ところにより白雨



「恥知らずの行かず後家がッ!」



名前十四歳。玄関に這い入った瞬間、父親から罵倒を浴びせかけられる。

手紙を受け取ってから五日ほどかけ徒歩で帰ってきた名前。記憶の中にある道を辿ってなんとか帰宅した途端のソレであった。

着流し姿で肩を怒らせる父。まだ草履も脱いでいない隊服姿の名前。一段下から見上げた感想は“ああ、そういえばこういう顔だったな”という呑気なものだ。父越しに見る母は可哀想なほど震えて青褪めているというのに。


「あ、あなた、名前さんは十五にもなっていませんわ。行き遅れと呼ぶには、まだ、」
「黙れッ!」
「は、も、申し訳ありませんっ」


怒気で高まった熱を逃がすように大きな溜息を吐いた父。相変わらず、名前の父親でありながら“人間”らしい。それは母に対しても同じだ。旦那であるはずの男に怯えて俯ける彼女は、猛禽類を警戒して草むらに隠れる小鼠のようでもあった。……だからこそ、と言うべきか。何年経っても彼らが自身の肉親である実感がちょっとも湧いて来ないのだ。

天元が声を荒らげた時は……天元を“人間”だと思った時は、こんな気持ちにはならなかったのに。


「何のために藤襲山にやったと思っている」


なんでだろうと首を傾げる暇もなく、やや落ち着いたらしい父は続ける。


「鱗滝殿の弟子ならば必ずや次期水柱になるだろうに、何故未だ懇意にすらなっておらん。お前のような出来損ないは子を産むしか能がないと分からんのか」


“鱗滝”の段階でを聞き覚えがある程度だった記憶力が、“水柱”の辺りでやっと活性化し始める。

そういえば、藤の山に行く目的は元水柱の教え子とコネクションを作ることだった。そして、子供を作る相手を見繕うという名前の前世基準の予想が的中していたことを、二年半も経った今になって理解した。


「お前がもたもたしているから、横から見も知らぬ小娘にお株を奪われたのだ」


何を考えているのか分からない娘の無表情に、再び怒りがぶり返したらしい。「糞ッ、糞ッ、糞ッ」やっと落ち着いたかに思えた声音は徐々に強まっていく。コメカミに青筋を浮かべ、桔梗色の目を血走らせ、握り拳からは力が入りすぎてギリギリと音が聞こえてきそうだ。


「あの胡蝶めが先に花柱にでもなったらどうしてくれる。十年……二十年ッ! 桔梗家が柱を輩出できぬままではないかッ! 俺がお館様に顔向けできぬッ! 何年あの御方の元に参上つかまつる機会を逃したとッ! 早う、早う優秀な子を孕めッ! お前は子を孕むまで二度と帰ってくるなッ!!」
「あ、あっあなた! それは、あんまりでは、」
「黙れと言ったのが分からんのかッ!!」
「ひっ」


振り上げられた握り拳が母のすぐそばの壁を殴る。引退したとはいえ、元は鬼を狩るべく刀を振るっていた手だ。容赦なく飛んでくる暴力に対し、包丁以外の武器を持ったことのない母が感じる恐怖はいかほどだろう。

すっかり怒気に当てられて怯えきった母が床に尻餅をつく。それを腹立たしげに見下ろした父は、「ふん」と鼻を鳴らして家の中へと引っ込んでしまった。

ドスドスと大きな足音が遠くへ消えていく。もう完全に行ってしまったのを見計らって、震えながらも顔を上げた母。尻餅をついていた体勢を立て直すと、すりすりと膝を擦って名前に近寄る。玄関の一段低いところに立つこちらから母の目線はちょうど同じ高さだった。


「煉獄殿のお宅にお邪魔して、二日後の昼にまた帰って来なさい。お話は通してありますから」


水仕事でカサついた手が名前の頬を撫で、震えの治っていない唇が蝋燭を吹き消すように言葉を紡ぐ。


「お父様の話は、一旦お忘れなさい。あなたはまだ子供なんです。子供が子を持つなんておかしなことがどうしてありましょうか。少なくともあと二年はお仕事に専念しましょうね」
「え?」


名前は停止した。

鱗滝の弟子と子供を作れ。一言で済む内容を長々と語って聞かせた父。相変わらず奇特な人だと馳せていた思考が、一気に目の前の母に吸い寄せられる。


「それに私は、何処の出とも知れぬ方より杏寿郎さんの方が、」
「母様?」
「……いえ、いいえ、何でも。お父様が気付く前に早くお行きなさい。さあ、早く」


乱れている髪を手櫛で整え、そっと添える程度に頭を撫でる母。草臥れた表情のまま、微かに唇を噛んだ彼女が、娘の成長を直に感じる母の顔であると名前は察せなかった。

言い募ろうとしたところで、いつもより万倍も強引な母が娘の体を外に追い出し、ピシャリと戸を閉めてしまう。


「父様、母様、どっち」


その場に立ち竦んだ名前は、しばらく間動くことができなかった。



***



システムエラー。システムエラー。

二重拘束。ダブルバインドにも似た状況に陥ってしまった。

最初は父の“鱗滝の弟子と懇意になり子を孕め”という命令。次は母の“父の命令の棄却し、杏寿郎と何らかの関係を結べ”という命令。

父と母。二人の命令が両立しない場合、どちらを優先すれば良いのだろう。

混乱の最中にありながら、とりあえず母の命令通り煉獄家への道を歩く。とぼとぼのろのろと歩く。考え事に没頭すること十分。無意識下でも体は勝手に目的地までの道を選び、牛歩ながらも進み続けた。


「名前?」


そもそも“何らかの関係”とは? 先ほど母が言い淀んだのは何だろう。あの流れではまるで杏寿郎と番って子を孕んでほしいと言っているようにも取れるが。父の命令に後から訂正を入れる母など初めてのことだし、母の命令はいつも名前の物差しでは測れない突飛さを持っていた。

この手足の洗い方と同じように、正解が分からない難問が増えてしまった。どうしよう。


「名前!!」


どうしようをダースで繰り返していた最中、突然に大声で名前を呼ばれてパッと顔を上げる。すると名前が相手を認識するより早く脇の下に手を入れられ、高い高いの要領で体が宙に浮いた。


「息災だったか、名前!」


炎のような金赤の髪、見開かれた目、背丈も厚みも増した少年が名前の体を持ち上げている。長く共にいたはずだった。声だって一度聞けば分かるはずだ。それが分からなかったのは、相手がすっかり大人の男性に声変わりしていたからだ。


「……杏寿郎さん?」
「ああ! 久しいな!」


黒い隊服を身に纏った煉獄杏寿郎が、名前の体を持ち上げたままくるりと回った。

杏寿郎は声が快活な割に態度は真面目で落ち着いた子供だった。が、何か嬉しいことがあると、こうして名前を持ち上げてくるくると回ったものだ。


「大きくなった! それに、重くもなったな! ちゃんと鍛錬をして筋肉が付いたのだろう! お前の努力が続いているようで俺は誇らしい! すごいぞ名前!」
「杏寿郎さ、杏寿郎さん」
「俺も昨年にやっと鬼殺隊に入ったんだ! お前の一年後輩だが、煉獄の名に恥じぬよう何とか頑張っている! 階級だって上がったんだぞ!」


──くるくる、くるくる、くるり。

出会い頭に突然とはいえ、この浮遊感には懐かしさすら覚える。久しぶりに回り続ける視界の中、ふと、名前は目敏くあることに気付いた。

疑問に思ったことは答えてもらえるまで訊く。離れている間に自覚した愛玩動物の甘え方。それも杏寿郎相手ならば許されるだろうと、


「杏寿郎さん、どうして、泣く」


両の目からジワリと滲んでいる涙を見つけて、率直に甘えたずねた。


「は、はははッ! 名前は相も変わらずおかしなことを言うな! 俺は強い人間なのだから、そう簡単に泣くわけがないだろう?」
「どうして、泣くの?」
「泣いてなどいない!」
「悲しい? 痛い?」
「悲しくなどない! 痛くもない!」
「じゃあなんで? なんで杏寿郎さん、泣く?」


──くるくる、くる、くる……。

いつまでも続くかに思えた高い高いが徐々に勢いを失い、ついにはトンと軽い調子で地面に降ろされた名前。下から覗き込んだ杏寿郎の目はやはり潤んでおり、それどころか、もう耐えきれないとばかりに戦慄く口が手で抑えられる。

誤魔化しようもなく、それは泣き顔に違いなかった。


「少し、回りすぎたようだ、な。ハハ、目が回って酔ってしまった!」


無意味な空元気だった。何故なら次の瞬間に、下瞼の堤防を越えて一筋二筋と涙が頬を伝って落ちていったのだから。

何を泣くことがあるのか。痛くも悲しくもないのに、何故。理由が分からない涙。少なからず不安になった名前が黒い袖を引っ張る。すると余計に涙が溢れてしまったので、本格的にどうすれば良いのか分からなくなってしまった。


「、た、」
「杏寿郎さん?」
「良かっ、た……」


無骨な指の隙間から漏れ聞こえたのは、か細い本音。


「名前が生きてて、良かった……っちゃんと、生きて帰ってきてくれて、──おかえり、名前」


垂れ下がった眉。ゆらゆら揺れる瞳。濡れた赤い頬。見たこともない杏寿郎の泣き顔に、何も。何もできないまま。彼の袖から手を離すこともできず、泣いている人間を慰めるための言葉も、動作も、共感も、理解できない彼女は。

──人とは、安堵でも涙を流すのだと知らない彼女は。


「ただいま、帰りました」


ついには杏寿郎が泣き止むその時まで、何もできないままだった。



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