フラフラ散歩



ボーダー本部会議室。

城戸司令から解散が言い渡されたにも関わらず、退室することなく残った大人たちが雁首揃えてすることと言えば悪だくみ。にわかに現れた近界民の少年、突如降って湧いた黒トリガーの存在、加えて旧ボーダー設立の立役者である空閑有吾の名前まで出れば、現状捨て置いてはいられないのがこの面々である。


「近界民が一人ならず二人も」
「“姉”の方もトリガーを持っている可能性は三輪隊の報告で上がっている。生身でビルから飛び降りて生きていられる人間がいてたまるか」
「しかしそちらの方は通常トリガーなのでしょう? “弟”と比べればA級一部隊で事足りるはずです。後回しで良いでしょう」
「──それか、いっそ人質に取りますか?」


唐沢のサラリと物騒な提案に根付と鬼怒田が一瞬押し黙る。


「“姉”の方を先に捕らえ“弟”への交渉材料するのも手では? それとも“姉”を懐柔して“弟”に黒トリガーを渡すよう説得してもらいますか。私としてはこちらの方がやりやすいんですがね」


戦闘面では門外漢とたびたび口にする唐沢だが、時に他の面々が閉口するような血の通わないことを言う。次いで理にかなった妥協案を並べてくるので、流石外務営業のやり口。

人質など前時代的にもほどがある。が、倫理や道徳でどうにかなるような相手ならそもそも侵攻など起こらない。近界民を懐柔するために話し合うよりはよっぽど現実的である。

チラリと上座に視線をやれば、相変わらず表情を凍てつかせた男が伏せていた目を開けた。


「……人質はあくまで最終手段とする。“姉”も黒トリガーを所持している可能性がないとは言い切れない」
「黒トリガー二つを相手取るなど、悪夢にもほどがある」
「まあ、まずは“弟”の方をトップ部隊で対処してからですな」
「どちらにせよ帰還までの数日は様子見ということで」


異議なし。意見がまとまったところで今度こそ大人たちは会議室を後にする。

誰も“姉”が姉ではない事実を知らず、トリガー抜きの生身であろうと脅威になりえる存在というものを予想だにしていなかった。









その頃の“姉”。


「チカ」
「チィクァ」
「チカ」
「チィカ」
「チカ」
「チ、チ、カァ」
「いいよ遊真くん。わたし気にしないから」
「だめだめ。人の名前はちゃんと呼ぶのが礼儀というものだぞ。ほらルエラもう一回」
「ティカ」
「遠のいたな」



日本人の名前に苦しめられていた。




***




前世のルエラは公用語が通じない国でも仕事ができるようにさまざまな言語を習得していた。しかしジャポンという島国に関しては、国内の忍者と仕事が競合してしまうためあまり積極的に依頼を受けてこなかった。ゆえに言語を習得する必要性を感じず、苦手を苦手なまま放置してしまったのだ。

現在はトリオンを舌に乗せトリオン体を送受信機とすることで意思疎通が可能だ。玄界の日本という国でも当たり前に通用するものだが、翻訳云々以前の問題もあった。

ルエラがジャポン語で一番苦手なのは発音。

翻訳機能があっても難しいのが人名である。


「ティカさん」
「どうしたのルエラちゃん」
「……ティカさん、でいいですか?」
「いいよ、かわいいあだ名をありがとう。敬語もいらないから」
「チカ、うちの子をあまり甘やかさないでもらえますか」
「あっ、ご、ごめんなさい」
「む。謝ってほしいわけでは……」


三者三様、今日会ったばかりの空閑兄妹と雨取千佳はお互いの過去を、心境を打ち明けながら交流を深めていく。遊真と千佳は三雲修という共通の知人がいるためスムーズだったが、ルエラは輪をかけて口数が減った。

外交は兄、行動は二人で、が基本な空閑兄妹である。遊真がしゃべればルエラは黙る。けれど今回ばかりはそれを良しとせず、能動的にコミュニケーションを取ろうとしない妹のために兄は積極的にお兄ちゃんをした。

結果はじまったのが“千佳のお名前ちゃんと言えるかな?”。

固い口調が多いルエラが急に幼く年相応に見えるポイント・舌足らず。名前がちゃんと言えなくて口をもごもご困らせるうちの妹かわいいだろ。遊真はわりと不意打ちで兄バカになる。


「それと学校の年上の人は“さん”じゃなく“先輩”ってつけるんだってさ」
「ティカ先輩」
「チカ先輩」
「ティカ先輩」
「定着してしまったか」


やってることはスパルタママだが。


「遊真くんとルエラちゃんは仲良し兄妹だね」
「チカもお兄さんとはこんな感じじゃないのか?」
「兄さんとは年が離れていたし、大人っぽい人だったから」
「ふむ? 家族のスキンシップに大人かどうかは関係ないと思うが。ご家庭によるもんか」


わしゃわしゃと妹の頭をかき混ぜてから丁寧にすいて整える遊真。兄の手に目を細めて懐くルエラは飼い犬のように大人しい。さっきまで冷や汗を出してあわあわしていた千佳は、途端に近界に行ってしまった兄のことを思い出した。──寂しい。

どうして何も言ってくれなかったのだろう。
どうして、私を置いていったんだろう。

しゅん……。心なしか萎びていくアホ毛。目ざとく見つけたルエラは、遊真の手から逃れ千佳の元へと近寄った。ぽふっ。


「ティカ先輩」
「えっ、ええ?」


千佳の頭に置かれた手が遊真の見様見真似で横にスライドされる。下敷きでこするような反復動作は明らかに千佳を慰めているようで、大人っぽい見た目と幼い言動に千佳は目を白黒させた。背の高い後輩の突然のよしよしにされるがまま、どうしようかと悩んでいるうちに、寂しいなんて気持ちはどっかへ行ってしまった。

近界民だという二人への複雑な感情も。


「良かったなチカ。ルエラはよしよしがとっても上手いんだ」
「へ、そ、そうなんだ」


どこに出しても恥ずかしくない兄の欲目。

(遊真くんって……)飄々とした少年の意外な盲目さにビックリ固まる千佳。空気を読まないことにかけてはかなりの実績がある兄妹。最終的に二人がかりで千佳の頭を鳥の巣にし、手櫛でどうにか元通りにする頃にはなんだかんだで仲良くなっていた。









「改めて、同じクラスの友達のオサムだ」
「三雲修だ。よろしく」
「空閑ルエラです。よろしくお願いします。オ、オー、」
「(じー−−−−)」
「オ…………オッサム先輩」(目逸らし)
「やり直し」
「えー」


「オサム」「オーサム先輩」「オサム」「オッ、サム先輩」「オサム」「オッサム先輩」ついさっきまでのやり取りが再燃。兄の大変不満な表情と修の冷や汗、千佳の手に汗握るハラハラ、迅のぬる〜い笑みに見守られ、最終的に「オッサム先輩」で決着する。

某王子が後につけるあだ名を先取りしてしまったことなんて誰も知らない。




***




ボーダー玉狛支部の支部長室にて。有吾の知人だという林道との顔合わせ。そして父の遺した言葉である『ボーダーにいる知り合いに会う』ことが、黒い無機物を目の前に達成不可能であることを悟った。

遊真にとっても、ルエラにとっても、もはや玄界に用はない。


「「お断りします」」


ボーダーに入隊する意味も、もちろん。



「十時までに帰宅する」
「いろいろと気を付けるように」
「了解」


夕飯をご馳走すると言ってくれた宇佐美(ウーサー先輩)の誘いを丁重に断りつつ、ルエラはひとり玉狛支部を後にした。三輪隊との衝突や千佳との交流、玉狛支部での一幕があったせいで忘れていたが、ルエラは荷物を三門大の図書館に置いてきてしまっている。


《どうして食事を断ったんだ? ジンも引き留めていただろう。ユーマと一緒にいれば良かったのではないか》
「うん」


たったったっ。軽い調子で歩いているようで小走りと同じくらいの速度の女子中学生。夕方の時間とはいえ外はすっかり夜の様相だ。豆粒レプリカの問いかけに、そろそろ打ち明ける頃合いだろうか。


「ユーマは私の兄だ」
《うむ》
「私がいなければ、ユーマはユーマだ」
《つまり?》
「ユーマ個人として考える時間が必要」


遊真はいまだに父を黒トリガーにしてしまったことについて負い目に思っているフシがある。ルエラが前世の話をしたのは、遊真に気楽になってほしかったからだ。前世分の成熟した記憶が詰まっているので、子供のように親恋しさで泣くことはない。だから自分のことを優先して考えてくれと。……結果は思わしくなかったが。

兄として、親代わりとしての役割を甘んじて引き受ける遊真は、きっとこの後ルエラの故郷を探す目的に付き合うつもりなのだろう。だって遊真の目的はなくなってしまったのだから。必然的に妹の目的が最重要事項に繰り上げられる。

けれど、それはルエラにとっては歓迎できない事態だ。


「私は、前の故郷に行くことは現実的ではないと考えている」


玄界に来る前と少々事情が変わってしまったのだ。

有吾は言った。玄界はトリオン以外・・のエネルギーで文明を築き広大な星に幾億もの人間が息づいていると。ルエラは勘違いした。トリオンが 存在しない ・・・・・世界こそが玄界なのだと。きっと前世の故郷は近界民からはそのように呼ばれていたのだろうと。

しかし、いざ玄界に降り立ってみれば当たり前にトリオン器官を生まれ持つ人間たちの群れで、


近界民と同じように、誰もオーラを持っていなかった。


トリオンはオーラに似た生命エネルギーだ。オーラを目に集めた凝や周囲に薄く伸ばした円で知覚はできる。それでも噴き出す場所は全身の精孔ではなく心臓横のトリオン器官。似ているだけで、所詮は別物なのだ。

生まれつきオーラを持っているルエラが異端であり、この世界にはそもそもオーラが存在しない。人間の体の構造が違う別時空、──異世界。きっとどれだけ惑星国家を渡り歩こうとたどり着けることはない。

自然に、冷静に、機械的に。事実は事実として受け入れたルエラは、前の世界に行くことを諦めた。玄界に降り立って一日目の出来事だ。

ルエラの目的はとっくになくなっていたのだ。


「前世の故郷に行きたかったのは本当だが、ユーマを蔑ろにしてまで行きたいとは思わない。あくまでユーマの迷いを失くすために開示したんだ。ユーマは兄である自負を重要視しているから、私が玄界に行く理由がなければここまで来なかっただろう」
《肯定する。ユーマはルエラと目的が合致していなければ玄界渡航に至るまでの危険は冒さなかった。年長者としての責任も、ユーゴを失った責任も痛感している》


武器になった父。
肉体がほとんど死んでいる兄。

健常なまま生き残ってしまった妹は、いつか一人で生きていかなければならない。残された時間を妹のために使いたいというのが遊真の本心で、ゆえに自分のことを後回しにしてしまう。今日の千佳との交流を促したのもその一環だろう。


《故郷を探す目的がなくなったこと、ルエラ抜きでユーマの今後を考えてほしい意図は理解した。だが、ユーマと距離を置くことは推奨しない。まずは話し合いで玄界に残るか近界に帰るか決めれば良いのでは?》
「……? それとこれとは別問題だ」
《?》
「私はユーマに玄界にいてほしい」


もにゃり。柔らかい唇が不格好に崩れる。



「ユーマに、友達と、仲良くしてほしい」



友達。なんと口にし難い言葉だろう。

殺し屋に友達はいらない。仕事の邪魔になるから、家族以外の人間に情を傾ければいつか足元をすくわれるから。けれど遊真は殺し屋ではないし、ルエラだってもう前世の名前を名乗れない。

キルアは友達を得て自分の弱さを自覚した。弱くなって、笑って泣いて、普通の人間のようになって、強くなった。最終的に強くなったのならその変化はきっと“良いこと”なのだろう。


「私がここに用がないと知れば、遊真は近界に帰るだろう。せっかく友達ができて楽しそうなのに、私が邪魔をしてしまう」


──遊真にも、良い変化が訪れてほしいと思う。

靡く白い髪を見つめて、振り返った瞳が瑠璃色じゃないことを知って、前世の幻から現実に引き戻される。そんな日々はそろそろ終わりにするべきだ。

友達に足元をすくわれるようならルエラが助けてやればいい。


《……私はルエラも友達を作るべきだと思うぞ》
「うん、強くなる」
《会話の繋がりが不明瞭だ》


弱いままだと友達も作れない。
それがルエラなりのケジメだ。

とはいえ、玄界に用がないのは本当なので、遊真がルエラ以外の理由で近界に帰るというならやぶさかではない。兄の決定に妹は従うまでだ。

ぽつぽつと街灯が灯り始めた道を通り、三門大の敷地に足を踏み入れる。まばらに出てくる学生たちの奇異の視線を全スルーし、慣れたように図書館の中へと進んだ。

放置された本たちの牙城。開きっぱなしになっている学校指定の肩掛けカバン。財布は入れたまま置いてきてしまったが、果たして残っているだろうか。

足音を消さないように注意しながら席に近付き、あらかじめ感じ取っていた向かいの席の男をチラリと見る。ノートパソコンに向けられてた目が鋭くルエラを射抜いた。


「おまえが諏訪さんの言っていたガキか」
「スワ?」
「知り合いじゃないのか。堂々とした置引だな」


スワ……?

本気で分からないルエラだったが、何故だか目の前の男から不穏な空気を感じる。泥棒と勘違いされているらしい。

スワという名前は知らないが、この図書館で知っているのは司書ともう一人しかいない。


「金髪の煙草中毒?」
「知っているじゃねえか。紛らわしい」


パタンと閉じられたノートパソコン。次いでカバンから取り出されたのは赤いパッケージでお馴染みのパキポキ鳴るチョコ菓子だ。


「不用心に荷物を置いて行くな。大した額じゃなくとも盗む人間はごまんといる」
「ずっと見ていたんですか?」
「レポートのついでだ」


差し出されたお菓子を両手で受け取ると、もう用はないと言わんばかりに男は席を立った。

レポートが終わっても居残っていたらのだから、ずっと見てたと言えばいいのに。

去っていく茶色の後頭部を見送ってから一応カバンを確認する。財布の中身に金額の誤差はなく、他に無くなったものも見受けられない。これは男に感謝すべきだろうか。

それにしても。


「レプリカ」
《どうした》
「三十万円は、大した額ではないのか?」
《物価を鑑みるに大金の部類だ》
「ならあの男の金銭感覚がおかしいのか」


イヤイヤ子供の財布に三十万入ってるとは思わないだろう。

と、訂正できるほどレプリカも玄界に詳しくはないので、《その可能性もあるな》と曖昧に肯定しておいた。冤罪。

それからキリの良いところまで読書を再開し、閉館時間とともに帰宅した。



「ルエラ、おれボーダーに入ることにしたよ。オサムとチカの手伝いをする」
「そう」
「ルエラは?」
「……もう少し勉強する」
「ふーん。そっか」


レプリカが何かを言ったのか。それとも妹に関して遊真も何かしら思うところがあるのか、それっきり。静かな空間にチョコ菓子がパキポキ鳴る音だけが響いていた。


………………。
……………………。
……………………………………。


「本を読みすぎると目が悪くなるってほんとかな」
「視覚調節機能が不具合を起こす。適切な距離を保てば問題ない」
「へー。あんまり馴染みがないよな。あっちで本って言ったらそこそこ貴重だし」
「学校が始まったら馴染む」
「授業はオサムに任せよう」
「適材適所」
「それだ」


まあ気まずくなることはこの兄妹に限ってありえないので、チョコ味のチューを済ませて、長かった一日を終えたのだ。


《口腔内のケアを忘れているぞ、ルエラ。ルエラ? ……ユーマ》
「いいじゃん寝かせておこうぜ」
《ユーマ!》




***




「これなんて読むんですか?」
「万葉集で日本語の勉強をするやつがあるか」


原型から学んだ方がいいと思った、などと供述しており。

次の日も当たり前に図書館にやって来たルエラは、もう会わないと思っていた金銭感覚がバグっている男が館内にいることに気が付いた。目の前の席にいるわけではない。いつもの特等席からは死角になる席にノートパソコンを持ち込んでなにやら書き物をしている。ここの学生なのだろうか。

最初は存在を認識しているだけで特に気にしていなかった。いつも通り目についた本を取り、いつも通りの特等席に陣取る。ノートとペンを取り出して書き取りの練習を始めようとした。……が、首筋に微弱な電撃が走った。

一人、あからさまな視線を向けている人間がいる。

間違えようもない。これは監視の目だ。

意識すると、後方の衝立がある自習スペースの一人席からこちら向きに座る人間が確認できた。教材に向き合っているフリをしながらルエラの一挙手一投足を注視している。すると芋づる式に最初に気付いた男の方もただキーボードを叩いているだけではないことが分かった。定期的に文献を持ち上げ、文字を負う動作をしながらこちらを見ている。

ボーダーだ。昨日存在が明らかになったばかりのルエラにもう監視を付けたらしい。

「ふーん」と目を細めたのは一瞬。ポケットの中でごそごそ動く豆粒レプリカをひと撫でし、改めて本に向き合った。

向こうから仕掛けてくるなら全力で逃げるなりなんなりする。ないのなら普段通りに過ごすまでだ。


「おはようございます」
「……なんだ」
「質問があります」


ただ、見物料は取ってもいいのではないかとは思う。

本を広げて意味を尋ねるとものすごく解せないという顔をされた。それなりに解説してくれたので良しとしよう。

昨日は関わり合いになりたくないと言わんばかりの雑さだったのに対し、今日は質問すれば答えてくれる男をルエラは利用することにした。頻繁にではないがどうしても分からない言葉があれば席を立って話しかけに行く。すると教材選びからして間違えていた事実にようやく至ったのだ。

どうりで想像の倍難しいと思った。古ければ良いということではないらしい。

比較的現代語に近い近代文学の棚を紹介され、順調に文字の勉強は進んだ。結局男はお昼過ぎまで居座り、いつの間にか別の人間と交代していた。監視する人員はそれなりにいるらしい。自習スペースの人物も途中から変わっていたし。そちらは不用意に話しかけるべきではないだろう。

そもそも、一度とはいえ面識のある男をルエラの監視につかせるのは感心しない。ボーダーは素人の集まりなのか。


「魚と肴の違いが分かりません」
「前者は海や川を泳ぐあの魚。後者は酒を飲むときに一緒に食べるツマミだ。同じ音の理由は知らん」
「へえ。ありがとうございます」
「辞書を引けば載っていることだろう。先にそっちで調べろ」
「はぁい」


自力で調べろと言うわりに教えてくれる。律儀なのか生真面目なのか。

でもスワにお礼として煙草型のチョコを渡してほしいと頼んだら目の前で開けて食われてしまったので多分律儀ではない。ちなみに図書館の出入り口での事件だ。

こうして三日ほど経った帰り道。当たり前に尾行されているのを肌で感じながら、警戒区域の有刺鉄線の前にたどり着いた。

警戒区域の中の建物は皆四年半前に捨てられた廃墟だ。とくに住宅街は住民たちが着の身着のまま避難した名残か、潰れた車や自転車、割れた窓ガラスの奥には埃を被った家具が見える。ボーダー本部はこの廃墟の群れの真ん中で大きな体を横たえ、驚くほど大量のトリオンを生成している。

ボーダー隊員に監視されているのと同じように、ルエラも毎日ボーダーを監視している。

ここ最近、遠目で様子見しながら考えていること。玄界の防衛を一挙に引き受けているため無駄遣いはしないだろうが、もしもなりふり構わず戦力を注がれた場合、遊真とルエラは生きて逃げられるだろうか。

遊真は玉狛支部で師匠と呼べる人物と出会い、他の隊員とも交流を深めながら充実した日々を送っているらしい。友達である修や千佳とも楽しくやっている、と。その生活がいつまで続くかは本部にかかっている。監視くらいなら想定の範囲内ではあるが、あの箱の中にこの前の三輪隊のような人間がうじゃうじゃいるとすれば黙ってはいないはずだ。むしろすぐにでも排除に動かない方がおかしい。

それか、黒トリガーに尻込みをして静観を決め込んでいるのか。


「………………レプリカ」
《有刺鉄線を超えれば警戒区域内だ。足を踏み入れた瞬間に監視が襲い掛かってくる可能性がある。それでも行くのか》


無人の街から乾いた風が吹きつける。命のいない空気。戦場独特のにおい。

肩掛けカバンを近くのベンチの裏に隠す。どうせ大した額は入っていないのだから、盗られたっていいだろう。走る邪魔になるほうが、よっぽど大したことだ。


「ボーダーから小隊が飛び出してきた。タマコマ支部へまっすぐ向かっている」
《止めるのか》
「様子を見る。隠れていれば問題ない。いい?」
《それはルエラが決めることだ》
「ユーマには内緒ね」
《それは保証しかねる》
「けち」


すぅ────、と。

トリオン体の表面を覆っていたオーラを内側にしまい込む。土に染み入る水のように中へ中へと吸い込ませ、そうして一切がなくなると、もはやルエラはいてもいなくても変わらない存在に成り果てた。

急に立ち呆けた少女を不思議そうに注視していた監視も自分の目を疑った。

何が起こったのか分からない。

少女が立っていた。何の変哲もない中学の制服を着て、立っていた。ただ急に少女が一枚の静止画であるような錯覚を覚えた。まさか、そんな、と目を瞬かせていれば次の瞬間に静止画は蜃気楼となって揺らぎ、消えた。予備動作も足音もなく駆け抜けていったのだと気付いた頃には数秒の時間が経っていたのだ。


「近界民を見失いました。警戒区域に侵入したんじゃないですかね。追いますか」
『いや、一度隊で合流してから追う。その場で待機』
「犬飼了解」


イヌクァイ。覚えられそうにない。

びゅんびゅんびゅんびゅん。完璧な絶と無音の足さばきで疾走しながらちゃっかり話は聞いている地獄耳。聞いていても致命的な日本語の発音のせいで無意味なことに本人もガッカリした。


「レプリカ、聞こえた?」
《残念ながら聞こえなかった》
「監視の名前、い、イ、イナァカイ」
《残念ながら人名には聞こえないな》


いじわるのタイミングまで有吾に似ている。

心なしかいつもより座った目で走り抜ける。ボーダーから来る小隊と正面衝突するのではなく、一定の距離を経由して後ろから回り込むようにする。あくまで様子見なので、接敵する気は微塵もなかった。

夜だ。真夜中とまではいかないが人が出歩く時間ではない。それも廃墟ばかりの警戒区域では小隊の動きが分かりやすい。ボーダー本部側から第三者が追いかけてくることなど想像もしてないのだろう。

小隊が街のド真ん中で停止する。距離を置きすぎてギリギリ視認するしかないが、チラリと見えたのは青色のジャケットが一人。迅だ。

仲間割れだろうか。小隊の人間といくつか口論した後、別部隊が迅と合流。そのまま戦闘に入ってしまった。

別部隊、赤いジャージの三人組が三人ほど連れていったものの、迅の相手は四人いる。いや、狙撃手を入れればもっとだろう。一対七。これはいくらなんでも部が悪いのでは。

迅には遊真が世話になっている恩がある。加えて遊真の体のことや黒トリガーの話まで教えてしまったらしい。その上で味方になってくれるということは真意はどうあれ貴重な人材だ。こんな仲間割れで消えられると遊真が困ってしまう。


『もう少し距離を詰める。戦闘はしない』
《了解した》


100mから徐々に間隔を狭めていく。90、80、70、……50mの段階で、信じられないことが起きた。


『気付かれた』
《なに》


明らかに前衛四人のうちの三人がこちらを気にし始めたのだ。

元とはいえプロの暗殺者。暗闇に紛れ音もなく首をかき切るのなんて朝飯前のストレッチ。だからと言って余裕をぶっこいていたわけもなく、なのに、どうして、どうやって。ルエラの絶は完璧だった。足音を隠すのだって鈍ってはいない。では何故? どうやって? 思考を巡らせるうちに、ふと自身の体の特異性を思い出す。

意思疎通を図るためにトリオン体でいることに慣れ過ぎていた。玄界には近界にはない技術が確立していると聞く。ルエラがオーラでトリオンを知覚するように、向こう側にトリオンを知覚するサイドエフェクトやレーダーがあってもおかしくはない。

気付かれたからには隠密は無意味だろう。


『前言撤回。レプリカ、もしもの時は名前を呼んで』
《何をする気だルエラ。それはま4(「#|>(\・(65☆//》



──トリガー、解除オフ


生身とトリオン体の違いは一見分からない。解除したところで中学の制服を着ていることに変わりなく、生身の時点でルエラは人間離れしているのだから。

足音を消す。当たり前。
衣擦れを消す。当たり前。
呼吸を止める。当たり前。
心臓を止める。当たり前。

あらゆる要素を潰しに潰して、完全に生き物ではない存在になったルエラは50mの距離を詰める。そうして簡単にその人物の懐に入り込んでしまった。

遠距離から追尾するルエラの存在にいち早く気付いたのは、菊地原というこの男だった。


「ルエラッ!」


叫んだのはレプリカではなく迅だ。

何故ならその瞬間は黒トリガー『風刃』を起動した直後。煙のような刃が塀伝いに伸び、菊地原の首をとらえた。

一瞬で再び換装したルエラの貫手がトリオン供給器官を貫くのとほぼ同時に、菊地原の首が落ちた。


『戦闘体活動限界。緊急脱出』


迅が黒トリガーを抜き、過たず前衛一人が脱落。しかもボーダー隊員ではない第三者の参戦。ついに揺らいだ均衡に、一番焦ったのは他でもない迅だった。


「あっぶなー……。危うくルエラごと切るところだったでしょ。急に飛び出してこないで」
「来るのは分かっていました」
「俺が分かっていなかったの!」


未来予知ができるのに?

発動になんらかの条件があるのか。未来予知のサイドエフェクトは思ったより使い勝手が良くないのかもしれない。

首を傾げる中学生の登場に身構えていた太刀川、風間、歌川。菊地原の胸を貫いた瞬間を捉えられたものは生憎とおらず、警戒心が増す中で奈良坂からの通信が入った。


『彼女が先日接触した近界民です』
「これが例の“姉”か」
「攻撃する直前で換装しなかったか今。生身で走って来たのか」
「そんなわけ、」
「あーあーこうなるよね、どうしよっかなぁ」


緊迫するボーダーの小隊に対し、迅は頭痛がすると言わんばかりの苦笑い。


「ルエラ、これからおまえに追手が来るよ」
「うん、い、いー、イーネルカイン」
「どこの国の人?」


両手をブランと下げ、自然体で迅と会話する少女。スコープ越しの奈良坂と古寺は二度目のことだが、初対面の攻撃手三人は隙だらけの近界民に切り込むべきか否か思考を巡らせる。


「今のヤツはおまえより先に俺が首を刎ねたから、俺のせいってことで説明ができる。でも、次やったら俺はお前を庇い切れない」
「ふむ。敵対せずに逃げればいいと?」
「それそれ。できる?」
「できる。ジンさんはひとりでできますか?」
「はじめからそのつもりだよ。じゃ、そういうことで」


迅が視線を向けた先、民家の屋根に降り立った三人組。


「二宮隊、現着した」


黒いスーツを着た男たちがルエラを見下ろしている。特に真ん中の男からの視線は、図書館で見たものよりも鋭く険を帯びていた。


「二宮さんとの鬼ごっこ、よろしく!」
「了解」


この未来は見えていたらしい。

一人消えて、三人増えて、合算で一対九。いや、急に狙撃手らしき人間が一人離脱したため一対八か。さっきより一人敵が増えてしまった。迅一人では捌き切れない。ならば自分が引き連れてきてしまった人間はしっかり引き受けなくては。

迅がトリガーを構え直した瞬間、ルエラは弾かれたようにボーダー本部がある方へ走り出した。

あとは飛んだりしゃがんだり隠れたり。

アサルトライフルから繰り出されるトリオン弾を避けるために飛んだり。

ブレードの軌跡を追うように伸びる斬撃を避けるためにしゃがんだり。

追尾性能のあるキューブを民家の塀や屋根にぶち当てるために隠れたり、だ。

玄界のトリガーを見るのはこれで二度目だが、性能がドシンプルな分使い手の力量が顕著に出る。その点この三人はかなり長く同じ武器を使用していることが伺えた。つまり、厄介だ。

チームプレイに慣れているのは当たり前として、小さい動く的を追い詰めるための作戦がエグい。銃持ちが追い詰めた先に剣士が立っていることなんてザラだし、どちらからも辛くも逃げ切れたところで上から降り注ぐキューブだ。このドシンプルな性能からして他にも別のトリガーを隠し持っている可能性は十分にある。現に先ほどは避けたはずのキューブがこちらに旋回してきたわけで、近くに落ちていた花壇のレンガがなければわりと不味かった。

民家の中に転がりこみソファを盾に絶。体勢を立て直したところですぐに屋根まで駆け上がる。常時絶をしてかくれんぼをする案も確かにあったが、これで目標を見失ったからと迅の方の増援に向かわれたら元も子もない。適度に隠れ、適度に相手をしつつ、また隠れる。いつまでだってやれるのがルエラという人間だ。

迅がいた方向からボーダー本部に向かって流星が二筋。逃げている途中からカウントしていたが、あれが迅と相対していた人間かは分からない。円で探る余裕がなかったため、撤退数で予測するしかない。


「余所見とは余裕だな」


屋根の上で空を見上げるルエラ。

すぐ隣の屋根に降り立つ男。

ポケットに手を突っ込んでの仁王立ちは、不機嫌顔も相まって様になっていた。


「真剣です」
「…………」


真剣に答えたのに眉間にグッとシワを寄せられた。


「おまえが警戒区域内に侵入した時点で捕らえるよう指示されている。弁明は無意味だが理由くらいは聞いておこう。何故ボーダー本部を目指す」
「目指していません。ジンさんと逆方向に逃げただけです」
「白々しい嘘だ。あくまで話さないと言うことか」
「話しました。……鬼ごっこに、会話しなければいけないルールはありましたか?」
「鬼ごっこ、だと?」


「あ」と口にしたのはアサルトライフルを構えた犬飼だった。

追尾するキューブが不規則な線を描いて襲い掛かる。あえてすぐ避けるのではなく近くに来てから最低限の動作で避ける。対策はバッチリできてきたが相手も同じ攻撃を続けるばかりではないだろう。崩壊する足場から逃れ、近場の集合住宅の廊下に降り立てば、やはりというべきか潜んでいた剣士がブレードを振るう。着地の際に状態を捻り、あわや足払いをかけるところで慌てて距離を取る。攻撃してはいけない縛りはわりとストレスだ。

的確に胸と首を狙って振るわれるブレードを間合いを気にしながら避けていく。あまり遠くに行くと今度は銃持ちの援護が入る。さらに距離を取ろうものならキューブが追尾してくるのだろう。

それにしても、迅との距離を取ろうとしたものの、結局後退させられて元居た場所にほとんど戻ってきてしまった。ボーダー本部に近付けたくない意思をひしひしと感じる。

このまま逃げ続けるのもやぶさかではないが、相手の攻勢もこのまま一辺倒ではないだろう。どこで均衡が崩れるか。背中から倒れるように外に身を乗り出し、自由落下の途中で適当な階の廊下に降り立つ。そのまま絶をして部屋の中を通り、ベランダから公園側の広場に飛び降りた。

円をする余裕がなかったため、必死だったために、そこに戦闘が終了したボーダー隊員が残っていることを滞空中に視認した。

ほんの数日前に廃駅で睨みつけられた目と目が合っ、



誘導炸裂弾サラマンダー



鬼ごっこの終わりは唐突に。

上と左右から集合住宅を迂回して降り注ぐ、夥しいキューブの群れ。着地する直前のルエラは背後から迫るゴリ押し数の暴力に対する処理が遅れた。

実を言うと、今のルエラはトリオン体ではない。完全に生身の人間である。

菊地原に絶を見破られた前振りがあり、トリオンに反応するレーダーもしくはサイドエフェクトの可能性に行きついたため、接敵する時は換装し、絶で隠れる時は瞬時に換装を解き、絶を解くタイミングで再び換装する。足音も衣擦れも消し、呼吸も心臓も止め、執拗な切り替えを続けてきた。──絶で身を隠そうとしていた今は、換装を解いている。

その事実を、もちろん三輪は知らない。


「……ッ」


知らないまま、背中にトリオンの塊が迫る近界民の少女に手を伸ばしていた。

吹き飛ばされていない方の右手で腕を引っ掴み、胸に抱き止め、シールドを二重で張り巡らせ、……自分が誰を庇っているのか思い至る。


「…………ぁ」


俺は今、何を?

雨のように降り注ぐ合成弾は流石射手1位。ダブルで張ったシールドにすらヒビが入った。この場で放り出せば近界民の少女のトリオン体を損傷させ無力化することができる。むしろ庇う意味などどこにあるのか。ギッと奥歯を噛みしめたところで、腕の中の体が電気を通したみたいにビクビクと震えた。

そこでようやく。シールドでカバーできなかった少女の足が吹き飛んでいないことに気付く。飛んできた残骸の下に埋れてよく見えないが、ちゃんとくっついている。

隊服を握りしめる小さな拳。
脂汗が浮いた白い顔。
噛みしめた苦悶の表情。

まるで、まるで気絶するほどの痛みと衝撃に耐えているような────、


「ま、まさか……」
「タイムタイム! タァー−ーイム!! なぁんで換装解いてるのかなぁルエラは!!」


珍しく全速力で慌てて駆け寄って来た迅に、その場に生き残っていた嵐山隊も、出水も、合成弾が止み追撃しようと近寄って来た二宮隊も、各々が各々の方法で驚愕を露わにした。


「な、生身で二宮さんの合成弾を……!?」


気絶することなく、悲鳴の一つも上げず、痛みを逃そうと静かに三輪の腕の中で身悶える中学の制服を着た少女。いち早く復活したのは嵐山隊だった。


「あ、綾辻! 救急車! 医者! 110番だ! 今すぐ呼んでくれぇ!!」
『警戒区域内に緊急車両は無理ですよ!』
「落ち着いてください! 110番は警察です!」
「おおおんなのこの肌に傷がががが!!」



冷静な判断ができるとは誰も言っていない。




***




ボーダーのトリガーは一般人に当たった万一に備えて生身への殺傷能力は皆無である。気絶するほどの痛みと衝撃が神経系に走る精神的なダメージが主で、傷一つ残らない安全使用だ。

酷かったのは合成弾の爆撃によって破壊された公園の遊具や街灯による二次災害。吹き飛ばされた鉄の塊がシールドの外に出ていた右足にダメ押しで降り注いだ。

右下肢全体の内出血を伴う打撲。全治二週間。

とっさの判断でオーラを全体の30%纏わせていたため裂傷はなく、大した怪我には至らなかったが、絶の状態で受けていれば軽く潰れていてもおかしくはない。ちなみに“大した”怪我ではない判定はもちろん本人談だ。

ボーダー側からすれば充分に“大した”怪我である。



「【ミカドダイサン中学一年一組の空閑ルエラです】」



包帯でグルグル巻きの右足で車椅子を押されてやって来たルエラは、いつものいい子の自己紹介。薄暗い部屋で悪巧みする大人たちの顔が大なり小なり引き攣った。


「というわけで姉じゃなくて妹ちゃんです。トリガー無しでも戦闘能力バリバリあるけど、この調子じゃしばらく動けないだろうし、どっちかトリオン体じゃないと言葉も通じないんだよね。あ、今空閑ルエラって自己紹介したんだけどね? 換装してない皆さんは分からないよねぇ、尋問も何もないってやつ。どうしよっかなぁ?」


ルエラの負傷で一番焦っていたわりに、ここぞとばかりに交渉材料として使い倒している迅。開き直るしかない状況もあるかもしれないが、ちょっと頼る相手を間違えたかも、と思い始めた。


「兄だけじゃなく妹もボーダーに引き入れろと言いたいのか?」
「なっ、一人ならず二人までも近界民を懐に潜り込ませるなど、正気の沙汰か!?」
「まあまあ話くらい聞いてよ。とりあえずルエラを換装させていい?」
「……一時的に許可しよう」
「ありがとうございまーす! ほいルエラ」
「はぁい」


生身と入れ替えられたトリオン体は当たり前に無傷。それでも無闇に立ち上がらない方が相手を刺激しないだろうと、そのまま車椅子に座り続ける。


「兄の目的は三雲隊員経由で把握している。空閑有吾の知人に会いに来たと。君の目的も兄と一致しているか」
「……、今は違います」
「と言うと?」

「──ユーマに、友達と楽しくしてほしい、です」


今度はもにゃりとすることはなかった。

感情の読めない目が探る目つきの男を見つめ返す。嘘をつこうがつくまいが揺れることはない無音の目。だが、今は嘘をつく必要もなく、本音で話した方が有効的であることも理解していた。


「あちらに戻ればユーマは私のことを優先します。こちらは治安が良く私一人でも大丈夫なので、ユーマは安心して自分のことができます。私は、ユーマには自分の時間が必要だと思います。友達と、仲良くしてほしいです」


拙く、幼い、ありふれた願い。他人に語るには照れが勝る目的を、ルエラは大真面目に言い切った。大人たちの困惑は計り知れないだろう。冷たさと緊張で満たされているはずの会議室にぬるま湯が注がれていく。


「俺からの提案、いいですか」
「なんだ」
「空閑ルエラをボーダー本部に所属させてください」


その空気をブチ破るのが実力派エリートの役目だ。


「兄は玉狛支部に、妹は本部に、それぞれ人質として置く。黒トリガーを持つ兄は妹のために下手な動きはできませんし、逆も然りです。今の話を聞けばどれだけ固い絆があるか分かったでしょ? 十分な抑止力になりますよ」


にわかには信じがたいことだが、ルエラは生身でB級1位二宮隊から逃げ切った実績がある。(実際は生身よりもトリオン体でいる方が時間が長かったが、生身で怪我を負った結果でいい方向に勘違いしてくれたので黙っておく。)

トリガーを取り上げたところで安心できない。むしろ意思疎通の手段を失くしてしまえば対話の道もなくなる。ならば精神的な枷をはじめから嵌めてしまえば良い。迅が言いたいのはそういうことだ。

ボーダーに協力的な姿勢を見せることで遊真の地位を固める。そのための人質ならばルエラに異論はない。

侃侃諤諤の会議は城戸司令の最終決定をもって概ね迅の予想通りに動いた。


「では、今日はありがとうございました」
「待て待て待って帰らないで」


動かないのはルエラだけだ。

会議室を後にした迅とルエラ。車椅子からよっと立ち上がった少女が当たり前に廊下の向こうへ消えようとしたところ、紙一重で捕まり車椅子に戻される。


「ルエラは、今日からここで暮らすの」
「?」


猫ちゃんみたいな目で見つめてもダメだった。首を傾げてももちろんダメ。渋々とトリオン体の換装を解いたところで、迅がゆっくり車椅子を押す。


「遊真のために本部所属になったでしょ。これで同じところに帰ったら玉狛にベッタリなんじゃないかって疑われるよ」
「……つまり、ユーマと離れて暮らせ、と?」
「そ」
「やだぁ」


やっぱり迅を信用したのが間違いだった。

無表情のまま、雰囲気だけは駄々っ子のヤダヤダをするルエラ。言いたいことは理解できるため余計にヤダヤダ言うしかない。

ちなみに豆粒レプリカは怖いくらいに沈黙している。すごく教育的指導のにおいがする。


「遊真が入隊式に来るまでの三週間だって。ね? それまでに怪我治して元気で会お?」
「だって、ユーマは、」


ルエラのオーラを注がないといけないから。
いつ体が限界を迎えるか分からないから。

しゅん……と眉を下げた少女。迅はものすごく気不味い。廊下の向こうまで聞こえていたヤダヤダのせいでこの後太刀川と風間の両名に不名誉な注意を受ける未来が確定しているので、余計にだ。


「遊真とは三週間後に会えるよ。俺のサイドエフェクトがそう言っている」


じぃぃぃっと見上げる目は嘘を許さない目。そんな目に慣れ切ってしまった迅はヘラリと笑い、ルエラは仕方なく車椅子にもたれかかった。


「あと二宮さんからカバン預かってるよ。“財布が入ってるカバンをそのまま置いていくな。二度目だぞ”、だって」
「大した額は入っていないのに?」
「二十八万は大金だよ」



やっぱりあの男の金銭感覚がバグっているんだな。











その後の二週間。生身では治療のために養生し、トリオン体での聞き取りを繰り返した。それからトリガーを用いた戦闘能力を測るとのことで、ボーダーの非公開訓練場にて戦闘が行われた。

相手はA級6位加古隊アタッカー、黒江双葉。

トリガーセットを一つのみに制限した孤月対スコーピオンの戦闘は、10本勝負の内、3対7でルエラが勝利した。


「ねえルエラちゃん。B級に上がったら加古うちの隊に入らない?」





***





二宮匡貴はイライラしていた。

たまたまレポートに必要な文献を借りに図書館までやって来た時だ。慌てた様子の諏訪と鉢合わせ、突然に訳の分からないことを頼まれたのだ。


「あそこの席、白い頭のガキが荷物ほっぽってどっか消えやがった。代わりに見ててやってくれねぇか」
「は、……何故俺がそんなことを、」
「ここでレポートやんだろ。ついでだついで。俺はこれから防衛任務だ。ついでにコイツも渡しといてくれ。任せたぞ二宮!」
「勝手に任せられても、……チッ」


赤いパッケージのチョコ菓子を押し付けて諏訪が走っていく。言い逃げされた二宮は、一時は無視してやろうかと考えた。そもそもカウンターの司書なりに預かってもらえばいい話だ。

ふつふつと湧いてくる苛立ちのまま目的の文献を手に取る。軽く精査して借りていく予定だったが、司書カウンターは空席だった。“席を外しています”がいつ裏返るのか分かったものではない。

司書が帰ってくるまでくらいは座っていてやろう。年長者である諏訪の頼みくらいは聞いてやってもいいか。

渋々と、本が積み上がった席の向かいにドッカリ座る。何をこんなに欲張って取ったのか。軽く表紙を眺めれば、平家物語やら源氏物語やら土佐日記やら更級日記やら。中高の教材として扱われる世間一般で言う古典が無作為に並んでいる。受験勉強のラインナップだ。

諏訪はガキと言っていたが、受験をするような年代ならボーダーの隊員とそう歳は変わらない。白い頭の隊員はパッと思い付かなかったが、もしかするとボーダーの人間かもしれない。

肩掛けカバンが軽く開いていて、中の財布が外からでも見えた。不用心だ。確かに放置して置くには危ない物だろう。

黙々とレポートを進める二宮。粗方終わってしまっても、無意味に誤字脱字や加筆修正を繰り返したのは、彼がそれなりの善性を持っていたからで。


「ずっと見ていたんですか?」


簡単に言うと、親切でやったのに不思議な物を見る目で向けられてイラッとしたわけだ。

諏訪の頼みなど二度と聞かないと心に決めた二宮だったが、その夜城戸司令直々に呼び出され、極秘任務につくことになる。



「(こいつが近界民……)」


近界民の監視だ。

家から図書館までの道のりは辻が、そのまま自習スペースに着席したのを確認し、画面に向き直る。昨日会ったばかりの少女が古典の棚から数冊本を抜き取る。そのまま昨日と同じ席に座り筆記用具とノートを取り出した。下手に動き回られるよりジッとしていてくれる方が監視も楽だ。

白い髪で目元が見えないほど机に噛り付き、何やら文字の書き取りをしている。近界民なら受験も何もないだろうに、何を勉強しているのやら。

その疑問は急に立ち上がって近付いてきた少女自身によって解けることになる。


「……日本語の勉強?」
「外国育ちが長かったもので」


外国は外国でも近界だろう。

古典で日本語を学ぼうとするエキセントリックな子供に近代文学の棚を教えたのが運の尽き。そこからずるずると監視対象の質問に答えるお助けマンになってしまった二宮。


「これは一般的な日本人の名前ですか?」


無表情ながら心なしかキラキラした目で指し示した“銀河鉄道の夜”。キラキラネームでもカムパネルラはないだろう。ないよな?

これでは監視というより懐柔になってしまう。しかし変に突き離すのも違和感があるし……。


「金髪の人にこれ渡してください」
「なんだこれは」
「お礼」


(俺にはないのかよ)と(そういや諏訪さんからなんの音沙汰もなかったな)という苛立ちでココアなシガレットを口に放り込んだのは仕方ない。近界民だと知らずにコイツに付き合う諏訪の気が知れないとも思った。

バリバリ噛み砕く二宮の真顔を無言で見上げる近界民の子供。無表情のくせに目だけは分かりやすい非難でいっぱいだった。










今ならあの程度の非難では済まないだろう。

それとも怯えて碌に見れもしないか。


「すいません、俺がいつまでも集中できなかったせいで捕獲が長引きました。もっと早く拘束できていればこんなことには」
「いやいやスカートであれだけヒラヒラ動かれたら辻ちゃんじゃなくても集中できないって。それを言うならおれが、おれが監視をしっかりしていたら警戒区域まで入られることはなかったんです。すいません」
「いえ、私、わたしは、あの子が隠れた時異様にトリオンが薄くなることに気付いていたんです。まるで、トリガーを解除してるみたいだと思い至ってたのに、ありえないって可能性から排除していました。すいませんでした」

「隊の連携にミスはなかった。……あの近界民を殺しかけたのは俺だ」


二宮隊の作戦室では皆一様に暗い顔を隠しもしない。

近界民とはいえ人を殺しかけたのだ。近界から送られてくるトリオン兵を破壊するのとは訳が違う。同じ見た目の制服を着た少女を追い立て身悶える無抵抗な体に瓦礫が降ってくるあの光景。三輪がシールドで庇わなければ殺していたかもしれない。それか足が潰れて使い物にならなくなっていたか。一生遺る傷が足にできるか。

一歩間違えば殺していたかもしれないというのに、上層部からのお咎めは何もなかった。むしろ任務を遂行したことに対するお褒めの言葉を形だけもらったくらいだ。

鳩原未来が密航した件で二宮隊は近界民と繋がっている嫌疑を一時期かけられていた。今回の徹底した捕獲作戦でその汚名もそそがれたことだろう。

何も間違ったことはしていない。
誰も悪くはない。

──なのに、どうしてこうも腹が立つのだろう。



「……監視任務は今日で終了だ。各自帰宅し英気を養うように。解散」



何故だかココアの風味が欲しくなり、余っていた駄菓子を口に放り込む。思っていた満足感は全くと言っていいほど得られなかった。











「あ、ニーノミャ先輩」
「………………それは俺のことか」
「はい、に、ニニョミャー先輩」
「俺はそんな名前では、……そもそもおまえの先輩になった覚えはない」
「学校で会った年上はすべからく先輩だと聞きました。大学は学校でしょう?」



何を無表情でドヤ顔してるんだこのガキは。

怯えも非難も皆無の子供が、人の名前でミャーミャーミャーミャー鳴くようになったのは三週間後のことだった。



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