白磁のふたり
名前の言葉の進歩はゆっくりのんびり亀の歩みだ。
それでも確かに進んではいるわけで。つっかえながらも違和感のない口語をなんとか言えそうな段階にまで突入していた。初歩中の初歩、幼児から童へ脱した程度だとしても、その進歩はかけがえのない努力の賜物である。
そんな名前であっても、未だ解決の糸口が見えない問題があった。
「とみゃーかぎゅー」
人名の発音だ。
「富谷蝸牛? 新種のカタツムリか?」
「とみょーかぎゆ」
「富美代?」
「とみあかぎゅー」
「とみ、とみ……?」
正しい発音ができない。何度も繰り返し訂正されながら練習すればできることは分かっているが、流石に一度しか聞いていないものはどうにもならない。
とみおかぎゆう。
とみぉかぎゆー。
とみぁかぎゅー。
とみょーかぎゅー。
とみゃーかぎゅー?
つまりこういうことだ。
「村田さん、知らない?」
「正式名称を覚えてから訊けよ」
「知らないから、知らない」
サラサラキューティクルだけが妙に存在感を出している黒髪の少年、村田隊士がうんざりと溜め息を吐いた。
村田はこの一年でよく顔を合わせる隊士だ。最終選別の年が名前と同じだから、恐らくは同期である。というか同期だ。村田の方は選別が始まる前に謎の質問を繰り返し歩き回る妖怪白黒頭の存在は覚えていたが、もちろん名前は村田のことを認識していなかった。
なのに村田の発音が正しいのは、もちろん。
『村田』『むぅりゃーた』『村田』『むりゃーた』『村田』『むりゃた』『むーらーた!』『むぅらぁた』『む・ら・た!』『む、ら、た──村田』
村田の面倒見の良さはすごい。名前は素直に感心した。
他の隊士は一度名乗っただけであとは面倒そうに無視するか、もしくは自分が呼ばれたとは気付かずにスルーしてしまう。そして名前もすぐ忘れる。それで任務が滞りなく遂行されるのだから、お互いに大した問題ではないのだろう。鬼を殺すから鬼殺隊なのだ。仲良し鬼狩りサークルではない。
「冨岡は知ってるか、謎のカタツムリ」
「?」
「どんな感情なんだよソレ」
「?」な感情である。
真顔で村田を見つめ返したのは黒髪を一つに縛っている少年。冨岡義勇も同じくここ一年で何度か顔を合わせた隊士で、その実名前と村田の同期なのだが、二人ともそのことを知らない。何故なら義勇が一言も無駄口を叩かないからである。無駄口どころか必要なこともあまり言わない。真顔で“察せ”という理不尽オーラを無自覚に出してる。理不尽オーラに当てられて距離を取る者が続出するとんでもねぇ義勇であった。
……おわかりいただけただろうか。
桔梗名前、もうすぐ十五歳。一年近く前に出会っていた探し人に気付かないままスルーし続けている件について。
「トミーさん、知らない?」
「……」
“俺はトミーではない”という真顔は、初対面から今に至るまで一度として察せられることはなかった。口から声出せ。
***
名前の生活は細々と変わっていく。
母の願いで任務に出ずっぱりということはなくなった。まず文で帰る日程を知らせ、一旦煉獄家で休んでから父のいない日を狙って母が迎えに来る。桔梗家にはたまに鋼鐡塚がやって来て、刀を眺めて満足して帰って行く。そして鎹鴉から任務の催促が来て旅立つ。この繰り返しだ。
家にいる間は杏寿郎と一緒に鍛錬したり、千寿郎に家事の仕方を教わったり、母に任務や杏寿郎のことをせがまれて話したり、それなりに充実した日々を過ごしていた。
時代からして十五歳はそろそろ嫁の貰い手を探し始める年頃だ。婚約者がいたとしても別に不思議ではない。けれど名前の場合、父はあからさまに鱗滝の弟子が相手であることに執着しているし、母は杏寿郎とのアレソレを望んでいることは会話の節々から察せられた。そして極め付けは、名前にとっての結婚適齢期が前世で婚約話が持ち上がった二十代前半と認識していることである。
つまりはこの名前、年頃でありながらのんびりほのぼの何も考えていない。おめでたい名前であった。
そんな名前は今、とある港町を一人歩いている。
任務帰りに少し(念能力者基準で)足を伸ばしたそこは、見慣れぬ意匠の船がいくつか停まっていて独特の雰囲気が漂っている。
名前の生家周りの景観とは違い、夜でも文明の音がそこかしこで鳴り響くその街で何をしたいかと言えば、もちろん。人探し……ならぬお菓子探しである。
名前の懐は温かい。なんと鬼殺隊には給金というものがあり、名前が家に帰らなかった間の給金は桔梗家に支払われていたのだ。
手付かずのまま箪笥に仕舞われていたそこから、母は小遣いと称して幾らか名前に寄越してくる。『無駄遣いはいけませんよ、必要な分だけ使うように』必要じゃない分をどうして使うのだろう、という疑問は横に置いておいて。
名前に必要なものは甘味だ。菓子だ。チョコレートだ。
餡子は美味いが味が独特すぎる。団子は美味いが飯と変わりない。善哉も餡蜜も汁粉も金平糖も霰も煎餅も甘さが足りない。砂糖が足りないのだ砂糖が。
煉瓦造りの倉庫の群れを抜け、人だらけの通りでどこかそれらしき店はないかとキョロキョロする。鬼狩りから菓子狩りに一時転職した名前は、そこで──ふと、ある一点に目を向けて、おや? と足を止めた。
それは、第六感というものだったのかもしれない。
すかさず凝をしたその先の、立ち込めるオーラの群れのさらに先の先に、垂れ流すことなくピッタリとオーラを纏った人間を見つけたのだ。
「【念能力者?】」
まさかまさかだ。
念を覚えていない人間は湯気のようにオーラをチビチビと垂れ流している。この日本に生まれてから今まで、一般人からオーラを無意識に操ってる呼吸の使い手や異能の鬼までが大なり小なりオーラを垂れ流していたのだ。それが、ここに来てしっかりとオーラを垂れ流すことなく纏った人間に遭遇した。
もしかすると、もしかするかもしれない。
瞬時に完璧な絶をし、目にも留まらぬ足運びで人の間を通り過ぎる。誰にも存在を感知させないまま追い越して、ついにその人物の背後にたどり着いた。
纏をした人間は、二人いた。
「こんにちは。はじめまして」
パッと振り向いた幸の薄そうな着物の女と、目つきの鋭い書生服の男。
誰に声をかけられたのかと怪訝そうな顔は、名前の絶が完璧すぎるがゆえの必然だ。なのでいつも通りの緩い絶に戻してやると、戸惑いが鮮やかな警戒の色で塗り替えられた。
「鬼狩り……!」
男が懐から札を取り出す。
念能力者の攻撃がやってくる。そう判断した名前がバックステップで距離を取る。が、男はその札を手放すどころか女に持たせ、自身ももう一枚の札を取り出す。そして、すぅーっと影も形もなくその場で消えてしまったのだ。
「えっ」
えっ?
慌てて辺りを探っても気配がない。匂いもしない。人通りが多すぎるために足音だって判別がつかない。が、ダメ元で円を広げてみると、そろそろとこちらから離れていく二人のオーラをアッサリと感じ取れた。
姿を隠す念能力なのだろうか。いや、凝や円で居場所がバレては意味がないのでは?
名前としてはこの国には珍しい念能力者に話を聞きたかっただけなのだが。何故逃げられるのか。鬼殺隊の隊服を見たそばから逃げられたので、鬼殺隊に嫌な思い出でもあるのかもしれない。
相手がそろそろ静かに歩くので、名前も絶をしてそろそろ着いて行く。だんだんと市街地から人のいない方へと流れて、ついには無人の空き地の真ん中で立ち止まる。
「どうして私たちのことが分かったのでしょう」
「珠世様。原因の究明よりまずは身を隠すのが先決かと」
「そうですね。とにかく荷造りを、」
「何故?」
「え?」
何故逃げる? と、問うつもりだった。
「珠世様、お下がりください!」
また絶を解いて話しかけた名前に対し、今度こそ男は攻撃を仕掛けてきた。
女を後ろに下がらせてから庇うように身を乗り出し、大股でこちらと距離を詰めてくる。そのまま勢いを殺さず、隊服の胸倉を掴んだかと思えば流れるように名前の足を払いに来た。一通り武術というものを習った人間の動きだった。
しかし、名前は首を捻る。
念能力者同士の肉弾戦といえばオーラの攻防力移動が基礎中の基礎。最低限の防御を残して攻撃の拳や蹴りにオーラを乗せるものではないのか。むしろ名前の方が重い蹴りが来ると予想して全体の五割のオーラを足に集中させてしまった。だが、相手の足には最低限の纏をしたオーラ分しか乗っていない。
結果、
「いっ……!?」
男の足の骨は粉々に砕けてしまった。
予想外の痛みに体勢を崩した男。それを見逃さずに、着物の合わせと腕をひっ掴み、背負い投げで一本。地面に倒れた男の腕を一つにまとめてその場に跪かせることに成功した。逃げないよう男の背中に膝で体重をかけ、静止したのを確認して女の方へ目を向ける。
女は着物から生白い腕を剥き出しにし、鋭い爪を添えてこちらの動向を見守っている。悲痛に寄った眉根や僅かに震える手からは何か躊躇のようなものが伺えた。
「愈史郎を離してください。何が目的でこのようなことをするのです」
「もくてき……目的?」
「鬼殺隊の方ならば刀を抜いて然るべきところを、何故拘束だけで済ませたのですか」
話が食い違っていることは、名前でさえ何となく分かった。
「お逃げください珠世様ッ!」
再び暴れ出した男を膝に力を入れることで黙らせ、もう一度女をじっくり凝で観察する。
白い、滑らかな纏だ。まるで陶器の壺のようなぴったりと身体に沿ったオーラ。しかし、目を凝らせば凝らすほど、白いオーラの奥に何かが見え隠れする。白で覆われたその色は、ピンク? いや……赤だ。
赤い、血のような濁ったオーラが限りなく薄められ、白磁のようなオーラによって体内に閉じ込められている。男の方に目を向ければ女よりかなり薄いとはいえ、同じように赤いオーラが揺らいでいた。
粘度を持った赤いオーラ。
血のように濁ったオーラ。
それは、
「……人間、じゃない?」
紛うことなく、鬼のオーラだった。
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