幻太郎と新婚生活



「お前様、お前様。朝ですよ。起きてくんなまし」
「うっ」


頭がモヤモヤする。痛いってほどじゃないけど、気分がスッキリしない感じの頭痛もどき。なんだろう。風邪? 低気圧?

寝返りを打って、うつ伏せになって、前髪をシーツにこすりつけながらうんうん唸って。ベッドの上で悪あがきを繰り返した末に、ようやく起きる決心がついて目を開ける。と、さっき軽やかな奥方様口調で起こしに来てくれた幻太郎さんが、ベッドのそばに微動だにせず立ったまま、初対面の時もかくやという冷たい目で私を見下ろしていた。

えっと?


「ところで、これは何でしょうね、お前様?」


低くて艶のある声だった。いつも軽やかにタイピングしてる骨ばった手の、人差し指と中指で挟まれてヒラヒラ揺れる黒い名刺。黄色いラインがまるで夜のネオンのようにギラギラし、て……それは、あの、その、


「の、飲み会で行ったお店の、名刺、です……?」
「飲み会? へえ?」
「ホストクラブの名刺ですすいませんでした!」


ごろごろと転がってベッドの上で土下座。頭痛がちょっと悪化した気がする。うっぷ。大変、これ二日酔いだ。こんなに飲んだのは前世以来かもしれない。

……そう、そうだ、確か昨日は花金で先輩に飲みに誘われて、そこそこ飲んだ後の二次会が例によっていつもの一二三さんのホストクラブだったんだ。と、思い出したあたりで社交辞令で渡された新人さんの名刺がぐしゃっと握り潰される。

顔の横に降ってきた紙屑。サァーっと血の気が引いた。今の私はさながら妻にキャバクラ通いがバレた旦那。男女逆転してるけど、浮気を疑われている状態なのは同じだ。いや、キャバクラは恋愛する場じゃないし。というかホストクラブの話だし、ああーっと、頭がこんがらがってきたーわー。

冷や汗だらっだらの私に対して旦那様は容赦なかった。


「浮気はいけませんねぇ。どういう理由があってあんないかがわしい店に行ったのか……もちろん、ちゃあんと説明できるよな、夢野名前?」
「うぇっ」


思っていたことが旦那様からも出てきて事態の深刻さを知った。

わざわざフルネーム呼び……『お前、既婚者だよな?』という明確な含みを感じる。


「最初はただの飲み会だったんですよ? でも、二次会が先輩の希望でホストクラブになっちゃって……ひ、一二三さん、私が結婚してること知ってるので、変な絡み方してこなくて楽なんですよね。お友達がお店に寄ったみたいな扱いしてくれる、し」
「ほほう? みたいな、とは。まるで実際には友達じゃないような言い回しですね」
「……はい?」
「浮気者」
「いいえ!?」


そこでニッコリ笑う!?

語尾に音符でも付きそうな弾んだ声が恐ろしい。

『この世界、男の上司より女の先輩からの印象が命綱なんだ! 誘われたら断れないの!』とは死んでも言い返せない。ホストクラブに行ったことは確かに良くなかったし、私だって相手にキャバクラに行かれるのはモヤモヤするし。

ほとんどシーツに突っ伏すような土下座を続ける私に対して、旦那様のお許しは深いため息とともに降ってきた。


「朝食、できてますよ」



***



新婚さん、なんて甘い匂いのする生活が始まってまだ一月も経っていない。

結婚したら専業主婦かなあとふわふわ考えていた私は、結局会社を辞めずOLを続けている。対して幻太郎さんは出版社関係の呼び出しがない限りはだいたい在宅でお仕事。見かけ上は外で働く妻と家を守る主夫のようでいて、実際は共働きで家事を折半してる状態だ。同棲期間から変わらない生活は、籍を入れたくらいではあまり新婚の実感が湧かない。

土曜日の朝は幻太郎さんの朝食で始まる。

湯気立つご飯と味噌汁。ベーコンにスクランブルエッグにカットトマト、お好みでオレンジジュースかコーヒー。デザートにプルーンジャムを垂らしたヨーグルトまである。シンプルだけど優雅な朝食だ。というかホテルの朝食バイキングで選びがちなメニューがそのままテーブルに並んでいる。

黙々とご飯を味わっている幻太郎さんはいつも通りに見えて、いつも通りじゃない気もする。それは私がまだビビっているからそう見えるのだろうか。

二日酔いに効きまくる味噌汁を啜って、ホッと一息。湧いてきた食欲に安心しつつメインに箸を伸ばした。


「おいしー。幻太郎さんのしょっぱいスクランブルエッグすきー」


明らかに雑に混ぜて雑に味付けしたのは分かるのに、何故か幻太郎さんオリジナルな唯一無二の味がする料理だ。好きすぎて思わず大袈裟なリアクションを取ってしまったくらい。


「ダウト」
「えぇっ!?」


なのに、今日の幻太郎さんは手厳しい。


「ご機嫌取りが明け透けすぎる」
「ほ、本心なのに!」
「炒り卵に塩コショウかけただけの代物だが?」
「ご飯に合うからいいんですー!」


たとえホテルの朝食バイキングのみたいにとろとろふわふわしてなくたって、おかずになる時点で最高なんだ。ご飯が美味しいのは嬉しい。人に作ってもらうご飯はもっと嬉しい。

というのを本腰入れてあれやこれやと力説していると、お向かいの箸が完全に止まった。とっさに口を閉じて相手を伺う。


「こんなもの、いくらでも作ってやるさ」
「?」
「ぁ……」


言うつもりはなかった、という顔で幻太郎さんが固まる。それからバツが悪そうに目を伏せて、形のいい眉が苦しそうに顰められた。


「……本気で疑ったわけではないんだ。ただ、」


何やら真剣に悩んでいるらしい。

珍しく口籠もった幻太郎さんに対して、私ができることは知っている。やるべきことは大学時代から何も変わっていない。

夢野幻太郎という人は、孤独に生きていけるように入念な下準備をしてから初めて一人で立てるような、そんな強くも弱くもある矛盾を抱えている人、だと思う。だから疑うことで予防線を張って自分のそばにいてくれる人を吟味している。自分から引き留めることができない人だから、意地っ張りな可愛らしい人だから、何も言わずに一緒にいてくれる人が欲しくて、でもたまに本当に“そう”なのか不安になって疑ってしまう。


「ただ、不安だったんですよね」


そんな面倒臭い人だ。


「いいですよ、最終的に私のことを信じてくれるなら」


そんな面倒くさい人と、一緒にいたいなあと思った。


「いくらでも疑ってくださいね、旦那様?」


幻太郎さんお得意の子芝居を意識して、ちょっとだけおどけて小首を傾げてみる。と、最初はマジマジとこっちを確かめるような目が、うろうろとおぼつかなく揺れて、最後にジッと私を見つめ返した。


「あなたって人は本当に……本当に、困った人だ」


じんわりと滲んだはにかみ笑顔。あ、可愛い。好きだなあ、この顔。


「だいたい、何が“いいですよ”、だ。一丁前に上から目線で。ホストクラブに行った人間の物言いじゃないよな」
「そ、その説は、大変申し訳なく、」
「謝罪より再発防止に努めていただきたいですなあ」
「頑張ります」
「は?」
「もう行きません、サー」
「結構」


いつもの会話。いつもの空気。もう何年も続く生活が、これからもずっと続いていくことがむしょうに嬉しくって。


「信じるよ、名前」
「っはい、幻太郎さん!」


幸せだなあ、と思った。



企画へのご参加ありがとうございます! プニカで幻太郎との新婚生活でした。この二人は同棲生活が長くて新婚になってものんびり淡々と関係を暖めていくイメージがあります。余談ですが、幻太郎はホストクラブに行ったことより一二三氏と接触したことの方にキレてました。結婚しても主人公の鈍さに振り回される夢野先輩でした。リクエストだけでなく拍手でも個別でお祝いの言葉をいただいて本当に嬉しかったです。素敵なリクエスト共々ありがとうございました!

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