緇、笑った話



真希と真依が生まれる前に、禪院家から出奔した子供がいたらしい。

確か二人が片手以上の年齢になった頃だ。既に呪力が一般人ほどしかない真希は蔑みの対象であったし、真依も呪力が並以下で術式が相伝ではないことから落伍者の仲間入りは秒読みであった。

そんな時分に、禪院家はにわかに騒がしくなった。


「例の白痴が」「毛色の違う猿だと思えば」「捨て置いたのは誤りだったか」「だが呪霊相手ではたかが知れておる」「御当主様はなんと」「既に禪院の籍がない者を」「しかし」「五条悟を打倒しうる手札を野放しにできるか!」


給仕をする二人の横で老人が唾を飛ばし、拳を叩きつけた拍子に茶器が倒れる。そうすると何故か双子のせいになり、大きな声で叱られるのだから堪らなかった。

何より、真希には翌週から以前にはなかった訓練が追加された。件の子供が天与呪縛であり、呪力が一般人以下で知能が未発達な代わりに未知の力を持ち、五条家の坊ちゃんの鼻っ柱を七つ折りにしたのだとか。『おたくの坊ちゃん、うちの呪力なし術式なしの猿に負けたんですか? どうやって? ぷーくすくす』とマウントを取れる最良の機会だ。

けれど、どういうわけか噂が回ってきた時にはとっくに上層部と東京高専との間に取り決めはなされていて、相互不可侵条約が締結された後。“呪術界で金銭の有無に関わらず活動することを禁ずる。”この文言により、禪院は呪術師として対五条家の手札を保有することは難しくなった。

そこで引き合いに出されたのが真希である。同じ天与呪縛ならば同じ力を持っているのでは、などと無理難題を吹っ掛けられたのだ。

大きな期待をかけられるのは初めてのことで、同じだけ落胆が大きかったのも致し方ない。何せ未知の力だ。唯一詳細を知っている本人なしに習得できるわけもなく、体術ばかりが身についた真希はたった二年で再び落伍者として捨て置かれた。

悲しかったかもしれない。悔しかったかもしれない。真依の手を引きながら、涙を必死に堪えていたのか。もう覚えていない。だって、捨て置かれるのは生まれた時から当たり前だった。落胆されるのだって慣れっ子だ。何も感じない。また元に戻るだけだと言い聞かせて、飲み込もうとして、……死にかけた自尊心の声を聞いた。

いつも真依を引っ張って行く先には希望も正義もない。家の誰かに呼ばれたから、仕事を言いつけられたから、漠然と歩いてきた。立ち止まっては叱られる。本当は行きたくなかったけれど、折檻を受けるよりはよっぽどマシだ。楽な方へと流されて、思考を放棄していれば、きっと楽に、

──私はダメになる。

確かな焦燥が、真希の中でじりじりと燃え滓に火をつけた。


「そのサングラスどうした?」


もうすぐ15歳になるのに、二人は未だ禪院家で下働きをしている。禪院家から逃げ出した男が作った子供が相伝を受け継ぎ、上が躍起になって取り込もうとしている最中。相手がとうとう後見人の五条悟を伴って禪院の敷居を跨いだ。歳の近い真希と真依を案内に使った意図には反吐が出る。

“恵様をお出迎えする大役”を終え、反抗した分だけ増やされた仕事を片付けて部屋に戻る。同室の真依が文机に頬杖をついて、ぼんやりと何かを手に取っていた。

釣り上がった太い縁に、顔半分を覆うほどの大きなレンズ。鏡のように反射した真依の顔は心なしか赤らんで見える。風邪か? と心配したのは一瞬で、サングラスの持ち主が今日会ったばかりの女であることに思い至った。


「名前サマのだな。忘れてったのか?」


真依の肩が大袈裟なほど跳ねる。

禪院名前、改め伏黒名前は真希たちの従姉妹で御当主の実子……だった人。五条悟を打倒しうる未知の力を持ち、真希が割りを食った原因の女。高そうなスーツを自然に着こなし、ランウェイを歩くように堂々と禪院家の敷地にヒールを突き立てた。勘当された術式なしの落伍者とは思えぬ泰然さで、いっそ先導する真依の方が余所者に見えて来る。

そんな女の私物を何故? 至極真っ当なはずの質問に、真依は意外なほど口ごもり、モゴモゴと言いづらそうに言葉を選んでいた。


「くれた、んだと、思う」
「ハッキリしねぇな。盗んだわけじゃないんだろ?」
「ちがうッ!」


突然の大声。文机を叩いて、半ば腰を浮かせた状態でこちらを睨み付ける。目を見開いた真希と、それにハッとして居住まいを正す真依。また不自然に短い間隔で息を吸って、吐いて。


「いっそ、取り返しに来てくれたらいいのに」


小さく呟いたソレは、真依の純粋な願望に違いなかった。

ストンッと真希の中で何かが腑に落ちる。それは納得だったり、寂しさだったり、安心だったり。いろいろたくさんの感情がちょっとずつ混じり合って、しがらみの多い真希の体を至極あっさり軽くしてしまった。確かなことは、真依には自分以外の心の拠り所ができたということ。

もう自分がそばにいなくとも大丈夫かもしれないということ。

軽くなった体なら、少し遠い場所まで足を伸ばせる。

真希のセルフ勘当を後押ししたのは、真依に大切なモノが増えたこの日だったのかもしれない。









東京高専に入学して寮生活にも慣れてきた頃。校庭で一人呪具の扱いを練習していた真希は、外廊下を歩く目隠し野郎に目を留めた。白い包帯で顔半分を覆った変態。ちんたらしている割に長い足のせいでそこそこのペースで進んでいる。何とは無しに目で追っていたところで、──直感が違和感を告げた。

明確な言葉は見つからない。あえて喩えるなら、影が一つ多いような、見知らぬ匂いが混じっているような。

いるはずのない人がいるような。

目を凝らす。風の音が止まった一瞬で、真希は唾を飲み込んだ。誰もいなかったはずの五条の背後に女が一人浮かび上がったのだ。

いや、本当は当たり前に最初からそこを歩いていた。気付かなかったのはその独特な気配のせい。あまりに薄すぎる生気はいっそ幽霊かと勘違いするほどに無色透明で。真希の天与呪縛で強化された五感を持ってしても、気付いたのは本当にマグレに違いない。

ほとんど睨み付けるように幽霊を観察していると、数秒と経たずに相手と目が合った。

伏黒名前だ。

いつ見ても見事な白い髪。耳下で真っ直ぐ切り揃えられた毛先と綺麗に刈られたうなじ。端正な顔の中の涼しげな瞳はアオコのように淀んでいて、透き通った肌との対比で落ち窪んで見える。死人のように光を感じさせない無機質さが絶妙なバランスで美しさと同居していた。

格好は以前のスーツと打って変わってラフだ。ピッタリと上半身に張り付くスクエアネックの黒いリブニットと、同じくピッタリ張り付くダメージ加工が施されたスキニーパンツ。足元はスエードのピンク色のパンプスで、どんな原理か全くと言って良いほど音がしなかった。足を止めた一瞬だけ、控えめなカツンが聞こえた程度。それもきっとわざとだろう。

前を歩いていた五条が不思議そうに振り返る。名前の顔を見、その視線の先の真希を見て、大股でズンズンとこちらに近寄って来た。げぇ。


「お疲れサマンサー! 一人で訓練なんて張り切っちゃってまあ。寂しくない?」
「こっち寄るんじゃねぇ馬鹿が移る」
「やだなぁ、名前が馬鹿なのは喋り方だけだって」
「オマエのことだよ馬鹿」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだよ? 知らないの?」
「ガキかよ」


全力で舐め腐った会話を押し付けてくるヤベェ大人。プライベートで関わりたくないタイプを前に真希はげんなりした。

思わずジト目になったこちらなど歯牙にもかけず、テンション高い大人がわざとらしいジェスチャーで指を鳴らした。


「よし分かった! 真希、名前と一回戦ってみな!」
「は」


何が分かったんだこの野郎。

ナイスアイデア〜だの、流石僕って天才だの、自画自賛の雨あられが止まらない五条。本人たちを置いてけぼりにし、先ほどまで真希が立っていた中庭の訓練場に流れるように誘導された。五条に正論とは暖簾に腕押し糠に釘と同義。真希は地面に並べた武器を一つ取った。呪具を模した刃の付いていない薙刀。扱い慣れたソレを軽く回して構えてみる。名前は木製のナイフを手に突っ立っていた。


「ゴジョー」
「なにかな?」
「本気やったら死んじゃう」
「あ"?」


それは何か。本気でやったら死ぬほどか弱いと思われているのか。


「いんや死なないよ。一般人とのじゃれあいに目くじら立てる暇人はいないさ」
「ならいいよ」


瞬間的に沸いた苛立ちは、会話の流れからしてどうやら的外れだったみたいだが。


「オイ通訳」
「あれ? 禪院は例の取り決めの内容知らないの?」


五条曰く、呪力なしの相手との縛りは心許ないため契約内容の担保に挙げられたのが身内である伏黒甚爾の命。破った瞬間に殺すよう双方合意の上で結ばれたのだとか。なるほど。訓練とはいえ契約に抵触すれば身内が殺される。慎重になるのも無理はない。

分かっていて綱渡りをさせる五条がクズなのだ。


「いいよ、私からも約束する。いくら怪我したってアンタにイチャモンはつけねぇ。自己責任で黙っとくさ」


そう念押しすればようやっとやる気のなったのか。ナイフを持った右手を除いて、名前の全身から余計な力が抜けた。

実のところ真希は名前のことを良く思っていなかった。一方的に嫌ってるとかいう単純な話ではなく、幼少期に散々比べられたことで要らぬストレスをかけられて来たから。逆恨みというには軽すぎる八つ当たりだ。言うほど強いのだろうか、とか。五条とタメ張れるならちょっとくらい強く当たっても、とか。

期待して唇を舐めた次の瞬間。両腕をプラプラと揺らし、ほとんど自然体のまま名前が歩き出す。酔拳ほど不規則な動きではないが、上体にも下半身にも力が入っているとは思えない。ただ風や水に吹かれ流される木の葉のように真希の周りをぐるりと歩き、そして、──姿がブレた。

名前の姿が分裂した。

足さばきは一定。眩暈のような輪郭のブレが徐々に大きくなり、姿が二重、三重、四重……ついには二十人ばかりの女が顔をこちらに向けたままグルグルと真希の周りを歩いている。術式、なわけがない。この女は己と同じ天与呪縛。呪力と知能を引き換えに未知の力を得た──、


「忍法じゃねぇよな?」
「ん? 違う。足を動かしてるだけ。練習すればできる」
「そりゃあご教授賜りたい、ねッ」


太腿の暗器を適当な一人に投げつける。完璧な像に穴が空き、そこに名前がいない確信を得た瞬間に逆方向の群れに走り寄った。

どんな種かは分からなくとも狙いは分かる。分裂したように見えたとしても、本当に分身したわけではないはず。攻撃する時は結局は一人なのだ。これはタイミングを読ませない錯乱で、なら向こうから仕掛ける前にこちらが仕掛けてリズムを崩すのが最善だろう。

刃のついていない薙刀はつまりは棍。上体を低くし、足払いの要領で地面に平行に振り回す。手応えはない。……が、分身は消えた。相手の術が解けたと判断するより先に、棍の先に乗っかったピンク色のパンプス。まるで重さなど天使の羽しか持ち合わせていませんという顔で、名前は思い切り棍を地面に踏み留めた。ミシリ。木が軋む。石畳にヒビが入る音がした。武器を地面に縫い付けられた真希は、惜しげもなく手を離して距離を取る。すると名前も便乗するように木のナイフを背後に放った。


「オイオイ、ハンデのつもりか? こっちにはまだ手持ちがあるんだぜ」
「本気、出す」
「は?」


武器がない方が本気なのか。

思い至るより早く、真希はとっさにしゃがみ込んだ。──ブォンッ! 頭上に突如巻き起こった風圧。前に靡いたポニーテールで背後に回り込まれたことを察する。瞬きすらしていない間にだ。すかさずしゃがんだついでに地面に手を付き足払い。しっかりと芯を捕らえたはずの蹴りはあまりにも固い足に押し負けた。まるで電柱にぶつかったような痛みが走る。

痺れた足に眉を寄せた瞬間、名前が軸足とは逆の足を振り上げ、真希の頭上へと垂直に降り降ろした。瞬発力の優れた真希とて避けきれるモノではなく、食らった肩が外れるほどの衝撃が走った。「ぐっ」悲鳴を飲み込みつつ、振り下ろされた直後の足に組み付き、相手のバランスを崩させる。目の前の女の代わりにしようと禪院家の指南役にしごかれた二年は、ちゃんと真希の血肉となって今日に残っている。その点は感謝してやっても良い。

相手が地面に背中を付けたのを見逃さず、腰に乗り上げマウントを取る。そのまま暗器を首筋に宛がい、フィニッシュ……と思考が体に追いついた刹那。白い指が事も無げに暗器の刃先を摘まみ、ヒョイっ。しっかり握り込んでいた真希の握力など取るに足らない赤子だと言わんばかり。呆気にとられた一瞬の隙を突かれた。名前は筋力だけで上体を起こすと、真希の腕を引っ掴んで寝技に持ち込んで来たのだ。

先ほど食らった肩とは逆の方。唯一武器を持てる方の腕を的確に捕らえ、うつ伏せで石畳に押し付けられる。

時間にしてきっと一分も経っていない。相手は本気を出すと言っていた。それでも手加減されていることは十二分に理解できてしまった。

化け物かよ。


「はいはいしゅーりょー。名前の勝ちー」


手を叩きながら長い足を伸ばして五条が近付いてくる。すぐに自由になった腕を回しながら地面にあぐらをかいた。

痛かったはずの肩は、時間が経てば元の感覚を取り戻していた。


「で、どうだった?」
「どうもこうもねーよ。……私が弱かった。それだけだ」
「え、真希って弱いの?」
「煽るなよ」
「名前、武器を放ったのはマジでやったからでしょ」
「うん」
「マジの名前とやって42秒はもった方だよ」


だからってこうもソッコーで負けたのだから、弱いとしか言いようがない。

結局、スペアにもなれなかった自分は禪院を出ても落ちこぼれだったのだ。狭っ苦しい家で誰が決めたかも分からないルールの外へ出ればどうにかなると思っていた。けれど、出たところで真希は弱い。弱いヤツは生き方も選べない。

強くなってクソったれなあの家をブッ潰してやるんだ。

ツンと痛んだ鼻を無視して、地面を睨みつけた真希。そこに忌々しいピンク色のパンプスが割り込んできた。


「立って」
「ほっとけ」
「【肢曲】、教える」
「あんだって?」


まったく聞き取れない言葉が聞こえた気がした。

思わず顔を上げると、アオコのように淀んでいたはずの翠色が、朝日を浴びて反射する湖のように澄み渡り、白い頬をやや赤らめて真希に微笑みかけていた。コイツ、笑えるのか。呆けている真希に痺れを切らしたのか、勝手に無傷な方の腕を引いて立ち上がらせる。


「ごきょーじゅ、教えてって意味でしょ? 違う?」


『そりゃあご教授賜りたい、ねッ』


「あ、ああ、まあ……」


軽口を真に受けられてしまった。

「まずやってみる。見てて」と勝手に足を動かして再び分身して見せる名前。未知の力、もしくは何らかの術だと思われたソレは、どうやら本当に練習すればできる技法らしい。五人ほどに分身した名前の姿を眺めながら、ふと幼少期に何度となく悪態をついた記憶が過ぎる。

“誰も知らないくせに、私が習得できるわけないだろ。”
“本人連れてきて教えさせればいいのに。”

その本人が、目の前にいる。


「……やってやろうじゃん」


悪どい笑みを浮かべながら、真希は名前の話に真剣に耳を傾けた。同じ血筋、同じ体質、同じ家出少女。仲良くしない手はないよなァ、と。

先ほどまでの悪感情を綺麗に掌返しして、二人は最低でも月一で手合わせをする仲になったのだ。











「は? オマエ名前に会いたかったのか?」
「……呼び捨て?」
「真依も東京来れば良かったじゃねぇか。週一で会えるぞ」
「週一?」
「手合わせもしてるぜ。月一くらい」
「名前様と、手合わせ……?」
「あー、たまに飯とか連れてかれるな」
「………………」

「大っ嫌い」
「あ?」



一年後のことである。




***




真依の世界には真希しかいなかった。

北向きの薄暗くて狭い部屋に二人で押し込まれ、放って置かれる日もあれば、朝から晩まで掃除や炊事をさせられる日もある。物心ついた直後くらいには父や指南役がつきっきりで呪いを教えていた気がする。それも二人が相伝を継いでいないことが分かればなくなった。

二年ほど真希だけ別行動を取った時もあったが、結局同じ部屋に戻ってくるのだから孤独感はなかった。昼間に怒られるのが一人きりなのは心細かったけれど、夜になれば布団を並べて眠れる。手がボロボロの真依と全身ボロボロの真希が天井を見ながらポツリポツリと言葉を連ねる、そんな日々だった。

時折紛れ込んだ蠅頭の声に真依が怯えれば、真希はそっと布団の下から手を握ってくれた。だから、怖くても大丈夫だった。


『お姉ちゃん、放さないでね』
『寝づれぇなあ』
『お願いだから、ずっと握っててよ』
『はいはい』


──明日なんか来なければいいのに。

本気でそう思い始めたのは、いつの頃だったか。


「どうして、そんなに堂々としているんですか」


年頃になり意図を持った視線を向けられるようになったこと。

真希が一人で訓練を頑張り出したこと。

相伝を継いだ男の子が禪院家の外で見つかったこと。

真希と話がかみ合わなくなったこと。

いろんな何かが少しずつ目に付いて、耳障りで。何も変わらない自分だけが取り残されている気がした。世界は怖いものに満ちている。怖いものから遠ざけてくれるはずの真希は進んで怖いものを見ようと眼鏡をかけた。どうして、なんて怖くて聞けない。

こんなところにいるから、ずっと怖い思いをするんだ。

この家から出ていく道もあるのだと示したのは、真依が生まれる前に家出したという御当主様の実子。相伝を継いだという伏黒恵の姉、伏黒名前だった。

宝石みたいな人だと思った。翠色の澄んだ瞳は石のように無感動なのに、差し込む光を幾度も反射させて見る者を魅了する。真依からすれば雲上人の御当主様を「パパ」などと平気で呼んでみせる。禪院家の女ならば卒倒する無礼を、笑って許されるのはとっくに家の外に出た人間だから。五条悟と対峙できるほど強い人間だから。強さの前では男も女も関係ないのだと、名前は身一つで黙して語っていた。

真依にはない強さ。
真希にだってない、絶対的な強さだ。

だから名前から手を伸ばされた時、確かに真依は舞い上がった。たとえ真希のような家族になってくれなくとも、伏黒恵のような扱いをしてくれなくとも。強い人間に手を引かれて歩くのは得意だった。今まで以上に呼吸がしやすい場所で、今まで通りの生き方ができる。なんて幸運なのだろうと喜びこそすれ、拒絶する道理なんてないはずで。


『お姉ちゃん、放さないでよ』


なのに、震える手はゆっくりと下に降りていた。

嘘つきになんてなりたくなかった。姉の手を自分から放すなんてことしたくなかった。ただ、それだけ。

もらったサングラスがなければ、きっと恨みがましい目が伏黒恵にバレていただろう。

まさかそのすぐ後に、手をとったはずの真希から手を外されるなんて思わなかったけれど。

薄暗い北向きの窓しかない部屋。一人部屋になってしまったそこで、暇さえあればサングラスを眺めていた。空っぽになってしまった手に暖かく馴染むフレーム。今の真依はこのサングラスが似合う服なんて持っていない。持っていたって仕方ないのだから、返してしまえばいいとすら思う。けれど一度拒絶した手前、自分から返しに行くなんてことはどうしてもできなかった。

向こうから会いに来てくれないかしら、なんて。

──夢物語は所詮夢でしかない。分かっていても都合の良いことを思い浮かべ、深々と溜め息を吐く。さながら王子様を待つお姫様のように、呪いが染みついた家で真依は待ち人を想った。










その年の暮れは散々だった。

京都高専に入学して一年目にして正月休みがなかった。呪詛師夏油傑による呪霊テロが起こったクリスマスイブから年越しまで残務処理に追われることになった。未だ学生で三級術師の真依たち一年ですら、正月に帰省することは叶わなかった。

帰ってきて早々に寮の風呂に入り、夕食はどうするか同級生の三輪霞と話していると、寮の共有スペースの方からドッと笑い声が聞こえてきた。時間は夕食時をやや過ぎた20時。軽快なBGMからしてテレビのバラエティの音だろうか。霞と顔を見合わせてから様子をうかがう。テレビの前のソファにドッカリ座り込んだ巨体を見つけ、げっ、と思い切り顔を顰めた。

一つ上の先輩の東堂葵。何度か任務に同行したことがあるが、呪術師の中でも異質なイカレ方をした男だ。きっと得意な人間なんてこの世には存在しないだろう。プライベートで関わろうとは絶対に思わない。

言葉を発するまでもなく霞も同じことを考えたのだろう。視線を絡め、その場からそろりと逃げ出そうとした。


「“Bは、ちゃんと味があった、です。Aはチキン。Cは、脂だけ別物です、た”」
「“え〜? ぜんぶおいしかったのになぁ? でもでもなでちーが言うなら信じまーす! B!”」


──────は?


「“高田撫子の撫子様は通算十二回連続正解、記録更新です!”」
「“あなた本当にいいとこのお嬢様じゃないの?”」
「“アパート、三人家族、川の字布団、です”」
「“なでちーは家族のこと大好きなんですよぉ!”」


特徴のある、淡々とした喋り方。大声じゃないのに張りがあってよく通るソプラノボイス。大股で近寄ってテレビ画面を見れば、黒髪ロングの女がピラピラしたギンガムチェックのミニスカドレスを着て椅子に腰掛けている。いつか見た真っ赤な唇はベビーピンクに色を変え、口端は相変わらずピクリとも持ち上がらない。淡い色でラメたっぷりのアイシャドウで縁取られた瞳は翠色。


「名前様……!」


真依が宝石だと思ったその人は、宝石箱に収まるようにテレビの住人として煌めいていた。

「えっ、真依の王子様!?」同じくテレビの近くまでやってきた霞が大きな声を上げる。けれどあるところで「ひっ」と悲鳴を上げて立ち止まってしまった。そこで真依も致命的な見落としに気が付いた。


「真依よ、オマエにも高田ちゃんの良さが分かるか」


高田ちゃんガチ恋勢の存在である。

普段なら高田ちゃんの番組をリアタイしてる最中に邪魔をすれば文字通り殺す気で殺気を送ってくる男。けれど今だけは真依とて黙っていられない。


「隣の人はいったい、」
「ああ、撫子ちゃんか。高田ちゃんほどではないがイイ女だぞ。何より強い。俺と腕相撲で互角だ」
「東堂先輩と互角!? どんな腕力ですか!?」
「静かにしろ三輪。高田ちゃんが喋っている」
「は、はい……」


ドン引きする霞に構わず、頭の中で“東堂と互角の腕力”という情報がぐるぐる回る。呪術師でもないあの細腕で東堂と張り合えるなんて。確定だ。

真依の王子様はアイドルだった。


「東堂先輩、確か高田ちゃんの握手会によく行ってますよね」
「ああ、ファンとして認知してもらえる良い機会だからな」
「それって次はいつかしら」
「来月のバレンタインデーイベントだな」
「私も行けますか?」


「真依!?」と霞の驚愕の声が上がった。今まで散々キモいだのゴリラだの言ってきた相手の趣味に寄り添い出したのだ。驚くのも無理はない。

でも、だって、仕方ないじゃないか。


「撫子ちゃんに、会いたいんです」


待つばかりじゃダメだった。一生会えないと思っていた。それが合法的に会えるかもしれないチャンスが見えるところにあるのだ。

妙に真剣な真依の視線を受け、(CMに入ったことも手伝って)東堂の慈愛に満ちた視線が降り注ぐ。鳥肌が立った。我慢……ガマン……。


「良いだろう。俺自ら握手会のマナーについてレクチャーしてやる。ついでに高田ちゃんの良さも学べ」
「それは結構……いえ、なんでも」


もう名前に会えたらなんでもいい心境になっていた真依。

とりあえずその日は一流芸能人をキープし続ける高田撫子の勇姿を見届け、解散する頃には22時近くになっていた。夕食を食べていないのにお腹が空かない。何せ胸いっぱいだったから。

実家から持ってきたサングラスを眺めて、自然と漏れる笑みが抑えられなくて大変だった。

会いに行くのは今でも恐ろしい。一度拒絶したくせに今さら、と呆れられたらどうしよう。何度反芻して落ち込んだことか。


「そう、返しに行くの。会いに行くんじゃなくて、ええ、返すだけ」


そう必死に言い聞かせて、真依は目を閉じた。当たり前に眠れなくて次の日は寝不足になってしまった。

バレンタインデー。今まで無縁だったピンク色と茶色の甘い一日に思いを馳せ、貯金を崩して手に入れた握手券をクリアファイル越しに眺める日々。その日が来るのをずっと待って、待って、待って────、



「“アイドルコンビ高田撫子の撫子ちゃんが緊急入院し、芸能活動を一時休止すると所属事務所から発表がありました”」



バレンタインデーの一週間前、握手券はゴミクズに成り果てた。




***




名前が4歳で生まれ変わりの現実を受け入れ、念の修行を開始した時。並行して行ったのが毒の訓練である。前世では微量の毒を混ぜた母乳を乳幼児から摂取していた名前である。下手な下剤はまず効かないし、麻酔を打たれてもピンピンしていた。致命的な毒を浴びたところで時間をかければ分解して無毒化できる。耐毒特異体質を人工的に得られるゾルディック様様だ。

けれど現在の禪院産ボディは毒耐性がリセットされたまっさらな体であったし、陰湿な家の子供がイタズラで食事に殺虫剤を混ぜてくることもあった。名前は自主的に耐毒訓練をする必要があったのだ。

前世に似た植物を見つければムシャッ。毒虫を見つけてパクッ。禪院家の戸棚や屋根裏や倉庫に知った匂いを嗅ぎつけてペロッ。眩暈や吐き気、発熱、痙攣、痒み、痺れ、その他諸々を死なない程度に抑えた量で摂取し続け、9歳で家出する頃にはなんとか及第点まで到達した。この世界は前世と比べれば平和で自然毒も薬品も弱いものが多い。これで容易に死にはしないだろうと。


「名前、おーい名前、落ち着いた?」


安心しきっていたのが油断に繋がったのだ。

正月が過ぎた一月。狭いアパートでおせち代わりの鉄板焼きをメグと名前で用意して、ママに楽をさせた三が日。トージに大吉のおみくじと甘酒を差し入れて「ゴミはゴミ箱に捨てろや」と悪態をつかれた。なお大吉は競馬雑誌のしおりにされている。

正月の空気が抜け、日常に戻りつつあったある夜。平日にゴジョーに飲みに誘われた。

ゴジョーは下戸だと聞いていたし、去年の末から何やら忙しそうだったのでそっとしておいた名前である。「何故?」と尋ねたところ、「いーじゃん僕の奢りなんだし。好きなもの頼んでいいよ」と妙にグイグイ来る。

名前はゴジョーの求婚に一度として頷いたことはないが、メグやトージの件で貸しが多大にあることは理解している。スケジュールが空いていればよほどのことでもない限り断らない。食事はともかく、飲みに誘われたのは初めてだな。首を傾げつつ頷いて、二人は普通の居酒屋に足を運んだ。

「カシオレ」半個室の席に座ると、ゴジョーは珍しくアルコールを頼んだ。勧められる形で名前も同じものを頼む。舌に乗った甘味と遊び程度の度数。これくらいなら水と同じだ。オレンジジュースを飲む勢いで、空っぽの胃に流し込んだ。大してゴジョーは仔猫がホットミルクを舐めるようにちびちび啜っている。それでも白い肌に赤みが差して、妙に色っぽかった。

いや、もともとゴジョーの様子はおかしかった。


「名前さ、僕といるより真希といる方が楽しそうだよね」
「うん、楽しい」
「もうちょっと気を遣ってもよくない?」


テーブルにゴツンとおでこを付けたゴジョー。名前はお通しの冷奴とミョウガを突いていた。


「だってゴジョー、戦ったらトージ死ぬ」
「あー、まあ僕らがやりあったら流石に上も黙ってないよね。なに、欲求不満だったってこと?」
「よっきゅー?」
「ストレス発散してたわけね。はぁ、心配して損した」


復活したゴジョーがカニグラタンをはふはふ口に入れる。「食べる?」「ん」「あーん」「あー」「素直すぎる」もぐもぐ料理を消費しながら、名前はなんとなくゴジョーの話が終わってないことを察していた。最近の仕事の話や、メグの話、トージの話、ゴジョーの軽口。ハイボールを頼んだところで、ゴジョーは半分残ったカシオレを脇にどけた。


「名前はひどいよね」
「なにが」
「僕の気持ちを知っていて、受け入れてくれないのに拒絶もしてくれないんだもん。ずぇーーーんぶ恵に返事押し付けてさ。お姉ちゃん失格だよね、ほんと」


あっと。無駄に良い記憶力の中からいつかのゴジョーを引っ張り出す。包帯で目を隠したゴジョーは、去年新幹線で名前に求婚したサングラスのゴジョーと同一人物だった。何かに焦っていて、何かに怯えていて、何かに戸惑っている。この機微には見覚えがあった。トージと一緒に仕事に行く時、泣きながら引き留める3歳のメグだ。

ゴジョーは時々、幼い頃のメグのような視線を名前に向ける。置いていかないでほしい、一人にしないでほしい、抱きしめてほしいと。他愛ない要求を無遠慮に持ち出してくる聞き分けの無い子供。だからこそ、と言うべきか。名前はゴジョーの言うことに耳を傾けてしまうのかもしれない。立派な成人男性というにはゴジョーは幼いのだ。


「ずるいよね、ほんと」


ほろ酔いでぽつぽつ言葉を落とす。だから何だと切り捨てようにも、名前の口はもんにゃりと重く。縺れる舌が適当な言葉を探そうとして、……あれ?


「? オマエ、なんか顔赤くね?」
「ごじょ、ふあふあすえう」
「ちょ、みず、みず飲んで!」


体中が熱い。頭がふわふわする。

朦朧とする意識の中、水を飲んだ気もする。ゴジョーに担がれてタクシーに乗った気もする。とにかく全てが靄がかった意識の外で過ぎて行って、やっと思考がクリアになった時、名前がいたのは見知らぬホテルの一室だった。


「酒飲めないなら飲めないって言えよ」


包帯を取って六眼を露わにしたゴジョーが名前の顔を覗き込む。軽く痛み出した頭に呻くと、慌てて薬とミネラルウォーターを渡してきた。効くだろうか。毒耐性の弊害で薬も効きにくくなっているはずだ。

……毒耐性。

あっ、と思い至る。そういえばアルコールの耐性はつけていなかったな、と。前世はそれこそ枠のウワバミだった名前である。しかし現在の体で飲酒したのは成人直後の一度きり。なにより日本人は世界的にもアルコール分解能が低い人種である。何も考慮せずに前世のノリで空きっ腹にアルコールを入れれば、そりゃあすぐに回って潰れてしまう。むしろ数時間で正気に戻れたのが不思議なくらいだ。

人生初の市販薬を飲み込んで一息。そこでタイミングを見計らったように名前の寝ていたベッドが沈み込む。すぐ隣、拳ひとつ分の距離を空けてゴジョーが座ったのだ。


「名前って一人で生きられるタイプだと思ってた」


それはどういう意味だろう。


「なんだかんだ言ってさ、家族は大事でも様式美的な? 人間らしく生きるための枠っていうか。恵に寄っかかってるわりに、結局誰に縋らなくても一人で立ってられるでしょ。僕なんかよりよっぽど薄情だよ」


そんなことはない、とは言い切れないの自覚は確かにあった。


「変な気起こさないでね」


黙り込んだ名前。その隣で仰向けにベッドに倒れ込んだゴジョー。その目は天井裏を見ているだけのくせに、もっと向こうの宇宙を見透かしている風にも感じられた。



「名前は、俺に殺されるなよ」



棺桶に花を放るような祈り。狭いシングルベッドで女に囁く言葉では到底ない。

意味不明だった。この男こそ寝惚けている。酔っぱらっていて正気じゃないのでは、と。以前ならシラッとした目で見下ろせた。いや、視線すら向けなかったかもしれない。

しばらくの逡巡。


「ゴジョー、なにか欲しいものある?」
「名前」
「いーよ」
「適当こく、」


仰向けのゴジョーに覆いかぶさる。耳にかけていた横髪が滑り落ち、白磁の頬に弱く刺激を与えた。



「全部はむり。一部なら、あげる」



こちらの世界に前世と似た言語があるように、似た宗教も存在する。

遥か昔、神は己を模して人を作った。土塊で胴と頭と四肢とを形作り、最後にそっと息を吐き込め、人という被造物が地上に出来上がったという。ゆえにブレスという単語は似た音で別の綴り・別の意味を持つ。

息をすること。
恩恵を与えること。


名前はゴジョーに祝福を贈った。


ただの人間、人殺しが神を気取って一人の男の口に息を吹き込む。長い睫毛を伏せ、相手の白い髪を掻き混ぜながら。何度も何度も角度を変えて。時折舌を差し込んで口の中を柔く愛撫してやると、相手の空色は曇らないまま雨を降らせた。こういう天気のことを狐の嫁入りと言うのだと、教えたのはママだった。

ああ、でも。流石にこれはママやメグには教えられないな。


「ゴジョー。ママにもメグにも内緒ね」


ちゅぅぅ、気を引くためにわざと音を立てて舌を吸う。ああ、吹きかけなければいけないのだった。吸ってしまった分もう一度息を送り込むと、190cmの巨体がビクビクッと震えベッドのスプリングが悲鳴を上げた。ちょっと楽しくなってしまった名前である。

ニンマリと珍しい類の笑みを浮かべた名前。アルコールとは違う理由で赤い顔のまま茫然自失ゴジョー。しばらくして、「……はっ! ぐぁ、あ"ーーーー!」と奇声を上げながら名前を抱き込んで横に転がった。


「えっちしてぇ……」
「はつじょー?」
「動物みたいに言わないでくれる?」


人間だって動物の一種だ。

イヤイヤ首を振る名前にしばらく「本当にダメ? 一生のお願い。お金払うよ。マンション買ったげる。ね、ね?」と最低な誘い文句を繰り返し、最終的に抱き込んだまま動かなくなった。


「セックスは結婚してから」
「結婚しよ」
「メグかママに聞いて」
「またそれかぁ。……キスは?」
「ん」


すっかり口紅が取れた唇が妙に生々しい。ゴジョーがゆっくりと表皮同士をくっつけると、名前は無遠慮に舌で唇の隙間を押し開いた。待ち構えていた舌が優しく名前を受け止め、これではどちらが祝福しているのか分からない。


「名前、名前、強いもんね、恵とお母さんと、甚爾がいれば、強いままでしょ。ね、約束してよ、俺と結婚しなくてもいいから、このまま、ねっ」
「んぅ、ん。んく、んん」
「名前、ん、ふふ」
「う、うん、いーよ」
「ほんと? ほんとか?」
「ほん、とぉ」
「信じるよ、名前」
「んっ」


アルコールなんてとっくに抜けきったもうすぐ三十路の男女二人は、ベッドに寝そべったまま。しばらくそうしてくっついていた。



「信じてるから」



きっと呪いよりタチが悪い。











バレンタインデーはアイドルにとって大切らしい。

一月後にあるライブと握手会のために新しい振り付けを練習中の名前。終電ギリギリの時間に夜道を歩いていた。マスクもサングラスもしていない素の顔だが、ウィッグを取ってしまえば意外とバレないし、絶をすればトージでさえ5回に1回しか気付かない。正直電車に乗らなくても走って帰れる。

だからこそのんびりと人気のない道を歩いていたわけで。


「わぁ! 君テレビに出てたでしょ? アイドルってやつ!」


まさか話しかけてくる輩がいるとは思わなかったのだ。

マネージャーから最低限の返答以外は無視して走れと言われている名前。「見てくれてありがとう」と言ってから全速力で走り去った。


「はやーい。本当はアイドルじゃなくて呪術師なんじゃないの?」


まさか先回りされるとは思わなかったけれど。

苦手だ。やっぱり 人間じゃないモノ ・・・・・・・・は一筋縄ではいかない。



「君の魂、変わった形をしているよね。気になるなぁ。どうして?」



継ぎ接ぎの顔が無邪気に笑った。




***




真人は楽しかった。

たまたまテレビで見つけた人間が、直感で普通とは違う人間だと思った。どう違うのだろうと首を傾げていたら、夏油にお使いを頼まれたのである。


『気になるならちょっと会いに行ってきたらどうだい』


五百円玉を握りしめて駄菓子屋に行く小学生のように、真人は東京の夜を駆けた。そうしてお目当ての人間を見つけたのである。

思い出すだけでも頬がにやける。見目が美しいのはテレビに出ているからなんとなく理解できるが、本質は魂の形。多面が行きすぎた究極的に球体に近い石。黒光りする他の人間と違って、それは乳白色に艶めいていた。指が触れた時などしっとりと肌に馴染み、ずっと触っていたいくらい。柔らかくて冷たくて安心する。そのくせ無為転変を受けても全く変形してくれない。うまくいかないことがこんなに楽しいなんて思わなかった。

何より興味深かったのが能力だ。呪力が普通の人間より微弱なくせに真人の拳を軽く払い、押し除けて強烈な打撃を与えてくる。人間だったなら一撃で沈む威力は、乗る呪力が微弱なせいで擦り傷しかつかなかった。加えて呪力とは別の何かが肌を舐める感覚。痛いというよりは痛痒い。それも真人にとっては電気マッサージのようなものだったが。

拾い上げた石を粉々にして投げたら小鳥の群れが一斉に襲いかかって来たり、足止めするように体に蔦が絡まったり、飛んできたカードがエイに変わって鳩尾に食い込んだり、スカーフを拳に巻きつけたらメリケンサックのようにハリネズミがしがみついていたり。

初めてテーマパークに来た子供並みに真人ははしゃぎまくった。

楽しいなぁ、面白いなぁ。
もっと戦っていたいなぁ。

けれど真人は夏油にお使いを頼まれた。泣く泣くこの戦いを終わらせなければならない。


「本当はもっと遊んでたいんだけど、そろそろ朝になっちゃうし」


女の魂の形は変えられない。だから器の強度を上げられない。



「死なないでね」



生きてたらまた遊べる。
もう一回くらい本気で暴れたいな。

たくさんたくさん楽しいことを考える。そうすると顔が勝手に笑うらしい。真人はワクワクが抑えきれないまま、五百円玉の代わりに握りしめていた呪物を女の口に押し込んだ。





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