急白、青紫になれない君へ



煉獄杏寿郎には幼馴染がいる。

杏寿郎の三つほどだったか、もっと下だったか。千寿郎よりは年上であることは確かだが、幼馴染の実年齢を思い出すことは杏寿郎にとってはいつまで経っても苦労することだ。


「杏寿郎さ、おひさしぶり」


桔梗名前は、昔から変わった子供であった。


「名前、ちゃんと“さん”は最後まで言うんだ!」
「さ、ん? 杏寿郎、さん?」
「そうだ! 良くできたな!」
「あい」
「はい! だ!」
「はい」


このように、昔から名前は言葉が不自由だ。他の子の何倍もの時間をかけて言葉を覚え、杏寿郎と出会って七年経った今も幼児のような口調をしている。昔など杏寿郎の名すら「Kyojurouきぃおじゅーろぅ」などと奇怪な音を紡いだほどだ。そうすると単語の発音だけでも正確に覚えられたことは大層な成長だと捉えられるだろう。

だが、名前の父君は唯一の実子にして花の呼吸の後継が知恵遅れの娘であったことが大層気に食わなかったらしく、事あるごとに訓練と称して彼女を痛ぶった。

名前は艶のある長い黒髪の手弱女であったが、不思議なことに根元から耳ほどまで雪を被ったように見事な白髪。髪が伸びても変わらず同じ場所で綺麗に分かれた白黒頭だった。

それは父母の先祖にはない特徴であり、父君は母君の不貞を疑って桔梗家は上へ下への大騒ぎだったのだとか。一応は娘の瞳が桔梗家特有の淡い青紫であったことから疑いは晴れたが。父君の娘への嫌悪の土台はその時にできたのだと、口さがない女中が噂しているのを耳にした。

『知恵遅れの白痴が髪色に現れている』白痴とは何かと尋ねた杏寿郎に母は険しい顔で『お前が知る必要のない言葉です』と言った。その意味を知ったのは最近になってからだった。

杏寿郎の言葉は母に名前への哀憐を抱かせるには充分だったらしい。その後、杏寿郎と千寿郎は母に言われるがまま桔梗家へと赴いて名前との交流を深めることになる。


『キョージュローさ、煉獄?』


母が病死し、葬儀が終わってしばらくしたある日。久しぶりに杏寿郎が桔梗家を訪ねると、幼い名前の膝の上に見慣れぬ書物が広げてあった。

彼女の部屋に書が溢れていることはずいぶん前から気付いていた。出会って間もない頃は知恵遅れなだけでなく度々高熱を出して呻くような体の弱い子であった。“七つまでは神の内”とは良く言ったもので、確か七歳になる頃にはそれも落ち着いたが。不完全に生んでしまい父君に叱責されるばかりの我が子を母君は不憫に思ったのだろう。部屋に籠りがちな彼女が退屈しないよう、愛情の証明と言わんばかりに様々な物を買い与えていた。

名前も名前で存外物欲の強い質だったのか、着物も食も興味がないくせに、特定の書と持ち歩ける類の物を殊更たくさん欲しがった。現に今も、十の指それぞれに道端に落ちているような石がついた指輪や刺繍糸を束ねたような輪っかを嵌め、首元には何かの余りのようなボタン数個を紐に通してかけてある。寝間着の懐には猫や犬や鳥などの小動物の小さな置物が忍ばせてあるに違いない。それもまた杏寿郎には目に慣れた違和感だった。

そんないつもの名前を杏寿郎が上から覗き込むと、そこには見たことのない文字の羅列の書と、見慣れた日本語の楷書が二冊。名前は器用に右手と左手の人差し指をそれぞれの書に滑らせて何事かを熟読していた。

この時、杏寿郎は初めて名前が話が不自由なだけで決して知恵遅れではないことを知った。いや、今までとて幼子の喃語を間に挟むだけできちんと知性を持った仕草は感じ取れていたが。それでも異国の言葉を熱心に指で追う様は杏寿郎の想像を大きく飛び越えた。


『煉獄……Purgatorioぷぅがとりお
『ぷぅ、が……何だって?』
『煉獄の、異国の言葉』
『ほう。俺の姓にそのような奇ッ怪な音が当てられるのか!』
『きっかい?』
『可笑しいということだ! して、それがどうかしたのか?』


まろい頬の片方が膨らんで、何事かを懸命に考えているのが見て取れた。右手の人差し指が楷書を撫で、次いで左手の人差し指が異国の書を撫でる。まるで楷書の意味を異国語で調べているようにも取れる触り方が一層奇妙だった。


『死んだ人、神さのところに行く。前に、汚い、焼かれる、火。たましい燃える、綺麗に。神さの国に行ける。その場所、煉獄』
『外海の宗教の話か。あー……神の元に行く前の死者は浄化で燃やされる、と。それはまたすごい試練だな!』
『綺麗になるの、大変、でもみんな、神さのところ行きたい』
『辛くとも耐えねばならぬ、か?』
『あい』


まだ幼い澄まし顔に満足そうな笑みが浮かぶ。ほんの少し、杏寿郎が正しいことを言った時の母に似ていた。もう二度と会うことができない母。名前の顔は正しさを説く母の面差しを醸した。


『ところで、“神さ”とは“神様”と言いたいのか?』
『ま?』
『名前、ちゃんと様まで言うんだ!』
『さま』
『そう、そうだ!』


ついでにあれやこれやと言葉遣いを正すと、名前はまた澄まし顔で一つ一つ口に出してから頷いた。名前に正しい言葉を教えるのはいつからか杏寿郎と千寿郎の役目になっていた。

ひとしきり言葉の練習を終えたその後。薄い青紫がジッと杏寿郎を見つめた。口を開かない名前の空気は儚さすら感じる。生白い肌や神秘的な白黒の髪は浮世離れしており、桔梗という凛とした花を持てば簡単に霞んでしまうような生気の薄さ。杏寿郎はたまに、まだ名前は神の手の内にあるのでは、と不安になる。

そんな幼子が杏寿郎に手を伸ばし、柔く軟く金赤の髪を一房掬った。


『キョージュローさ、煉獄みたい』
「杏寿郎さん、煉獄みたい」


あの時と同じ言葉を、昔より少しだけ成長した時分で再び言うものだから。杏寿郎は否が応でも名前の成長を実感する。


「炎の呼吸、浄めの炎。鬼、きっと神様のとこ、行ける。杏寿郎さん、優しい」


病弱で言葉が不自由な子供が、妹のように思っていた子が、ここまで大きくなったのだ。


「何故、今それを言うんだ」
「思ったこと、思った時、言う」
「そうだな、それは良い心がけだ」


いつ死ぬとも知れない鬼殺隊の人間としては、だ。

父が柱を辞め、自暴自棄になってしまい、独学でどうにか炎の呼吸を極めようと杏寿郎が四苦八苦している最中、わざわざ桔梗家を訪ねた理由。それは、名前が次の最終選別で藤襲山に行くことを母君からの文で知ったからだ。

父君はとうとう、名前をあの藤の檻に放り込むことを決めたらしい。

名前は戦えない人間ではない。病弱な幼い頃から父君の体罰にも等しい訓練を長らく続けてきた。むしろ飲み込みが早く、父君の動きにも付いてこれるほど筋が良い。誰もが──あの父君ですら、呼吸を覚えるのも時間の問題かと期待していたのだ。

だが、名前は花の呼吸を習得できなかった。水は、蛇は、風は、岩は、雷は、音は、炎は、と。父君が伝手を頼って教えようと、型だけを完璧に覚え、体は全く呼吸を使いこなせない。才能がない。無能。なまじ体捌きが異様に良かった期待が落胆に変わる落差が大き過ぎた。父君は完全に名前を後継として見放してしまった。

だからこそ、藤襲山に娘を行かせるのだろう。

杏寿郎ですら、未だ選別を受けるに足るとお墨付きを貰えていないのに。幼い名前があの飢えた鬼の檻に入れられればどうなるか。


“鬼に喰われて死んじまえ。”


暗に死を願われた名前本人は、誰かの習作であろう十把一絡げの日輪刀を眺めていつもの澄まし顔。それでも時たま杏寿郎を見つめる目は変わらず柔らかい。


「いっそ私も、燃やしてほしい」


言われた意味が分からなかった。

まるで懺悔のようにも聞こえる鎮痛な声音。まさかまさかだろう。名前は生まれてこの方、傷付けられるばかりの人生を生きてきた。驚くほどに真っさらで綺麗な手をしている。鬼のように燃やされて然るべき罪などない。炎に浄められたいなどと本気で願うはずがない。


「名前、“燃やしてほしい”では語弊がある。炎の呼吸を使いたいのであれば“燃やしたい”だろう!」


胸を張って、いつも通り。杏寿郎は名前の間違いを訂正した。


「うん、そうね」


名前は繰り返さなかった。

口ずさまなかった。
頷かなかった。

杏寿郎はずっと、そのことが気にかかっている。

後に名前が無事藤襲山から帰還しても、とうとう呼吸を身に付けられないままでも、父君が任務先で亡くなっても、母君が心労がたたって倒れても、名前が一線を退いて後方支援に徹し、顔を見れない日々が続いても。

ずっと、ずっと。



***



『杏寿郎さん、諦めないで』


何故。


『諦めちゃダメ』


何故。


『生きるの』


死に際に、母だけでなく、名前が現れるのだろう。

強い鬼だった。上弦の参だ。百年以上も鬼殺隊が倒せなかった鬼。何人もの柱を屠ってきた鬼を退けた。杏寿郎の命は二百人もの乗客と、隊士三名──四名の命を守るために使われた。情けなくもそれが己の実力で、何より、母が望んだ強き者の最期だ。

もういいだろう。もう、いいはずだ。杏寿郎は満足だった。

満足、だったのに。


『*+々\=$\°:〆×○! 煉獄杏寿郎ッ!』


聞いたことのない言葉が耳を打った。

パリン。軽い音と共に薄氷に閉ざされた湖から杏寿郎は引き上げられた。目が開く。口から空気が入り込み、肺が膨らむ前に全身から痛みが咆哮を上げた。全集中の呼吸をしていない。こんなことは何年もない経験だった。どこだここは。何が起こっている。痛みで整わない呼吸が思考を狂わす。

動かない体をそのままに、両の目・・・でぐるりと辺りを見渡す。そして、今現在いる場所が蟲柱・胡蝶しのぶの蝶屋敷であることに思い至った。

寝台の傍に目を丸めたしのぶが立っていたからだ。


「よくぞ、ご無事に目覚められました」


声を出そうとした。喉が張り付いて仕方ない。

しのぶは丸めた目を元の凪いだ色に戻し、努めて冷静に、奇跡的な生還を果たした柱へ酷なことを告げた。


「まず、ご報告致します。鬼殺隊隊士、桔梗名前は臨時の柱合会議に出廷するため先ほど本部へ連行されていきました。私も今からここを立つところです。煉獄さんは怪我が治り次第、お館様に事情を聞かれることでしょう」
「れん、こう……事情?」
「桔梗名前がこれまで秘匿してきたことについて、です。内容によっては隊律違反として処罰も検討されるかも知れません」



急白きゅうびゃく、桔梗名前殿。

お前はいったい、何者だったのだろう。

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