シオシオ滞在



ほんの四年前まで、空閑遊真にとって空閑ルエラは謎の妹だった。

ルエラは生まれつき難解な言語を操っていた。発音もイントネーションも耳慣れないそれらは父有吾が教えたわけではなく、そもそも有吾すら知らない異国語であった。顔も覚えていない母の記憶を引き継いでいるのでは、と仮説を立てても、母が習得していた言語や過去に行った惑星国家など知りようもない。妹はいつまで経っても謎の妹だ。トリオンがなければ家族であっても相互理解は難しかっただろう。

有吾や遊真とは違うルエラの真っ白い髪。櫛を通さずともサラサラと靡く絹のような髪は幼い遊真にはいいおもちゃだった。生まれてから四つまで一切言葉をしゃべらなかった女児は、そんな時だけは鬱陶しそうにイヤイヤ首を振ったものだ。


『どっちが兄か分かったもんじゃなかったな』
『うるさいやい』


たまに思い出話として有吾が語って聞かせるたび、遊真はツンとそっぽを向いた。妹は言葉が通じるようになっても無感動で無情な態度を取る。それでも有吾の言うことを真面目に聞き、遊真の言うことも少しだけ聞いた。

上下関係を叩きこまれた兵士のようだと知らない他人に言われたこともあった。ルエラは遊真の妹なのに、まるでトリオン兵のようだと。遊真はムキになって有吾と反対のことを言い、妹は忠実に有吾に従った。遊真が面白くないと思うのも仕方がないことだろう。


『ルエラはおれのことなんかどうでもいいんだ』
《それは早計というものだユーマ》
『ソーケーってなんだよ。ジジツだろ』
《確かめてみるといい。ルエラがユーマの意見を選ばなかったことと無関心であることはイコールではない》
『簡単に言ってくれるよな、レプリカは』


確かめるってどうやるんだよ。

3の口でこぼす遊真は、次の惑星国家に移動した時に妹の本質を垣間見ることになる。

次に訪れた惑星国家も例によって紛争地域のため、三人旅は人目につかず粛々と行われる。レーダーに引っかからないボーダーを見極めて歩いていた。

乾いた風と踏み荒らされた荒野ばかりの殺風景な星。単純な戦力のぶつかり合いならば戦争をするにはうってつけなのだろう。習いたての戦術をああだこうだと反芻していた九歳の遊真は完全に足元が疎かになっていた。

こんななんにもない荒野に不発トラップが残っているなんて思いも寄らなかった。

『あっ』という間に発光し始める足元。飛び退ったところでもう避けようがない。

子供でも体力以上の動きができるため、徒歩での旅はトリオン体に換装して行われる。今の遊真もまたトリオン体であり、ここで足を取られたところで生身の肉体にダメージが入ることはない。

とはいえこの衝撃で足が吹き飛ぶことは確実だ。トリオン回復を待ってから移動を再開するか、生身のまま有吾に抱えられての移動になってしまう。これは有吾に怒られるだろうと覚悟を決めたその時、────ひゅんっ。

風か弾丸かと勘違いしてしまうほどの素早さで、白い塊が、ルエラが飛び出してきて、遊真の体を突き飛ばした。直後、眩い閃光と共に当時七歳の妹の右腕がおもちゃのように宙を舞った。


『お、まえ、なにを』
『ユーマ』


失った右腕をそのままに、左手でペタペタペタ。遊真の顔の砂埃をはらい傷の有無を確認する。今まで何度だって有吾の訓練で怪我を負ってきた。首を飛ばされたこともある。足の一本や二本を失ったところで今さらだ。五体満足で尻餅をついたまま、呆れをこぼそうとした口はいつまで経っても意味のない音しか呟かない。


『じゃれあいは後にしろ。今ので見張りが寄ってくるかもしれん』
『じゃ、じゃれてなんか!』
『ルエラ』


問答無用で有吾の片腕に収まったルエラ。無表情ながら声音だけは不服そうに『歩ける』と主張しても、『片腕で今まで通りの速度を保てるか?』の一言で静かになった。


『遊真は注意力散漫、ルエラは後先考えない自己犠牲。おまえら学ぶべきことがたくさんあるな』


片腕を失くした子供を抱えて言うセリフだ。遊真はポカンとした口のまま、ぼんやり顔のルエラを見上げる。ちょうど見つめ合う形になった目は遊真とおんなじ緋色をしている。自分の幼少期のような顔で、まだ遊真の体調を観察しているらしい。


『助けなくても良かったのに』
『そう』


ふてくされる兄とどうでも良さそうな妹。有吾の急かす声だけが元気に響いていた。

このように、遊真とルエラは初めから仲の良い兄妹ではなかった。有吾を軸に上手く回る歪な家族。ただ血の繋がった兄と妹。それが空閑遊真と空閑ルエラだった。


『親父、こんなになっちゃった』


黒いトリガーを握りしめ、戦場から一人で帰還したあの日までは。



「ルエラはさ、合理的な人間なんだ」


ボーダー玉狛支部の屋上にて。

修からのスカウトを承諾し、ボーダーに入ることを決めた遊真。さあ次は千佳に話に行こうかという段階で修は遊真に尋ねた。「妹と相談しないのか?」と。

修は、迅と遊真が話している間にレプリカから同じ内容を聞かされていた。

遊真の過去。遊真の後悔。遊真の贖罪。

自分の慢心で父親を亡くし、幼い妹の支えにならなければならない責任。十一歳の子供が九歳の子供を守らなければならない現実。いつ死ぬとも分からない体を抱えながら年を取らないトリオン体で生きていかなければならない不安。

きっとお互いで守りあいながら支えてきただろう空閑兄妹。その兄がボーダーに入る一大決心をしたのだ。それを妹への報告なしに決めてしまっていいのだろうか。

せっかく話に乗ってやったというのに生真面目に可否を蒸し返す修。遊真は思わず噴き出した。面倒見の鬼、ここに極まれり。

だからこそ、迅にははぐらかした妹の話をする気になったのだろう。


「合理的なのは、別に好きでそうなんじゃなくて、ただ便利だからそうなんだ」
「便利? 効率的だからってことか?」
「ちょっと違う。……ルエラは生まれつき感情が薄いんだ」


なにが好きでなにが嫌いか。
なにがしたくてなにがしたくないか。
なにが嬉しくてなにが悲しいか。

そういう、人間が持っていて当たり前の感情、趣味趣向、価値基準が驚くほどに薄い。前世暗殺者として生まれ育った成果だと本人は言っていたが、暗殺者でなくなった現在においてそれらは弊害だ。


「たとえばさ、ここにどら焼きとシュークリームがあるとするだろ。オサムはどっちが好きだ?」
「えらく急だな。ぼくは、どら焼きが好きだ」
「おれもどら焼き好きだ。さっき初めて食べて気に入った。それで昔のルエラもきっとどら焼きが好きだと即答する。だって、シュークリームは食べるときにクリームがこぼれやすいからな」
「え、味とかじゃなくか?」
「味の好き嫌いがそもそもないんだ。クリームで服が汚れるリスクがあるからシュークリームは避ける。糖分摂取だけが目的ならきっと砂糖の塊でも噛み砕いているよ」
「好き嫌いが、ない?」
「昔の話だ」


昔。もちろん近界は玄界ほど食文化が発展していないのでたとえでしかないが。幼い妹はなんでも父と兄の言うことを聞き、二人が口を出さなければ合理的な選択をし続けた。

遊真が片足を失うより自分が片腕を失くした方がいいと、合理的な選択をして瞬時に自分を犠牲にしたあの時みたいに。


「好き嫌いも、喜びも悲しみもない。親父やおれが選んだやつをルエラは必ず選ぶ。おれたちがいなければより合理的な方を選ぶ。自分の意志で選べないから、基準をそっちに寄せて無理やり選んでいるんだ。だからルエラが素早く選んだ時はたいてい本人の気持ちはぜんぜんない」


それに有吾は気付いていて、日常的にルエラに選択肢を与えていた。即答は許さず、じっくり考えて自分の気持ちを養えるように。根気強く与え続けた。


「あいつ、ちょっとずつ時間をかけて考えるようになったんだ。悩んでいるってことは、自分の好き嫌いが分かって来たってことだろ」


いい変化だと遊真は思う。
もっともっといい変化が起きてほしいと、切に。

けれど、流石に今回の選択はいけない。遊真がこうと決めたことならばルエラは悩まず追従する。自分の気持ちなんか考えずにボーダーに入ってしまう。それは妹にとって決していい変化とは言えない。


「オサムとチカの手伝いをするのはおれの意志だ。ルエラが反対することは絶対にない。でもおれが相談したら、きっとあいつも追従してくるよ」


だから、言うときはすべて終わった後がいい。

ボーダーに入るのはルエラが悩んだ末に選択した時だけにしてほしい。

幼げな十一歳の面差しに兄の切実な願いを乗せて微笑む。妹とレプリカと三人で生きてきた狭い世界が大きく広がっていく。距離が開いていく。その寂しさが成長に必要な痛みだというのなら、遊真は甘んじて受け入れる。それが、いつ死んでしまうのか分からない兄から妹への罪滅ぼし。

おんなじ顔でどら焼きを貪り、おんなじ顔で林道支部長へお断りの態度を貫いた兄と妹。飄々とした二人の決して一筋縄ではいかない関係性を垣間見た修は押し黙るしかなかった。

麟児と千佳の件といい、一人っ子の自分には分からない何かが兄妹にはあるのだろう。


「分かった。じゃあ今度会う機会があったらぼくに挨拶させてくれ。大事なお兄さんを預かりますって」
「……オサムは本当にキッチリしてるなぁ」


寂しげな表情から一転、いつもの面白がっている悪戯っ子な笑みに戻った遊真。ホッとしたのが表情に出てしまっている修。二人は意気揚々と階段下で待つ千佳の元へと歩みを進めた。








とはいえ、本心では遊真はルエラがボーダーに入ることを期待していた。予期していたと言ってもいい。今は日本語の勉強に集中しているだけで、C級入隊式までには決断するのではないかと。だから、遊真は本人を紹介する前に小南や木崎、烏丸たちに妹のことについてそれとなく根回しをしていたし、玉狛支部の修の隊に入れていつものコンビネーションを発揮しようと目論んでいた。

ボーダー本部に三週間お泊りするとレプリカ越しに妹から連絡が来た昨夜まで。


「ジンさん……」
「ゆ、遊真?」


ゆらりと立ち上がった遊真。冷や汗を流して後退る迅。

それを呆れたように見守る玉狛第一隊の三人。オロオロあせあせ修と千佳。宇佐美は陽太郎を安全な場所に避難させている。普段は和やかな玉狛支部には不似合いの不穏な空気がリビングを支配していた。


「なんで昨日、帰って来た時に言わなかったの? ルエラがボーダー本部にいるって」
「なんのことかな? おれ、昨日は忙しくて、」
「ジンさんにハメられたってルエラが言ってた」
「守秘義務を行使しまァ〜〜す」


この後、「無事なんだよね? 怪我してないよね?」という最低限の安否確認で嘘とも本当ともつかないうっすーい靄が出たことで鬼ごっこが本格化した。未来視がなければボーダーの戦力がゴッソリ削られるところだった。




***




ボーダー生活二週間目。

車椅子から松葉杖に移行したルエラはひょこひょこ廊下を歩いていた。一応トリオン体に換装する許可はもらっているが、武装を自主的に解いていた方が相手側も扱いやすいだろう。

……本当は、既に絶による自己治癒力の増進でかなり本調子に戻っていることは内緒である。負傷していると思わせておいた方が都合がいいので。

気分としては捕虜だ。遊真という人質がある以上、ルエラも大人しくするしかない。


「悪いな、今日は面倒見てやれなくて」
「お構いなく。ヒ、トミさんにもよろしくお伝えください」
「ははは、空閑は相変わらずしっかりしてるなぁ」


スピードを合わせて隣を歩いていた世話係、もとい監視役の東から気の抜けた誉め言葉が降ってくる。


「不便はないか? 右足がそれじゃ大変だよな」
「慣れました」
「そうか? じゃあ、寂しくはないか? お兄さんと離れて暮らしたことはないんだったか」
「ユーマは、私がいなくても友達がいます。心配してません」


最後の方は、もしかしたら少しだけ小さな声になっていたかもしれない。普通の人なら聞き逃すそれを、聞き逃さないのが東である。


「俺が言うのもお門違いかもしれんが、お兄さんは寂しがっているかもしれないぞ」
「なんの誘導ですか?」
「いやいやそんなつもりはないさ」


──本当にユーマが寂しがっているなら何としてでも玉狛支部に行きますよ。

なんて言葉は軽く飲み込む。言えば脱走を警戒して監視が増えそうだ。ただでさえ先日のA級隊員との模擬戦から視線が強まっているのだ。あの時はあえて手を抜くか本気でやるか迷い、スコーピオンを握って四戦目で後者を選択した。実力を隠した場合、後で露見した時に痛くもない腹を探られる面倒さを厭った結果だ。

その結果がこのひょこひょこ歩きの演技であり、東からのよく分からない誘導も警戒レベルが引き上げられた影響だろう。

子供とはいえ捕虜の精神面を本気で心配する大人の良心をルエラは最初から除外している。というかそこまで考える余裕がない。


なにせこの妹、ぶっちゃけ拗ねていた。


本部預かりになってから一週間以上経った今も無表情の下で拗ねに拗ね拗ね拗ねまくっていた。

だって迅にハメられて本部で人質をやっている。そりゃあ最初に警戒区域に侵入したのはこちらだし、迅と敵対していた面々のうち一人に横から攻撃したのもこちら。それらのやらかしを帳消しにするために迅の指示を聞き鬼ごっこをしたわけで。負傷して捕らえられたルエラをあの場で放置するほどボーダーが甘ちゃんだとは思っていなかった。人質として機能することをバラしてしまったのもルエラの落ち度だろう。

あの場で迅の言葉を拒否できるような正当な理由も遊真のためになる選択肢もなく、太刀川と風間となにやら知己の会話を楽しむ迅を無表情で見つめ続けた。迅への好感度は地面にめり込んでいる。ぶっちゃけ迅に対して一番拗ねていたせいで、後から紹介された東への対応が普通になっていると言える。

もしもこの場に兄がいたなら、らしくもない個人的な感情むき出し(でも無表情)のルエラに後方生産者面で涙を流したことだろう。しかし『おれが育てた』とドヤる兄は現在玉狛支部で小南に妹の良さを布教しながらぶんぶんスコーピオンを振り回している。小南に無理やり姉属性を付与する勢い。おまんも姉。これはこれでどうなんだろう。

近界民とはいえクールビューティーな大人っぽい女子中学生に「反抗期かぁ」とほのぼの受け流す東。ツンツンキャラで黒江と被っているという周囲からの評価なんて耳にも入れず、とある作戦室の前までたどり着いた。


「はいはいどうぞ〜」
「東さんお疲れでーす」
「お、おつかれさまです……」
「ああ。冬休み入ったばっかで悪いな。今日はよろしく頼む。……太刀川は?」
「ブースの様子見に行くってつい五分前に飛び出しました」
「五分前っていうかぁ、二十五分前?」
「なるほどなぁ、忍田さん直々の頼みを聞いてなかったと」
「あちゃー。ドンマイ太刀川さん」


A級1位、太刀川隊の作戦室。

冬休みに入った高校生組が平日も詰められるようになり、監視役として九連勤している東にやっと正規の休暇が当てられるようになった。なにせ二宮隊から一人で逃げ切り黒江から七本取った逸材だ。近界に遠征経験がありそれなりの実力もあるnot学生とくれば東しかいない。

その役目から解放された東であったが、親心のようなものも少なからず出てきてしまい、本来なら休日の今日も引き継ぎとして出向いてしまったのだ。


「じゃ、仲良くするんだぞ空閑」
「必要性を感じません」
「国近にゲームでも教えてもらえよ」
「スマブラ久しぶりにやっちゃおっと」
「嫌ですよボコボコにされるじゃないですか」
「じゃあマリパ?」


最後まで保育所に娘を預ける父親面で去っていった東。早速ゲームを漁る国近とちょいちょい人差し指で招いてくる出水に釣られ、ルエラは渋々と作戦室に入った。

そして、


「もっかい! もっかいやる! もっかいやるのぉ!」
「ちょっと柚宇さん! 相手中学生っすよ!」
「やだやだ今のはよそ見してただけだもんちょおっと汗で指が滑ったのわたしまだ本気出してないもーーん!」
「あんたいくつですか!?」


スマブラでボロ勝ちした。

余談だが、前世のルエラは本家の坊ちゃんであるミルキがパンピーにマウンティングするためだけに対戦ゲームの類を仕込まれていた。人生のほぼすべての時間を自室に引きこもっているミルキは接待する気も起きないほど強かった。全力で戦い全力で負け『ミルキさんはお強いですね』と褒め称えるマシーンである。

ゆえに、ルエラの辞書に接待ゲームの文字は存在しない。


「うぉっ、まっ、またまけたぁぁぁ……!」


黄色い悪魔が勇者をバチボコに轢き飛ばす画面に国近が野太い悲鳴を上げた。

コントローラーを握ったまま無表情で画面を見つめるルエラ。もはやそういうマネキンにしか見えないが、本人的には本気でどうでもいいだけだ。遊真や自分の意志ならともかく、強制的に離されている現状がもうストレスで仕方ない。なまじストレスで死ぬような心を持っていないせいでダメージを受けていることが表面化されず、余計に虚無を加速させている。

暴れる国近、動かぬルエラ。どうすっかなぁと出水が額に手を当てた。


「国近先輩も出水先輩も! な、なんで近界民とそんな仲良くできるんですか! おかしくないですか!?」


ここでやっとというべきか、ルエラが訪ねてからずっと壁に張り付いていた男が動き出す。太刀川隊のペッカペカの新入り唯我である。


「いたのか唯我」
「いましたよ!? ボクを影が薄いやつみたいに扱わないでいただきたい!」
「実際影が薄いだろ。ねえ柚宇さん」
「もっかい……もっかいやるぅ……」
「ゾンビになっちまったか」


なにやら騒がしく自己主張を続ける唯我に遠慮なしのヘッドロックをお見舞いする出水。有無も言わせずリスタートを選択し、今度は巨大カメがピンクの悪魔に吸い込まれ呻く国近。無心でボタンを連打しながら、おもむろにルエラは尋ねた。


「憎い相手を庇う理由はなんですか」
「暴力反対! ギブぁあっ!」
「んあ?」


バタンと唯我がソファに倒れ伏す。その残骸を放置して出水が顔を向ける。


「ボーダーの隊員は近界民に恨みがある者が多いと聞きました。実際にユーマは殺されそうになっています。私はボーダー隊員に危害を加えました。殺しこそすれ守る理由はない。でも、」


あの時。

トリオン体の換装を解き、オーラを内側に閉じ込め、呼吸も心臓も止め、あらゆる生きている音を消したまま動き回った。心臓を止めるということは血液が滞留するということで、そうすると酸素が運搬されず、脳はゆっくりと壊死し始める。前世の自分ならいざ知らず、今の体ではやったことがない無茶をした。

慣れない苦しみ。思考に靄がかかり視界もやや不明瞭になっていたため、判断力が著しく低下していた。そんな中だからこそ、ルエラは大人しく伸ばされた腕の中に身を預けた。

腕の持ち主が例の廃駅で殺意を向けて来た少年だと気付いたのは、右足に攻撃が着弾する直前のことだった。

あのまま放っておいたところでルエラは死なない。しかし、時には死んだほうがマシな苦痛というものも世の中には存在する。拷問が最たる例だが、あの痛みも十分に条件を満たしているように思う。

何故、あの少年はルエラを助けたのだろう。


「三輪か……。流石のあいつも女の子を見殺しには、」
「何故だと思いますか、ユーガさん」
「しな、い……」
「………………えっ、ぼ、ボクッ!?」


あの場にいた出水が大真面目に答えてやろうとしたのに、途中であらぬ方へと視線が向けられた。


「近界民が嫌いな人に聞かなければ意味がありません。この場で明確な敵意があるのはユーガさんだけです」
「お、おお」


大人になりきれず子供のままでもいられない。成長期ど真ん中の絶妙なバランスで成り立つ独特の少女性。そのくせ丹念にカッティングされた宝石のような、完成され尽くした凄然さを簡単に持ち出してくる。

東なら受け流せた無意識の威圧感が唯我と出水に襲いかかった。


「どうして?」


こんなに無邪気な質問なのに、二人に答えられるはずがない。

だって、


「そんなの直接三輪くんに聞きなよぉ! それより次次! なんでおしゃべりしながら勝っちゃうのかなあ!? くやじぃ〜〜〜〜!!」

「「「………………」」」


それは、本人にしか分からないデリケートな問題だ。

またまた大真面目に答えてやろうとして遮られた出水。中学生の威圧に当てられて白目をむく唯我。またしても始まった対戦に指を忙しなく動かし始めるルエラ。非現実的な空気が国近の発狂によって一瞬でいつもの太刀川隊に引き戻された。



「あーーーまた吹っ飛ばされたぁーーーー!!」
「技を出すタイミングが分かりやすいです」
「なにそれどのタイミング!? どれどれ!?」
「ボタンを押し込む摩擦音」
「ゲーム関係ないじゃー−ん!!」


結局空気を読まないヤツが最強なんだよなぁ。




***




「おまえ、スコーピオンより弧月の方があってるよ」


両手に弧月と、両手にスコーピオン。

斬り込まれれば受け流し、刺し込めば受け止められる。そういう攻防を一時間は続けている。お互いに本気ではないが、かといって完全な惰性でもない。ただ相手の動きがどこまで伸び行くのか観察しながらコミュニケーションを取っている。

太刀川隊訓練室。忍田直々にお叱りを受けた太刀川が作戦室に戻ってきて、国近ゾンビに捕まる中学生を訓練室に引きずり込むことで救出した。その実A級加古隊の黒江に勝ち越した実力を味見するための自己満足でしかなかったが。その日以降、太刀川隊がルエラの監視をする日はこうして訓練室に引きずり込まれるルーティンが出来上がっていた。

建造物も自然もなにも存在しない仮想空間は、お互いがいればそれでいい戦場に違いなく。薄ら笑いと無表情。何を考えているのか分からない二人組は淡々と体重移動のフェイントと軽々と重い一太刀を加えながら口も動かす。


「長物は結構です。リーチの長さの利点と体術の妨げになる欠点が釣り合っていません」
「だろうな。加えてスコーピオンなら拳や蹴りにブレード生やせて攻撃力アップも狙える。トリガーセットに残しておくのも手だ」


太刀川が大きく弧月を振る。脇が一気にガラ空きになるが、誘ってますと言わんばかりの隙にルエラが食いつくはずもなく、そのまま受け流して体勢を整える。薙ぎ払った後の無防備な胴ではなく、背後に回って首筋にスコーピオンを突き立てた。

刃が皮膚に触れるより早くもう一方の弧月が薄い光のブレードを受け止める。甲高い音ともに刃先にヒビが入った。


「そのまま首吹っ飛ばせよ。いっつも突きばっかじゃねえか。弧月くらいの強度がなきゃまともに防がれるたびに折られるぞ」


それは訓練でオーラを使わないようにしているからだ。オーラで補強すれば弧月以上の強度は出せる。とはいえこれからも実戦以外でオーラを使う予定はないため、スコーピオンの強度に不安があるのはその通りだった。


「つーことで開発室に頼みに行けよ。小太刀くらいの長さまで削ってもらえばちょうどいいだろ」


両手で小太刀のサイズ感を教えてくる太刀川。ルエラはやや怪訝そうに首を傾げた。


「ボーダーは近界民のためにトリガーを開発するんですか?」
「ん? B級に昇格したら加古隊に入るんだろ。A級隊員の要望は出し放題だぜ」
「まだボーダーに入るとは決めてません」
「兄貴が入るのに?」


押し黙る。瞬間、スコーピオンのわずかな隙間に差し込まれたブレードが眉間のちょうど真ん中を貫いた。

戦闘体破損。


「ルエラの弱点は兄貴だな」


生身になって寝転んだルエラ。右足はもう簡単なテーピングで固定されているのみで、松葉杖もそろそろ卒業できる段階に入っていた。

遊真と再会するまであと二日。
ボーダーの入隊式まであと二日だ。

それまでにルエラは決断しなければならない。ボーダーに入るか、このままボーダーの奥底でひっそりと飼われるか。


「ボーダー入っちまえよ。兄貴が楽しんでるのに除け者なんかイヤだろ」
「……ジンさんの予知通りになるのが引っかかる」
「やっぱボーダー入るのやめね?」


このA級1位手のひらくるっくる。

「あいつの予知は一回覆しときたいよなぁ」「うん」大の字で寝転んだままのルエラとすぐそばにしゃがみこんだ太刀川が同時に頷いた。

簡単に言うとこの二人、迅悠一の未来予知に煮え湯を飲まされた同盟だ。

訓練の息が合ったというよりはそっちの方で息がピッタリだったために、ボーダーNo.1アタッカーが直々に近界民の捕虜のリハビリの手伝いをしている。まあ本人はただ好きなように打ち込んでいるだけのつもりだが。おかげでルエラは玄界産トリガーの扱いがこの一週間でかなり上達した。


「ルエラが連携取れるとしたら風間隊か加古隊くらいか?」
「ユー、」
「兄貴の隊は城戸司令が許さないぞ」


知ってたけど? 知ってましたけども?

ほんのりムッと膨れたほっぺを太刀川がつんつん。ぷしゅーと抜けていく空気。いい感じに力も抜けて、やっと床から体を起こした。

いつの間にかボーダーに入る入らないの話がどの隊に入るのか話になっている。自分のペースに乗せることが上手い男だ。

迅はルエラがボーダーに入ることは揺るぎない未来だと確信している。迅を信頼するボーダー上層部も目の前の男も口では腐しつつも拒否しなかった。

近界民を敵視しながらも使える武器は取り込む。心の内ではどうあれ戦力が欲しいのはどこも一緒。大義名分は違くとも戦争は戦争だ。

ルエラが一人で近界へ戻ったところで、どこかの国で傭兵をやりながら遊真の体を治す旅に出るのだろう。どちらにしても戦争に参加することには変わりない。

……同じ戦争なら、遊真と同じ陣営で学ぶべきことが多い玄界にいる方がマシ、か。

それは誰の意志に追従したわけでもなく、合理的な考えの元でもない。ルエラ自身が悩みに悩んで出した答えだ。


「隊員になったらラウンジも使い放題だ。あそこの力うどんは格別だぜ」
「ふむ」


もちろん食べ物に釣られたワケでもない。




「ボーダーに入る」


自立型トリオン兵としてボーダーにバレないために日中はスリープモードになっている豆粒レプリカ、夜中の兄妹の定期報告で本体共々墜落。


《ルエラが、決めたことなら……》



妹の自主性の向上を喜ぶと共に、本当に飯のためじゃないことを祈る炊飯器であった。




***




1月8日、ボーダー隊員正式入隊式。

C級隊員の白い隊服に身を包んだルエラは、三週間ぶりに再会した嵐山隊と廊下を歩いていた。


「歩けるようになったんだな。足の調子はどうだ?」
「問題ありません。あの時は助けてくれてありがとうございました」
「いやぁそれほどでも」
「佐鳥は慌てただけ。救護を手配したのは木虎と綾辻先輩だよ」
「とっきーひどっ!」
「ありがとうございました」
「ええ、まあ。入隊式に間に合って良かったんじゃない」
「お兄さんと一緒に入れて良かったな!」
「……はい」


ほんのりはにかむルエラは年相応の女の子。初めて表情らしい表情を浮かべたことで、嵐山や時枝は静かにホッとした。女の子大好き佐鳥やツンツン木虎は相変わらずだったが、心配していたことは変わりない。

目の前で生身の女の子が負傷したのだ。分かっていたこととはいえ、自分たちが扱うトリガーが人を殺しかねない武器であることを思い出させてくれた。今後仲間になるのだから多少は気にかけるのも仕方ないことだ。


「それから、ミ、ミワさんに会うにはどうすれば良いですか?」
「……三輪?」


100%会わせるべきじゃない男の名前が飛び出してきた。


「助けてもらったお礼をしたいです。それと、カジャマ隊の人にも」
「(カジャマ?)三輪はなぁ、今は都合が悪いかもしれない」
「(カジャマ……)オレたちの方から伝えておこうか?」
「ううん、直接言いたいです」
「カジャ、ん"ん"! 風間隊なら確か今日の防衛任務は入っていなかったはずです。入隊式が終わったら確認してみます」
「よろしくお願いします」


深々頭を下げるルエラ。嵐山隊の面々が無言で視線を交わす。

命の危機とはいえ近界民を庇った三輪の変化に、一番戸惑っているのが本人。そこにルエラをぶつけるのは愉快犯のすることだ。お互いのためにもならないだろう。全力ではぐらかす方向で満場一致した。「さっきカジャマって噛んでたよね? ね?」佐鳥を除いて。

監視の名目で途中まで同行していた嵐山隊と別れ、忍田本部長の目が届く最前列で待機。疎らだった館内にゾロゾロと人が集まってきたあたりで入隊式は始まった。

それから粗方の説明を受け、嵐山のすぐ後ろについていたルエラは遊真がどこにいるのか分からなかった。最後尾にいるのかもしれないし、別のブースに移されたのかもしれない。ボーダーが人質同士を近付けるほど優しい組織かは甚だ疑問だったから。

迅が、遊真とは三週間後に会えると言ったのに……。


「(ジンさんの予知が外れた?)」


スカッとするような、モヤッとするような。

ちなみに遊真は集団の後方で修や木虎の会話に参加していたし、そもそも空閑兄妹がボーダー入りした時点で人質の件が解消されたことをルエラは知らなかった。


「記録、0.5秒」
「記録、0.6秒」

「記録、0.5秒」
「記録、0.4秒」


対仮想近界民の戦闘訓練でキッチリ2回ずつ目立った兄妹である。

1回目と2回目それぞれ全く同じ動き同じリズムで0.5秒を叩き出した妹と、2回目ではさらにタイムを縮めてきた兄。嵐山の計らいか、同じタイミングで訓練のブースから外に出た二人は、周りから称賛の声を浴びながら同じ緋色の目をパチパチパチクリ。


「ユーマ」
「ルエラ」


実に三週間ぶりに再会した遊真とルエラ。

毎晩こっそりレプリカ越しに通話していたとはいえ、こんなに長期間そばにいなかったことはない。近界の惑星国家に、父亡き戦時中の兵舎に、玄界渡航の長い旅路に、三門市の小さなアパートに、いつもお互いの気配があった。それが声だけしか聞けないなんて……こんなに寂しいことはなかった。

困ったように眉を下げる兄と無表情ながら目元に力を入れる妹。まるで運命に惹かれ合う男女のように手に手を取り、二人は幸せなキスをしましたとさ。



「…………へぁ?」
「??????」
「待て待て待て待てッ!!!!」
「あなたたち公衆の面前で何してるのっ!?」



気の抜けた声を漏らした一人っ子修。
無言で首を捻る弟妹持ち烏丸。
思わずマイクを入れたモニタールームの一人っ子諏訪。
真っ赤になって叫ぶ一人っ子木虎。
石化する弟妹持ち嵐山。


三者三様十人十色の阿鼻叫喚な訓練ブースを背景に、空閑兄妹はたっぷり1分間も濃厚なキスシーンをお見舞いし続けた。

レプリカの苦悩が偲ばれる。





人質やってる間は馴れ合わないぞって意思表示であんまり人の名前を呼ばないようにしている妹でした。入隊してからちゃんと呼ぶようになり例の噛み噛み発音が披露されます。お楽しみに。

今回なんか味気ない気がしたのでオマケでなんちゃってBBF風プロフィール。話の展開次第で後々変更する可能性大です。

空閑ルエラ
ポジション:アタッカー
年齢:13歳
誕生日:不明(6月?)
身長:161cm
血液型:不明
星座:不明(うさぎ座?)
職業:中学生
好きなもの:家族、日本の食べ物、訓練
家族:父、兄、レプリカ

トリガーセット
MAIN
 スコーピオン
 弧月(のちに試作:小太刀)
 シールド
 FREE

SUB
 スコーピオン
 アステロイド:拳銃
 シールド
 バッグワーム

スコーピオンは体術中に体から生やす用。トドメ武器として弧月とアステロイド入れてます。というか弧月は太刀川さん用。

トリオン8、攻撃力10、機動9、技術10あたりが高い代わりに指揮1、射程2がかなり低い。特殊戦術4、防御・援護7、トータルで51。

なお念能力が加わると攻撃力、機動、射程、特殊戦術、防御・援護がそれぞれ+5される。トータル76。黒トリガーには及ばない程度の化け物になります。

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