白砂青松にて御自愛ください



竈門炭治郎には忘れられない人がいる。

あれは鱗滝の元で剣士になるべく狭霧山を駆け回っていた時のこと。山の中腹に程近い場所で、初めて嗅ぐ匂いに出会った。

幽かな匂いだった。悲しみと、寂しさと、虚しさと。洗濯物の水気を絞るように、無理やり寄せ集めて滲ませた感情。ハッと目を凝らした先に、その人はいた。

頭から雪を被ったような、見事な白髪だった。けれど簪二本で纏められた部分の髪は黒く、歩くたびに纏めきれなかった尻尾がゆらゆらと揺れている。桔梗色の豪奢な着物を着た女性。まるで婚礼のために誂えたかのような目にも鮮やかな盛装だった。

夏真っ盛りで草が生い茂る山肌に、彼女の足音はない。山の自然の一部として当たり前に溶け込みつつ、視覚的にはたいそう浮いている。矛盾を体現した人だった。

矛盾はそれだけではなかった。


「あの! 大丈夫ですか!」


その人は泣いていた。

口を大きく開けて、涙も流さず、嗚咽の一つも漏らさずに、泣いていたのだ。


「何か、不幸なことでもあったんですか? 俺でよければ話を聞きますよ」


刀を持って駆け寄ってきた炭治郎に驚くでもなく、ぎゅうと眉間にシワを寄せ、乾いた眼で瞬き一つ。大きく開いていた口はぴったりと閉じられて、眉間が平らにならされると、さっきまでの迷子の大泣きが嘘のように静かな大人の女性に様変わりする。


「人を探している」


おもむろに返ってきた内容は予想外のこと。父が死んだ時の弟や妹たちと似た匂いをしていたので、てっきり身近な誰かが死んだのかと炭治郎は当たりをつけていたのだ。


「どんな人ですか? 名前は、」
「アイスクリーム」
「あい、す?」
「じゃない。ソルベ」
「そる、」
「じゃなく、ジェラート?」
「????」
「じゃない、かもしれない」


困り顔と真顔。お見合い、同時に同方向へ首傾げ。炭治郎は、女性が片頬を膨らませ徐々に萎んでいく様を呆けて眺めた。


「名前を忘れた。生きてるかも分からない」


なんと。

それは、お人好しの炭治郎にも手に負えない。名前も生死も定かではない人を探し出すなど、無理難題にも程がある。何より、今の炭治郎は自分のことでいっぱいいっぱいだ。鬼にされてしまった禰豆子はここに来てから一度も目を覚まさない。鱗滝の修業は厳しく、身体中に傷をこさえてもまだ足りないのだ。


「亡くなっているかもしれないから、そんなに悲しそうなんですか?」
「悲しい?」


きょとん。

概ね変わらない表情の、瞳だけがまあるく引き絞られる。大きな変化はないのに細かいところでは感情の機微が伺えて、漂ってくる感情の匂いと合わせると、その女性は炭治郎にとってかなり分かりやすい部類に入った。


「悲しい……悲しい……そう、私は、」


何やらぶつぶつと小声で呟いて、女性は急に背を向けた。どうしたのかと動向を見守る炭治郎など忘れたように。なんと女性は、そのまま音もなく元来た道を引き返したではないか。


「え、ええ!? あの、探し人はいいんですか!? 俺、この山に住んでる人のところに厄介になってるんです! 特徴を教えてもらえたらすぐに聞いてきますよ!」
「いい。さようなら」
「あ、ちょっと!」


手を伸ばした瞬間に、女性の姿は消えた。初めからそんな人間などいなかったように。炭治郎が見た白昼夢か、狐や狸に化かされたのかと錯覚するほど。狭霧山はいつもの風景を取り戻していた。


「こんなところで油を売っていたのか」


どれほど立ち尽くしていたのか。木々の間に消えた白黒頭を目を皿にして探していた炭治郎は、いつの間にか背後に立っていた存在に肩を跳ねさせた。


「もうすぐ昼時だ。その前に山下りを終えなければ昼飯は抜きだぞ」
「あ! は、はい! すぐやります今行きます!」


それはまずい。

右手の刀をぎゅっと握り直して駆け出す炭治郎。声の持ち主は呆れたような、それでいて親しみを込めた調子で炭治郎の背を鼓舞した。


「今日の夕飯が鮭大根じゃないからと言って怠けるなよ、義勇!」
「俺は炭治郎です!」


振り返った先には宍色の髪。初対面の時からずっと間違え続ける兄弟子に、炭治郎はいつも通り訂正を入れた。



***



日が昇る。

薄暗かった辺りに光が満ち、絶望の夜は始まりの爽やかな朝へと移り変わる。炭治郎の心中など置き去りにして。

ボロッ。

日光に当たった鬼の腕が容易くただの灰と化す。辛うじて炎柱の腹の穴に栓をしていたソレ。すっかり跡形もなく消えてしまうと、大量の血が地面へと流れ出した。じわじわ、じわじわ。土に染み入るばかりの鈍さは、もう流れるものが少ないことの証左だ。

上弦の参は去った。脅威が過ぎ去ったその場で、一人の人間が生を終えようとしている。


「胸を張って生きろ」


ああ、なんで。
そんな、違う。
なんて穏やかな顔を。
待って。
行かないで。

引き留めたくて、そんなことはできないと分かっていた。

瞬時に己の死を悟り、家族に別れの言葉を遺し、今日初めて共闘したばかりの炭治郎たちにまで激励をする。残された僅かな時間を自分以外の誰かのために使う。この誇り高い柱を前に、涙で濡れた炭治郎が口を挟むことなどどうしてできよう。

潰れた片目。吐き出した血でべっとり汚れた唇。それでもなお柱の誇りは折れず。精悍な面構えは燃え尽きる直前の篝火の如く。血塗れた喉から響いてくる声は、この世の何よりも高潔に炭治郎の耳を打った。

ボロボロと溢れる涙は止まらない。ぼやけたり澄んだりを繰り返す視界。そこでは全てを伝え切った柱が遠くを見ていた。

遠く、どこかに思いを馳せ──幼く、笑った。


「────」


なんと言ったのか、炭治郎には聞き取れなかった。けれど震えた空気は、こぼれた笑みは。その両肩から全ての荷を下ろした一人の青年のものでしかなく。

これが本当に、煉獄杏寿郎の最期なのだと思った。



「杏寿郎さん」



炭治郎の頬に、何かが掠めるまで。

産毛も揺らせないほど、弱々しいばたき。ポロリと残った涙が落ちると同時に、炭治郎の顔すれすれを一匹の蜻蛉が通り過ぎたのだ。

背後から飛んできた一匹は真っ直ぐに炎柱の元へ。血塗れの隊服の膝に留まったかと思うと、瞬きもしない内にコロリと別の物に変化する。

それは、瑠璃色の蜻蛉玉が付いた簪だった。


「名前……?」


掠れた声が呼んだのは女性の名前だった。振り返ろうとした炭治郎よりも早く、嗅いだことのある匂いがすぐ横をすり抜ける。そして目を見開いた。

あの女性だ。狭霧山で涙も流さず泣いていた、そして急に姿を消した女性。

けれど炭治郎が驚いたのはそれだけではない。


「(やっぱり、冨岡さんから香った匂いと同じだ)」


何故、冨岡義勇が彼女と同じ匂いを微かに滲ませていたのだろう。

那田蜘蛛山で。そして柱が一堂に会した本部で。水柱本人の匂いに混じってほんの僅かに他人の匂いが流れてきた違和感。炭治郎はすぐに狭霧山で出会った女性と同じ匂いだと思い至った。けれどどう尋ねていいものか分からず、結局謎は謎のままだった。

その疑問が今、この瞬間に場違いにも膨れ上がったのだ。


「諦めちゃダメ」


しかし。炭治郎の疑問は、女性が無遠慮に炎柱の体を地面に倒したことで一気に吹っ飛ぶ。

名前と呼ばれた女性は、鬼の腕一本分の大穴をじぃと覗き込み、自身の懐をごそごそと漁る。出てきたのは飾り気のない櫛。それをどうする気かと見守る炭治郎は、次の瞬間に己の目を疑う光景を見た。


「ふらっくす」


肉だ。

薄桃色の、独特の光沢を持った肉。血管が浮いたソレは、父と一緒に猪を捌いた時に見たことがある。心の臓。櫛の代わりに白い手のひらに収まった臓物を、あまりにも性急に穴の中へと捩じ込んだのだ。


「な、な、なっ! 何やってんだテメェッ!!」


これに飛びついたのは先ほどからずっと黙っていた伊之助で。急に現れて得体の知れないことをし出した女性を止めようと猪突猛進をしかけた。が、ある距離で体をつんのめらせて立ち止まる。

猪の被り物で顔色は見えないが、剥き出しの上半身が徐々にじんわりと汗をかきだした。炭治郎は、それが冷や汗だと察した。伊之助が近寄ろうとした瞬間に、女性から尋常ではない恐ろしい匂いがしたのだ。

伊之助に見向きもせず、ただ指向性を絞った殺気をぞんざいに放ったのだ。

石のようにカチンコチンに固まった伊之助。その間も女性は懐から様々な物を取り出す。猫の置物。蛙の根付。仔犬の文鎮。蒲公英の柄のお手玉、指に嵌めていた石の指輪、それから、それから。次々と肉に変え炎柱の体内に押し込んで、ある時、ピタリと手を止めた。

炎柱は既に目を閉じ、顔色は血の気がなく青褪めて。彼女が来る前と何も変わらず、色濃い死の匂いが堅強な肉体を覆っている。

女性は、ふと、思いついたような動きで腰に帯びている刀を抜いた。

あっ、と。声を出したのは炭治郎か、伊之助か。

ぷつ、ぷつぷつぷつ。ぱさり。ちょうど白と黒の境目あたりを鋭い刃が通り過ぎ、残ったのは見事な白髪と、手の内に収まる長い黒髪。

女性の命である髪を、彼女は事もなく切り取ったのだ。


「ふらっくす」


何度目かの呪文で、手の内にあった黒髪が生き物のように蠢いて穴の中へ吸い込まれていく。赤い血潮に、白い骨に、滑らかな皮膚に。大量の髪の毛一本一本が人体を構成する一部に変化し、破れた隊服から覗く肌はもともと穴などなかったかのように塞がっていった。

──炎柱の致命傷が消えた。

今度こそ、何も考えられず絶句する炭治郎。未だ固まったままの伊之助。


「ふらっくす」


それが最後の呪文だった。

炎柱の潰れた片目に、残っていたもう一本の簪を押し付ける。緋色の蜻蛉玉はそのままの鮮やかな色を虹彩に残し、ぴったりと空っぽの眼孔に収まった。とうとう、血塗れてボロボロな隊服や細かい傷を除けば、炎柱は最初に会った時と同じ状態にまで戻ってしまったのだ。

炭治郎は動けなかった。炎柱が助かったかもしれない希望で感極まったのも事実だが、それ以上に。


「煉獄の母様が、笑って子供を天国に連れて行くわけない」


女性から香った匂いが、あまりにも恐ろしかったから。



「“ちゃんと待ってて”って、言ったのに」




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