簒、疎い話



恵の一番古い記憶は4歳の頃である。

ハッキリと覚えているのは、生きている父親の記憶がソレしかないから。朧げながらも強烈な記憶が今も鉄臭く脳裏にこびりついている。

4歳の恵は珍しく夜中に目が覚めた。いつもは母と姉に挟まれて寝ているのに、その日は一人で布団に寝かされていた。

まま、と。普段ならぐずって母親を呼んだろうに。ねーね、と。母親が来なければ姉を呼んだろうに。生来の勘の良さが黙る選択肢を選び取った。母も姉も、父もいない。狭いアパートに恵一人、かと思いきや少し離れた場所から何かの音が聞こえる。バサバサ。カサカサ。なんとも形容し難い小さな音だ。暗い部屋の中に一筋の光が差している。

出どころはお風呂場。真四角の浴槽とシャワーと鏡が詰め込まれたそこは、父と入るとほとんど抱きつく形になってしまう。だから恵はいつも母か姉と入りたがった。

ついさっきまで眠っていたはずの頭が冴える。眠気まなこも吹き飛んで恵は立ち上がった。抜き足差し足忍び足。裸足で床を踏み締めて脱衣所の扉の前に立つ。

そおっと隙間から覗き込むと、まず始めに目に入ったのは青。お花見や幼稚園の運動会で敷くブルーシートがお風呂場と脱衣所の床を覆っている。次に目に入ったのは仰向けに寝転がる母。その両サイドにしゃがんで何事かを話す父と姉。「ごぉねん?」「いや、十年だ」「じゅーねん」なんの話をしているのかその時は分からなかった。姉がいつも持ち歩いている渋い紫色の巾着から石が取り出される。あの巾着の中身を恵に見せたことなんて一度もないのに、父に言われれば簡単に出すのかと。一瞬の嫉妬心は、次の瞬間にすべて吹っ飛んだ。

父が、母に刃物を突き付けたのだ。

あっ、と。声を上げなかったのは血筋の豪胆さか、それほどショックなことだったのか。お風呂でよく見た母の胸の傷に刃が────「ふらっくす」

ほんの数秒、目を離した隙に。姉の手の内には見たことのないモノが収まっていた。ピンク色の、変にてらてら光るモノ。それが何か理解する前に(4歳の子供に理解できるわけがないのはさて置いて)母の中に押し込められ、巻き戻しボタンを押したみたいにピッタリと傷が塞がっていく。

残ったのは鉄臭い空気と赤い斑点が散らばったシート。無表情で母を見下ろす父と姉。母の体を拭う姉は恵の食べこぼしを拭うソレと同じで。呆然と覗き込んだまま、数秒立ち尽くしたところで、鋭い眼光と目があった。──父だ。

父にバレてしまった。

扉から離れる。バレているのは分かっているのに、バレてはいけないと思った。幼稚園のかくれんぼだって見つかってから静かにしても意味がない。それでもできるだけ音を立てずに布団に戻った。頭からタオルを被ってぎゅうっと目をつむる。

早く寝てしまいたかった。ぜんぶ夢であってほしい。父と姉が紙芝居の山姥みたいだった。研いだ包丁を振り回して迷い込んだ村人を食べようとするお化け。なら母は食べられてしまったのか。もう母には会えないかもしれない。恵は眠れない夜を過ごした。

次の日、いつも通りの朝。昨日のことが悪夢だったかのような当たり前の光景。母は賑やかに卵焼きを巻いて、隣に立つ姉は今か今かと皿を構えて待っている。その後ろ姿を眺めている最中、父はボソリと呟いた。


「十年後はオマエがやれ」


夢にさせてくれなかった父はクズだ。
振り返るたびにそう思う。

それからすぐに姉は髪を切り父は遠くへ行った。以降、姉は髪を伸ばさないし父には会えていない。自分どころか母すら父には会えず、姉ばかりが居場所を知っている。

思えば父と姉は不思議な二人だった。恵も母も同じ家族なのにあの二人だけは流れている空気が違う。“仲良し”だけでは足りない何か。

恵が寝る時にまっくろくろすけな格好で出て行く夜があった。「めぇもいく」とねだっても絶対に連れて行ってくれない。父に「ばぁか」とデコピンされて、悔しかったのかおでこが痛すぎたのか分からない涙を流した。姉は何も言わなかった。母は恵を抱っこして「いってらっしゃい」と手を振った。


「恵にはママがついてるからね。パパとお姉ちゃんが帰ってくるまで一緒にいようね」


トン、トン、規則正しいリズムが背中を叩く。寝たくないのに眠たくなって、うとうとと夢現に何かが聞こえた気がした。


「あの二人にはね、ママみたいな人がいなかったの」


その時は意味が分からなかったけれど。

独特すぎる二人が何をしていたのか。真実を知ったのは恵が6歳になってからだ。


「君のお父さん、禪院っていういいとこの呪術師の家系なんだけど」


サングラスの不審者が下校中の恵に声をかけた。

その時の恵は、小学校に入学しても結局会いに来ない父親にとっくに愛想を尽かしていた。


「で、そのお父さんなんだけど僕がぶん、」
「別に、アイツがどこで何してようと興味ない」


何年も会ってないが、母のアルバムで顔は知っている。写真の中の伏黒家は温かくて、柔くて、いい匂いがする。今だってそれは変わらないはずだけれど、母がたまに見せる寂しさと姉の無感動で陰りがある。

未だに母は姉が父の様子を見に行っていると言うが、恵は嘘だと思った。写真の中の父はお世辞にも優しそうには見えなかったが、母を大事にしているのは嫌でも伝わった。大事にしている人を二年も放ったらかしにするだろうか。恵なら絶対にしない。たくさんたくさん頑張って会いに行くだろう。

一度だって会いに来ないのは、もうこの世にいないから。──恵は、父は死んだのだと確信していた。

姉は母を安心させるために嘘をついている。もしくは、母も恵に心配かけまいと嘘をついているか。どちらにしろ、この男がクズの父親の関係者で、自分は父の実家に行かなければならないらしい。


「母さんは、姉貴はどうなる? 幸せになれるのか」
「ない。100%ない。断言できる」


反射で足が一歩後ろに下がった。眉間にグッとシワが寄って、奥歯がギリリと嫌な音を立てる。言わずとも表情で分かったのだろう。不審者は喉を鳴らして機嫌良さそうに笑った。無遠慮に頭を撫でる手が記憶の奥底に眠る父を思い出させた。


「言い忘れてたけど君のお姉ちゃんも禪院の人間でさ。一番偉い人の娘さんだったの。お家が嫌になって家出しちゃって、家出資金に僕んとこの親戚の目玉ほじくったわけ」
「は」
「有り体に言うと泥棒だよ」


頭が理解を拒んだ。姉が本当の姉じゃないことは察していても、泥棒した事実は予想外だった。


「悪ぅいことたくさんやって貯めたお金で君もお母さんも生きてるわけ。僕んとこ来たら真っ当なお給料出るよ」


──頑張ってね。

続いた言葉は他にもいくつかあっても、頭の中では“泥棒”“悪いこと”がぐるぐると巡った。姉を信じきれなくなった決定的な事件は、この五条悟によるカミングアウトに違いない。

“目玉をほじくる”。簡単な言葉で告げられた猟奇的な行いが、不審者の口から語られたにも関わらず真実味を帯びる。4歳の頃のショッキングな出来事を覚えていたからで、アレは夢ではないのだと父以外から念押しされた現実。アパートの玄関に着いた途端、恵は号泣した。赤ちゃん以来の大号泣だった。

母はバスタオルを手に「喧嘩?学校で虐められた?」と別の次元の話をするし、ぐずって両腕を振り回すと「なになにブンブン遊び?」と空気を読まない。泣いて泣いて目をパンパンに腫らした後、姉が帰ってくるまで玄関に座り込んだ。母は何も言わずにプリン2つを持ってきて二人で黙々と食べた。


「たでぇま」


日が傾いて夜になりかけた時間に姉は帰ってきた。

父の真似だと前に母が笑った挨拶。「おかえり」と返す母の隣で恵は精一杯睨め付けた。腫れぼったくて重い瞼をどうにか開けて姉の翠色を見上げる。睫毛がみっしり詰まった切れ長の瞳がしぱしぱ瞬く。惚けた無表情が余計に腹立たしい。

片腕に黄色いテープが付いたトイレットペーパーを抱えていて、ちょっと間抜けだった。本当に悪いことをして帰ってきたのかと疑ってしまうほど。けれど次の瞬間にしま○らのジャージのポケットから分厚い封筒が出てきて、やっぱり、と失望した。


「真っ当な仕事しろよ! 母さんに心配かけんなよ!」


真っ当な仕事ってなんだろう。呪術師になることは真っ当なのか。6歳の恵には分からないし、母だってちゃんとした答えは持っていないのかもしれない。大人にだって自分ができないことを他人に強要する人間はいる。

どれだけ難しいことを言っているのか、所詮子供の恵には理解できなかった。

ただ、心配したくなかったのだ。

父と同じようにどこか知らない場所で死んで、二度と母と恵の元に戻って来ないんじゃないか。“悪いこと”をしているせいで誰にも助けてもらえないんじゃないか。不安で不安で、小さな胸が張り裂けそうなこの感覚から逃げたくて、どうにかしたかった。恵と一緒に言葉を覚え、童謡を歌い、ごっこ遊びをした。いくつも年上なのに、恵よりも幼い話し方をする。とってもぼんやりした姉。


「うん、仕事やめる」


信じたかった。

信じきれなくて、恵は姉の足を蹴った。なんとも感じてなさそうな翠色がただただ憎らしくて、またほんの少し泣いた。

それから本当に仕事を辞めた姉が「子供欲しいって、ゴジョーが」と言い出して稽古場に入った瞬間に飛び蹴りしたのは仕方ない。


「姉貴に変な仕事させるな!」
「はぁ?仕事じゃないし。僕とラブラブして家族を増やす人生計画だし」
「うそつき! 母さんがヘンタイだって怯えてた!」
「その話詳しく」


身内ならともかく非術師の一般人に詰られるのは流石に傷付いたらしい。


「誤解だ!僕は僕のスペックが遺伝した子を産んでもらいたくて名前にお願いしたの!お金で解決しようなんて思ってないよ!」
「サクシュを認めやがった。ジンケンシンガイだ」


イマドキの小学生、意外と難しい言葉を知っている。









恵は大きな門の前に立っていた。

横には見慣れた上下黒の普段着にサングラスの五条。逆隣には姉。瞳に合わせたモスグリーンのパンツスーツと地面を抉る勢いのピンヒール。エメラルドの大粒イヤリングと相手を威嚇する大きなサングラス。真っ赤な口紅が攻撃的な雰囲気に拍車をかけていた。中学の制服姿の恵がものすごく浮いて見える。「一人だけキメすぎなんだよ。普通でいいのに」と五条は言ったが、長身白髪サングラスコンビは何を着たって迫力がある。ヒールがなくてもギリギリ姉に負けているのに、これでは真ん中の自分がとりわけチビみたいだ。


「ぴーんぽぉーんごじょーどぇーす」


マジかよこの人。

呼び鈴が見えてるのに大声で騒ぎ立てる大人。禪院の表札の横を執拗にノックしている。大きな日本屋敷の表門から玄関まで何メートル離れてると思ってるんだ。ドン引きした恵だったが、御三家出身の五条なら生家も似たようなお屋敷に違いなく、構造もしっかり頭に入っているはず。これで使用人が出てきても良し、騒ぐだけ騒いで応対がなければ「せっかく行ったのに誰も出てこなくってさぁ。留守かと思って帰ったよ。え、居たの? そっちから呼び出しといて居留守? 神経疑っちゃうなぁ」くらい平気で言いそうだ。恵は心底帰りたくなった。同行すると聞いてひっそり安心していた男が早々にリア狂の本性を現したのだ。

──リンリンリンリンリィィ……。

高い鐘の音が遠くから微かに聞こえて来る。三三七拍子ノックの傍らで無言で呼び鈴を鳴らした姉である。金持ちの呼び鈴の音はピンポンじゃないことと、空気を読まないスキルは狂人に有効なのだと恵は学んだ。唇を尖らせる五条は見なかったことにする。

当初禪院家に招かれる人間は五条と恵だけの予定だった。相伝秘術を持つ恵の処遇に相手が食い下がってきたのだ。「ま、いつかは顔見せしようと思ってたし。この機会にジジくさい茶菓子の味でも知っとこうぜ」とかなんとか緩い五条。しかし追加の知らせで日時とともに禪院・・名前の出頭命令が出て喉の奥から聞いたことのない「あ"?」が鋭角に落とされた。絶対ろくでもない理由に違いない。

姉には内緒で行こうと画策していた二人だったが、用意周到に姉の手元まで招待状を寄越していたらしい。東京駅の新幹線改札口に立つハリウッドスターばりの長身女が目立って仕方なかった。

姉は恵に泣かれてからしばらくしてモデルの仕事をし始めた。不特定多数の他人の目があるのだ。真っ当でなければいけない仕事は、確かに恵の希望に沿ったものだったので、何も言えなかったのを覚えている。とはいえ恵は反抗期とちょっとした事件が合わさって姉の仕事ぶりを知らない。母が着々と雑誌をスクラップしているので順調ではあるのだろう。

日に晒すと透き通って見える真っ白い髪。髪と同じくらいに日焼け知らずの白い肌。睫毛が豊かな切れ長の目に、スッと通った小ぶりの鼻。繊細そうな薄い唇。化粧をすることで異国の血が混じって見えるが、正真正銘日本人。恵と似通った特徴を持つ、身内の贔屓目抜きに綺麗な人だと思う。ただ、ぼんやりとした言動と変わらない見た目が実年齢より幼く見え、現実的な姉弟くらいの歳の差に見られがちなのが少し複雑だ。五条と並ぶとそっちの方が兄妹っぽく見えるのはもっと複雑である。

「なんだよその格好」「マネージャーが、ナメられないように武装しろって」「え〜。逆に張り切ってる感があって恥ずかしくない?」「そう?」成功者の格好を見せつけてナメられないようにすることと、ナメた格好で行くことで相手を煽ること。どちらが正解なのか恵には見当もつかない。心情的には「姉貴が真っ当に見える……」と五条の株が下がったわけだが。

呼び鈴とほぼ同時に門が開き、眼鏡をかけた少女が格式張った挨拶をする。言わされている感満載の言い様に肩を竦めた五条。すると隣にいたショートヘアの少女が慌てたように先導役を買って出た。

無駄に長い表門から玄関までの日本庭園。飛び石を伝ってやっと玄関にたどり着いたと思えば、靴を脱いでからも長い廊下を歩かされる。確か本邸ではなく別邸だと言っていたから、本邸ならもっと長く歩かされたのかとげんなりした。


「五条サマ、恵サマはこちらへ」
「名前様はこちらへお越し下さい」


「は?」不満の声を上げたのは恵だけで、五条はチラと姉を見てどうぞとばかりにジェスチャーする。一つ頷いた姉が止める間も無くショートヘアの少女に付き従って廊下の角へ消えて行った。


「なんで行かせたんですか。アイツ一人じゃまともな話にならないですよ」
「お姉ちゃんのこと馬鹿にしすぎじゃない?」


だって姉は、生きてると嘘をついている父の定期報告をほとんど『お馬でン万負けてた』『宝くじでン万損した』『風邪ひいてない。げんき』だけで済ますような女だ。もっとマシな嘘はないのかと毎回頭が痛くなる、そんな考えなしの緩い人間なのだ。


「まあ僕たちと名前に来た招待状はそもそも違うしさ。仕方ないよね」
「は? 初耳ですけど」
「言ってなかったもーん」


もんとか言うんじゃねぇ!

内心ブチブチブッチな恵だったが、「早く来いよ」と形だけの礼儀すら投げ出した丸眼鏡の少女に促されることで渋々と足を動かした。


「よくぞいらっしゃいました恵様。お帰りなさいませ。悟殿も護衛ご苦労さまです」


今日一番、来なきゃ良かったと強く思った。

知らない老人だ。上等な着物を着て、上等な座布団に座って、瞳が見えないほど目を細めて、一見笑みだと勘違いしてしまいそうな柔和な表情貼り付けている。けれど丸眼鏡の少女が音を立てて襖を閉じた瞬間にピクピクとコメカミが震えたのを見てしまった。あまり感じの良い爺さんではない。五条も同意見なのか、勧められる前にドッカリ座布団に座って「呼び出しといてお茶ないの?」と騒ぎ出した。嫌がらせに余念がない。

それから始まった舌戦は、喧嘩は同レベルでしか起きないというのを証明する内容になった。端的に言ってドッジボール。両方当たってもアウトにならずに投げ続ける反則付き。宗教勧誘に来たおばさんに本日の献立を相談する主婦のような。そんでもって献立が決まったら普通に勧誘に戻るおばさん。今度は明日のお弁当の中身を相談する主婦。めげない勧誘。どちらも決して声を荒らげないのがミソ。最悪の循環。汚ねぇウロボロス。年の功と無礼者ののらりくらりとした会話は、延々と「母君お一人で育てられるのも大変なこと。寄る辺ない子供など不幸なことです。いつでも禪院に迎え入れますのに(相伝の子供寄越さんかい)」「人をモノ扱いとか前時代的〜NGOにも同じ話してみ?(社会的に死ね)」こんなんばっか。黙って聞かされる恵は畳の目の数を数えていた。

話が平行線だとようやく認めたのか、「ご当主のナオビトサマ直筆サイン入り契約書があるはずなんだけど知らないのかな?(当主が決めたことに逆らうわけ?)」が効いたのか。初めて押し黙った老人が茶を一口。息をついてから、「最近の若者は意気地が無いと聞きますが、」全く別の話題が始まった。


「いやはや五条家はしっかり跡目としての教育をしてらっしゃる。わたくしどもも見習わねばなりませんなァ」
「周りくどいのキラーイ。よく噛まずに言えるよね。脳トレかな? 喋るとボケないって言うし」
「……はて、他意はないつもりでしたが」
「とぼけんなよジジイ。禪院は俺と名前がデキてるって思ってるんでしょ。残念ながらまだ付き合えてないんだ。こぉーんなに唯一無二な最強のイケメンに見向きもしないなんて見る目がないよね。あ、だから見える眼が欲しかったんだ。納得〜」


これに一番反応したのは恵の方だった。

五条は言外に、姉によって盗まれた六眼のことを言っている。その眼で手に入った金で、母も自分も生活していた可能性があるから。じんわりと手のひらがぬかるむ。


「名前はもう禪院じゃないよ。五条からつつかれる前にサッサと戸籍抜いたのはそっちでしょ」
「はて、なんの話かわたくしにはサッパリ」
「はいはい痴呆痴呆」
「──しかし、禪院でないなら名前殿は我々とは赤の他人、ということになりますな。


俯く恵をほったらかしに、話は明後日の方向へ転がり出す。

最悪な方向へと、転がり落ちる。


「そういえば直毘人様の御子に歳の近い御子息がいましてね」
「……待てよ。名前はご当主の実子だろ」
「ええ、ええ、左様。ですが戸籍上は赤の他人でしょう? なんの問題がありましょうや」


一瞬、頭の中を整理するのに時間がかかった。

姉は禪院家当主の娘。突然話題に出たのも、禪院家当主の息子。戸籍上他人なら問題はない。粘着質な笑みの意味。五条がトーンを下げた理由。

理解が追い付く。喉元まで込み上げてきた何かを手で押し込める。それでも胃のムカつきは治らなかった。


「恵様のお父君は天与呪縛。その子種から相伝秘術の御子が産まれました。名前殿も天与呪縛。父君と同じように、その胎から相伝秘術を産むやもしれませぬ」


ダメだ。
この家にこれ以上いられない。


「恵、出てる」
「五条さん」
「コントロール甘いよ。抑えて」
「姉貴を連れて帰ります」
「その前にやることあるでしょ」


怒り、怒り怒り、怒り怒り怒り怒り怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒…………。

ぶっ壊してやる。



「抑えろ」



息を吸う。肺いっぱいに酸素が行き渡る。吐く。血が血管の中を通って身体中に巡る。酸素がたっぷり脳にたどり着く。頭が冷えた感覚。漏れ出した呪力が肌の下に戻っていく。とっさに組んだ手をゆっくりと解いた。

肩に置かれた五条の手が離れる。


「じゃ、お茶も冷めたし帰るね」
「お待ちを。恵様にはまだ顔合わせが、」
「──禪院真希だ。オマエの親戚。よろしくしなくていいぜ」


スパンと襖が開き、ずっと控えていたのだろう丸眼鏡の少女、真希が仁王立ちで待ち構えていた。


「顔合わせ終わり。玄関まで案内する」
「下働きが何を勝手に、」
「本家筋の娘に案内させたってことで面目保った隠居ジジイがよく言うぜ。はー、せっかくの休日が半日潰れた。つーことでサッサと帰れよ客人」
「帰る帰る〜。帰り道覚えてるから案内いらない」
「そりゃ結構。二度と来なくていいぜ」
「こんな埃っぽい歴史資料館頼まれても来ないよ」


立ち上がる五条。のろのろと続く恵。「真希!」「気安く呼ぶなよ加齢臭が移る」こんな腐った家には鋭すぎる切り返しを背中越しに聞きながら、一歩一歩廊下を踏み抜きそうなほど力を込める。踏み締めるたび、我を忘れるほどの怒りが目の奥をちりちりと焼いた。


「あの女の子、天与呪縛だよ」
「だからなんすか」
「名前の名前を出したのは恵を怒らせるため。本命はあの子との繋がりを作ることだよ。それくらい察しろ」


察することができたとしても、姉を出しに使われたことが許せなかった。あの粘ついたニヤけ顔をぶん殴って二度と口を開けなくしてやりたい。けれどアレ一人を黙らせたところで腐った口はいくつも開いている。水さえあれば菌が繁殖するように、そこらの石をひっくり返せば虫がいるように。呪術界の古い御家とはそういうもので、そういう奴らの群れの中で父や姉は育った。


『あの二人にはね、ママみたいな人がいなかったの』


アパートの扉の向こうへ消えていく大きな背中。それを追う姉の背。母の腕から眺めていた幼い自分。なんで姉ばかりが父といるのか。自分だって一緒に行きたい。母と自分と四人でお出かけして、写真を撮って、ソフトクリームを食べて、うとうとしながら父の背におんぶされて帰りたい。

今なら分かる。あの二人は絶対に母と自分を連れて行ってはくれない。

あの二人は同じ地獄を見てきた同志で、恵たちはそこには入れなかった。

恵は地獄を行き来できる。いつかは地獄に骨を埋めることになっても、今は違う。五条が垂らす強靭な糸を手首にくくりつけ、自力で這い上がった跡が残る針山や血の池を見下ろしながら、母が生きる世界にいつでも帰ってこれる。なんて恵まれたことだろう。

自分が恵まれているなんて、人生で一度だって思わなかったくせに。


「うわ、名前が女の子泣かせてる」
「は?」


泣かされてるのではなく?

目を凝らした先。長い廊下の終わりに向かい合う姉と少女。何の話をしているのか、細々と聞こえるすすり泣きと震える声。姉が無表情に手を差し出して、ドキリとした。涙に濡れた少女の手が伸ばされて、言い知れない焦燥が浮かぶ。五条が自分に垂らした糸を、姉が今まさに垂らしているのだ。止めに入りたくなって、それでも踏み込んではいけない領域を何となく嗅ぎ取ってしまった。

地獄を生きた女と地獄を生きる少女。

また、恵が知らない世界の話。

近寄りかけた足が止まる。大声で喚いて邪魔してしまえば良かった。オマエが誰かを救える立場か。自分のことで手一杯なくせに。恵と母以外の誰かを抱え込む気かと。

子供じみた嫉妬だと、自覚したのは少女の手が引っ込められた瞬間。心の底からホッとした自分に驚いて、途端に羞恥心に苛まれた。まるで姉を盗られて駄々をこねる子供だ。中学にもなって何を。

ぐちゃぐちゃだった。
最低な気分だった。
どうしてもここにいたくなくて、いっそ逃げてしまいたかった。なのに、なのに……。


「禪院は家族じゃない」


こんな、簡単な言葉で、


「私の家族は伏黒だけ」


簡単に救われてしまう自分が、どうしようもないと思った。

姉がサングラスを取り、泣いている少女の顔にかける。泣き腫らした目を隠そうとしたのだろうか。地味な色の着物と大きなレンズのサングラスが取り合わせ的に異質だ。けれど少女は外すそぶりを見せず、深々と頭を下げてから恵たちとは反対側の廊下へ消えてしまった。


「やーいいじめっ子」


姉がその背中を追おうとしたところで五条が能天気に声をかける。


「プレゼントでお茶を濁すナンパ初めて見た」
「ナンパ……?」


キョトンと翠色を丸くする姉はいつも通り。別れている間に誰に何を言われたのかは分からないが、心身ともにノーダメージに見えた。

五条がいつもの軽口をペラペラ言っている間に、先に行ったはずの少女がこちらを振り返っているのが見えた。サングラスの下の目がどこを見ているのか分からなかったが、恵はとっさに姉の手を取っていた。先ほど少女に差し出したのと同じ方の手。薄い唇に歯が立てられるのを何とは無しに眺めてしまった。

ああ、きっと手を取りたかったんだろうな。

察しても、だから?と切り捨てられるほど恵は残酷だった。自分の手は五条の糸と姉の糸で雁字搦めになっている。前者は仕方なく巻き込まれた厄介な縁でも、後者はたった今選び取った重い絆だ。もう母と姉しかいない家族という絆だ。

この絆になら、地獄に落とされてもいいと思った。


「じゃ、面倒な用事も終わったし観光行こっか」
「清水とか、渡月橋とか、伏見稲荷とか?」
「はいベター! つまんねー! ラーメン屋巡りに決まってるでしょ。京都はラーメン激戦区なんだからね」


さっき吐きそうになった胃にラーメンはキツい。

抗議しようとした恵の隣から「しょうゆ……」という呟きが聞こえ、思わず口を閉じてしまった。今日一日で姉に弱みを握られた気がする弟である。









アパートの狭い一室で恵は目を覚ました。

襖で閉じられた申し訳程度の一人部屋。思春期の恵を慮ったプライベートスペースは、昼間は開け放って広いリビングダイニングにしている。襖の向こうには母と姉が寝ているはずだが、今日は妙に静かだ。

時刻は深夜1時。カチコチ刻む秒針の音は一定で、無機質で、無駄に不安を煽ってくる。目が覚めてしまったからか、張り付く喉が妙に気になって襖を開けた。二人組の布団はどちらも無人だった。バサバサ。カサカサ。途端に耳につく、なんとも形容し難い小さな音。出所を探る前に、暗い部屋の中に一筋の光が差していることに気付いた。

裸足でペタペタと床を踏みしめ、数歩でたどり着いたのはお風呂場。脱衣所の扉から漏れる光は人がいることの証明に違いない。動悸と発汗。荒くなる息。恵は、これを知っている。

開け放たれた扉の向こう。浴室と脱衣所を跨いで敷かれたブルーシート。その上に仰向けで寝転がる母と、注射器を片手にしゃがみ込む姉。翠色の瞳は扉を開ける前からこちらを見上げていた。


『十年後はオマエがやれ』


その十年後が、今日だったのか。

無言で見つめ合う姉と弟。最初に動き出したのは姉の方で、注射器の針を素早く母の腕に突き刺した。中身がゆっくりと押し出され、空になると傷口を消毒。ガーゼを当てながら、恵に一瞥もくれることなくポツリ。


「メグは寝てて」


何もするなと言外に言っている。ムッとして、勢いで母を挟んで姉の向かい側にしゃがみ込む。ガーゼ越しに傷口を抑えていた姉が変わらぬ表情で首を傾げた。


「マットーじゃないのは嫌いでしょ?」


ああ、嫌いだ。

呪術師なんて地獄を煮詰めた世界に身を置いて、何が正しいのかも間違っているのかも分からず、呪いを祓って、殺して、消し去って。感謝されることなんてない日々から抜け出せるここは、──この家の、この家族だけは、真っ当であってほしかった。

けれど、真っ当なんて所詮個人の尺度。誰にだって勝手なボーダーがあって、話し合わなければ分からないことだらけで。

母を助けるためなら、コレは真っ当な助け合いに他ならない。


「親父に押し付けられたんだ。何をすればいい」


姉はしばらく無言になってから、おもむろに傍にあったただのナイフを渡してきた。慣れた様子で柄を向けられ、呪具を持つよりも緊張した。本当に父の代わりをするんだな、と。

もうすっかり忘れていた母の胸の傷。手術の縫合が目立つところに刃の切っ先を向け、息を二度三度吐き出す。そして、そして、──────。



「メグ、大きくなったねえ」



飛び散った血痕で頬を濡らした姉。額からコメカミ、頬を伝って流れた汗を手のひらで受け止めて、誇らしげに恵の成長を褒め称える。うっそりと目を細め唇を緩めた望外の笑みは、確かに美しい女のソレだった。


地獄で笑うにはもったいない。









次の日、恵は寝不足のまま一日を過ごした。

何度も呪霊を殴り、時には呪詛師を殴ったはずの手が気になって仕方ない。朝いつも通り目覚めてだし巻き卵を巻く母、隣でお皿を持って待ち構える姉。何も変わらない日常が、あのグロテスクな“真っ当”の上に成り立っている。受け止めなければならない現実だった。


「あ、あの、伏黒くんって芸能人興味ある?」
「ない」
「伏黒くんお姉さんいる?」
「いねぇ」
「あのさ、」
「しつけぇ」


ところで、最近妙に話しかけてくる輩が増えたのはどういうことだろう。姉は確か伏黒姓は出さずにモデルをやっているはずだ。顔立ちは似ているかもしれないが、白髪の印象が強すぎて今まで話題すら振られなかったのに。

中学ではそれなりにとっつきにくい不良をやって来た反抗期終わりたての恵。反抗期の一端になった姉の芸能活動について全くの無知だったのを、二年後に後悔する。


「伏黒くん、高田撫子の撫子ちゃんに似てるよね……」


ツインテールのふんわり美少女顔高田ちゃんと、黒髪パッツンロングのキリッと美人顔撫子ちゃん。二人組高身長アイドルユニットを特集した雑誌を抱え、クラスメイトたちはヒソヒソと噂し合った。


恵はアイドルに疎い。





***





名前のモデル活動は、実は二年で崖っぷちに立たされていた。

ルックスとプロポーションと努力と根性が有れば売れる、なんて簡単な世界ではないのが芸能界。それも小・中学生から頑張っている女の子がワラワラいる事務所で18歳から読モを始めた名前は浮いていた。スカウトマンやマネージャーは白髪翠眼175cmミステリアス美女で売れる気満々だったのだが、ポツリポツリと仕事が減っていき、事務所の雑用係までやっている始末。それでも名前は特に不満はなかった。真っ当な仕事であるし、お給料も出る。高所掃除のバイトは続けていて、ママのお給料と合わせたらギリギリ三人で食べていける。メグはゴジョーが見ているので、実質二人分の生活費ならちょっと余裕があった。

名前に焦りがないことが、マネージャーに変な火をつけてしまったのだろう。


「お願い、これ被って口パクでいいから踊って」


黒髪ウィッグを掲げて平身低頭。マネージャーの後頭部を見下ろして、名前は固まった。

ある時、事務所がアイドルグループを作ってみようという企画が持ち上がった。モデルを多数抱えるモデル事務所だが、近年の大人数アイドルグループ人気に目をつけて乗っかろうという心算だったのか。とにかく10人ほどのグループを作ってデビューさせようという話だった。

そのうちの一人がデビュー直前にバックレ、たまたま事務所で雑巾掛けしていた名前をマネージャーがゴリ押したのだ。


「ぜんぜん完璧じゃなくていいから、なんか踊ってる風に飛び跳ねてれば大丈夫! とにかく紛れてればいいの!」


この際悪目立ちでもいいから爪痕を残そうと必死なマネージャー。ママからの覚えもめでたい彼女に否やを言える名前ではなく、ぎこちなく頷いた。デモテープを渡されたのがライブ開始五時間前のこと。

無人の一室を借りてジャージに着替え、初めて見るダンスの振り付けの理解に努める。

余談だが、こう見えて名前は天才ではない。生まれ変わって4歳で念を習得して9歳まで呪霊狩りをして10歳でゴジョーを押し倒して12歳でトージの隙をついて18歳でゴジョーを抑え込み20歳の現在に至るまでゴジョー含む呪術界の目を掻い潜って不法侵入しまくっている人外埒外モンスターではあるが、天才ではないのだ。

名前ができるのは努力。できなければ死ぬ極限状態に追い詰めてられ追い込まれて追い縋ってきた。乳幼児から成人後までの前世の記憶が天才だと誤認させるまでの集中力を生み出している。いわゆる、死ぬ気でやればなんでもできる。アイドルだってできるはず。

結果、名前は二時間でダンスの習得に成功した。完コピだった。ダンスはもちろん、口パクのタイミングも、オーディエンスへの対応も、──笑顔の作り方も。


「よし、アイドルに転向ね」


否やは言えない名前である。









名前26歳。アイドルやってます。


「撫子ちゃんの握手列こっちでーす」
「一回5秒までになりまーす」


レーンで仕切られた狭い個室。机を挟んで向かいに来る知らない男と握手。そのまま話をして5秒経過。体内時計でバッチリ測っていたタイミングで離す。手を振ってサヨナラ。リピート。

久しぶりに見る顔もいれば初めて見る顔もいる。名前は覚えなくてもいいのが楽だな、と前職と比較した感想を持ちながら、化け物じみた記憶力で「久しぶり」「はじめまして」を言う名前。こんなので喜ばれるのかと首を傾げたところ、同僚曰く『これで助かる命もあるんだよぉ』とのこと。医療行為なのか。


「撫子ショットお願いしてもいいですか」
「はぁい。──なでちぃず、パシャッ」
「うっ、ありがとうございますッ!」


指で作った覗き窓をカメラに見立て、覗き込んだ右目でウィンクする。撫子ちゃんの必殺技である。
無表情で淡々とやった名前に悶え、ファンは満足そうに剥がしに追い出された。


アイドル:偶像、憧れ。通俗的には容姿の美しさや歌や踊りを披露する年若い歌手・俳優。可愛らしさ、純真さを売りにすることが多い。

可愛らしさとは、と考えた名前の頭の中では機械的なガラス玉の目を向けるミケしか思い浮かばなかった。愛玩動物のフリをすれば良いのかと斜め下の方向に努力もしたが、不気味さが際立ってしまい、マネージャーから「そのままのが一番キャラが濃い」とお墨付きをいただき、めでたく無表情系アイドルとして売れてしまった。正確には四回ほどのキャラ変とグループ脱退後の事務所移籍などの紆余曲折の末に別グループにいた高田ちゃんと高身長アイドルコンビを組むに至った。

売りは身長と身体能力を生かしたダイナミックなパフォーマンスとキャラの濃さ。ちなみに名前は二十歳を過ぎたあたりには178cmまで成長していた。180cmの高田ちゃんと並んで遜色ない。大人数グループが流行りの中、二人組でやっていけているのはこのバランスの良さがあるのかもしれない。

握手会も終盤に差し掛かった頃、名前はおもむろに机に右肘をついた。剥がしスタッフの視線が集中するが意にも返さず待機。数秒後に衝立の上から飛び出すドレッドのちょんまげ。本当は握手会が始まる前から円で確認していた。ニュッと現れた巨体が大股で目の前に立ち、腰を落として机に右肘をつく。そのままガシッと握り合い、始まるのは──、


「フンッ」
「ん」


腕相撲である。

高身長の名前すら小柄に見せる身長190cm超え大男と純粋な腕力を競い合う。たった5秒間の勝負は一切微動だにせず拮抗する。話す言葉はあったりなかったり。何せこの男、撫子ちゃんのファンではない。隣のレーンでビームを放つ高田ちゃんのファンなのだ。

始まりはいつだったか。高田ちゃんがインフルエンザで欠席して、撫子ちゃんだけで握手会をやることになった回で、初めて顔を出したのがこの男だった。なんでも『高田ちゃんの相棒にいつかは挨拶せねばと思っていました。いつもありがとう』云々。これで5秒使い果たした背中に、名前は思わず声をかけてしまった。それは見た目よりも実用的な筋肉のつき方だったり、立ち居振る舞いだったり、精孔が開いていないなりに洗練されたオーラの流れ方だったり。既視感のある独特な雰囲気はまさしく、『じゅじゅちゅし?』。

弾かれたように男が振り返る。何か言いかけた口はゆっくりと引き伸ばされ、剥がしに背中を押されながら片手を振った。絶妙に似合うイイ男の仕草だった。

あの業界にもアイドルに興味がある人間がいるのか。いや、ゴジョーはアイドルの写真集買ってたな。無表情で納得した名前は、次の握手会でまたこの男と再会するとは思わなかった。


『今日のライブも最高でした。いかにも。俺は呪術師だ』


握手した瞬間に感想と前回の質問の答えを間髪入れずに言った男。『どうして分かった?』『見れば分かる』『ほう?』手の甲に軽く相手の指が食い込む。硬い皮膚。格闘技とは違う変形の仕方。殴り慣れた人間の手だ。『強い』こちらの指にも力が入った。

整えられた眉がヒョイと持ち上がる。その瞬間に剥がされてしまったが。

さて、次の握手会にも男は撫子ちゃんのレーンに並んだ。いつも終盤にやって来るのでお目当ての高田ちゃんの方へ並んでから来ているのだろう。お互いが姿を視認した途端、差し出されると思っていた手が高い位置にあった。


『今日のライブも最高でした。俺が強いかどうか、試してみるか』


その日から男と撫子ちゃんの握手は腕相撲である。
高田ちゃんとは別に撫子ちゃんの握手券も購入しているこの男。どうしてそこまで、と思わないでもないが、たった5秒の念なし呪力なしの腕相撲は数少ない全力を出せる機会なので、ちょっと楽しい。


「なに、未来の夫として挨拶回りは当然のこと。今日のライブも最高でしたッ!」
「Thank you so much」


結局勝負はつかずに剥がされる。正直5秒と言わず一時間くらい蹴ったり殴ったり投げたりちぎったりしたい欲がウズウズしている。

第三者から見れば高田ちゃんファンに横恋慕する撫子ちゃんの図。ファンの間でちょっとしたボヤ騒ぎが起こったりしたのだが、撫子ちゃんが男を「タカダーリン」と呼んでいることが広まり、高田ちゃんファンはタカダーリンという呼称を獲得、問題が着地した。ちなみに撫子ショットを所望するファンと同じくらい腕相撲で握手するファンが急増した。完全なる余談である。


「なでちーおつかれさまぁ。今日も頑張ったね」
「タカおつかれさま。うん、腕相撲楽しかった」
「なでちー腕相撲すきだよねぇ」
「ん? フツー」
「フツーなんかぁい!」


高田撫子は基本ゆるい。











一通の封筒が名前の所属事務所に届けられた。法律事務所の印字がされた封筒の中身は、なんだか小さな文字で小難しいことが書いてあったが、要約するとこうだ。『遺産相続の話し合いがしたいので指定の日時にこちらに来てください』ご丁寧に新幹線の指定席チケットまで入っていた。


「心当たりはある?」
「これ、前の名字」
「……不躾でアレだけれど、親が離婚したり?」
「ううん。家出」
「ああ……」


マネージャーの妙な落ち着きは、意外と家出経験のある若い子がいるということだろうか。“禪院”以降は全く見覚えのない上に読めない漢字を眺めていると、隣室に行ったマネージャーが名前の目の前にモスグリーンのパンツスーツを持って戻って来た。


「ナメられたら負けよ。とりあえず衣装なら一日レンタルできるわ」


弁護士を立てて正式な文書が届いたのだ。拒否権はあれど外聞的に円満な話し合いでスッパリ縁を切った方が良かろう。

こんな経緯で、サングラスとヒールの私物を除いて全身貸し衣装で東京駅に来た。新幹線の時間を待つ間にゴジョーとメグの気配に気付き、何らかの意図を感じたけれど。


「なんで、ここに……仕事忙しいんじゃねぇのかよ」
「別に。呼ばれたから行く」


ウィッグを取った頭は軽くて良い。白い髪をサラリと払って名前は弟に向き合った。久しぶりに日中に会ったメグはすごく嫌そうで、酢豚に堂々と入っているパプリカを見た顔をしている。

メグは、ママが言うところのハンコーキらしい。トージに似た顔が初めて会ったトージと同じような顔をしている。いや、トージよりも感情豊かで眉間のシワが深い。健やかな成長が垣間見れるものである。

ゴジョー曰く、呪力とは怒った時の方が出やすいらしい。オーラだって感情に呼応して強くなることもあるが、名前のように感情がなくたって量を増やすことは当たり前にできる。呪力はそうではないらしいし、暗殺者ではないメグは大いに感情を育てるべきだろう。

幼い頃の癖でメグの頭に手を乗せ、すぐに弾かれてしまった。どうやら怒らせてしまったらしい。弟に心配されているとは露知らず(そもそも心配されるほど弱いつもりはないので)、暢気な姉にイラついているメグを、名前はぜんぜん全く理解できないのである。


「はいはい喧嘩は新幹線の中でね。ちなみに席どこ?」
「ん」
「……俺らの、隣、です」
「用意周到だね」


ほんとにね。

ついでとばかりに名前の肩に手を回そうとしたゴジョー。それを遮るようにメグが二人の間に挟まる。するとゴジョーが調子に乗って二人ごと背中に手を回してきた。


「こうしているとなんだか兄弟みたいだね。お兄ちゃんって呼んでいいよ、お義兄ちゃんて」
「夢遊病ですか」
「おにーちゃん?」
「……やっば、なんかキた」
「姉貴は黙ってろ」
「ええ……」


ハンコーキだ。

メグ一人ギスギスした雰囲気の中、新幹線に乗って京都まで向かった。道中は様式美とばかりに富士山通過時にゴジョーがはしゃいで、名前が「おお」と言って、メグは無言で本を読んでいた。会話という会話はない。

あったとすればメグがトイレに立った時。

「そっちのお手紙みーして」「いーいよ」「……へえ」軽いノリで四つ折りの書類を渡すと、ゴジョーの声のトーンが半音下がった。


「呪術師としてじゃなく、血の繋がりを突いてきたか」


不機嫌だな。名前は敏感に察していた。

トージが高専に身柄を捕らえられてから交わした名前に関する取引。呪術界と名前の不可侵条約。その内容の詳しいところはトージとゴジョーに一任している。名前が頻繁に高専敷地内に侵入し、トージに会うことが許されているのは、家族だからである。高専保有の伏黒甚爾に会うことは許されなくとも、戸籍上の父トージに面会することは呪術界に接触したとは言えない、という無理やりな言い訳である。

それと同じことを、禪院家はゴリ押してきたのだ。


「御三家禪院家としてじゃなくて、実家の禪院さんちとして娘に会わせてくれってか。戸籍は抜いても遺言状さえあれば遺産相続はできるもんね」


自分の屁理屈に乗っかられては突っぱねることもできない。

グシャリと握られた書類を、名前は奪い取って静かに膝で伸ばす。禪院家に思うところはない。一時は自分の生きる道を示してくれた家だ。ただ、家族というには希薄で、仕事と言うには契約内容が曖昧だっただけで。そこに恨みも憎しみも悲しみもない。そもそも誰かを呪えるほど名前は感情豊かな人間ではなかった。

名前は呪術師になれなかった。きっと、それだけのこと。


「名前」


黙ってこちらを見下ろしていたゴジョーが、神妙に囁いた。


「今からでも遅くないからさ、僕と結婚して」


答えは決まっている。「メグに聞いて」だ。


「名前の気持ちが知りたいんだ。恵にオーケーもらって結婚でもいいけど、はじめに意見をすり合わせた方があとあと楽だよね」
「ママかメグがいいって言ったら」
「それじゃ僕がイヤだ」


膝にあった手にゴジョーの手が重なり、下で伸ばしていた書類にまたシワが寄る。禪院の文字に線が入る。

いつか昔に、念を込めて殴ったことのある手だ。握ろうとして、握れなくて、無理やり無限ごと折ってやった腕。そこから目が離せない。


「五条悟の妻になったら禪院どころか上の連中も簡単に手を出せなくなるし、恵やお母さん、甚爾だって自由にできる。お金の心配もしなくていい。アイドル辞めたって生きてけるし、五条家の敷地内に迷惑なファンもマスコミも入ってこれない。そのスーツだって何着も買える。食べ物も、友達だって……」


つらつらと言葉を並べ立てていた口が止まる。耳で拾った音は、言い淀む吐息ばかりで。数秒にも満たない空白の後、小さく小さく、ひとりごとのような呟きが涙みたいに名前の上に落ちてきた。


「名前が欲しいんだ」


重なっていた手の指が名前の指の股を軽く擦る。


「なんで欲しいのか、分からない」


擦っていた指が、今度はギチギチとその下の書類を引っかき、破った。


「リクガンの子供は、結婚しなくてもできるよ」
「子供なんてもういらない」
「じゃあ、何故?」
「分からないから、困っている」
「ふぅん。困ったねぇ」


まるでイヤイヤ期の子供だな。ありし日のメグを懐かしんだ名前。こういう時は無理やり抱っこして忘れるまで高い高いしたり走り回ったっけ。

今ここは新幹線で、相手は大人のゴジョー。持ち上げることなんてワケないけれど、なんか違うことは名前にだって分かったから。

さっきメグに弾かれた手。今ゴジョーに掴まれている手。本気でギチギチに握られている手を、空いている手で無理やり引き剥がした。

無下限を解いているとはいえ、力技で五条悟から逃れられる名前はやはり規格外で、その自覚は一切ないのだろう。できるからやっている。いつでもどこかへ行けるのに、好き好んで狭い場所に腰を落ち着けて──生きている。


「結婚するなら、子供は欲しい」


メグを撫でるのと同じ手つきで、乱暴に白い髪をかき混ぜる。いつかキルアに見間違えた髪は紫電を思わせる煌めきを纏っていて、綺麗だなと思った。皆が有り難がる蒼い眼より、よっぽど。

綺麗なものを綺麗と思えるくらいには、名前の中に情緒は芽生え、青々と葉を伸ばしていた。


「子供を作らなきゃ、結婚する意味ない」


それでも根っこには前世の暗殺者が息衝いていて。『強い男と契って強い子供を作り血を繋ぐ』というトージにもママにもメグにも言わない、……誰にも言わない前世の価値観を、名前はゴジョーに漏らした。


「ゴジョーは子供いらない?」
「いります欲しいですサッカーの試合できるくらい作ろ」
「アホか」


すかさず姉にチョップしたメグである。

何故姉に、といえば「子供ほしい」の下りを聞いてしまったからで。家族の生々しい話なんて聞きたくなかった。


「ヤッホー恵遅かったじゃん。うんこ?」
「アンタらが込み入った話をしてると思って空気読んだんですよ」
「へー! じゃあもういっちょ空気読んで名前にお願いしてよ。“悟くんみたいなカッコイイお義兄ちゃんほしいなぁ”って!」
「却下」
「だって」
「ちぇー」


「お姉ちゃんちょーだい?」「却下」この会話は実は8年ほど繰り返していたりする。もうテッパンネタになったやりとりに、メグはうんざりしている。それよりも弟に自分の人生を放り投げるように委ねる姉が、メグには信じられない無責任に感じられるのだろう。


「僕なんかよりよっぽどコッチ側だよねぇ」
「何がですか」
「結婚観」
「し、」


心外です、と言いかけて、否定しきれないメグである。

三人がけの真ん中に座ったメグによってゴジョーの頭から手を離した名前。触り心地の良かった髪の毛を思い浮かべ、にぎにぎ手を動かす。その間にもゴジョーは騒がしさを取り戻して移動販売の店員にカチンコチンのアイスを注文し、名前はついでにコーヒーを注文した。

なんだか妙に、口の中がかゆかったのだ。



さて、京都駅からタクシー乗ったり歩いたり歩いたりしてたどり着いた禪院家。導かれるままに案内された一室に待ち構えていたのは一人の老人だった。


「だれ」
「パパらよ」


何故か案内の少女の方が「ひっ」と悲鳴を上げていた。

禪院家第26代当主、禪院直毘人が日当たりの悪い奥まった座敷で酒を飲んでいたのだ。名前にとっては知らない人間だし、漢字も“直”以降読めなかったので遠慮なく「パパ」。何故かまた少女が悲鳴を上げ、襖を閉めて廊下に隠れてしまった。


「お金いらない」
「やらねぇよ。ありゃ口実だ」
「じゃあなに?」
「礼の一つくらい言ってやりたくてな」


髭をひと撫でしてニヤリと笑う老人。結構な歳だろうに、衰えなど知らぬ生命力に溢れている。少しだけ前世の祖父を思い出した。祖父のエイジアン趣味のお陰で名前は着物を一人で着れるし、生花も琴もお茶も一通りできる。作法だってまだ忘れていない。この部屋に入った時の値踏みするような視線さえ、粗相を見つけることはなかっただろう。


「たった10歳のガキにみすみす宝を奪われ、火消しにおおわらわする五条家。あんなに腹ァ抱えて笑い転げたのは半世紀ぶりだったなァ」


クックックッ。思い出し笑いまでし始めた老人が、また酒をあおる。ぼたぼたと畳に落ちるのが汚いなと思った。


「金以上の価値があった。ありがとさん」
「お金、ほしいの?」
「いらん。そもそもオマエから目ん玉買い取ったのは俺だ」
「……うん?」


ここで初めて名前は表情を変えた。楚々とした仕草の女の無表情が崩れ、仔リスのように目を見開く。老人はまた喉の奥で笑った。


「パパが娘におつかい頼んだだけだろ? 今後の生活費を出してやったんだ。有り難くとっとけ」


確かに、たった10歳の子供に降りてくるには五条家の六眼奪取は重すぎる。アリンコに象を乗っけるような仕事だ。向こうとしては呪力なしの白痴を使って五条家に嫌がらせができれば御の字だったのが、名前がアリンコどころかゾルディック産暗殺者だったせいで予想外の収穫を得たらしい。


「で、五条悟に種は仕込まれたか?」
「たね?」
「ヤったかって聞いてんだ」


こっちが本題だなと直感した。強い男の遺伝子が欲しいのはどこの家庭も同じらしい。


「ゴジョー、頭なでなでした」
「────?」
「それ以上はダメって、メグミが」


ここで上機嫌だった老人が一転、二日酔いに苦しむように低く唸る。「あの小僧、種無しか? いや、男色……うぅむ」なんだか一人で楽しそうなので、もう帰っていいかなと座布団から立ち上がった。


「バイバイ、パパ」
「おお、帰れ帰れ。次は五条に仕込まれてから来い。孫の顔くらい見てやらんでもない」
「じゃあ、ずっとバイバイだね」


なにがツボに入ったのか、唾を飛ばす勢いで「ダッハッハッハッ!」と笑った老人。名前は律儀に手を振って廊下に出た。

待機していた少女が青い顔で来た道を先導する。けれど意識はずっと己に向いていて、むしろいつ話しかけようかソワソワしているのが少し鬱陶しい。「なに」「、ぁ」足が止まる。足袋が廊下の上を滑り、震えながらこちらに向き直った。

噛み締められた唇が、紅を引いたように赤かった。


「どうして、そんなに堂々としているんですか」


──呪力がほとんどなくて、術式もない、禪院家の女が、どうして。

そこまで行くと、もう口が止まらなくなったのだろう。ぽつ、ぽつ、と雨の降り始めから土砂降りの豪雨になり、切れ長の眦には涙すら浮かんで見えた。


「なんでひとりで禪院家から逃げられたの? どうして普通に表で生きられるの!?」


「ずるい、ずるい」とすすり泣く少女。手には肉刺とあかぎれ、擦り傷。まだ固くなっていない、訓練したての手に違いなくて。ああ、だからダメなのだと実感した。


「禪院は家族じゃない」


戦いを家業とする家がこんな歳まで子供を放っておいて、今さら足掻かせるなんて無責任だ。使えないと雑用係をさせている時点で非効率的すぎる。

名前にとってそんなの家族じゃない。だからトージの嘘に乗っかって家を出たのだ。


「私の家族は、伏黒だから」


名前はトージと同じことを、目の前の少女にしようとした。パッと見は白いばかりの綺麗な手を差し出して、少女の目をじぃと覗き込む。


「来る?」


結局は、拒絶されてしまったけれど。

餞別にサングラスをかけて、腫れぼったい目を隠してやる。赤い唇が際立って少し大人っぽく見えた。

名前と違って、彼女には禪院家の中に寄る辺があったのだろう。新しい家族なんて跳ね除けられるくらい、ちゃんとした家族が。なら、名前にできることなんて初めからなかったのだ。

メグに握られた手を見つめて、握り返して、握られ返される。胸の奥で未知の筋肉が蠢くような不可思議な現象が起こった。


「ママになにか買お」
「八ツ橋でいいか」
「お茶も」
「抹茶の間違いだろ」


こうして伏黒名前の知らないお宅訪問は幕を閉じた。









「この雑誌あと17冊しかないんだよね。どっかに余ってないかなぁ」
「まだあったの?」


白髪ショートヘアの名前が伏し目がちにカメラを見る水着ショット。モデル生活崖っぷちの頃に入ってきた仕事で、水着ブランドのモデルにしてはそういう意図を感じる撮影だった。もう6年前の雑誌をゴジョーは複数店舗で買い占めたらしい。

これを見せびらかすことでメグの思春期に火をつけ、命令権の行使で芸能界を辞めさせる算段を練っていたらしいが、メグがテレビと雑誌コーナーを見なくなっただけだった。


「そんだけあって足りないのはおかしいだろ」
「恵に見せると玉犬のオモチャにされちゃうんだよ。別にやましいことに使ってないからね?」
「わざわざ言うあたり怪しいなァ」


こういう会話を目の前で繰り広げる男たちである。

片手で懸垂するトージは、もう十年高専に飼われている。そこそこ重宝されているので給料は出るし部屋は広くなったが、それでも単独で外には出してもらえない。

ママにもメグにも十年会えていない。


「ママから伝言。メグがトージのこと死んだと思ってる」
「────は?」
「ブッッ!!」


メンチカツだと思って食べたらかぼちゃコロッケだったメグと同じ顔をしている。ゴジョーは腹を抱えてケタケタ笑い、懸垂をやめたトージにぶっ叩かれていた。なお無下限発動中。


「オマエ、本当にアイツらと会話してンだよな?」
「だってトージ、馬かクジしか話すことない」
「ギャ、クッ、クククッ、ひぃーー!!」
「笑いすぎなんだよ童貞!」
「ボッ、ボハハッ、グェッ、おれ、童貞じゃなッ、フヒヒヒヒッ!!」
「ゴジョー、カッコ悪い」
「えっ」


今度はトージが爆笑する番だった。

メグの誤解を解くために三人で話し合った結果、トージは手紙を書いた。誤字脱字だらけでひらがな七割のかわいらしいお手紙。パステルカラーの封筒に入れてちゃんと『恵くんへ』と鉛筆で綴った可愛らしい近況報告のお返事は──、



「オマエ、どっかで小学生捕まえてまで書かせたのか? こんなんで騙されるかよ」



名前の株を大暴落させる結果に終わった。

どうして。





「そういえばさ、どうして“撫子”なの?」
「植物のフシグロは、ナデシコ科だから」
「ふぅん」

五条はそっと中年のニヤケ面から目を逸らした。

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