白昼流転



困ったことに、この桔梗名前の体は脆かった。

四歳の幼子の体は精孔が開きオーラが噴き出すと同時に体力を使い果たした。纏は意地でも成功させたが、朦朧とする意識の中で母の悲鳴を聞き、この失敗が痛い誤算だったことに気付く。以降、母の過保護と言う名の締め付けは強まり、父の訓練以外で外に出る機会がほとんどなくなってしまった。

前世で念を覚えたのは十六歳。もっと早くに習得してしまえばその後の仕事に役立ったのに、とは何度も残念に思ったことだったから。この時分に覚えてしまえばさぞ使い勝手が良くなるだろうと欲張ったのがいけなかったのか。

幼い肉体は悲鳴も上げられないほど激しく消耗した。結局念の習得は少しずつ体を作りながら時期を待つしかないらしい。

布団の中で今後の方針転換を検討しつつ早期の回復に努めていた最中。母が連れてきたのが件の子供だった。


「おはようございます!」
「おへぃぉーごぜぇまっしゅ」
「おはようございます!」
「おはぃお、ござまっしゅ」
「おはようございます!」
「おは、よー、ござます」
「おはようございます!」
「おはよーございます」


挨拶、だと思われる。子供が大きな声で何事かを言うそれを真似してみれば、すかさず同じ言葉が繰り返される。何度も何度も続ければ、子供の中で及第点が出たのだろう。見開いた不思議な目を少しだけニッと細めて、また大きな声を出した。


「俺は、杏寿郎という! 杏寿郎!」
「おり? きぃおじゅーろぅ?」
「ちがう! 杏寿郎だ。杏寿郎!」
「きぃおじゅろー?」
「杏寿郎!」
「きょーじゅろー」
「よし!」


その日覚えたのは「おはようございます」「杏寿郎」「父様」「母様」「名前」「さようなら」の正しい発音方法。このようなやり取りを何日、何ヶ月、何年と続けることで何とか聞き苦しくない段階にまで至った。杏寿郎の辛抱強さは筋金入りだと思った。

桔梗名前の体は脆く柔いわりに鍛えた分だけ水を吸収して育つ花のように成果を出した。反面、頭の方は新しく覚えることに対して拒絶反応が強かった。これは前世の知識まるごとを赤子の頭に移植する形になった弊害か、それとも桔梗名前の地頭が弱すぎたのか。例えるなら、型落ちのパソコンに最新プログラムをインストールして無理やり使えるスペックにするようなチグハグさ。それがいつまでも拭えない。この例えが名前にしか通じない話なのもまた複雑な心境だった。つくづくジャポンの片田舎は文明社会に取り残されている。

七歳。初めて練が半日続くようになる。汗はかくが倒れるほどではない。これならばギリギリ及第点だろうかと、名前は発に取り掛かった。

ところで、最近の父との訓練は竹の棒同士を決められた手順で打つけ合うゲームになっていた。理由はよく分からない。何をしているのかと尋ねても父は無言で竹の棒を振り下ろすので、名前はやっと新しい父もおかしい人なのかもしれないと思い至った。閑話休題。


「【画竜点睛フラックス】」


父との訓練後。自室に戻った名前は先ほど庭で拾った石を握り、拳の内側にグッとオーラを注ぎ込んだ。頭の中で浮かぶのは前世の修行中に何度も作った初歩中の初歩。ターゲットの首筋を掻き切るのに重宝した小さなナイフになる、はずだった。


「っ!?」


掌を何かがくすぐっている。──動いている。

パッと拳を開いたそこに、一匹の蝶が留まっていた。大人しく揺らすばかりの翅は鈍色。指で触れると簡単に赤い筋が走り、名前が頭の中に思い浮かべたナイフの切れ味そのままだと気付く。凝をしなくとも分かる。その蝶はたった今己から分かたれたオーラを纏った生き物だった。


「【飛べ】」


ひらひらと。ハンター語の命令に従って蝶は本物のように飛ぶ。そして十秒もしない内にころりと畳の上に転がった。やはりさっきオーラを込めた石だった。

唖然とした。


「か、かあさま! かあさまっ!」


後にも先にも、名前が声を荒らげたのはこの一度きり。母は面食らって駆けつけた。

どうしたのかと取り乱す母を宥め、持ってきてもらった茶碗と並々注がれた水。そこに葉っぱ代わりに適当な書の切れ端を浮かべ、両手を翳し、練。茶碗の中の水がぐるりと渦を巻いたかと思うと、切れ端が底に吸い寄せられ、代わりに華やかな鰭を持つ金魚が忽然と姿を現した。

──特質系だ。
前世では変化系寄りの具現化系能力者だった。それが生まれ変わった影響で系統が、能力が書き換わってしまった。生まれ直した彼女に相応しい、無機物を有機物に生まれ変わらせる能力へと。

画竜点睛は、前世の祖父のエイジアン趣味にあやかって付けた名。“仕事は最後まで気を抜かない”という意味だった気がする。元の能力は無機物から別の無機物に作り変えるもの。込めたオーラの量や作り変える無機物への知識量に応じて作用時間や精度が上がる。暗殺術やオーラの攻防力移動による肉弾戦が主である名前が武器を現地調達したり遠距離戦になった時に使う小技だった。

それが、ある時は蝶、ある時はイモリ、ある時は鼠、ある時は蔦となって名前の命令のままに動き回る。長年使ってきた能力の突然変異に、名前しばらく頭を悩ませることになる。

使い方はともかく、備えあれば憂いなしだろうと、名前は身に付けられる類の物をできるだけ身に付け、ほとんど絶に近い状態でオーラを注ぎ続けた。母に強請れるだけ装飾具を強請り、杏寿郎に物欲を指摘されたのはこの時からだ。


「はい、名前さん。新しい御本ですよ。今日のは伊太利亜語の詩で、あなたには少ぉし難しいかもしれないけれど……」
「母様、ありがと、ございます」
「いいえ、いいえ」


装飾具の他に、母に強請ったものがある。

名前の発音が滑らかになったのは杏寿郎の世話の賜物であったが、ジャポン語の語彙力を増やすことができたのは九歳の時に母がたまたま買ってきた外国文学のおかげだった。

英吉利語、伊太利亜語、仏蘭西語は、前世ですでに習得した言語とそっくりだったから。きっと鎖国下のジャポンではかの言語はそう呼ばれているのだろうと納得した。そして歓喜した。これさえあれば以前よりもジャポン語の勉強が進むに違いない。

テスト前にカンペを手にした劣等生のような興奮状態で部屋中を歩き回る名前は本格的に狂って見えたのだろう。慌てた杏寿郎に布団に押し込まれ、自身が前世よりさらに感情豊かな人間になってしまったことを再確認した。

それからというもの。原文と翻訳文の二種類をどうにかこうにか母に強請り続け、外国文学を辞書代わりにジャポン語を調べる生活が二年ほど。十一歳の名前はようやっと人間らしい話し方をできるようになった。

そして──そして。

名前はついに、生家の家業を知るに至る。


「藤襲山に行け。元水柱の教え子を探し出し、取り入って来い。それがお前の務めだ」


最近とんと訓練をしなくなった父が一振りの刀を投げて寄越した。「おい」「お前」「ん」としか言わない声がこんな長文を語るのは初めてのことだった。


「母様、藤襲山はどこにあるの? どうしたら行ける? 水柱ってなに?」


母は悲鳴を上げた。



***



名前は一度だけ母に怒鳴られたことがある。

あれは十一歳になりたての頃。いつも穏やかで神経が細そうな母が、珍しく憤りを顕わに廊下を歩いていた。どうしたのか。何か嫌なことでもあったのか。十年以上も世話になった人だ。肉親にそれなりの関心を抱いていた彼女は、そのようなことを拙く尋ねた。母はしばらく逡巡した後、重たい口を開く。


『鬼殺隊に、忍びの者が入ってきたのよ』


恐らく、あれは愚痴のようなものだったのだろう。


『しのび?』
『卑しい草の者よ。金さえ積まれれば平気で人も殺すの。ああ悍ましい。あんなの鬼と変わらないじゃない。嫌だわ、人殺しの仲間だと思われるなんて』


虫の死骸でも踏んだような顔をする母。聞く限りだと“シノビ”とは前世の名前と同じような人間らしい。ふぅんと首を傾げた後、ふとした素朴な疑問を母に投げかけた。



『人殺しの何が嫌なの?』



それはキキョウの地雷を踏み抜いたあの時と同じく、悪意のない決定的な失言であった。


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