月魄にて
ボロボロと土塊のように崩れていく鬼の体。
名前は抜き身の刀をそっと押し当てる。途端に鼻を突く腐肉の臭い。眉を顰め、今度は軽くオーラを纏わせて肉に刃を押し込める。戦闘時の異様な硬さが嘘のようにサックリと斬れた肉は、しかし全くと言っていいほど腐臭を感じなかった。
やっと得心がいった。
名前が今まで日輪刀で鬼を殺せなかったのは、刃にオーラを纏わせていたからだ。
太陽に最も近い山で陽の光を吸収したという特殊な玉鋼を名前のオーラが殺していた。繊細な刃を折らないよう、入念に補強していたのが仇になったのだ。
「その刀、やっぱパチモンだと思うぜ」
違う。名前は首を振る。偽物にしているのは名前のオーラであって、これは間違いなく本物だ。
「それに、お前には剣の才能がねェよ。よしんば刀を扱うにしてももっと短い方がお前に合ってる」
「いや。コレがいい」
「碌に使えもしねぇのにか」
「だって、誇り、言ってた」
杏寿郎が、刀は誇りだと言っていたから。
名前は刀を扱うことがどれだけストレスでも、それ自体を嫌うことはなかった。杏寿郎が言う誇りも、鋼鐡塚の言う業物の価値も分からないけれど、捨てていい物だとは何故か思えなかったから。
「使えない、と、いらない、は、違う」
名前のそれは、愛着という感情だった。
「一丁前に言いやがる」
深くため息をついてから頭に布を巻き始める天元。頭の傷は浅いわりに出血が派手に見えることは名前も知っていたのに。最終選別の時の錆兎と似たような場所に怪我を負うものだから、動揺して画竜点睛を使いかけた。
人が血を流すところなんて前世で見慣れていたのに、ここまで動揺するとは思わなかった。長く共にいたと言ってもたった半年の付き合いだ。それがこうも名前を揺さぶったのは、知り合いの血を見慣れていなかったからだ。
圧倒的強者に囲まれて育った前世と今が違かったからだ。
初めて感じる知人が死んでしまうかもしれない恐れが、名前から正常な判断力を削ぎ取った。“知っている誰かが死んでしまう恐怖”の抑え方なんて、前世の家族は考えもしなかっただろう。
まだ生きている敵に背を向けるなど、あってはならない失態……だというのに。いつもならば語気を強めて叱咤するところを、天元はひたすら穏やかに白黒頭を見下ろしていた。
「
儘ならないモンだ」
するすると傷が布で完全に覆われ、髪が抑えつけられたことで丸い頭の形が露わになる。
「似てると思ったそばから今度は似てねェところばっか目に付いちまう。お前は、俺の妹じゃないのにな」
「いも、う、と?」
「アイツもお前みたいに“何故”だの“イヤ”だの愚図ってくれれば、何か変わったのかもしれない、なんて……今さらか」
自嘲の笑みが、どこか寂しそうに見えたのは名前の錯覚だろうか。
相手の真意を読もうと苦心したその時、雲に隠れていた月が姿を表し、夜とは思えぬほど明るく地面を照らす。
見下ろす顔が、逆光で見えない。
「俺の勝手な感傷だ。今まで付き合わせて悪かったな」
月を背に立つ彼が何を言っているのか、どうして妹の話が出てきたのか──謝ってきたのか分からないまま。名前は桔梗色の目を大きく見開いて、そのシルエットをじぃっと凝視し、
勢いよく天元に飛びついた。
「うぉ!? テメッ、何しやがる!」
「これ、これ」
「ハァ!?」
「これ」
ぐるぐる巻きにして髪を全て隠した天元は、頭の形だけ名前の知ってる人物になった。
名は知らない。会ったのも一度きり。しかしそれなりに濃厚な時間を過ごした。何故なら二人は一晩かけて長い殺し合いをしたのだから。あの、ジャポンから出てきたという男。初対面の挨拶からどうでもいい世間話にまで発展するおしゃべりは、敵と認識した途端にキッチリ無言で仕事をする変な男だった。アレも確か、忍者を自称していた気がする。
忍者とは皆、おしゃべりが好きな人間のことなのだろう。初対面の時の天元のように。一を返せば十倍百倍にして喋り倒すような。
そうか、天元はあの忍者と似ていたのか。
半年越しのモヤモヤの答えに晴れやかな気持ちになった名前。対して天元は、何をどうしたか今まで以上に無邪気な笑顔を向けられて、困惑と同時に「まあいいか」とスルーする。
「……ああ!」
そして、ひらめいた。
「俺のド派手な顔が良く見えるように髪を仕舞った方がいいと言いたいのか! そうかそうか! 一理あるな!」
「う?」
「考えてやってもいいぜ。ただし、」
ニィ、と。口を釣り上げて笑う天元。
「俺が柱になったらお前、俺の継子になれ」
また知らない単語が出てきた。
「そのお粗末な刀の使い方を派手に教えてやる。な、悪くない話だろ?」
な? な? と聞かれても名前にはそれが良いのか悪いのか分からない。そして何より、今までそれなりにドライな対応だった天元が距離を詰めて頭をワシワシ撫でてくることもまた戸惑ってしまう。ちょっと杏寿郎に似た兄味を感じて懐かしくなったとかそういうわけじゃない。
うーうー唸る名前とほんのりウザさが増した天元。その空気を崩したのは、またも例の奇声だった。
「宇髄天元! 宇髄天元! 本部ヘト向カエ! オ館様カラノ招集デアル! 本部ヘ向カエ!」
「はん。お早いお着きなこって。ついに俺も柱かね」
「はしら? もう?」
「お前を継子にするのも案外すぐかもな」
「えぇ……」
「なに嫌がってんだテメェ」
ツグコが何なのか、天元に教えてもらわなければ名前もリアクションがとれないのだが。
「桔梗名前! 桔梗名前! 南下! 南下! 都ヘ向カエ!」
「で、お前ともここでお別れってか」
首がもげそうなほど名前の頭を撫で回し、最後にポンと叩いてから、天元の手は離れて行った。
「死ぬなよ、名前」
『俺はお前に、死んでほしくない……っ』
いつかに、杏寿郎に言われたことと似ていた。
どちらも、言われた内容は前世の父母の教えと似ているというのに、どうしてこうも別物に感じるのだろう。不思議な感覚のまま素直に頷く名前。それを見届けた天元がより深く笑む。
その表情こそ、出会ってから今までで一番“人間”だと思った。
***
天元と別れてから一年。名前は変わらず任務に明け暮れている。
とはいえ、完全に一人の任務は減り、他の隊士と複数人であたる任務が増えた。
それは名前が日輪刀を未だ使いこなせていないことを上から見抜かれているような配置だった。何せ複数人での任務の時は決まって天元と二人の時のようにサポートが主で、名前本人が鬼の頸を斬ったことは一度もない。周囲に「アイツと一緒だと必ず鬼の頸を斬れる」という認識が定着しつつあり、“補助役”と面と向かって言われたこともあるほどだ。
加えて名前がイマイチ他者とコミュニケーションが取れないことで変人奇人のレッテルまで貼られ、周囲からは距離を置かれているようだった。それを気にする名前ではないが。
そんな最中、名前の元に一匹の鎹鴉が降り立つ。足には手紙が括りつけられており、内容を検めたところ、母からの帰省を促すものだった。
そういった経緯で、二年半ぶりに名前は桔梗家の敷居を跨いだのだ。
「恥知らずの行かず後家がッ!」
出迎えたのは、父からの罵倒だった。
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