ノーバディ・ノーウェア2



シブヤ・ディビジョンの煩雑な空気とドーム内のひんやりとした空気は全くの別世界のように錯覚した。

フカフカの大きな椅子に体を預ける。まだ始まる前の天井は味気のないクリーム色をしていた。


「あ、寝る」
「諦めるな」
「はい」


隣に座った先輩は呆れつつも私にひざ掛けをかけてくれる。優しい。でもこれは余計に寝る。夜空の雰囲気をよりリアルに出すためか、ドーム内の空調はやや低めに設定してあるらしい。


「みんなの幸い」
「はい?」
「銀河を走る鉄道の話、覚えていますか?」


スリーナイン? 見たことないアニメの話をされても……。

一瞬の後、自分の過去の恥ずかしい行動を思い出してそろりと目線を逸らす。


「ままならない現実から夢の世界への逃避。白鳥座の北十字星から南十字星までの列車旅行。かけがえのない友との最初で最後の交流。そして別れ。あなたが考えたとは思えないほど儚いおとぎ話でしたね」
「……私が考えたんじゃないですよ」
「さて、どうでしょう」
「本当です」
「そんな話、僕は知らない」


真顔になった夢野先輩と、苦笑いする私。もうすぐドーム内の明かりが消える。その短い間が永遠にも感じられた。

大学時代の私は馬鹿だった。

この世界は女尊男卑であること以外は前と同じなはずなのに、前世で有名だった文学の大部分は知らない作品ばかりにすり替わっていた。男女比で言えば半々くらいかな。それでも前世と比べれば女性の比率は多めで、さすがだなあと逆に感心してしまった。

私は二つの可能性を考えた。一つはもともとこの世界には前世の文豪が存在しなかった説。もう一つは女尊男卑よろしく検閲によって男性の作品が軒並み禁書に指定されてしまった、男性作家迫害説。私は特に何の根拠もなく迫害説を信じ切っていた。

だって文豪の有名作品の中には前時代の価値観であることを考慮しなければ男尊女卑の表現が多い。お妾さんに不倫に寝取り、娼婦、幼女趣味、フェティシズム全開の文章。優位に慣れ切ったこの世界の女性には刺激が強すぎる。彼女たちはこういう話を受け入れられるか、と聞かれれば、考えるまでもなく無理だと答えられる。

当時の私が夢野先輩に声をかけたのは、偏屈な文学好きであること(初対面の先輩は今よりずっと人当たりが悪かった)が有名で、何より名字が夢野だったからだ。

ある日、前から気になっていた先輩が一人で本を読んでいる現場に出くわして、私は暴走してしまった。


『夢野先輩って夢野久作と何か関係ありますか?』


馬鹿だ。

夢野は珍しい名字にしても文豪本人と必ずしも関係があるとは限らないのに。やっと話しかけることができた興奮と緊張で頭が沸騰して一人でベラベラと喋り倒してしまった。

といっても私は文学に詳しいわけではなく、軽くかじった程度のにわかだ。むしろ学校で習った文豪の作品に社会人になってから興味を持って、これから詳しくなろうとしたところで死んだ気がする。意外と若くして死んだんだなあと思い出したのが大学入学前くらいだったのも奇行に繋がった原因だと思う。

固まった先輩の様子に気付いたのはずいぶん経ってからで。にわか仕込みの知識ほど声を大にして話してしまう前世からの悪癖に血の気が引いた。初対面でしていいテンションじゃなかった。


『その本は実在しているのですか?』


それを聞きたかったんだけど。とは口が裂けても言えず、希望を込めて頷く。先輩は反応薄く『他に何か面白い話はありますか?』と訊いてきた。

それから私が知っている文学作品のあらすじを説明し、先輩が知っているかいないかを判定する不思議な交流が始まった。先輩が卒業するまで二年続いた。結果は全敗で、この世界にもともと私の知っている本はない、という絶望的なものだったけど。

夢野先輩は私を“自分が考えた話を架空の人物が書いた話であるように語る変人”だと認識しているらしい。変人扱いも遺憾だし、文豪や愛読者の皆さんはもっと遺憾の意だろう。残念なことに、いくら否定しようにも現物がないことには否定しきれず、結局その誤解は解けないままだった。


「みんなの幸い。誰かの幸せ。残酷なことです。その誰かの幸せのために少年は親友を失くし、親友は自身の命を失ったのですから」
「残酷って……私は作者自身の理想が込められた言葉だと思いますけどね」
「へえ」
「本当ですって」


真面目に取ってくれない夢野先輩。言葉を続けようとして開始のアナウンスが流れた。


「なら、石榴は誰かのために死ねるのか?」


質問の意味が分からなかったし、ん?と顔を向けてももう先輩は天井を見上げていた。なので聞こえなかったフリをして、始まった星座の説明に集中しようとした。

頭の片隅で『先輩、銀河鉄道の話気に入ったんだなあ』という感想がずっと居座っている。白鳥座の説明が始まったあたりで、プラネタリウムに誘われた理由を察した。本当に好きなんだなあ。本も電子書籍もなくて、私のうろ覚えのあらすじやセリフ回しすら覚えているなんて。どれだけ好きなんだろう。

そんなことをずっと考えていたからか、気が付くと呆れ顔の夢野先輩が私の肩を揺すっていた。


「本当に寝るとは」
「すいません」
「いえ、あなたの真面目さを過信した僕の落ち度です」
「そ、そこまで言わなくても……」


苦笑いですっかり明るくなったドームから外に出る。たった一枚の壁を隔てて、非現実的な空間から夕焼けに照らされたシブヤ・ディビジョンの街が戻って来た。

夢野先輩は夜に用事があるらしく、お見合いだかデートだかよく分からないお出かけは私を駅に送り届けてお開きになる。先輩にプラネタリウムの感想を聞きつつ歩けばすぐに駅の入口が見えてきた。時間が早く感じるということは先輩との会話が楽しかった証拠だ。

ちょっと寂しく思っているのも、きっとそうだ。


「これ、差し上げます」
「え、これ、」
「作家自ら手渡しです。有り難く受け取りなさい」


お、おう。

本当は駅内の本屋で買おうと思っていた文庫本。ページを開いた跡が残るそれを、先輩の言葉通り有り難く受け取る。自分で買えと言っていた言葉自体が嘘だったみたい。優しい嘘だ。感動した。


「帰りの電車で読ませていただきます。ありがとうございます、夢野先生」
「帰りの電車……まあ、いいでしょう」
「何か不都合でも?」
「いえ、忘れてください」


忘れてほしいならその顔どうにかしてほしい。口元に手を当てて眉間にシワを寄せている顔。不機嫌、にしては棘は少ないし、気まずい感じ、かな?

先輩が笑顔のポーカーフェイスをするようになったのは三年前、先輩が四年生になったあたりだった。けど今の先輩は出会って一年目の人嫌いのオーラをビシバシ出していたあの先輩に近い。懐かしい。


「今の先輩は分かりやすいですね」
「分かりやすい、ですか?」
「はい。私、今日先輩に会えて嬉しかったです。先輩がお見合い相手で良かった」


先輩の手を取って両手で握手する。嘘をつく時、人は目で嘘はつけても手足の動きで嘘がバレる。バレたくない時は手や足を組むか何かして隠すこと。教えてくれたのは先輩だった。逆に言えば、両手を先輩に触れているこの状況は私が一切嘘をつけないことを意味する。きっと嘘つきな先輩は、思い出すまでもなく分かっている。

ちょっとだけ丸くなった目をじぃっと見上げて、さっきの答えを伝えることにした。


「夢野幻太郎さんの幸いを、お祈りしています」


私は自己中だし、楽に流されて生きたい人間で、他人のために死のうだなんて一度も考えたことがないけど、もしかしたら将来、本当に好きになった相手のために死んでしまうかもしれない。だとしても、その誰かは不特定多数のみんなじゃなくて特定個人の誰かだ。滅私の奉仕は無理。みんなの幸福なんて祈れない。私にはそんな気概も芯もないし。……それでも。

夢野先輩のためには死ねないけど、祈ることくらいなら私でもできる。

一度だけギュッと力を入れると、先輩の手がピクッと震えた。あ、手汗。ジワリと熱くなったそれが、どっちのものなのか一瞬考えた。先輩、涼しい顔してるし、多分私のだ。あれ、なんでこんな、突然手汗が出てきたんだろう。私、緊張してる? なんで、と少し考えて、さっきのセリフが急に恥ずかしくなった。

私、夢野先輩を口説いてるみたい。


「っあ、で、電車! 時間なので、失礼します! 今日は本当にありがとうございました!」
「あ……」


本当は電車の時間なんて記憶していないのに、手を離す口実が欲しくて口から出まかせを言ってしまった。


「ま、待て!」
「え」


離した手が今度は私の手首を掴む。

──石榴。

音もなく唇だけで呼ばれた気がした。それは気のせいなのか本当なのか、分からないくらいにビックリした。今この瞬間の夢野先輩は、今まで一度も見たことのない不安な顔で、でも必死に隠そうと眉間にシワを寄せていて、緑色の目は真っ直ぐで。「後生だから、僕を、」握る力がギュウっと強まった。


「俺のことを、忘れないでくれ」


掴んでくる手は震えている。手が震えているのは極度の緊張か、あ、でも嘘をついていたらよく動くんだっけ。うーん、でも、でも。

初めて自分を俺って呼ぶ夢野先輩に会えたなあって。


「先輩みたいな素敵な人、忘れられるわけないじゃないですか」


先輩の手の力が緩んで、ゆっくりと私の手の甲を滑るように外れる。先輩はやっぱり眉間にシワを寄せていて、何かを言おうか言うまいか逡巡している。もしかしていつもの“嘘ですよ”が来るのかと、私は先に「本当ですよ」と念押しした。先輩はキュッと唇を噛む。黙って二度三度と頷く姿は珍しく弱っている風に見えた。


「大丈夫ですか? 吐きそうな顔してますけど」
「馬鹿、頓痴気、昼行灯、空気読め」
「なんで!?」


最後の以外は全部馬鹿って意味では。私大学と一緒に馬鹿も卒業したつもりだけど?

結局作家の語彙力で罵倒され続け、逃げるように電車に乗り込んだ。これが二年ぶりの再会の結果とは、夢野先輩やっぱり私のことウザい後輩だと思っているんじゃ……。

気持ちを切り替えるためにもいただいたばかりの文庫本の最後のページを開く。余談だけど、私は後書きから読むタイプの人間だ。ネタバレ満載だとしても作家が伝えたいテーマや関係性を知ってからの方が作品をより良く楽しめる……気がする。


『悪夢を口外すれば正夢にならないという俗説は悪い予感にも適応されるだろうか。』


相変わらず突拍子もない書き出しだった。

ふんふん読み進めるものの、小説の内容は掴めない。夢野先輩の本の後書きは全部読み終わってから言いたいことが分かることが多い。知っていても読んでしまうのが癖というものだ。


『編集部、出版部、装丁デザイナー、この本に関わった全ての人間に多大なる感謝と親愛を。──そして、果実の君へ。この小説のように、君が僕の人生と関係のない場所で幸せになりませんように』
「?」


最後の締めの段落。夢野先輩の小説の後書きで、特定個人に宛てたコメントは初めて見た。不思議に思いつつ、一度本を閉じて一番初めから読み進める。

三百ページほどの文庫本を読み終わったのは一週間後。やっぱり主人公の青年が幸せを見つけるハッピーエンドなお話だった。

本の中で唯一果物の名前を持っている女性。青年の大学時代の回想でセリフだけ登場する彼女。青年は彼女のことを鬱陶しくも、どこか憎めない存在として想い始め、大学卒業と同時に会えなくなった彼女を初めて恋しく感じる。これは異性に対する思慕なのか否か。判別つかないまま社会の荒波に呑まれ、結局彼は彼女への想いどころか存在すら思い出の彼方に追い遣ってしまう。

彼女の描写はセリフしかなく、見た目も年齢も読者には分からない。ただ青年の主観混じりの認識だけが固めの文体で数ページだけ綴られている。

青年曰く、彼女は“自分が考えた話を架空の人物が書いた話であるように語る変人”だった。

つまり、どういうこと?

この彼女のモデルが私で、後書きの“果実の君”がこの彼女だとして、『僕の人生と関係のない場所で幸せになりませんように』とは。私に、先輩のそばで幸せになってほしいという遠回しな言い方で?

それって、先輩が私のこと好きみたいだ。


「まっさかぁ」


私は馬鹿を卒業したので、馬鹿みたいな考えはすぐに捨てる。結局分かったことと言えば、先輩はいくつになっても難解な御仁だなあということくらいだった。というか、私は先輩の幸せを願っているのにこの本を出す前の先輩は私に幸せになってほしくなかったのか。

妙にそわそわする。この処理しきれない気持ちをどうすればいいんだろう。うーんうーん。唸ること五分。恐る恐るスマホで最近できたばかりの友人にメッセージを送ることにした。


『先輩のことを考えすぎて苦しいです。どうすればいいでしょうか』


秒でついた既読の文字。なのにいくら待てど返事は来ず、もう一度読み返そうかと本を取ったあたりで知らない番号から電話がきた。


「はい」
『もしもし、小生は夢野幻太郎というしがないラッパーですが、こちら勘解由小路石榴さんのお電話で合っていますでしょうか』
「はい?」
『おお、合っていたか。それは僥倖。早速、我への返事を聞かせてもらおうか』
「はい?」
『まあ! 今“はい”とおっしゃられましたね!? 間髪入れずにお答えになるほど妾のことを憎からず想っているなんて! こんなに嬉しいことが他にありましょうか!』
「夢野先輩、照れてます?」
『……照れてません』
「わあ」


僕、私、俺以外のバリエーションは初めて聞く。ここ一週間で二年間の夢野先輩のイメージが大進化してしまった。


『何故僕ではなく乱数に相談するんです』
「先輩の連絡先知りませんし」
『先日聞けば良かったでしょう』
「後出しで言われても」
『ああ言えばこう言う』
「妬かない妬かない」
『……』


え、図星でした?

急に黙ってしまった先輩。あまりにも素直というか、分かりやすい反応にこっちが照れてしまった。先輩は嫌な雰囲気は隠さないのに好意はめちゃくちゃ分かりにくい人だった。やっぱり会わなかった年数で少し変わってしまったらしい。


「先輩、私、馬鹿は卒業したつもりだったんですけど、勘違いしてました」
『そうですね、あなたはずっと馬鹿だ』
「そうなんです、馬鹿なんです。だから、察することは苦手で……本で遠回しに伝えられても、私には分からないんです」
『、あなた』
「夢野先輩に直接言ってもらわなきゃ、私、分かりません」
『……いい性格になりましたね、本当に』
「先輩の教育の賜物です」
『ハア……仕方ない。一度しか言わないので心して聞きなさい』
「はい」

『石榴』


低く、艶っぽい声で名前を呼ばれてドキッとした。間を置いて、電話の向こうで息を吸う音。先輩の言葉の続きを待つ緊張。あ、胸がドキドキする。先輩の言う通り心して聞きたいのに、心臓の音が邪魔でだんだん聞きづらくなってきた。ああ、楽しみだなあ。

先輩──



『好きだ。ずっと僕のそばにいてほしい』



──あの本でどんなことを伝えたかった、ん、だろ…………

……………………????


「嘘っ、先輩私のこと好きなんですか?」
『は?』
「あっ」


あっ、あっ? あー……ああ! なるほど!?

遅れて納得している間に『分かっていて言わせたかったんじゃないのかよ』と引くほどドスの効いた声が聞こえてきた。「いつもの嘘ですか?」『え? なんだって?』「すいませんすいませんごめんなさい」謝罪と共に通話を切ってしまったのは生存本能というヤツです。スマホが鳴りっぱなしだ……こわい……助けてお母さん……。

しばらくしてかかって来た乱数さんからの電話。気を抜いて出た先に何故か夢野先輩がいて。泣く泣く地獄のようなデートの日程を組まされたのであった。



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