逸、嘘をついた話



従姉妹の話をしよう。

本当は再従姉妹だか姪だか妹だか知らないが、なんとなく従姉妹だと思うので、便宜上そう呼ぶ。従姉妹は生まれつき言葉が不自由だった。脳の検査をしても異常なし。大人が話しかけても四歳まで意味のある言葉を喋らなかった。五歳で言葉を発するようになった頃にはとっくに諦められていた。

そういう病、そういう気質、──そういう呪縛。天が与えたもうた試練であり代償。従姉妹は御家相伝の術式を継いではいなかったが、呪力とは別物の力を生まれつき持っていた。力があり、呪霊が見え、祓える。使えるのならば言葉が通じずとも。使い潰すために技術を仕込み、八歳で任務に駆り出された。

小さい体で夜を駆け、捨て身で化け物に挑み、決して小さくない傷を負って静かな屋敷に帰る。言葉が通じているのかも定かではない顔で廊下の端をぼんやり歩く。黒と白に分かれた不思議な髪は月の下では目立って仕方ない。本家の子供に面白半分で白い髪を切られる様を見た。あえて面前で侮辱される様も。言葉が通じないとしても耳は聞こえているのだから、嘲笑はちゃんと分かっただろうに。正気の薄い翠色は何をされたところで揺らがない。

ザンバラの髪のまま、大人に連れられて化け物の前に突き飛ばされ、傷を負いながら祓い、何を褒められるわけでもなく帰る。捨て置かれる己とどっちがマシだったろう。


「どっちもクソだろうが」


蔵の隅に座り込む子供は甚爾が戸を開ける前からこちらを見ていた。暗闇に浮かぶ翠色は己と同じ色で、もっと別の何かのようでもある。例えば五条のガキ。六眼でもないくせに何もかもを見通しているような面をする。今襲ってこないのは甚爾が家の者だと分かっているからか。

家の者。──家族。

そんなものに縛られて言いなりになる。嘲りも憐みも侮りも無関心も、全てを甘んじて受けながら命を投げ出す。そのくせ人間とは別の生き物……どころか、甚爾の五感を持ってしても無機物だと誤認するほどに感情がない。路傍の石か、世を見下ろす上位種、はたまた天からのギフテッド。こんなカビ臭い家で使い潰されるのは面白くない、と。


「オマエ、騙されてるぞ」


甚爾は嘘をついた。


「禪院はオマエの家族じゃない」


オマエはテイよく使われているだけ。このまま嘘つきどものために戦って死んでもいいのか。本当の家族に会いたくはないのか。


「逃げちまえよ」


嘘を、ついた。









過去は一息に駆け抜け、現在に収束する。


「にげる、どこまで?」


天辺から耳までの白髪、耳下から膝まで伸びた黒髪。サイズの合っていないジャージを着て、首から膨らんだ巾着を下げた子供。記憶が正しければ十二歳。甚爾が嘘をついた次の日に姿を消した従姉妹が、今になって姿を現した。

ペタペタと裸足でリノリウムの床を歩き、甚爾が座っている椅子の横に立つ。目線が同じ高さの従姉妹は変わらず凪いだ翠色をしていた。冷静どころか凍結している。無機物じみた目だからこそ、同情も憐みもないからこそ。甚爾は質問に答えた。


「テメェで見つけろ」
「てめー?」
「オマエのことだ」
「わからない」
「あの家から一人で逃げられたんだ。立ち止まるくらい簡単だろ」


首を傾げる動作が妙に人じみていて気持ち悪い。人のフリをしようと一生懸命なのか、それとも本当に無機物が人になろうと成長しているのか。……どうでもいいことを考えた。

どうでもいい。

息子も、従姉妹も、この世も。

無慈悲な機械音がリズムを刻む。波長が乱れては止まり、また息を吹き返し、乱れ、乱れ、乱れ。ベッドに横たわる女は死んだも同然なのに、この音と波が生きていることを証明している。器質的なものだった。事故で偶然発覚しただけで、事故にならなくてもいつかは止まることが決まっていた。そんな命だ。


「心臓なんざその辺にいくらでもあるだろうが」


そう簡単には行かないらしい。物事には順番があり、条件があり、平等に不平等である。甚爾の大事な人間は世の中にとっては取るに足らない一人でしかない。順番は越せず条件は満たせない。自分ばかりが強くてもどうしようもない。尊ばれるべきはすべての命で、すべてが同じように尊いからこんなことになる。尊いと思ってしまったから、こんな大きなしっぺ返しがやって来た。

もう何も尊ばない。妻も、恵も、この世界のナニモノも。

甚爾の体から温度という温度が根こそぎ抜き取られていく。その最中、真っ白い手が妻の布団を引っぺがした。

布団だけに飽き足らず、引きちぎる形で入院着が退けられ、見知った乳房と一度開かれ閉じられた手術痕が晒される。──ビキッビキビキッ。近くから聞こえた異音。子供らしい手が血管が浮き出るほどに筋肉質になり、爪は獣を思わせる鋭い鉤爪に文字通り変形したのだ。甚爾が呆気にとられている間にも、爪が一本二本三本、まるで琴の弦を弾くように縫合糸を切っていく。呆気なく開かれた胸。くっつきかけていたものを無理やり開いたせいで妻の顔が苦悶に歪む。遅れて甚爾は子供の体を衝動のままに抑えつけた。肩の一つでも外してやろうか、いや、まずはナースコールを……と考えている間に──ゴキリ。

一瞬の判断で自ら肩を外し、甚爾の拘束から逃れた先で、再び白い手が妻に伸びる。もう殺してやろうかとすら思い至ったその時、巾着の中からコロリとまあるい石っころを取り出して────。


「【ふらっくす】」


灰色が収縮した後、苔生すようにピンク色が盛り上がり、ついには一つの臓器を形成した。心臓。

あとコンマ数秒遅ければ甚爾は従姉妹の頭を握り潰していただろう。けれど今は、口を半開きにしながら妻の胸の中に得体の知れない肉塊が沈み込んでいくのを見るしかなかった。尊ばれるべき命に、命と呼ぶにはお粗末すぎる異物が埋め込まれ、完全に姿を消した後、傷痕がピッタリと閉じていく。残ったのは椅子を蹴倒したまま立ち尽くす甚爾と、妻の足元のベッドに猫のように寝転ぶ従姉妹。メトロノームさながらに正確な拍動を伝えてくる機械音。白昼夢か何かを見たと錯覚しかけ、堪らず甚爾は子供をベッドから引きずり下ろした。


「なんのつもりだ」
「しんぞほしい、ちがう?」


違わない。

違わないから、恐ろしい。欲しいものを手に入れたところで結局手のひらからすり抜けていく甚爾には、嘘をついた子供が今この時になって現れたのが訳が分からなくて、恐ろしくて、忌々しくて、恐ろしい。


「言え。何が目的だ。金か?」
「う、家族」
「家族ぅ?」


せっかく助かった命を差し出せと?

不穏な思考に陥りかけたその時、寝転んだままの従姉妹が甚爾に人差し指を突きつける。


「ぜぇいん、家族ちがう」

「ぜぇいん、ちがう」

「とーじ、家族」


家族、家族と繰り返す従姉妹は白い髪に埋もれて顔が見えない。隙間から覗く翠色だけがゆるりと細まって、感情という色を徐々に塗り込めていく。脈絡のない訪問。短い単語の連なり。視線から、甚爾が奇跡的に分かったことがひとつだけ。

従姉妹は禪院に愛想を尽かして逃げたわけではない。家族である甚爾が命じたから逃げた。けれど家族であるはずの甚爾が『禪院は他人だ』と言ったせいで指揮系統が崩壊し、一人この世を彷徨ったのだ。従姉妹が姿を現したのは、甚爾が禪院でなくなったから。伏黒甚爾という禪院ではない男になったから、従姉妹は家族を頼って遥々やって来た。見すぼらしい服を着て、裸足で、伸びっぱなしの髪をしていようと、白い肌は清潔で健康的な質感を保っている。一人で生きる術を知っている人間のクセに、甚爾を探して、辿り着いた。

人形なんだか人間なんだか分からない。やはり未知の生物だと甚爾は呆れた。


「とーじ、どこいく、いい?」


コイツ、笑えたんだな。

実感した途端に、得体の知れない生命体は確かに甚爾の家族となった。元々妻に得体の知れない術を施した時点で処遇は決まっていた。呪力ではない別の力を持つと聞いた。ならば腕の良い術師に見せたところで妻の体が元に戻るとは考えにくい。ここで追い返したとして、持病が再発すればまた探すことになる。最悪、従姉妹が死んで術が解ければ、妻がどうなるか分かったものじゃない。

いくつも理由を並べ立て、甚爾はため息をついた。



「うちに来い、クソガキ」



この日から、従姉妹の名字は伏黒になった。




***




生まれ変わった現実を受け止めるのに四年の歳月が必要だった。

受け止めた後に待っていたのは言葉の違い。前世と人種が違う。文化が違う。勝手が違う。何もかも違う中、同じなのは家族のために生きること。

家を存続させる。家の一部として動く。

禪院という家はゾルディックよりも人が多く、その分仲間意識が歪んでいる。人が増えればまとまりが上手くいかないのは仕方ないことだが、それにしたって子供に対する教育が雑だと思った。

この家は古くからジュレェと呼ばれる害獣の駆除を専門に行っているらしい。暗殺術とは違う体捌きと術が必要であり、子供のうちから訓練漬けの毎日。最初こそ懐かしい気持ちで取り組んでいたが、だんだん戸惑う機会が増えた。普通の食事に毒が混じっていない。電気椅子の訓練がない。水責めは、暗中模索は、念の修行は。

ジュレェの駆除も上手くいかない。常時凝をした状態でしか見えないために、精孔が開きたての体には負担だった。個々に形態が違うために急所が分かりにくく、とどめを刺すまでにいつも不要な傷を負ってしまう。人間相手とは勝手が違うとしても、己の有用性に揺らぎが出る。実際、禪院からの評価はあまり良いものではない。言葉が分からずとも叱責や侮りは肌で感じていた。それでも無言で頷くしかない。

命令されているうちは従う。

それが名前の存在意義だった。


『逃げちまえよ』


だから、命令に従った。


「オマエ、この三年どこで何してたんだよ」
「う?」


慣れない手つきで髪を結うトージ。ママ(と呼べと命令された)に言われて長すぎる髪を邪魔にならないようにいじっている。膝までの黒髪にピンクの安っぽいラメ入りゴムがつけられ、頭皮の違和感が増す。きっとどこかで絡まっているのだろう。

高さも量も違う雑な二つ結びのまま、名前はママのところまで走っていく。お遊びのようなとてとて走りの方がママ好みの可愛らしい娘だろう。赤ん坊の指遊びに付き合っていたママは、それはそれはおかしそうに名前に笑いかけた。


「パパ、下手くそじゃん」
「うっせ」


ぬるい。空気が全てぬるま湯に取って代わったような温度。今の“勝手が違う”は、前のよりはなんとなくマシな気がした。

初めてちゃんとした布団に寝た。初めて手作りオムライスを食べた。初めて誰かとお風呂に入った。初めて四六時中他人と生活を共にした。

初めて尽くしの狭いアパートの中で、一番不思議な目をするのがトージだった。名前の反応をどことなく伺っているようで、命令も何も一切口に出さない。それが不思議で不思議で仕方なく、同じ色の目を向ければ髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回される。そんな毎日だった。

「やり直す」と言うトージの手をすり抜け、狭いアパートで追いかけっこが始まった。お互いに床を踏み抜かないよう力加減をした児戯に、ママはたいそうお気に召したようだ。しかし布団に寝かせられた赤子はその限りではなく、「ふにゃ、」とぐずり始めたところで二人は再び元の位置に戻った。


「で、さっきの答えは」
「う?」
「とぼけんな。ガキ一人でどうやって飯食ってたんだよ」
「がんばった」
「まえ なに した?」
「んー……、I got a job from the man who speak language I can understand.」
「うおっ」


先ほどの強気な態度とは打って変わってトージは怯んだ。ジャポン人は何故ジャポン語以外で話しかけると怯えるのだろう。

珍しく目が泳ぐトージに、何語なら通じるか首を捻る名前。正解はジャポン語一択だと誰も教えてくれない。手慰みに黒い髪からゴムが抜き取られる。解放感に包まれた頭皮は再びトージの手によって窮屈にまとめられた。


「経歴テキトーにでっち上げて来年中学に通えるようにしてやったんだ。金くらい工面しろや」
「ん? ん」
「分かんねーのに頷くなよ」


それがトージなりの減らず口だと知らず。

名前が隠し場所から持ってきた札束7つが、驚異的な運によって馬と艇と玉に全部消えるとは思ってもみなかった。


「名前、ここは怒るところだよ」
「【金返せ】」
「その顔キレてるのか?」



血で血を洗う親子喧嘩、勃発。



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