if/煉獄さんちの許嫁



煉獄杏寿郎には幼馴染がいる。

近所に住んでいる一個下の女の子。可愛い可愛い妹分は、もうすぐ鬼殺隊の最終選別で鬼がわんさか閉じ込められた藤の檻に放り込まれることになったらしい。あの病弱で言葉少なく首をあちこち傾けるばかりの幼子を、十一歳になったばかりの名前を、桔梗殿は。

杏寿郎は居ても立ってもいられなくなった。それこそ煉獄に燃える炎のように義憤を燃やして桔梗家に駆け込んだ。


「煉獄殿の御子息は口も腕も達者で羨ましい限りだ。……そこまで言うのであれば、相応の覚悟はあるのだろう?」


結果。


「杏寿郎さん、ふちゅつ、ちゅちゅか、ものですが、よろしく、お願いします」


白黒頭が畳の間に沈んだ。

名前は、その日のうちに杏寿郎の許嫁になってしまったのだ。

こんなつもりではなかったと。即座に首を振れたならどんなに良かったか。けれど相手はいくつも年上の大人で、目的のためならば修羅にでもなる男。決して杏寿郎を逃しはしなかっただろう。

自分の血筋から花柱を出す。

花と相性の良い水の呼吸が最も相応しかったとはいえ、代々炎柱を輩出し続けた煉獄の子供でも及第点ではあったらしい。優秀な種は優秀な実をつける。徹頭徹尾、そういう目で桔梗殿は杏寿郎を品評した。まだ十二歳の杏寿郎と十一歳の名前に孫はまだかとせっつき、そのたびに母君に気が早すぎるとおどおど止められる。そんな調子だった。

対照的に、父の槇寿郎は猛烈に反対した。父母は恋愛結婚だったと聞いたので、息子が半ば大人に押し切られる形で伴侶を選んだのが信じられなかったのか。普段から名前に対して腐す発言は多かったが、今回ばかりは白黒頭に直接罵詈雑言を投げかけた。

知恵遅れの白痴。
煉獄の血に混じるなど許せぬ。
生まれた子まで頭がおかしかったら。

あまりにも酷い、幼馴染の可愛い妹分に聞かせるには汚すぎる言葉の数々。父の言葉とて黙って聞いてはいられなかった。杏寿郎は名前を庇い、前に出て土下座した。必ず、必ず煉獄の血を絶やさない。自分はこれから立派な柱になるし、生まれてくる子も立派に育て上げる。煉獄の歴史に傷はつけない。

十二歳の少年の、たどたどしい、命乞いだった。

自分のではなく、名前のための命乞い。ここで煉獄家を放り出されれば、今度は藤の檻に放り込まれる。なすすべもなく鬼の腹に収まり、骨の一本も帰って来ないまま、空っぽの骨壺を仏壇に供えて泣くのだろう。母が死んだときのように、杏寿郎は泣いて、泣いて、それからどうやって立ち直れるか。形のない恐怖が少年の小さな胸を満たしていた。

指先まで気の行き届いた土下座を前に、父は先ほどまでの荒れ様が嘘のように静かになった。


「勝手にしろ」


吐き捨てるように、諦めたように。酒壺片手に、肩を落として自室へと引っ込んだ。

それからのこと。

名前は週の半分ほど桔梗家から煉獄家に通い、千寿郎と一緒に家事の勉強を始めた。桔梗家では母君からの手解きを、煉獄家では長年世話になっている通いの女中からの手解きを受けて花嫁修行をしているらしい。あの幼子にできるのか、と怖々見ていた杏寿郎だったが、そこは努力家な名前。時を経るごとに何とか熟していく様はいっそ小気味良い。


「ああ、名前さん! 包丁の持ち方が違いますよ!」
「ん、こう」
「危ないです! 指で挟まないでちゃんと握り込んでください!」
「んん?」


杏寿郎が鬼殺隊に入って一年目。任務から帰ると台所から声が聞こえてくる。千寿郎が困り眉のままハキハキと指摘し、名前がぼんやりとした顔で首を傾げている場面だった。確かに刀を持つのとも違う緩い持ち方で危なっかしい。


「でも、切れる」
「切れるけど、危ないんです!」
「千寿郎さ、が?」
「名前さんの手がですよぉ!」


暖簾に腕押しな名前に、しっかりとした千寿郎もやや目を潤ませる。いけないと思った杏寿郎は隊服のまま台所に入った。


「名前、千寿郎をあまり困らせるな」
「あにうえ! おかえりなさい!」
「杏寿郎さ」
「ただいま千寿郎! 名前、“さん”は最後まで言うんだ!」
「ん。杏寿郎さ、ん。おかえり」
「ああ! ただいま帰った!」


千寿郎の髪を撫でようとして、手が汚れていることに気づく。千寿郎も気付いたのだろう。お互い杏寿郎の伸ばしかけた手を見つめて、引っ込めようとしたところで、そこに白黒頭が割って入った。いや、手のひらに懐いたというべきか。


「ん」
「名前、料理中に汚れてはいけないだろう」
「うん?」


甘やかされて育った仔猫のように、「頭を撫でたかったのでは?」と訴えかけてくる目。これに何も言えなくなり、いつものように豪快に髪をかき混ぜた杏寿郎。すると千寿郎ももじもじとしだすので、同じくらい豪快に撫でてやった。

結局、料理は中断され、三人とも軽く汚れを落としてから改めて台所に集まった。

名前はやっぱり危なっかしい(のに不思議と安定した)包丁の持ち方をするので、杏寿郎は背中から抱き込むように手に手を添えて矯正した。

名前とて刀を振るっていた素質のある子供だ。呼吸の才能がなかっただけで、鬼相手でなければ立派に戦って武勲を立てていたことだろう。幼いながらに固い手は危なげもなく野菜を切っていく。

けれど、けれども。日々鬼を狩るために走り回る杏寿郎より、ひと回りもふた回りも小さな手だった。

手の甲から包み込むように握った手は、血に塗れたことのない白さをしている。柔らかく、未発達で、いとけない。柄を握らなくなってどれほど経ったのか。辛うじて潰れた肉刺の痕はあったが、それだけだ。

名前の幼気な仕草があまりに変わらないものだから、千寿郎の歳を思い出すことでようやく時の進みを実感できる。

いくら歳が過ぎても変わらず三人で。叶うならば父も一緒にこの家で暮らしていきたい。──幸せな家族になりたい。

月日は賑やかに、穏やかに過ぎて行った。


煉獄杏寿郎、十七歳。炎柱に就任する。

桔梗名前、十六歳。父親から正式に、煉獄家に嫁ぐよう命じられる。


「お館様、御前失礼いたします。この度、若輩者の身ながら妻を持つことになりました。貴重なお時間を頂戴して、」
「ああ、いいんだよ杏寿郎。私の子。親にそんな風に畏るものではない」
「はっ、寛大なお言葉、ありがとうございます! 名前、お館様にご挨拶を」
「はい」


腰まで伸びた髪をきっちりと纏め、桔梗色の着物を見に纏った名前は、端的に言って女だった。

丸みが落ちて線が細くなった顔。胸や尻は厚みを増し、香を焚き込めた後の文のように可憐さが匂い立つ。こんなにも華やかな柄の着物姿を見たことがなかったからか。杏寿郎は一瞬、別人が自分の隣に座っているのかと疑った。


「煉獄杏寿郎の、妻に、なります。桔梗名前です。よろしくお願いします」


つっかえつっかえ練習したセリフを復唱した瞬間に謎の安心感が湧き上がった。初対面の大人にお行儀良く挨拶する子供のようであったから。むしろ輝哉の後ろに控える輝利哉の方がしっかりしてる。そうか、五歳児か。杏寿郎は少しだけしょっぱい気持ちになった。

まるで己が五歳児を娶るような据わりの悪さ。苦笑した杏寿郎を、辛うじて光を失っていない目が映した。輝哉は微笑をより柔らかくして、ゆっくりと名前を見遣る。


「名前殿。あなたの夫君は私の大切な子供です。そして、大事な鬼殺隊の柱として命を預かっています。代わりに私生活では名前殿が、ただ一人の伴侶として杏寿郎を預かってください。どうか、杏寿郎のことをよろしく頼みます」
「はんりょ? ……ん、はい、わかりました」


首を傾げるのは何とか持ち堪えたらしい。深々と頭を下げて輝哉の言葉を拝領した名前。成長したな。杏寿郎は彼女の成長を嬉しく思った。


「────ごめんね」
「お館様?」


何故、輝哉がそこで謝ったのか。杏寿郎は最後まで分からなかったけれど。

産屋敷邸を後にした二人は、その足で歌舞伎を見に街まで歩いた。許婚関係最後の日に出かけてみてはどうかという千寿郎の提案だった。

杏寿郎は元より、名前とて剣士を志した女だ。着慣れなぬ着物姿でも汗ひとつかかずに歩いて、歌舞伎座では役者の見得よりお囃子に歓声を上げていた。……楽しんでいるなら良いか。杏寿郎は細かいことを気にしない男だ。

それからちょっとお高いカフェーに入って、物は試しとアイスクリンを頼んでみた。氷菓子とは違った慣れない味に杏寿郎はちょっとびっくりしたが、名前は花のように笑って食べるので、思わず残りを差し出してしまった。名前は笑顔で食べ切った。


「おいしぃ、ねぇ」


ぼんやりとした青紫の瞳を緩めて。唇をぺろりと舐めると、せっかく差した紅がかすれてしまった。いつまで経っても、名前は名前だった。

父と千寿郎にお土産を買って、夜になる前に同じ道をまた戻る。握った柔い手は、もう肉刺がどこにあるのかも分からない。この手を綺麗なままに守っていくのだと、杏寿郎は熱く胸に誓った。

──言い知れない焦燥の正体も分からないまま。

夜が過ぎて朝が来る。当たり前の摂理が、尊いものに思える。十二鬼月との戦闘以外で朝を特別に思うのは初めての体験だった。

慌ただしく浮ついた空気のまま、昨日よりもさらに豪奢な柄の着物を纏った名前。同じく煉獄家の紋付羽織袴を纏った杏寿郎。追い立てられるように婚礼は為され、なし崩しに二人は夫婦になる。

桔梗名前は、煉獄名前へ。家も桔梗家から煉獄家に移り住むことになる。父は未だに名前を視界に入れようとはしないが、罵ることは決してない。存在を無視している。これはどちらが良いのか分からない問題だったが、いずれ時間が解決してくれるのを待つしかない。

婚礼が終わり、身内だけの夜の宴も終わり、盛装から寝巻きに着替えた二人は同じ部屋にいた。夫婦になってはじめての夜とはそういうものだ。


「名前……」
「はい」


細い体を抱き寄せて、まろい頬を撫で、顔をよく見ようと顎を持ち上げる。見上げる青紫は行灯のわずかな光を写して不思議な色をしていた。

女を抱く前に、まずは口づけをするべきなのだろう。宇髄の言葉を反芻しつつ、杏寿郎は唇を寄せた。

はじめての口づけだった。

無意識に強く目を閉じてしまったのは、そういうわけだ。杏寿郎とて、女の経験など皆無だ。それでも大事な名前に怖い思いをさせないよう、優しく、優しく。緊張などおくびにも出さず接したつもりで、唇に触れた柔らかさに驚いた。

そろりと離れた二人の距離。わずかな時間だけ重なっていた唇。それから、それからどうすれば。宇髄のヤニ下がった顔を思い出しながら、目を開けた。

そこには、ポカンと口を開けた名前がいた。


「何故、kiss」
きす?」
「どうして、したの?」


何故、どうして。幼子のように繰り返して、己の唇を指差す。杏寿郎が口づけたのが心底不思議だと。幼く首を傾げてくる。

その瞬間に、杏寿郎は理解してしまった。


名前にとって、自分は兄でしかなかった。

杏寿郎にとっても、名前は妹でしかなかったのだと。


理解して、己が先ほどしたことをまざまざと思い知る。振り返れば兆候はたくさんあった。家族として一緒にいたい、幸せでありたいと願い、その実、在りし日の父母のようになりたいとは少しも考えつかなかった。当たり前だ。父母は愛し合う男女で、杏寿郎と名前は兄妹のように育った幼馴染だったのだ。

その関係を壊したのは、杏寿郎だった。


『勝手にしろ』


名前を許婚にしたいと言ってから浴びせかけられた父からの罵倒。後から思えば、あの苛烈な罵りは杏寿郎のためだったのだろう。杏寿郎が名前のことを“本当の妹のように”可愛がっていたから。子供の浅知恵で思いついた最善が、後になって杏寿郎を責め苛むことを予期していた。だからこそ、父は無理にでも辞めさせようと唾を飛ばしたのだろう。

杏寿郎は子供だった。真っ直ぐ、正しく、脇目なんて知らない子供。今は違う。父の意図を多少なりとも汲んでしまったこの時、杏寿郎は大人になった。

子供のエゴイズムに振り回された可哀想な子供。それが名前だった。

杏寿郎は大人として、責任を取らねばならない。
──妹のように可愛がっている名前を、抱かねばならない。

許婚になりたてから今日に至るまで、義実家の姑のように孫をせがむ桔梗殿。子ができぬことで名前が詰られ、妻に手を出さぬことで杏寿郎が詰られる。いや、それだけで済むだろうか。すぐにでも杏寿郎と離縁させ、伝手を使って水の呼吸の一門から優秀な男を当てがうくらい、あの執念深い男はしそうだ。もしかすると水柱の冨岡を引き合わせる可能性すらあった。

名前を余所にやりたくない。どこにも行かせたくない。

子供のエゴイズムで許婚にした妹分。杏寿郎はまた、エゴイズムで妹分を縛り付けることを選んだ。


「すまない、名前」
「杏寿郎さん?」
「すまない、優しくするから」
「何故、謝る?」


薄い肩を引き寄せて、肩口に顔を埋めることで、溢れてくるものをすべて隠してしまいたかった。「何故」を小鳥のように口ずさむ妻を、黙らせることもできない。口づけなんて、二度とできない。

情けない顔のまま、そっと寝巻きの帯を解く。前が開いて露わになった肌はどこも白い。立派に膨らんだ乳房とくびれた腰。成熟した女の体。杏寿郎という男が暴いてしまった。もう後には戻れない。

布団に横たえ、長い黒髪が扇状に広がる様を、薄ぼんやりと眺めた。ああ、何か。何か言わねば、男として、夫として。せめて役割を果たさねば。

情けなく下がった眉のまま。杏寿郎は、できるだけ優しく見えるように笑った。


「幸せにする」


どの口が言う。



***



翌年、煉獄家に赤子の産声が響き渡った。泣きも喚きもせず名前は立派に子を産み、任務で立ち会えなかった杏寿郎が慌てて駆けつけると、あのぼんやりした顔で「もう三人ほしい」と冗談を言う始末。母親は強いな。杏寿郎は素直に感心した。

それから千寿郎と通いの女中、そして影ながらソワソワしている父の空気も手伝って子育てが進む傍ら、杏寿郎は継子を取って育てることになった。

後の恋柱、甘露寺蜜璃である。


「キャーーー! 赤ちゃん! 可愛い! 抱っこしてもいいかしら?」
「うん」
「ありがとう、名前ちゃん! 柔らかい、いい匂い! 弟が生まれた時を思い出すわ! あっ、ごめんなさい、うるさくしちゃって」


慣れた様子で赤子をあやす蜜璃と、緩く首を振って茶を用意する名前。動と静の二人だが、意外と話は合うらしい。「おめぇ、ガキが生まれた途端に若い女連れ込んだと思われても知らねーぞ」宇髄の下世話な冗談は杞憂だったな。

赤子と蜜璃の二人がいることで、煉獄家は明るく活気付いた。名前に友達ができてよかったな、と深く頷いてしまう。杏寿郎は未だに兄気分が抜けず、名前にどう思われているのかイマイチ分からない。

名前にとって、自分は変わらず幼馴染の兄なのか。意思も聞かずに無理やり娶った、どうしようもない男だと思われているのか。たまに不安になっては、赤子をあやすのを理由に夫の役割を果たしに行く。「二人目」とせっつかれるのも、正直よく分からない。桔梗殿にまた何か言われたのだろうか。


「名前ちゃんは、師範のどこが好きなの?」


そんなある日。たまたま、本当にたまたま、杏寿郎は弟子と妻の会話を盗み聞いてしまった。

聞きたいような、聞きたくないような。うん、聞きたくないな! 即決してその場を離れようとしたが、名前の返事の方が早かった。


「綺麗なところ」


バッッッと顔を向けた先で、薄ぼんやりとした顔が笑みを象った。


「あと、強いところ」


何も変わらず、微笑む名前は幼い日に言葉を教えてやった頑是ない子供で。今でさえまだ子供のようだと思ってしまう幼さを見せる。

変わってしまったのは杏寿郎の方だ。


「杏寿郎さん、すき」


ブワッッッと。

得体の知れない熱が身体中に巡るのを感じた。少なくとも、炎の呼吸を操っている時とは違う、血流の速さ、心臓の拍動。じわりと滲んだ汗が握り拳の指を滑らせた。


「わわっ、兄上、どうしたんですか? お顔が真っ赤ですよ」
「ああ、水浴びをしてくる」
「えっ、それ逆効果」


結婚してから落ちる恋もある。

宇髄が教えるまで、杏寿郎はしばらく様子のおかしい杏寿郎だったとか。





企画へのご参加ありがとうございます! 綺麗な手足は洗えない、のifでもしも煉獄さんと許婚だったら、でした。結果的に煉獄さんの兄力の高さに私が屈しました。手足主的には「子作りするのにキスとか要らなくない?」という首傾げを煉獄さんが勘違いした感じです。煉獄さんの兄力が低くなってからが期待大ですね。素敵なリクエストありがとうございました!

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