きみの毒になる



北の海のとある島。

広場の目立つところに大きなタライを置き、あらかじめ港から汲んできた海水をジャバジャバと注ぐ。表面張力ギリギリまで溜めてしまうと、自身の顔ほどもある大きな葉っぱを真ん中に浮かべた。

固唾を飲んで見守るのは老若男女さまざまな観客たち。特に子供は拳を握りしめて今か今かと待っている。「はやくぅ!」と急かす声さえ近くから投げかけられる、ちょっとした人だかりだ。

観客から注目され急かされてもマイペースにタライの上に両手を掲げる。さながら水晶玉を前にした占い師のように手をかざしてうんうん唸る。そうしてきっかり十秒待つと、タライの中の葉っぱが不自然に揺れ始めた。

風もないのにゆらゆらゆらゆら。観客からの期待のざわめきが大きくなりだした。ちょうどその時。

──とぷん。

葉っぱがひとりでにタライの底へと沈んでいく。真ん中に石でも投げ入れられたみたいにくしゃりと丸まったそれは、迷子の回遊魚のようにぐるぐるぐるりとタライの底を何周かした後、いっきにその姿を変えた。

黄色味を帯びた赤い枯葉が、鮮やかな熱帯魚に変身したのだ。


「きゃあ! ほんとにおさかなさんになっちゃった!」
「すごい手品だなあ嬢ちゃん」
「ここいらじゃ見たことがない種類だねぇ」
「ううむ、何度見てもタネが分からん」


終わりのお辞儀をすると同時に、置いていたカバンの中にコインが投げられる。たまにお札がひらりと混じるので、きっとこの島は裕福なのだろう。魚を買い取りたいと指差す観客の一人に身振り手振りで交渉すると、合わせてまずまずの収穫が手に入った。

譲った魚がそのままの姿でいるのか、もとの葉っぱに戻るのか。ルエラには分からない。

だって今のは発ではなくただの水見式だ。クソデカ水見式と言うべきか。ルエラが錬をすると、葉っぱが何らかの生き物に変化してしまう。発と違って葉っぱに直接オーラを注いでいないので、その後もとに戻るのかそのままなのかは謎だった。

前世でやった水見式は赤黒い粒が浮かんだ記憶がある。不純物が出るのは具現化系。舐めるとほんの少しだけ鉄っぽい味がしたので、きっと変化系寄りの具現化系能力者だった。それが今世では不純物を通り越して生き物が出現してしまったものだから、完全に「知らんなにそれ怖……」状態に陥った。どう見たって特質系です困りますお客様。

このように、生まれ変わったルエラのスペックは前世と全く同じとは言えない。ヴィンスモーク・レイジィという体のスペックのせいか、なにやら科学ともファンタジーともつかない元父の謎技術で改造された影響か。とにかく自分自身を知ることが今のルエラの課題だった。

ジェルマ王国から飛び出し、ルエラとしての人生を歩み始めて7年。10歳になった子供は、あてどなく船を乗り継ぎ島を渡る生活を送っていた。

はじめの半年は一所にとどまって現在地の情報収集に尽力した。幸いにも言葉は通じずとも書籍は知っている文字だったおかげで、新聞を漁り本を読みこめば上澄みでも分かることがある。知らないことがたくさんの情報もあらかた調べつくし、これ以上は得られないと別の島へ密航して同じことを繰り返した。

それを繰り返し、出奔後一年。4歳のルエラは唐突にここが異世界であることを理解したのだ。

四つの海。無数に点在する島。横断する大陸。偉大なる航路という特殊海域。海軍。海賊。数えきれないほどの情報と、島によって驚くほど違う文化文明レベル。なにより、口語と書籍の言語が違う違和感を誰もなにも感じていない違和感。改めて察せざるを得なかった。

だって、文章をそのまま読んだのに内容が通じなかった。そんなことあるか?

入国禁止区域以外はそこそこ世界中を飛び回った覚えのあるルエラ。未だに暗黒大陸である可能性を捨てきれずにいるが、概ね現実を受け止めていた。

元の世界に帰るにしろ、ジェルマの船を見つけるにしろ、ひとまずは自分自身を全盛期にまで鍛え上げるのが先決だろう。商船に乗ったり海賊船に乗ったり密航を繰り返しながら島を渡り歩き、いろいろあって10歳になった。

いろいろ。片手に満たない子供が賞金稼ぎをすれば犯罪を疑われ海軍に追われたり、親がいない状態で商船に乗せてもらえず渋々密航したり、たまたま密航した船が首輪付きの人間を大量に乗せた異色の船で、力加減を間違えて壊してしまった鉄格子から何人かが海に身投げしてしまったり。

その中でも特に覚えているのは、6歳から8歳の間に世話をしてくれた医者のことだった。

言葉を話せず表情が乏しい親なし子は大変に可哀想だったのか。物好きな医者が拾って言葉や知識を教えてくれた。最低限の常識とヒアリングが身についたのはそのおかげだろう。治療の知識も与えてくれたのは、もしかしたら自分の後継として育てたかったのかもしれない。暗殺稼業柄、血も臓器も見慣れたものであったので、グロテスクな野外手術をガン見する子供にドン引きしなかったあたりあの医者もおかしかった。

その医者とも2年前にお別れした。

近年原因不明の感染症が蔓延している国が医者を募っており、苦しんでいる患者を見捨てられないからと。自分はともかく、子供を巻き込むのは忍びないと知り合いの家にルエラを預けて行ってしまった。それから少しして、新聞で国ごと滅菌消毒されたことを知りルエラは元の親なし子に戻った。

10歳になっても賞金稼ぎとしては幼すぎるらしく、こういった大道芸で細々金を稼ぎながら密航を繰り返すルエラ。けれどそろそろ新しい決断をしなければならない。

ここが異世界にしろ、暗黒大陸にしろ。このまま北の海にいたところで決められたルートを通る商船や旅客船では行動範囲はたかが知れている。

それに、この世界には何が起こるか分からない特殊海域、偉大なる航路がある。四つの海からその航路に入ろうと考えるのは、世界政府に認められた海軍以外だと海賊くらいのものなのだと。

つまり、ルエラは偉大なる航路に行くために密航ではなく正式に海賊船に乗る方法を考えていたわけで。


「嬢ちゃんはなんの能力者だろうな」
「変な頭してるな。地毛か?」


じろじろ見下ろしてくる海賊たちは、渡りに船だった。




***




バレルズ海賊団に変な生き物が住み着いた。

はじめは、希少な実を食べた能力者として奴隷船に売りさばくつもりだった。しかし子供は首輪を取り出せば逃げ出し、羽交い絞めにしようとすれば逃げ出し、船から逃げ出したかと思えばひょっこり倉庫から顔を出す。寝ている時を狙っても近付けばぱっちり青い目を開く。カンカンになった船長が一番腕っぷしの強いドリィに捕まえさせれば、これ見よがしに首輪をねじ切ってしまった。

化け物だ。

大の大人が小さな女の子に怯えた目を向ける。たった一瞬でも気圧された自覚は、海賊という荒くれ者にとってプライドが傷付けられる出来事だった。


「この船に乗ったやつはおれの持ち物だ! おれの物なら働けタダメシ食らい!」


すると子供は素直にコクンと頷いて、本当に働き始めた。

バレルズ海賊団の一番の下っ端はドリィだ。船長の実の息子なのに、皆ドリィをボロ雑巾のように扱う。雑に扱っても壊れない頑丈さと逆らえない気弱さを信用しているのだろう。

クタクタになるまで働いて、部屋などというにはおこがましい倉庫で気絶するように眠る。そんな日々に急に飛び込んできた、ドリィよりも下っ端の女の子。


「ルエラはソラの話が本当に好きなんだな」


雪を被ったような真っ白い髪。耳下から毛先にかけて甘ったるいピンク色で、胸までふわふわと伸びている。長い前髪の隙間から覗くのは空とも海ともつかない青い目。普段はペンキでベタ塗りしたみたいに味気ないくせに、ドリィが“海の戦士ソラ”の話をすると、ほんの少しだけキラキラと輝いて見せる。


「ジェルマ、もっと……はなす、して」


やせ細った体の中で、唯一ふっくらとした唇が片言で続きを促してくる。

ルエラは他人の前で喋らない。声が出ないのだと思っていたが、どうやら言葉に難があるらしく、話すのにタイムラグがある。せっかちな海賊たちはルエラが言葉を選んでいる間に会話を打ち切ってしまうので、少女の高く澄んだ声を知っているのはドリィだけだ。

あんなに化け物じみた力を持っているのに、北の海では知らない者はいない有名なお話を何度も何度もせがんでくる。きっと話してくれる親がいなかったのだろう。その点、ドリィははるか昔に寝物語で語ってくれる母がいた。新聞を広げて文字を教えてくれた父は、あの頃は尊敬すべき海兵だった。

幸せな家族の記憶がある。ドリィはまだマシな方だ。

家族もなく、海賊船に乗りたがる子供。ルエラは偉大なる航路を目指しているらしい。海軍以外でそこに行くのなら海賊船しかないと、目についたバレルズ海賊団に居付いている。

偉大なる航路を目指す海賊は、海賊王に憧れて“ひとつなぎの大秘宝”を求める一握りの猛者しかいない。北の海の片田舎で小金稼ぎに略奪を繰り返すバレルズ海賊団は、その一握りからはあぶれている。ここにいたってルエラは目的の場所に行けないのに。

ドリィの口は、真実を告げようとするたびに重く動かなくなる。

虐げられているのは自分だけじゃない。可哀想なのは自分だけじゃない。自分を必要としてくれる可哀想な女の子がいる。この現実は、つらくて怖いばかりの父親の影を忘れさせてくれた。

もう少しだけ。ほんの、あと数日だけ。

最近たまたま見つけた悪魔の実が、世界政府が喉から手が出るほど欲しがる“オペオペの実”というもので、取引すれば50億の大金が手に入るらしい。バレルズは目に見えて機嫌よく酒をかッ食らっているし、他の船員たちもいつもより鷹揚だ。

取引が終われば、大金を手にした皆はしばらく機嫌がいい。ドリィを虐げることも忘れるくらい。

その時になったら、ルエラに本当のことを言おう。ここに残ってもいいことはないと、ちゃんと解放してあげよう。この子は強い子だから、きっと一人で逃げられる。

ドリィと違って、強い子だから。











ミニオン島、“鳥カゴ”の外。

“オペオペの実”を奪った侵入者を追っていたドリィは運よく檻の外に出られた。しかし海賊団の根城にはルエラが残っている。ルエラはなんだかよく分からないくらい気配を消せる。船員たちが侵入者に対応している間に屋根裏部屋に隠れているように指示した。今でも律儀にドリィとの約束を守っているのだろう。


「逃げるなドリィ!!」


やっと父親から解放されるかもしれない。
この白い檻は自分ではどうにもできない。
ルエラを迎えには行けない。

だから、仕方ない。

ルエラは強いから、きっと一人でも大丈夫だ。


「だいじょうぶ、だいじょうぶだろ? なァ、そうだと言ってくれよ……」


そうやって自分に言い訳しながら。

ドリィは海軍に保護されてからもずっと、初めて、父親相手じゃなく、自分自身の弱さに怯えて、震えて、泣いた。

「バレルズ海賊団のアジトの前で大怪我を負った男を介抱する女の子を保護した」女の海兵に優しく肩を叩かれるまで、ドリィはずっと震えて泣き続けた。


強くなりたい。


このままじゃいけないと明確に意識した、X・ドレークの人生の転換期だった。




***




「か……して……かぇして……」


降りしきる雪。鳥カゴのない空。急に色づき始めた意識の中、無感動な目をした見知らぬ女児に非難され、ロシナンテは困惑した。




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