白々素直



翌朝の天元は静かだった。
いいことだと名前は思った。


「天元様、おはよ、ござます」
「おう」


一つ頷いた天元が手に持っている地図を畳に広げる。家の者から借りてきたらしいそれに指を這わせ、今日これからの行程を話し始める。今日の天元は表情筋に見合った口数で喋るので、名前は気楽に頷いた。

粗方の話が終わって立ち上がる二人。そこでふと、昨日尋ね損ねたことを思い出した名前は天元を見上げた。


「天元様、昨日、何故謝る」


ピクリと眉根が動く。


「昨日のことは忘れろ」
「何故」
「上官命令だ。忘れろ」
「何故」
「………………」
「何故。分からない。何故、何故?」
「なぜなに期の赤ん坊かよ、俺の妹なんてテメェの年頃にはもう、」
「もう?」
「……忘れろ」
「また忘れろ?」
「うるせェ、行くぞ」
「あっ」


ずんずんと部屋を出て廊下を進む天元。追う名前。途中で地図を家の者に帰し、玄関先で手厚い見送りを受け──フッ。傍目には消えたように見えるほどの速さで、二人は屋敷を後にした。

天元の大きな背を眺めながら、名前は自身の彼を見る目が恨みがましい物になっていることに気付いた。彼が話すだけ話してこちらの質問に答えなかったことも一端にはあるが、より厳密に言うなら、質問すれば答えが返って来る環境に名前が慣れ過ぎてしまったことが最大の原因だった。

杏寿郎はもちろん、千寿郎も母も質問すれば丁寧に言葉を噛み砕いて教えてくれたし、名前が理解したと分かると手放しで褒めてくれる。昨日、鬼の頸を斬った時だって、杏寿郎ならきっと手を叩いて喜んでくれたはずだ。

なのに、天元はそれをしない。当たり前だ。だって天元は杏寿郎でも千寿郎でも母でもない。昨日会ったばかりの男が名前を甘やかすわけがない。けれど、そんな当たり前がすっぽりと抜け落ちてしまっていたのを、名前はたった今気が付いた。

自分は、甘やかされることに慣れてしまったのだ。

これではただの愛玩動物だ。番犬のミケの方がよほど働き者ではないか。

ミケ以下の名前。気付いてしまうと、何だか大声で喚き散らしたいような不思議な気持ちになった。走っているのに手足をバタつかせたり、全身の痒みを外に逃がしたいような。そんな謎の衝動に駆られてしまう。人はそれを羞恥心と言う。

名前が無表情の下で羞恥に悶えている合間も二人の足は止まらない。一陣の風のように野を越え山を越え川に沿って北上することしばらく。東から中天近くに太陽が移動する頃、二人は大きな町にたどり着いた。


「なるほど、道理で」
「う?」
「見ろ」


派手な赤い爪が大通り一帯を指し示す。商店が多く軒を連ねた町は活気があって賑やかだ。


「ここら一帯は栄えているだけあって夜も人通りがある。それでも長く鬼の存在を匂わせず失踪事件として鬼殺隊に見過ごされて来たんだ。よほど隠れるのが上手い鬼なんだろうよ」


赤い爪が次に向いたのは、さっきより幾分と落ち着いた無表情。


「だから、俺とお前だ」


珍しく、天元は唇を大きく動かした。
笑ったのかな。名前はなんとなく思った。


「出稼ぎに行ったきり帰って来なくなった父親を探してるんですって? 山を三つも越えて? まあまあ、それはずいぶんと遠くから」
「俺はいいんですがね、妹は親父の顔も覚えていなくて。せめて一目だけでも会わせてやりてぇんです」
「おとっさん、知らない?」
「まあまあ」


出任せでそれっぽい嘘が付ける二人。流石としか言いようがない。

藤の家で拝借してきた簡素な着物を身に纏い、兄妹としてあちらこちらへ聞いて回る二人。天元はちょっとそこらでは見ないタイプの美形であり、一人で行動すると悪目立ちしてしまう危険性があったが、妹役の名前を連れて歩くと妙に人間味が湧いて相手の口も軽くなった。

いや、最初は地味に変装して歩いていただけなのだが、声をかけてきた商店の女将が「あなたたち、ご兄妹?」と尋ねた瞬間に二人の設定が決まってしまったのだ。


「こんなに貰っちまって、皆さんに良くしてもらったんだな。ちゃんとお礼は言えるか?」
「あい兄や。ありがと、ございます」
「名前がいつもありがとうございます」
「いいのいいの。二人で分けて食ってくれや」


名前がやや発育が悪く、年不相応に言葉がおぼつかないため、実年齢より幼く見られたのはもちろん。“父親は知恵遅れの娘の将来を心配して稼ぎを増やしたかったのかもしれない”と勝手に想像を飛ばし勝手に同情して飴やら煎餅やらを袖の下に滑り込ませる大人が続出した。この善良さからして、この町が懐も精神も温かい人間の集まりなのだと推し量れる。

人の出入りが激しい町なら、旅の人間が消えても分からない。

だが、失踪事件が確認されたということは町の住人がいなくなったということで。あえて消えたことが分かりやすい町の住人を狙った理由はなんだろう。

聞き込みを続け、消えた人間の特徴を照らし合わせながら一週間。そろそろ頃合いか、と天元は名前に命令した。


「お前、囮な」



***



聞き込みをしている間、一つの奇妙な噂を聞いた。

夜、皆が寝静まった頃に失踪したはずの人間が顔を出す。その後を追った人間は二度と戻ってこないのだと。怪談噺のように語られたそれは、若い女性や子供の噂話として名前の耳に入った。確かに大人は馬鹿馬鹿しくて口にしないような内容だ。

油がもったいないと皆が火を吹き消す頃。隊服の上からいつもの着物を着て夜を歩く名前。たまに棒読みで「おとっさん、おとっさぁん」「わたし、名前よ。どこ行ったの、おとっさん」と声を出すのを忘れない。あたかも父恋しさに飛び出してきてしまった子供のように、当て所なく彷徨う名前は良い囮になった。


「名前……名前、か?」


町を一周して、川原が見える端の方まで足を伸ばした時、背後から名を呼ばれて振り返る。見知らぬ男がフラフラと目の前まで近付いてきた。


「だれ?」
「そうか、分からないよな。お前が物心つく前に出ちまったもんなァ……俺ァお前の親父だよ」
「ぉや、じ……おとっさん?」
「ああ、そうだ。大きくなったなァ名前」


愛おしい。懐かしい。心底娘を慈しむ父親の顔をして男が名前の手を取った。


「今日はもう遅い。俺ん家に泊まってけよ。こっちに俺が借りてる長屋があるんだ」


凝をして見た男は、ピッタリと肌に貼り付くようにオーラを纏っている。そして体の中央には例の異質なオーラ。そういうことか。名前は納得した。

ぐいぐいと人の力とは思えぬ強さで手を引かれ、行き先は月の光も差さないような橋の下。


「本当に大きくなっちまって、腕がこんなに柔らかいなら足の肉も柔らかいんだろうなァ。ああ、この町を出る前に会えて本当に嬉しいよ。親父を探しに来てくれてありがとう、名前」


被っていたオーラがパリパリと剥がれて、中から濃厚な血の臭いと青白い肌が現れる。──鬼だ。

血鬼術と呼ばれる術を使う鬼がいるのだと天元は教えてくれた。人をたくさん喰った鬼が後天的に固有の能力を身につけるのだと言う。

先日名前が斬り伏せた鬼もまた気配を消す血鬼術を使う鬼で、気配に敏感な天元が適任だろうと上から言い渡されていたのだとか。その鬼を倒した名前もまた天元と同様に気配に聡いと判断され、隠れることに特化した鬼を今度は二人で討伐してみては、との考えがあったらしい。階級が異なる二人がコンビを組まされたのはそういうことだ。

正体を現した鬼は狐のような釣り目の下で爛々と名前の肉づきを確かめている。名前のピクリとも動かない無表情を、あまりのことに理解が追いついていないのだと早合点したのか。鬼はくひくひ笑いながら少女の体を川原の砂利の上に押し倒した。


「久しぶりの子供の肉だァ。栄養たっぷりの金持ちの肉もまァ美味だが、やはり貧乏人でも女子の柔い肉は堪らんわ」
「金持ちの、にく?」
「ああ、ああ、ひひ、くひひ。アイツら、良いモン食って肥え太ってるくせに馬鹿でなァ。俺が喰った人間の皮ァ着込んでちょいと演技してやれば簡単についてくるんだぜ。のこのこ食事場まで来てよォ。騙したなッて泣いて怒って、面白いったらありゃしねェ。俺の演技はやはり天下一品ってなァ。くひっくひひひひっ」


なるほど、旅人を狙わず町人を狙ったのは食事以外の楽しみを見つけたからか。

納得、と同時に“で?”という感想も拭えない名前。そろそろ鬼を殺したいところだが、生憎と日輪刀を持ってきていない。田舎娘を装っている内は帯刀するわけにはいかないし、鬼の正体を暴いた瞬間に気配を消して尾行している天元が斬り伏せる算段だったので。

……その天元が来ない。

いくら探ってもここら一帯に人の気配はなく、本当に鬼と名前、一匹と一人しかいない。ならばこそ、今、名前は身一つで鬼を打倒するしかないだろう。


『火に焚べても燃えねェし、そのくせ通気性も恐ろしく良い。雑魚鬼の牙や爪くらいなら破れもしない丈夫な布でできてる──』
「くひひっ、ひ、ンムッグァ、ガッ!?」


いい加減聞き苦しくなったので、名前は躊躇いなく鬼の大口に腕を突っ込んだ。

着物越しに隊服を噛ませる形でぐいぐい押すと、目を白黒させていた鬼が状況を理解して顎に力を入れる。ギリギリ、プツプツ。上に着ていた着物を通過する牙。しかしあるところを境に勢いは止まり、本当に隊服が機能していることを知る。意固地になって噛み切ろうと苦心する鬼など気にせず、名前は噛み付かれている腕を起点に下から押し返す。


「ン、ンン"ン"!? ンムッ!?」


か弱い娘にマウントを取っていたはずが、今では逆にマウントを取られている。これには鬼も二重の意味で仰天した。

砂利の上に押し倒された鬼。噛まれた腕をそのままに伸し掛かる名前。さながらプロレスの様相を呈したその戦いは、ここで一時膠着状態に陥る。鬼は自力で名前の下から這い出ることは困難だし、名前は鬼を殺す術がない今、頭を捩じ切ったところで意味がないことを知っている。たとえ天元が来なかったとしても、このまま朝日が昇るまで抑え込み続けることも視野に入っていた、が。

幸運なことに、この均衡を崩せる人間は意外とすぐにやって来た。


「おいッ! 生きてる、か……何をしている」


いや、遅れてやって来たと言うべきか。

そよ風が吹いたかと思えば次の瞬間に姿を現した天元。やや隊服に土埃が付いているあたり、ついさっきまで戦闘があったことが伺える。何かアクシデントがあったのだろうか。そんなことをぼんやり考えていた名前は、訊かれた内容を思い出して状況説明をした。

簡潔に、一言。


「鬼を捕まえている」
「………………………あっそォ」


ドッと疲れた天元だった。


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