寤寐ごびの神解き



それは暗い穴倉にいた。

初めから水で満たされていて、生温さが常に揺蕩い、絶えず蠢く穴の中ではあったけれど、特に不自由はなかった。暗闇の中で微睡むのも、何かの音を聴くのも、決して不快ではない。快くすら思う。出来立ての体を丸めて、どこからともなく流れてくる養分を吸い込み、じっと眠った。

外に出たくはなかった。

穴倉が震える。無理くり狭い道を押し出され、外気に触れると同時に光が差した。泣き喚きもできずに背を丸め、耳を折り、湿った二つの尾を股の間に挟む。その間にも絶えず養分は注ぎ込まれた。『鬼の子か、獣の子か』『化け物と姦通した』『恥を知れ』『殺せ』『殺せ』『殺せ』──美味い。

美味くて、不快で、心地良くて、寂しかった。

舌は本能から美味いものを知っていたけれど、胃袋は何も受け付けはしなかった。何も食べられず、何も与えられず。意識とは裏腹に体から力が抜け、そうして動かなくなった。上から降って来たのは何の水だったのか。

大きな腕に抱かれてしばらく。穴倉で聴いたものと同じ音に耳を澄ませているうちに、それはまた暗闇の中へ入った。正真正銘、求めていた柔らかい感触。今度は水も音も振動もなかったけれど、本能はしかとそこを住処と認めていた。

そこから出たくはなかった。


『おや、まだ生きているね』


無骨な指が暗闇に無粋な光を招き入れ、あろうことか、それは再び外に出された。ほとんど朽ちかけた体の中で、綺麗に残っていたのは爪だけ。持ち運ぶのは容易だったろう。意思と関係なくさんざっぱら弄られ、弄ばれ、眠ることすら許されない。

早く、早く、早く早く早く早く、潜りたいのに。夕立が降って、空が無慈悲に己を呼ぶまで。土の中でじっと眠っていたかったのに。

それが再び女の腹の中へ入るのは、およそ150年も先のことだった。




***



恵が姉の異変を知ったのは1月14日の朝。週末ということで泊まりがけの任務を終えた後、高専に寄って後は帰宅するだけだった日曜日に、車内で補助監督から伝えられたのだ。──『お姉さんが高専内で保護されています』と。


「姉貴ッ!」


廊下を走り、蹴破る勢いで救護室のドアを開ける。

消毒アルコールの臭いがむわりと顔面にぶつかる。いっそ瓶ごとひっくり返したのではと錯覚するほどの異臭の中、すぐ目に入った寝台。その上で縛り付けられた姉が、脂汗を浮かべて身悶えていた。


「ご家族は出てってくれないか。治療の邪魔だ」
「姉貴の容態はどうなんですか。呪霊に襲われたんですか、それとも呪詛師に、」
「君は任務帰りだろう。気が立っている人間と建設的な話ができるとは思えない。下がってくれ」


パチンッ。ゴム手袋を装着した家入がメグミを冷たく突き放す。実際、気が散るのは確かだろう。分かっていても納得は出来ず、恵は黙って睨み返す。時間が惜しくなったのか、家入は無言で背を向けた。

「口を開けてくれ」寝台に近付いた家入が姉の頭を押さえつける。それに眉根を寄せた恵だったが、すぐに姉の抵抗で家入の手が弾かれてしまう。道理だ。恵とて姉を力ずくで抑え込めたことはない。


「チッ。伏黒、ご家族の出番だ」
「何するんですか」
「胃の中身を吐き出させる。呪物を無理やり飲まされたんだ」


廊下を走ったのと同じスピードで寝台に駆け寄った。

それからはひたすらに姉の口を開けさせる攻防戦だった。胃洗浄の薬を入れようにも、指を入れようにも。何をしようにもとにかく抵抗され、鎮静剤を打とうとすれば針が通らなかった。どうやらここに来る前に一度一般の病院に救急搬送されたものの、注射針をはじめとした医療器具を複数ひしゃげさせた前科があるらしい。家入しか救護に当たっていないのは、金属をグニャグニャ曲げる女の肌に皆が気味悪がったから。あまりのことに、恵は頭が痛くなった。心配で心配で頭の血管が切れそうだったのに、今では怒りの意味で血管が限界だ。

呪物だ。どれほどの等級で、どんな効果があるかは分からないが、ただの毒物よりもよほど厄介な猛毒。飲み込んでから今まで生きているのが不思議なほどなのに、姉は何故か吐き出すのを拒んでいる。


「ふざけるなよ」


病気も怪我もしたことがない。いつも飄々とした姉がこんなに弱っているのは初めてで、だからこそ恐ろしかった。

玉の汗を流す白い顔。ギチギチと食い込むベルトの内で、陸に打ち上げられた魚のように脈動する体。振り乱された白髪が、涙を浮かべる翠色が、噛みしめられた唇が、血が出るほど握り込まれた拳が。何もかも、恵が知らない苦痛に歪んだ姉だった。

だからヤケクソになって、


「吐き出せ」


顔を鷲掴みにして、無理やり目を合わせる。


「命令だ。胃の中身をぜんぶ外に吐き出せ」


今までなら絶対に口にしなかった。母からこっそりと聞かされた姉の“真っ当”ではないところ。家族の命令には必ず従うという家族らしからぬ姉の習性。この緊急事態では形振り構っていられなかった。

そんなもの、生き死にの前では無用の長物だ。
力強く睨みつけた恵に対して、姉は──首を振った。

恵の命令を、拒絶した。

その瞬間、重力の一切が周りから消えたような心地になった。家族の命令は必ず聞く姉に拒絶される。それは、恵が家族ではないと言われたのも同義なのでは、と。自分の存在を姉から否定されたような、足元が覚束ないような。ふらりと平衡感覚が曖昧になって、気が付けば姉から手を離していた。


「そうかよ」


待て、違う、こんなところで言うべきじゃない。分かっていても……いや、分かっていたからこそ、口から勝手に酷い言葉が飛び出した。


「じゃあ、死ね」


家入の制止が入った気がしたが、茹った頭では理解できない。姉の目からボロリと涙が落ちて、そのままシーツに吸い込まれる。そこまで苦しい癖に、どうして。


「オマエなら救急車に乗せられる前に逃げられただろ。死んでも吐かねえなら、人に見つからない場所でそのまま死んどけば良かったんだ」


どうして、助けを求めない。
どうして、黙ったままで俺に頼らない。
どうして、どうして……!


「姉貴はッ」
「ストーップ」


ポスっ。逆立った黒髪に大きな手が乗っけられる。音も気配もなく隣に立っていた男が、五条悟が、恵の耳元で小さく囁いた。


「それ以上言ったら本気で名前拐うから」


「っ、ぁ……」ハクハクと、途中で無理やり言葉を飲み込んだ口が、別の何かを言おうとして痙攣する。どこかへ消し飛んでいた理性が急に戻ってきて、代わりに恵の顔面からゴッソリと血の気が逃げていった。

俺は、何を。

ポスポス。癖毛を潰すように五条の手が頭を叩き、長い足が寝台の横に立った。


「どういう状況」
「飲み込んだ呪物の吐き出しを拒否られてる。口腔から食道までの汚染はある程度治したが、肝心の胃袋が術の効きが悪い。呪物のせいって言うよりは患者の意思だな」
「なるほどね」


黒いアイマスクが退けられ、六眼を露わにすることしばらく。五条は呆れたような態度で息を吐いた。


「名前、甚爾の命令を無視するの?」


トウジ?

知らない男の名前、命令という今聞きたくない単語、あまりにも無感動な五条の声音が、疑問と違和感の狭間に恵を取り残す。この時になって初めて、貝のように閉じ切っていた唇がパカリと開いた。


「ト……ジ、めーれー、っまも、るぅ」
「ならいい」


それっきり。五条は姉から視線を外し、家入にいくつか指示を出してから恵の肩を抱いた。いつもの軽い調子で、まるでコンビニでも行くノリで強制的に恵を外へ連れ出したのだ。

廊下に出て元来た道を戻る道すがら。あまりにも自然に連れられてしまった自分を叱咤し、再度姉の元へ行こうとした。

できなかった。肩に置かれたままの手が、服に食い込むほどの力で抑え込んできたから。


「恵、任務帰りで疲れてるよね。帰って寝な」
「この状況で寝られるわけないだろ!? アイツの腹の中にはまだ呪物が残ってるんだぞ!?」
「うん。でも大丈夫でしょ」
「何を根拠に!」
「信じてるから」


当たり前のことだと五条は飄々とした態度を崩さない。なんて臭い言葉。青臭すぎて恵の鼻が曲がりかけた。けれど相手は本気で姉を信じているらしい。


「名前が命令違反をするなんてありえない。何したいのかサッパリだけど、少なくとも死にはしないよ」


何故、そこまで無条件に言い切れるのだろう。
恵は、まだ信じきれてないのに。


「あと、気ぃ抜きすぎ」
「あ"?」
「飲み込んだとはいえ呪物がすぐそばにあるんだよ。モロに当てられて情緒不安定になってんじゃん。まだまだだね〜」


指摘されて初めて呪力での守りが雑な体に意識が向く。任務で呪物を回収する際には必ず気を付けていたはずだ。きっと姉の口元に触れた時残穢に当てられた。無防備に近付いて行って、動揺をさらに増長させられたのだろう。だからあんな──死ねなどと、瀕死の姉に平気で言えたのだ。

……本当に?


「恵も信じてやりなよ。姉弟なんだし」
「アンタに言われたかねぇですよ」
「なんでだよ、お義兄ちゃんだぞ」
「それまだ言ってるんですか」


軽口は叩けている。五条もいつもどおり。うんざりするくらいのテンションで姉をくれと言ってくる。それに安心する自分にも嫌になった。姉を好いた女として大事にしている男がいつもどおりなら、本当に姉は大丈夫なのだろうと。

五条の言いなりは癪だが、信じようと思った。

ぐるぐるとした消化不良から無理やり目を背け、恵は家路に着いた。救急病院に呼び出されたもののすれ違いで高専に移され、結局姉に会えなかった母を落ち着かせ、漠然とした不安を抱えたままその日は眠ったのだ。


「トウジって、誰だ……」


その疑問が浮かんだのは仮眠から起きた後の夜で、──答えを知るのは、姉が昏睡状態のまま一般病院に移された一週間後のことだった。


「甚爾は恵の父親だよ」


恵の父親で、名前の従兄弟。









六月。梅雨入りしたばかりの空は曇り。雨は降っていなくとも空気がジメジメと鬱陶しい。心なしか跳ね方が自由になった髪をかき混ぜて、恵は丸椅子に座る。消毒液の臭い。一定の心電図のリズム。思い出したように点滴の薬液が落ちた。この空間が、心底嫌いだ。

ベッドの上で姉は眠っている。穏やかとも苦悶とも言えない、ただ目蓋を閉じた瞬間をたまたま見てしまったような、いつも通りの無表情。複数の管に群がられているとは思えない。もともと血色は良い方ではなかったから、本当にただ眠っているだけに見えた。けれど枕に散らばる白い髪の毛先は数センチほど黒くなっている。今まで念入りに刈っていたのだと、姉がこうなってから知った。やっぱりふざけた髪色で、呆れるより先に懐かしさが勝る。朧げな記憶の中で父の背を追う姉は白黒頭の少女だったから。

父、伏黒甚爾のことを、恵はまだ詳しく聞けていない。

端的に言って恵は父のことをクズだと思っている。

姉の人殺しを容認していたこと。金儲けに姉を連れ出したこと。自分と母を後ろ暗い金で養っていたこと。どことも知れない場所で勝手に死んだこと。禪院のクソさを身をもって理解している今、全てを憎めるほど恵は子供ではない。同情する余地も確かにあるのだろうと、想像くらいはできる。

従姉妹を無理やり養子として伏黒家に迎え入れたのも、禪院を名乗らせるくらいなら遥かにマシだ。
でも、死してなお命令で縛り付けるのはクズの所業だろう。

生きている弟の言葉を跳ね除けるほどその命令は重いのだろうか。やはり父は姉にとってかけがえのない存在で、自分はそれ以下なのだろうか。物心ついてからのほとんどを母と姉と三人で過ごしてきた。姉は恵のワガママをいちいち聞いて、母に「甘やかすの禁止」と叱られていた。あれも姉は命令として頷いていたのか。恵は普段から姉に命令をしていたのだろうか。姉は命令を聞くばかりの道具で、その道具を恵は便利だと思っていた。

──『じゃあ、死ねよ』

あれは、命令を聞かない道具に苛立った自分の本心ではないか。

姉の病室に来るとワケもなく気分が沈む。母が飾ったガーベラが花びらを落とすまで、その寝顔をジッと見つめていた。

このまま姉が目覚めなければ、理不尽に喚き散らかしたアレが姉との最後の会話になる。

姉を家族として大事に思う自分と、クズの血を引く者同士として嫌悪する自分。どっちつかずの気持ち悪い感情は、きっと姉と話さなければ解消されない。

せめて酷いことを言った過去を謝らせてほしかった。
謝る機会を逃してもうすぐ半年になる。


「また来る」


そう言わないと、二度と来ない気がした。









6月某日、仙台で虎杖悠仁と出会う。

7月某日、西東京で虎杖悠仁と別れる。









虎杖悠仁は紛うことなき善人だった。誰かのために命を張れて、誰かのために悲しめて、誰かのために怒れる。恵の不注意で呪物を飲み込むハメになり、間違えて呪術界に足を踏み入れてしまった善人なのだ。

それに比べて、姉は善人ではなかった。

きっと恵が命令すれば姉は人を殺す。盗みも、嘘も、なんだって平気で。それが悪いことだと理解できないまま完全無欠にやってのけるのだろう。姉は善人ではなく、人ですらない。言われたことだけをこなす道具だったのだ。

その道具は、きっと人になろうとしていた。

クズの従兄弟に匿われ、善人の母に可愛がられ、恵と一緒に成長した。家族からの命令を重視するのは元々の育ちのせいだろう。価値観を変える機会を失くしたまま、28年間も生きていれば変えようがないのも道理だ。

けれど今の姉は──伏黒名前である姉は、命令される相手を選んでいた。

ただ単に家族だからだけではなく、母と恵を大切な人だと認識した上で命令を聞いていた。正しく使ってくれる人間だと、信じて命令を聞いていた。そこに善も悪もない。どちらともつかないまっさらな人間が立っていて、どちらに転がるかは周りの人間による。

恵は、姉に善人であってほしい。

母のように、虎杖悠仁のように。誰かのために笑って泣けて怒れて助けられる。そんな善人として、真っ当に生きてほしい。

病室に行く足に、もう迷いはなかった。


「さっさと起きろよ、バカ姉貴」


母が生けた向日葵は、まだ枯れそうもない。









「と、ところで伏黒くん。お姉さんのことなんだけど、」
「アンタに話すことは一つもないです」
「は?」


さんざん煽っておいて何言ってんだこの人。

京都から偵察という名の嫌がらせをしに来た東堂と真依。虎杖を半分呪いの人外と宣った口が次の瞬間むず痒そうに震え、出たのが姉の話だった。


「私は親戚の心配をしているだけよ? お姉さんがお邪魔じゃなかったらお見舞いに伺いたいの。何もやましいことなんてないんだから」
「邪魔です来ないでください」
「は、はぁ!? どうして伏黒くんが言い切るの? 名前様が決めることでしょう!?」


様付け……あまりに似合わなすぎてドン引きした。

親戚も何も戸籍上は赤の他人であることを指摘すれば、細い眉がピクピクと引き攣り、それでも愛想の良さそうな顔で猫撫で声を出す。どれだけ会いたいのだろう。苛立ちを通り越して不気味に思えてきた。「なんかよく分からんがその調子だ振り回せ」隣の釘崎はやり返す口実ができてハイになっている。


「姉の人間関係に口出しするなんてずいぶんな弟ね。過保護なのか蔑ろにしているのか分かったものじゃない。少しはお姉さん離れしてみたらどうかしら。もう高校生でしょう?」
「人間関係……。そもそも“禪院”先輩とウチはなんの繋がりもないんですよ。親戚を名乗る不審者から姉を守るのは当然です」
「やだわ不審者なんて。こう見えてお姉さんに物を贈ってもらうくらいには交流があるのよ。被害妄想でモノを語らないでくださる?」
「妄想はそっちの方だろ。たった一回サングラスもらった程度で交流は大袈裟じゃないですか。俺は日常的にプリン譲られますし、誕生日は毎年欠かさず図書券もらいます」
「図書券!やだ紙切れじゃない!ああだめだめ、笑ったら失礼ね。お姉さんに紙切れを恵まれて喜ぶ可愛らしい僕ちゃんが可哀想だわ。ごめんなさいね?」
「いや、俺が欲しいって言っただけで、小学生までは手作りケーキとか手紙とかくれてましたよ」
「は?」


手作りがそんなに羨ましいのか。

勝利を確信した釘崎が「よくやった」と恵の肩をバシバシ叩いてくる。実際真依の顔は唇を噛みちぎらんばかりに歪んでいた。いっそ怨念すら篭ってそうな迫力に、思わずこぼした「市販のに比べてかなりぐちゃぐちゃでしたよ。身内以外には食べさせられません」で、ブチリと血管が切れた。トドメだ。


「先輩に対する口の利き方、教えてあげる」


足のホルスターから取り出したリボルバー。ドスの効いた声で冷静さを欠いていることが丸わかりだ。恵は腰を落としていつでも対処できるように蝦蟇の構えを取った。


「俺の質問は無視か……」
「クズに騙されない人」
「わりと最低ラインじゃない?」
「なにおしゃべりしてんのよッ」


結果は普通に恵の圧勝で、おまけになってしまった東堂はシャツを破かず高田ちゃんの握手会へと向かった。心なしか背中が小さく見えるのは気のせいだろうか。


「そういえばアンタお姉さんいたのね。一人っ子ってツラしてるくせに」
「どんなツラだよ」


当初の目的どおり飲み物を買った帰り、何やら走ってきたらしい先輩方に拍子抜けされて二人して首を傾げた。


「京都のヤツら来てただろ」
「ああ、東堂さんと真依さんなら帰りましたよ」
「あ? 何もされなかったのか?」
「ヘイトはたんまり貯金できました」
「アイドルの握手会があるとか何とか」


今度は先輩方が首を傾げ、「「へー」」「ツナ」の三重奏が響くばかり。なんだかぎこちない空気のまま、東京校の面々は訓練のためにグラウンドへ戻って行った。

それにしても、


『撫子ちゃんの弟だ。見た目どおりの退屈な男ではないだろう』


去り際の東堂のアレはなんだったのだろう。

そもそも、恵の姉が入院していることは一部の人間しか知らない。定期的に訓練をつけていた真希だって、仕事の関係で海外に行っていると伝えてあるらしい。真依はどうやって姉が入院していることを知ったのか。

一瞬過った疑問。もしかしたら御三家の情報網かもしれない。後で五条に確認しておこう。

休憩時間に「名前のヤツいつ戻ってくんだよ」「え、真希さん伏黒のお姉さんと知り合い?」とか何とか好き勝手言ってくる女子二人。事情をふせているのだから聞かれて当たり前だと、冷静であろうと努めつつも心のどこかで悪態をついてしまう自分がいた。


──そんなの、俺が知りたいくらいだ。



***



遡ること1月14日。恵を補助監督の車で送り出した悟は再び救護室に戻っていた。粗方処置を試みて全て無駄になった家入は席を外している。それを良いことに、未だ苦痛の最中でのたうつ名前を見下ろし、おもむろに手を伸ばした。

恵と同じように名前の顔を鷲掴み、無理やり唇を重ねたのだ。

痛みを逃がそうと必死だった唇に舌がねじ込まれ、抗う術もなく唾液を流される。油断していたのか警戒する気力もなかったのか。仰向けで急に入ってきた異物が咽頭を刺激し、嘔吐中枢が異物を排除しようと働く。それを狙って悟は胃袋の中身を吐き出させようとしたのだが──ガリッ!


「……ってぇ」


ボタボタと唾液混じりの血が名前の顔を汚した。牽制だ。噛まれるのは初めてのことだが、相手が本気になれば今頃悟の舌はない。反転術式が効かない術を行使できるのだから、一生しゃべることができない体にされたことだろう。けれど、血が滲む舌は獰猛に己の唇を舐めたし、目隠しの下の目は絶対零度。

『信じてるから』

恵がいる手前、余裕ぶっていた悟の方が名前のことを信じていなかった。

この女は家族の命令を死んでも遂行する。甚爾が出した最後の命令は、恵と母を守ることと、生きること。突き詰めれば、前者のために後者のラインギリギリを攻めることくらい平気でしでかす。丁寧に何某かの術で胃袋を覆って呪物を収めているのも、きっと名前の考えがあってのこと。家族の命令に関わる何かがあって、そのためなら廃人になっても構わないのだろう。

名前が名前じゃなくなる。

鳩尾に向かって強烈な膝蹴りを入れる。常人ならえずいてしかるべき衝撃でもまったく手応えがない。

なら、手応えがあるまで蹴り続けるだけだ。

親友をこの手で殺めてから一月も経っていない。すべて納得尽くで、たった数分でも昔のように話ができた。悲しいばかりの別れではなかった。辛いばかりの記憶ではなかった。悟の中で、既に美化されてしまった新しい傷に違いない。

けれど、この別れは違うだろ。

オマエが俺を一人にするのは、


「許さない」
「こっちのセリフだボケ」


強烈な回し蹴りが背後から繰り出され、悟の体は椅子を巻き込んで壁に激突した。風圧で蹴りに気付き接触する寸前で無限を張ったとはいえ、バリアの役割はあまり果たせていない。自動で反転術式を施しながら垂れた鼻血を拭う。


「倫理観ゼロ点に女の扱いゼロ点。サイテーだな坊ちゃん」
「なんで外に出てるの?」
「お仕事だよお仕事。女医さんからの依頼。報酬は貰ったんでね」


煙草を箱をチラつかせながら持ち上がる傷。十年の献身により最近単独で任務に当たることが増えた甚爾がコキリと首を鳴らした。


「で、言い訳は」


口元は笑っているのに目は笑っていない。

この男にも丸くなる余地はあったのか。悟は頭の片隅で意外に思った。さっきの蹴り同様、問答無用で半殺しにされると身構えていたから。


「どうもこうもねぇよ。お宅の娘さんの自殺を止めようとしてんの」
「死ななきゃいいってわけか」
「良いわけあるか。僕は名前に、」


グッと、喉の奥に物が詰まる感覚。


「名前に、変わらないでいてほしいだけだよ」


変わらず悟の隣を歩いてほしい。

見る方向も進む道も違うけれど。悟が歩幅を緩めず腰をかがめなくとも当たり前に並んで歩ける誰かがほしい。

そんな人間は名前しかいないから。

唯一無二の存在だから、悟は──。


「うじうじうるせえなゼロ点」


舌打ちを一つ落とし、甚爾は名前のそばにしゃがみ込んだ。脂汗と涙で濡れた白い顔の中、潤んだ翠色と目線を合わせる。表情は生憎と見えなかった。


「名前、俺の命令に頷いたな?」
「ぅ、」
「オマエが死ぬと“ママ”が死ぬのは分かるか?」
「ん」
「恵が泣くのは分かるか?」
「ん、たぶん」
「泣くんだよ、まだ十代のクソガキはうぜぇくらい」
「そう」
「で、“ママ”と恵が心配してるのは分かるか?」


しばしの沈黙。伏せられたまつ毛に涙が引っかかって、ゆっくりと目尻に流れていくのを何とは無しに見つめた。



「分かれよ、家族だろ」



────家族。

甚爾の口から飛び出した真っ当な言葉に、悟の六眼の方が飛び出しそうだった。

甚爾は十年以上名前以外の家族に会っていない。電話越しに喋ったこともなく、名前が持ってきた写真で顔を見るくらいだ。それでも何の文句も言わずに呪詛師狩りという名の人殺しを日常的にこなしている。

妻子に会いたくはないのかと夜蛾が尋ねたこともあったが、はぐらかすばかりで明確な答えはなかった。血の繋がらない娘をパシリにする以外の交流を断つ。淡白を通り越して冷血とも思えるソレを、最近になって悟は理解し始めた。

甚爾は家族を信じている。

信じられる根拠を既に持っているから。禪院では永遠に得られなかったモノをたった四年で得てしまった。もう捨てられない大事なモノを、無骨な手で拾い上げてしまったのだ。

悟が口先だけしか使えない、信じるということを。


「終わったら“ママ”と恵に謝れ。そっからはこれまで通りだ。分かったな」
「……トー、ジは」
「あん?」
「トージは、しんぱい?」


ここで初めて、淀みなく答えていた甚爾の口が止まる。それからワシワシと白い髪をかき撫でて、耳元で何かを囁いた。それは悟には聞こえない。聞いてはいけない言葉だ。

だって、悟は家族ではないのだから。


「おら、オマエもなんか言っとけ」


何かって、何だ。

近くに寄ることも出来ず、悟はしばらく立ち尽くした。冷静になって見れば名前の顔にはまだ悟の血が残っているし、膝蹴りで乱れた衣服は痛々しい。焦っていたとはいえ、苦しんでる女に施した数々の鬼畜の所業を前に、何が言えるのか。

軽口の一つでも言えば良かった。素直に泣き言を漏らせばまだマシだったかもしれない。


「点滴くらい刺せるようにしといてよ。お医者さんが困るでしょ」


なのに、出てきたのはそんなことで。大人しく頷いた名前が本心ではどう思っているかなんて誰にも分からない。誰かにどう思われているのか不安になるなんて、悟の人生では滅多にない異常事態だ。呆れた甚爾の視線が突き刺さり、急いで次の言葉を探し始める。けれど名前はどこまでもマイペースに、


「ゴジョ、ごめん、ねぇ……」


小さく幽かに呟いて、そのまま静かに寝入ってしまったのだ。


「…………」
「ヘタレ」
「るせぇ」


すぅすぅ寝息を立てる女を起こさないよう、小声で話す男たちである。

六眼で直に見ても名前の胃袋には何かが纏わりついていてよく見えない。が、さっきよりは透明性が増したように感じる。一番近い言葉を使うなら、呪物を分解しようとしている。呪物という凶悪な毒を飲み込んでなお、名前の体は適応しようとしているのだ。末恐ろしいと思いつつ、ホッとした部分が大きい。時間はかかるかもしれない。途中で何が起こるかも分からない。けれど今のままなら必ずいつか、名前は呪物を克服するだろう。そのいつかがどれくらい先なのかは分からないが。

大人しく目隠しを付け直した悟で粗方察したのだろう。去り際に、甚爾は持っていた煙草の箱をこちらに投げて寄越した。「ゴミだ」「は?」家入からの報酬じゃなかったか、と疑問に思ったところで、そういえばアイツ禁煙してたな、と遅れて理解が追いつく。

グシャリ。簡単に潰れた箱の中身は空っぽだった。



「……どっちがヘタレだよ」



理由がなきゃ娘に会いに来れないのか、あの父親は。

半笑いのまま、悟は家入を呼び出した。











9月某日。一般病棟の看護師から緊急で呼び出され、悟は堪らず飛んだ。

病室に入った瞬間に飛び込んできたのは外された複数の点滴。ベッドはもぬけの殻。残ったのは、ぽつねんと咲く竜胆だけ。


伏黒名前の姿はどこにもなかった。





***





暗い。

肌にじっとり纏わりつくような湿気。どこからともなく一定の間隔で聞こえる水滴。一歩歩くたびに石畳がカツンカツンと音を響かせる。反響はやって来ない。壁はどれだけ目を凝らしても見えず、凡その広さすら推し量れない。暗い部屋。暗い地下室。

繝ォ繧ィ繝ゥ・ゾルディックの生まれた家。

吊り責めの鎖、磔の鉄板、鞭、ペンチ、──電気椅子。見覚えがある。懐かしい品々を見渡して、記憶の中に這い入った心地になった。

呪術師が言うところの生得領域。心の中のありのままを映すそこで、名前がやることは決まっていた。

迷わず電気椅子に座って目を瞑る。ベルトが一人でに巻きついて、手足が固定された瞬間に強烈な電撃が全身に駆け巡った。

熱い。痛い。苦しい。辛い。懐かしい。郷愁より先に苦痛の感想が出たことが、今の人生に毒された証明か。そもそも郷愁が湧いたことがありえないのか。

郷愁。懐かしい記憶。

繝ォ繧ィ繝ゥは四人兄弟の二番目で、一人っ子・・・・だった。

繝ォ繧ィ繝ゥの兄は電気椅子で死んだ。双子の弟は離乳食の毒で死んだ。その片割れは仕事に行って帰ってこなかった。男三人が死んで女である繝ォ繧ィ繝ゥだけが生き残り、両親や祖父母はさぞ困ったことだろう。困った末に過保護に育てられ、過保護なほど徹底的に訓練をつけられた。その結果、繝ォ繧ィ繝ゥは暗殺者らしい感情のない人形に育った。

兄も弟たちも感情があるから死んだのだと言う。
そうなのか。繝ォ繧ィ繝ゥは素直に頷いたものだ。


──『トージは、しんぱい?』

──『ああ、心配だ』


繝ォ繧ィ繝ゥの家族も、繝ォ繧ィ繝ゥのことを心配してくれたのだろうか。

何時間、何日、何週間、何ヶ月。前世ではできて今はできなくなった遅れを取り戻すように電気の拷問は続いた。必要なことだから。記憶は痛みに慣れていても、体はまったくの素人だった。なら、体も昔に近付けるべきだ。

でなければ、名前は殺されてしまう。

あの人型の化け物にも、腹の中の“赤子”にも。呪いという念とは違う未知の力。禪院家では人権にも等しい能力を、無理やり腹の中の存在から引っ剥がしてしまいたかった。

けれど予想外だったのは、呪いは呪いでしか祓えないこと。何より祓ってしまえば呪いの力ごと消えてしまう。ならばやることは一つしかなかった。


「取引、しよ?」


暗い部屋の隅っこ。姿は見えない。ただ息遣いは聞こえる。脈は感じない。ただ爪の音は聞こえる。生きていなくて、死んでもいない。それが呪いの元だった。

名前は半年以上の時をかけて、言葉を覚える前に死んだ赤子と取引──縛りを結んだのだ。


目覚める。


白い天井。点滴。心電図の音。身体中の違和感。全てどうでもいい。一つ一つ丁寧に体の異物を取り除いていき、入院着のみの姿になると、そのまま四階の窓から屋上へと駆け上がった。

すごい。凝をせずとも化け物の姿が見える。強い気配も円を展開せずともなんとなく察せる。これは呪力を手に入れたからか、腹の中に呪いを飼っているからか。以前とは種類の違う鋭敏な感覚に戸惑いながら、名前は目的のために呪力を流した。

──【キルア、お借りしますね】



「【神速カンムル】」



腹の中から全身に呪力でできた電気が放電される。半年以上寝たきりで筋力が衰えた体にはかなりの過負荷に違いない。それでも、動くものは動く。

前世の記憶。ゾルディック本家の次期当主の念能力をまるまる盗んだ不敬。胃の腑が重くなったのは未だゾルディック家に対する愛着と忠誠が残っているからで、それゆえにキルアの念を細かく記憶していたのだから皮肉だ。オーラで作った電気とは違い、呪力さえあれば充電する必要もないソレは、呪物から引き出した術式であって名前のものではない。

それでも使いこなせる自信はあった。


「【電光石火】」


病院の屋上から名前の姿が消える。適当に拝借した誰かの靴で街を駆け、森を駆け、山を駆け、そして街に辿り着いた。県境をおよそ二つ超える長距離移動に1時間も経っていない。それだけ集中していたし、テンションもおかしくなっていた。

早く用を済ませてママとメグに会いたい。二人に謝って、トージにも謝って、そしてゴジョーと仲直りする。『じゃあ、死ね』メグの命令にどう従えばいいか相談する必要があるし。

やらなきゃいけないことは山積みだ。



「どいて」
「はぁ!? 誰だ、よ……」


高校のど真ん中に現れた黒い球体。熱心に拳を叩きつける少年の横に立ち、構え。長距離の移動に耐えきれなかった靴を放り投げ、裸足で踏ん張り、上体を安定させ、オーラと一緒に呪力を纏った拳を握る。あとは体重を乗せて殴るだけだ。

──パリンッ!

術式は解いていない。使い勝手を良くするためにキルアの念能力を真似たが、この術式の本質は電気だ。電気を纏った獣が夕立と共に空へ昇り、雲を伝って再び大地に落ちる。落雷の権化。拳の衝撃が雷のように黒い球体の表面を走り、いとも容易く大穴を開けた。

飛び込んだ少年。目が合ったスーツの男。その向こうに立つツギハギの化け物が、次の瞬間に夥しい量の血を溢れさせた。

黒い球体が完全に崩壊する。間髪入れず少年が駆け寄り拳を振り上げる。ツギハギは即座に風船のように体を膨らませ、少年の拳を受け入れた。

癖で凝をしていた名前は、すぐに本体の居場所が分かった。

破裂音。皮膚の四散。スーツの男が用水路へと走るが、間に合わない。逃してしまう寸前に、「【神速】」「バイバぁ〜〜、!」おちょくるために作られた小さな手を掴む人間が。


「聞きたいことがある」


すぐ背後に立つスーツの鋭い視線。警戒。殺気。しゃがんだ背中で直に感じながら、呪力で痺れさせた小さな化け物を両手に握り締め、ようやっと本題に入った。

未登録呪物『雷獣爪』の呪力・術式を利用する代わりに名前が交わした縛りは、それを死ぬまで腹の中で飼うこと。それともう一つ。



「カモノリトシはどこ」



母を弄んだ・・・・・加茂憲倫への復讐である。



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