしいストライカーだと認めさせた。フィールドで最も“俺”がオシャだと示せる。最高だな》

──『“俺”が世界一オシャだと証明する方法。それがストライカーだ』


相手のチームより多くゴールした方が勝ち。こんなにシンプルなスポーツだというのに、選手一人ひとりが己の存在証明で荷物を重くする。

ストライカーとは、どうしてこうも難解な生き物なのだろう。


「アンドリュー、あげる」
「もう納豆じゃなくなったのに律儀だな」
「アンドリューも、ね」


チームZで一番順位が高い265位になったガビはレバニラ炒めになった。にっくき納豆を卒業したのである。アンドリューもまた266位のカレーに変わっていた。そこにレバニラ炒めを容赦なく置いていくガビにマジかと言う顔をしている。が、すかさずお茶碗の中にカレールーをすくってかけてくるので、ガビに対する順応力が順調に培われている。

チームZの空気は最悪だ。気まずい空気、ではなく生温い空気と言う意味で。最後の試合だと言うのに緊張感というものがまるでない。これまで全戦全勝で一次選考突破が確定しているとはいえ、これでは試合などやらない方が良いのではないか。


「今日はアイツらにパスを出すのか?」
「ん。やくそく、まもる。さいしょ、だけ」
「ほう? やはり律儀だな。そういうところもオシャだ」
「うん。おれ、オシャ」


はむ、とレバーを噛みしめ、カレー味のごはんを口に運ぶ。白米とメインディッシュを同時に食べる文化だと最近理解した上での実践だ。口の中は個性と個性のぶつかり合い。日本食は奥が深いな。ガビは無心でもぐもぐした。

ところで“Richigieリッチギー”とはどういう意味だろう?









チームZvsチームV試合前半。ガビにパスは来なかった。

ガビがやったことはシュートを撃とうとする選手からボールを奪うこと。それから乞われるままパスを出し続けた。おかずを分けてもらった等価交換であると同時に、初めて同チームの選手の動きを観察しようと思った。

その結果がノーパス。無視だ。

そりゃあ、一つ前の試合の暴走を思えば当然の措置かもしれないが。

懐かしい、が一番最初に浮かぶ。ミヒャエル・カイザーの弟としてU16に引き入れられた時、周りは決してガビ・ブラウを認めていなかった。ミヒャエルがいない日はパスは来なかったし、無意味なタックルが毎日のようにあった。ボールが来ないのは仕方ない。タックルは紙一重で避けるだけで楽だった。何も、悲しいことなんてなかった。

ただ、サッカーに対する認識が強固になっただけ。


「よっしゃドフリー、ッあ!?」


チームプレイとは名ばかりの曲芸。

ゴール前まで躍り出ようとした相手選手の足がボールから離れた一瞬、ひょいと足を伸ばして強奪。そのままドリブルで上がっていくが、ガビには三人もマークがつこうとしていた。開始したばかりの時も三人ついていたが、パスが来ないと分かりいなくなった人たちだ。

くるりと背を向け視線を近くの“仲間”に向ければ、一人がパスコースを塞ごうとその間に挟まる。結果一人分のスペースが空いたので、急に姿勢を低くして背後の選手の視界から出る。その混乱を見計らい置き去りにした。それから待っているのは残りの一人。踏み出す一歩が大きさを確認し、急停止で相手をつんのめらせ、ヒールリフトで上空にボールを逃がした。

あとはサッと走り抜ければボールは簡単についてくる。

ゴールが近づくたび、ストライカーの気配を探してしまう。ミヒャエルの気配を、あの燦然と輝くオーラを。パスをすれば必ずゴールネットを揺らす至高の右足を。

でも、ここに皇帝はいない。

あるのは蛮族の無秩序な玉蹴り。

帝政もなにもあったものじゃない。無法こそがルールであり、国はこれから築かれていく。その礎がこの子供たち。踏みつけにするのが絵心が望む“夢見る若者”なのだ。

「青原!」亡羊にも似た思考の渦中で、ガビを呼ぶ男がいた。ギョーザをくれた男だ。

コレには既にパスを出した。二度も出し、その上でゴールに繋げられなかった。パスを要求するクセに、ガビにパスを出さない。そんな男が他に二人もいて、やっぱりゴールネットは揺らせなかった。


それは、なんて、────なんて?



「させないよ、イメチェンくん」



いた。蛮族じゃない男。

FWとして前線にいたはずの男だ。オレンジ色のアイウェア越しに丸い目がクッキリ見える。身長はガビより大きい。フィジカルは向こうの方がやや優っているだろうか。

なら、テクニックは?


「センターサークルからの長距離ミサイルは捨て身の策。後半開始直後の今じゃリスキーだろう。ここはまだ君のシュートレンジじゃない。俺とおしゃべりしよっか」


「切りっぱなしボブ、似合ってるね」褒めてるのか煽っているのかとっさのヒアリングでは判別がつかない。けれどガビはこの男を知っていた。向こうがガビの連続10得点を映像で見たように、ガビだって映像でチームVの主力選手は見ている。

このチームの主軸が、このアイウェアの男であることはすぐに思い出した。

ただし、“あくまで今この瞬間に”、という但し書きがつく。

ガビは試合中に相手の顔を覚えない。生きている物の気配は見ずとも体で感じ取れる。生きていないボールだけは視線で必死に追いかける。つまり相手の足元ばかりを見て顔なんてちっとも興味がなかった。


「リベンジさせてよ、1on1」


だから、前半で誰からボールを奪ったかなんて覚えていない。

知り合いみたいに距離を詰められても困るのである。

伸びてきた足を避けるために右足の甲にボールを乗っけてジャンプ。


「────は?」


そのまま小突くように軽く蹴り上げ、空中に浮いたまま左足でインサイドキック。ある程度スピードを落としたボールがピタッとギョーザ男の足元に収まった。

「交渉決裂か……!」聞き取れたけど全く分からない日本語は、とっくに後ろに置き去りにした。

パスは中継。ボールにすぐ反応して近くにいた選手が寄って来る。あそこからのシュートは相応の技量が必要であり、この瞬間フリーなのはガビだけ。どんな荷物を持ったストライカーだってパスをするのが合理的だろうに。

ペナルティエリア直前で振り返ったガビが見たのは、シュートコースを完全に潰されているくせに、シュートしますと言わんばかりに足を振り上げたギョーザ男だった。

………………。

…………………………………………。

………………………………。

…………………………………………………、ザ、




「 ギ ョ ー ザ 」




────血が、突沸した。

同時に、電撃でも浴びせられたみたいにギョーザ男がシュートするために振り上げたはずの足でふかす。シュートにもパスにも成り切れないボールはとんでもないヘロヘロ玉になってガビの真上に飛んできた。自虐の強い骨なしチキンをベストポジションに収めさせるために、ガビは当然のように人工芝に手をつき、逆立ちの無理な体勢から乱暴に蹴り込んだ。

揺れるゴールネット。得点のホイッスルは高らかに。

ゴールキーパーは、反応しなかった。できなかったとも言える。

ペナルティエリア付近にいる選手は皆、敵味方関係なくガビの“殺気”に気圧されていたからだ。

“殺気”。大袈裟でもなんでもなく、純粋な殺害予告だった。

もちろんサッカーの試合中にところかまわず“殺気”を漏らすのはマナー違反だと思っている。サッカーはスポーツであって仕事ではない。殺す気もない相手に“殺気”を浴びせかけるのは、あるていに言ってお行儀が悪い。この場は己のフィジカルとテクニックのみを競う場なのだから。


では、どうして、こんなにも殺したいと思ってしまったのだろう。


ゴールを決めた高揚もなく振り返ったガビ。その先で、まだ尻餅をついているギョーザ男が目に入る。ガビに見られていると認識した途端、真っ青な顔からさらに色が消えた。電池を入れ替えた玩具みたいにガクガク震える子供を見下ろして、──ああ、と。


──《他のヤツらは、意地でも渡してこない分、無理やりパスを出させた時の高揚感がある。シュートするにふさわしいストライカーだと認めさせた。フィールドで最も“俺”がオシャだと示せる。最高だな》


コレが、アンドリューの持っている荷物か。

突沸によって爆発四散した何か。今の器は空っぽで、とっくに冷たくなっている。サウナ上がりに湖に飛び込むフィンランド人はこのような気持ちなのだろうか。

確かに、コレは、悪くない。

一人静かに納得したガビは、様式美として右の拳を突き出した。


「Nice pass,ギョーザ」


悲鳴を上げて逃げられた。

ガビは真剣に首を傾げた。


「ガビ、ナイスゴール」
「アンドリュー」


代わりに近寄って来たアンドリューが右拳を回収してくれた。

アンドリューも、ガビほどじゃなくともマークがキツイ。前半DFとパッサーに従事していたせいで外れたガビのマーク余剰まで張り付かせていた。そのせいで得点に至れていない。


「ゴールポイント1点でステーキと交換なのは覚えているか?」
「Steak? たべる、たい?」
「お前と一緒にな。シェアするのもやぶさかではないが、パーティなら一皿しっかり味わいたいものだろう」
「……ん? うん、そう」
「もう一点奪りに行こうというお誘いだ。シャルウィーダンス?」
「Sure」


ブルーロックに来てから腹が空くことが増えた。動物性たんぱく質はストライカーにとっては必要不可欠。食べておいて損はないだろう。

そう納得した矢先、何故だか動きが鈍って使い物にならないチームメイトと、その分増援されたガビのマークと、すごくニコニコしているアイウェアの男のせいで追加点は望めず、最終試合チームZvsチームVの一戦は1-0の膠着状態で幕を下ろした。

何はともあれチームZ、一次選考突破。

ガビとアンドリューは二人、食堂でレバニラ炒めとカレーとサーロインステーキ300g一人前でささやかなパーティを開いた。


「オレンジのアイウェア? ああ、雪宮か」
「ゆ、ゆき、ゆきみゃー?」
「雪宮だ、ゆきみや」
「ゆーきみあ」
「外国人にいそうな名前だな」
「オシャ?」
「ちょいオシャ」
「ちょい……むじゅい」


コンマミリ単位で寸分の狂いもなくステーキを二等分するガビ。「スマートなナイフ使い、オシャだ」とアンドリューも褒めていた。前世の影響でナイフの扱いは大得意だ、と言っていたらきっと食欲減退どころの騒ぎではない。日本語レベルの低さのおかげで助かった祝勝会である。


「で、雪宮がどうかしたのか? 後半かなりマークされていたが」
「あのレベル、ここ、たくさんいる?」


指先を揃えた所作でスプーンを持つアンドリュー。ガビは箸を横に置いてステーキ用のフォークでレバーを突き刺した。何故はじめからフォークを貸してくれなかったのか、という疑問が頭の片隅にかすめた。絵心さんの意地悪ですよ、と教えてくれる帝襟はここにはいない。


「あのレベルか。雪宮のこと評価しているんだな」
「ひょーか?」
「スゴイと思っている、ということだ。ガビは他人に興味ないだろ。雪宮ほどじゃないが、今までの試合でも見込みのあるオシャは一人二人いたんだ」
「スゴイ……オシャ……」


余談だが、ガビが日本に来て初めてやったサッカーが11人全員FWの団子サッカーだったせいで日本サッカーのイメージが“とても蛮族”。もちろんイレギュラーな条件下で行われたからこその惨状だと理解しているが、それにしたって蛮族すぎた。……その蛮族サッカーを脳筋サッカーで蹴散らした側がどのツラ下げてな話だが。

蛮族サッカーの中で目立っていたな、と後半になってから相手を認識した分際で思う。

1on1ならともかく、束になってマークされては流石のガビでも得点に繋げられない。連携というものを考えねばならなくなる。曲芸サッカーとはおさらばだ。

あのレベルがゴロゴロいるなら、この施設で合宿を続ける意義はあるのでは。ノアとの約束の一週間が過ぎて久しい現在、改めてここでサッカーをする意思を固めた。

それはそれとして、



「Smile、たくさんくれた。ともだち、なるたい? って」



──『ガブリエルが笑っていればみんなもあなたのことを好きになるよ』

大昔の母の言葉を思い出した。結局ミヒャエルの命令によって破棄された指示だが、もしかして日本ではそれが通用するのだろうか。

ニコニコと話しかけてきた彼は、ガビと友達になりたかったのだろうか。

試合中は基本的に口を開くことが禁止されているガビ。いくら話しかけられても口を開けない状況にほんの少し困っていた。つまりジェスチャーオンリーでガン無視したのだが、それでもニコニコしていたので、おや? と。


「空耳だったら自意識過剰でゴメンなんだけど、呼んだ?」


噂をすれば本人。


「だれ?」
「ひどいな、今話してただろ。雪宮だよ」


丸メガネの爽やかな男がトレイを持って近寄って来た。

アイウェアが変わると印象がずいぶん柔らかくなる。


「あれ、もしかして本当に自意識過剰だった? 恥ずかしいなぁ」
「いや、お前のことであってる。だろガビ」
「ん、ゆーきみゃー?」
「ホントに俺のこと?」


断りを入れた雪宮が苦笑しながらガビの隣に座る。「コイツは日本語初心者で、発音がまだノットオシャなんだ」「へぇ、……ノットオシャ?」トレイの上は空の食器で、下げる途中だったことが分かった。


「ゆ、ゆきみゅあ」
「プリキュアみたいになっちゃってる。ユッキーでいいよ。言える?」
「ゆっきー?」
「うん上手上手。青原くんだよね、そっちは蟻生くん」
「ガビ、いいよ。よろしゅく」
「蟻生だ。よろしくユッキー」


と軽く挨拶をかわす様はとても和やかだが、雪宮の目はほんのりと剣呑さを孕んでいた。骨ばった大きな手と短く整えられた爪。メガネのフレームを押し上げ続いたのは──。



「単刀直入に聞くよ。

 ───君、ガビ・ブラウだろ」



ピン、と張り詰めた空気。雪宮が確信をもって微笑み、アンドリューが「ブラウ?」と口ずさむ。

すぐ隣からの威圧を面と向かって受け止めたガビは、ゆるりと首を振って。


「No、ちがう」


簡潔に否定した。


「へぇ、ガビ・ブラウのことは知っているんだ」
「ん。かじょく、すき。おれ、おなじなまえ」
「そうなんだよ、同じ名前のドイツ人で目や髪色まで一緒。イメチェン前は青メッシュも入れてたよね? 今年のパリコレ特集でおんなじルックスのモデルを見たんだ。なんで日本にいるの?」
「ヘアスタイル、かじょくのすき、あわせた。ガビ、はドイツにたくさんいる。天使のなまえ。レア、ちがう」


別に、ガビはバレてしまってもいいと思っているけれど。

日本国籍でもないドイツ人選手を日本代表選考の一貫である合宿に参加させること自体がヒンシュク物なのだと、絵心からネチネチと釘を刺されていた。現在のガビへの命令権は絵心に委譲されている点から、命令は遵守しなければならない。ある程度の言い訳はしておこう。

ちなみにこのガビ、積極的に虚偽申告をしないだけで、相応の理由があれば平気で嘘をつく。


「ふぅん? じゃあ人違いかな。ここってスマホですぐ調べられないのがネックだよね」


あっさり引き下がったわりにあまり信じていないニッコリ顔。アンドリューだけが置いてけぼりでしげしげとガビの顔を眺めていた。「確かに、モデルで食えるオシャだな」と。


「オーケー。この話は終わりということで、次はそっちの番。二人して俺の話をしてたんだよね? 俺も混ぜてくれないかな」
「気になることはたくさんあるが、まあいいだろう。ガビがお前と友達になりたいんだそうだ」
「……え」
「ん?」


そんな話をしてたっけ?

キョトンと目を丸めたガビと雪宮。顔立ちは似ていないのに表情はまんま一緒だ。

「そういうことじゃないのか? 気になったんだろう?」とアンドリューは通常運転。というか一人っ子なのにガビのせいで兄力が育まれ、誤解されやすい弟の通訳をするノリで橋渡しをしている。この場合、悪いのは誤解させたガビの方だ。

友達……ともだち、か。


「そういうことなら大歓迎だよ。友達になろうか、ガビくん」


10歳で止めた努力が、こんなところで花開く。

今のガビは、6歳のガブリエルと違って笑ってはいないし、お願いも聞いていない。でもサッカーという道具で繋がった人脈だ。ガブリエルに必要なのはやはりサッカーだったのか。

ミヒャエルと一緒にいる時は、こんなことはなかった。


「じゃ、今度1on1のリベンジさせてよ。今日の試合は不完全燃焼でさ」
「試合、Revenge? なに?」
「…………まさか、覚えていない?」
「うん」
「待てユッキー。ガビに悪気は一切ない。邪推しないのがベストオシャだ」
「オシャってなんなんだ」


日本でメジャーな誉め言葉では? 常識では?

今日一番の怪訝な表情を浮かべたガビ。
通常運転オシャアンドリュー。

この場において非常識は雪宮だった。理不尽。











「うん? アンドリュー、ともだち」
「俺はそのつもりだったが、違うのか?」


そうか、そうだったのか。

日課の瞑想とストレッチ中に思い至ったガビ。こともなげに肯定したアンドリューをしげしげ確認して、なるほどなぁと納得した。



「…………うん。アンドリュー、ともだち」



友達とは、案外簡単にできるものらしい。




***




同じ名前の別人ですよ〜。
見た目が似てるのは家族の趣味ですよ〜。
私ガビ・ブラウちがうよ〜。

さて、雪宮相手には通じた言い訳は、相手がお優しい雪宮だから通じた杜撰な言い訳だったのだと理解するのはそれから10日後。

二次選考、2ndステージ待機室。



「《お前、バスタード・ミュンヘンのミヒャエル・カイザーの弟だろ》」



二人きりの空間で対峙した、何故か既視感のある男。

軽蔑をひたひたに含ませたターコイズブルーの瞳が、徹底的にガブリエルという存在を見下し尽くしていた。




「《兄貴に寄生するしか能がない害虫野郎が。こんなところまで何しに来やがった》」




兄弟姉妹の距離間バグった愛情表現が好きという私のヘキの餌食になったカイザーでした。このカイザーは潔くんと“妹”のラブラブ女装プリより帝襟さんと弟の適切な距離を保ったなんでもないツーショットの方がダメージ入る。兄弟の関係を物理的に壊すのは女だと思っているので。あくまでサッカー関係ないところだと皇帝オーラが薄まるカイザー、見たかったんですよ……。

目標のシーンまで全然行けなかったので書きたかったところをちょい見せして次回予告としました。凛ちゃん出すぞ。

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