(揺り籠の黒)



「おかえりなさい、名前さん。怪我なくお元気そうで何よりです。今晩はご馳走ですよ。奮発してすき焼きにしたんです。名前さんはお肉が好きですものね」


母がおっとり笑って名前の荷を持つ。そのまま、すすすと廊下を突き進んで行く背を追えば、名前の部屋の襖がいきなり開いた。


「名前! 名前か! 久しいな! 息災だったか?」


臙脂色の着流しを着た杏寿郎がカラリとした態度で名前の頭を撫でた。

それがなんだか無性に居心地が良く、名前の無表情が勝手にほろほろ解け、無骨なその手に猫のように懐いた。久しく感じるその手が、とても得難い何かのように思えたのだ。

廊下から自室に入ると、縁側から暖かな陽光が室内に差し込んでいた。敷きっぱなしの布団と、それを中心に広げられた書物。どれもこれも一生懸命に日本語を学ぶために擦り切れるほど広げた本だ。

九歳から見慣れた部屋の乱雑さ。母が何度片しても、すぐに似たような有様になってしまうそれらを慎重に避け、名前は定位置の布団の上に、杏寿郎は座布団に座って顔を向き合わせる。

杏寿郎は昔と何も変わらず、猛々しさの中にも柔らかな優しさが覗く眼差しで名前を見つめる。


「任務先でのことを聞かせてくれ。お前がどれだけ立派な隊士になったのか、知りたいんだ」


そうか。ならば、と。名前は任務の内容をありのまま語った。

初めての任務で鬼を拷問して陽光に晒したこと。
二回目で捕獲に失敗して暴れられたこと。
三回目で精神的に参った鬼が幼児退行したこと。
四回目で、
五回目で、



宇髄天元という元忍びの男と共に任務に当たったこと。

ガチャンッ!

そこで突然、廊下の方から大きな物音がした。パッと目を向けると、青褪めた母が湯呑みを割って着物の裾を濡らしていた。


「しのび、ですって……?」


母は、記憶にあるヒステリックさで名前を怒鳴った。

忍びがどれだけ悍ましく、卑しく、下劣で、受け入れがたい存在なのか。金のために人を殺す愚かさが、どれほど唾棄すべきものなのか。あの穏やかな母が唾を飛ばす勢いで捲し立てるので、名前は思わず本音を言ってしまった。


「そこまで言わなくても。私だって何人も殺したことがあるよ」


ピキ、ピキピキ……パリン。

それは何の音だったか。廊下に落ちていた茶器の破片を母が掴み、そして、無言のまま名前に向かって振り下ろした。


「なんてこと、なんてこと! せっかく腹を痛めて産んだ子が……私の子が、人殺しのバケモノだったなんて、そんな! ああ、ああ! こんなことあんまりだわ!」


名前にしてみれば緩慢な動きで、けれど確実に首筋を狙ってくるそれには殺意があった。何度も何度も振り回すことしばらく。ついに体力を使い果たしたのか、その場で蹲ってさめざめと泣き始めた母。すると今度は今まで黙っていた杏寿郎が名前と母の間に割って入る。


「そうか、人を殺めたか」


いつの間に着替えたのか、初めて見る黒い隊服姿で腕を組む杏寿郎。その顔は名前が見慣れた明朗さを称えている。優しく厳しい名前の良き師が、腰に帯びた刀を音もなく抜いた。


「ならばその身は人に非ず。人に仇なす悪鬼と同じ。鬼殺隊の一員として狩らない道理がどこにあろう」


ぬらりと光る刃は赤。いつかに見たのと同じ炎の呼吸は、あの世の清浄さを思い起こさせた。

直接触れてはいないというのに、その熱は肌を焦がさんばかりに燃えている。名前の足は畳に根が張ったように動かず、燃え盛る刃を一心に見続け……ぼぅ、と。見惚れた。

様子がおかしい名前を歯牙にもかけず、杏寿郎は長い黒髪を掴んで少女の体を引き倒す。まるで首を差し出す罪人のような格好だ。事実、杏寿郎にとっては人殺しとは罪人に違いないのだろう。

プツ、プツプツプツ。直接触れていないはずの髪が、刃で軽く嬲っただけで焼き切れていく。そして項がすっかり空気に晒されると、ちょうど頸椎のあたりが痛いほどの熱で炙られる。

そうか、結局、


「悪鬼滅殺」


──この炎に焼かれる運命なのか。

一瞬離れた熱は、振り上げられた証拠。振り上げられたということは、あとは振り下ろすばかりだ。瞬き一つもしない内に迫り来る刃が、いつ己の頸に至るのか。瞬き、目を開け、瞬き、目を開け、瞬き、目を開け、て…………

……………………。

………………?


「ふぁあ……あ?」


大きく開いた口からは情けない欠伸が漏れ出す。あのまま斬首されていたならきっと血反吐か何かが飛び出ただろうに。不思議と仰向けのまま見慣れぬ天井を見上げていた。

名前は布団の上で目を覚ました。それは、今までの出来事が全て夢であったことを表す。


「へんな夢……」


理解してからさらに大きな欠伸を一つ。

そういえば。任務地へ向かう途中の街に藤の紋の家がないからと、珍しく給金で宿を取ったのだった。近場に人通りの少ない山や林がなく、穴を掘る場所がなかったからだとも言える。

それなりに薄い布団から身を起こし、まだ夜明け前の暗い空に向かってグッと伸びをする。じっとりと汗ばんだ後の体に、朝を待つばかりの風が心地よい。


「ん?」


そこで名前は首を傾げる。

自分は寝る前に窓を開けただろうか。

瞬時に展開された円が、宿全体の気配を詳らかにする。寝ている人間多数。動き出した人間三人。いずれも宿の客か従業員で、鬼の姿は一つも見当たらなかった。

ふむ。


「…………朝ごはん、鰯の梅煮」


名前は考えるのをやめた。



***



下弦が一つ欠けた。

鬼狩りによって欠員が出た十二鬼月。魘夢はその補充のために鬼舞辻無惨より下弦の陸を賜った。

運と偶然の巡り合わせであることは魘夢とて理解していた。それでも“下陸”が刻まれた眼球が熱を持ち、それ以上に己の頬が高揚していくことなど止められようもない。

何せ、直々にあの御方から血を賜ったのだ。

身の内から湧き上がる衝動。これを力と仮定するならば、魘夢は力が有り余って仕方ない。早く、誰かに──例えば、鬼狩りの人間を相手に試したくて、試したくて。

目に付いた人間に、血鬼術を仕掛けて回った。


「(ありきたりな関係。ありきたりな幸福)」


元々、魘夢の血鬼術は夢を操るだけに留まっていた。

人間が見る夢。幸福な夢か、不幸な夢か。大まかな方向性を定める程度で、細かな情景は指定できない。ましてや夢の中に入って相手の“精神の核”を掌握するなどと、大それた技が使えるようになったのは十二鬼月入りを果たしてからだった。

だからこそ、魘夢は血鬼術を使いたくて仕方なかったのだ。

魘夢は浮かれていた。


「(つまらないなぁ)」


変な鬼狩りを見つけた。

髪色が白黒に分かれているのもそうだが、彼女は言葉が不自由で、その上表情が乏しかった。

こういう人間の幸福とは何だろう。幸福から不幸に変わった時、彼女はどんな素敵な顔をしてくれるだろう。

高揚した好奇心は簡単には消えてくれず、魘夢はそっと鬼狩りが寝る宿の窓を開けた。

それが、こうもつまらない結果になろうとは。

優しい母親と優しい兄に可愛がられて笑う子供。想像の域を出ないありふれた光景。興醒めにも程がある。深く息をついて、幸福を不幸に塗り替える。途端に上がった女の泣き声。ありきたりな悲劇に背を向け、さっさと終わりにしてしまおうと爪で夢の縁を引き裂いた。

暗転。

ハッと辺りを見渡せたのは、随分と時が経ってからだ。何せ先程まで長閑な昼下がりの庭にいたのだ。そこから急に、地下室のように暗い空間へと放り出されてしまった。

そう、地下室。

肌にじっとりと纏わりつくような湿気。どこからともなく一定の間隔で聞こえる水滴。一歩歩くたびに足元の石畳がカツンカツンと音を響かせる。反響はやって来ない。壁はどれだけ目を凝らしても見えず、凡その広さすら推し量れない。

魘夢が冷静に周囲を観察していた。その時、


「」


突然、ひとりの女が姿を現した。

黒い色の、都でも見ないような布をたっぷりと使った洋装。型はどこか古めかしく、いわゆる釣鐘のような形のスカートが女の上半身を華奢に見せている。何より、頭に乗ったツバの大きな帽子と、耳下まで伸ばされた白い髪が顔半分を隠していたせいで、相手がどんな表情をしているのかこちらからはまったく見えなかった。


「」


紅を差した唇が何事かを紡ぐ。けれど何と言っているのか、どういう音なのかすら聞き取れず、魘夢は女の一挙手一投足に注目する。無人であるはずの無意識領域に人がいることは珍しいことだったから。いつでも行動を起こせるように気を張っていたのだ。

すると、その場に喫茶店にあるような円卓と椅子とが現れ、女が慣れた様子でティーポットからカップへ紅茶を注ぎ出したではないか。


「」


女が椅子を引く。座れと言っているようだ。

もちろん魘夢は動かない。未知との遭遇で相手に主導権を取らせることなどあってはいけないからだ。


「」


仕方ない、と言われた気がした。


「は?」


気が付くと、柔らかいクッションに背を預けていた。勧められた椅子に、座っていたのだ。

何が起こっているのか。暗い空間の中で、何が起ころうとしているのか。混乱はさらに目の前に置かれた紅茶が助長する。飲めと言わんばかりのそれを、魘夢は自分の意思とは関係なしに口に運んでいた。

甘み、苦味、熱……激痛。


「げほっ、ガッ、ぁ、ああ"ッ、ごっ、おぇっ」


毒だ。

藤の花ではない。鬼舞辻無惨の細胞ではない。単純に、毒としか表現しようのない物が魘夢の喉を淡々と焼いている。基本的に毒は効かないはずの鬼の身で、魘夢は初めて純粋な毒の痛みに苦しみ喘いだ。


「」


そんな様子など知らないとばかりに、今度はいつの間にか出てきたケーキにフォークを突き刺してこちらに掬って寄越す。女手ずから食べさせようとするソレを拒否する前に口が勝手に出迎えていた。

激痛。激痛。激痛。激痛。激痛!

紅茶を飲み、ケーキを食わされ、紅茶を、ケーキを、紅茶を、ケーキを、紅茶、ケーキ、紅茶、 ケーキ、紅茶。繰り返し、繰り返される。

──拷問だ。


「」


自らの力で夢の中に這入った魘夢は、何のためにここにいるのか分からなくなった。

繰り返される拷問で目と鼻と口から大量の体液を垂れ流し、いつも清潔に整えられた服はそれらで汚れてしまった。虚ろな目が紅茶とケーキの残りを確認して怯えを思い出す。まるで強者におもねる弱者のように女を伺って、そして、初めて女の長い前髪の下を垣間見た。

垣間見なければ良かった。


「」


女の顔半分を覆っていたのは、鈍色の光沢を持った謎の機械であった。真っ黒い画面の真ん中に一筋の光が差し、魘夢を値踏みするかのように奇妙な音を奏でる。

──キュイーーン


「」



***

以降。魘夢が自ら他者の夢に入ることは二度となかった。

← back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -