悪魔のいろ



見知らぬオジサンだった。

そうであるはずだ。こんな映画の中から出てきた成金ファーコートの知り合いなんているはずがない。でもサングラスをズラして覗かせた瞳はしっかりと私を捉えていた。


「ほらよ」


差し出された大きな箱はドラマで見たことがある、高い服を入れる包装によく似ていた。「着替えろ」試着室で箱を開けると、目に飛び込んできたのは爽やかなライムグリーン。触ったことがない高級そうな布で、四苦八苦しながら着ると、胸元が大きく開いたデザインが我ながら貧弱な体をむしろ強調してしまっている。渡された化粧品も使ったことがない物ばかりだった。何とか支度を整えて履き慣れない華奢なヒールに足を嵌め込む。スケートリンクを歩く調子で再び男の前に戻ってきた。


「バケモノかよ」


顔に血が集まる。失礼以前に正論だった。血管が浮いた手の甲で頬を擦られ、「ったくよォ」と元の試着室に連れ戻される。簡素なドレッサーの引き出しから拭き取りシートを抜き取り、目元と口元を拭われ、浅黒い指が慣れた様子で派手な紫のアイシャドウを取った。


「地味な色ばっか使うから地味なんだよ」


「目ぇ閉じろ」ぎゅっと閉じた私に「軽くな」と笑い混じりの声。さっきの紫を取った中指が瞼の上を往復している。知らない男の人に顔を、目元を触られている事実。体が芯から凍っていく。それもお構い無しに、次はブラシでゴールドのアイシャドウを塗り出した相手。私なんかより全然手慣れていた。


「こういうの、」
「あ? あー、お前さんみたいなお嬢ちゃんにやってやる機会がそれなりに、な」


私みたいな…途端に剥き出しの腕一面にぶわりと鳥肌が立った。


「ほら笑えよ。唇引き延ばすみてぇに」


無理だ、と言えない圧を感じて言う通りにすると指で顎を持ち上げられる。笑えているかは、分からない。可愛らしいローズピンクの口紅がこの場で酷く浮いている。「安心しろ……すぐ終わっからよ」それはきっと、化粧だけの話ではない。「んーっま、だ」厚めの唇を動かすお茶目な仕草さえ恐ろしく、ほとんど震える形で上と下の唇を擦り合わせた。


「よく出来ました」


私は今日、この男に売られる。

うちの施設が資金難だということは知っていた。院長がどこかで助成金を使い込んでいることも。見て見ぬ振りをしたのはあと二年の我慢だと思ったから。公立でお金がかからない高校に入れて、卒業したらこんな施設とこから逃げられるって。そう言い聞かせて、なのに、「頼む、コレでどうにか待ってもらえないか!?」突き飛ばされた感触は、まだ背中に残ってる。


「院長先生はお前を借金のカタに売り飛ばしたんだぜ? 酷ぇよなァ、施設の子供はテメェのガキじゃないってのに」


改めて言われると、背けていた現実に無理やり向き合わされた気分になった。未だ顎に添えられた指がほんの少しだけ肌にめり込む。止まらない震えを見かねてか、オジサンの黒いコートが上から降ってきた。「着とけよ、出番はまだ先だからな」出番ってなに。そう聞きかけてやめた。

買った私をまた違う誰かに売る。オジサンはその仲介でしかない。とろとろコートを肩にかけると、まどろっこしいと言わんばかりにコートごと肩を抱かれる。黒い毛玉のようになった私を連れて、外に停めてあった車に乗り込んだ。


「なんで、このドレスなんですか」


見下ろしたドレスは空飛ぶ豚を待つ歌姫の衣装に似ていた。…やっぱり似合っていない。思わず尋ねたのは虚勢だ。従順な商品である立場を受け入れてたと思われるのは、恐怖以上の屈辱だったから。「そりゃあ、」サングラス越しの視線が隣から刺さる。


「緑は俺の色だからな」









「おうおう、楽しそうなことやってんな。俺も混ぜてくれや」


初めて涙が溢れた。

連れてこられたのは古びたホテル。狭苦しいエレベーターで四階に上がって、一番奥の部屋に入ると若い男が複数人、カメラや照明の準備をしていた。オジサンは彼らに二言三言軽口を言って、「じゃ」と手を振って出て行ってしまう。残された私は無遠慮に腕を掴まれてベッドの上に座らせられた。

「楽にしていいよ、今日は写真だけだから」最初はそんなことを言っていた。笑ってとか、こんなポーズしてとか。簡単なリクエストだったのがだんだんエスカレートして……「じゃ、ドレス脱ごっか」そこで、もう無理だった。

なんで私が、他人の借金でこんなことをしないといけないのか。ずっとモヤモヤしていたものがハッキリと輪郭を持って現れた。ベッドに乗り上げた時にヒールは脱いだ。あれを履いているより裸足の方がまだいい。とっさに手元にあった枕を投げつけて部屋の外に走り出した。

冷たい床は掃除がされてなくて砂利のようなもを踏んだ気がする。それも気にせずエレベーターの前に着いた時、私は逃げきれないことを悟った。エレベーターは一階にあった。階段は見当たらない。ボタンを押して、二階のランプが点く頃には追いついた彼らに引き倒された後だった。

罵倒。ビンタ。短い髪を無理やり掴んで引っ張られる。ブチブチブチッ。頭皮から嫌な音が聞こえたその時、エレベーターのランプが四階に点いた。

──ポーン。

開いた狭い箱の中には、さっき出て行ったはずのオジサンがいた。

「社、長……」床に倒された時に破れたドレス。腰の上に馬乗りになられている今。張られた頬を安堵の涙で濡らしている。彼らが社長と呼ぶ男こそがそもそもの原因だというのに、私は確かに彼を見てホッとしてしまったのだ。


「で、俺は手ェ出すなって言ったはずなんだが……おっかしいなァ。テメェらのこれは手じゃなかったのか?」


私に馬乗りになっていた男の手をオジサンはぺちぺち叩く。すると急に離すものだから掴まれていた頭が床に衝突した。


「似てるとこから生えててまどろっこしいんだよ。いっそ切り落としちまう? ……ははっ、冗談だよジョーダン!オジサンの笑えない洒落。寒かったかな、悪い悪い。今日はお前ら帰っていいぜ」


手をぷらぷら揺らしたオジサン。その言葉を待っていたと言わんばかりに、男たちは足早にエレベーターに乗り込んだ。残ったのは二人。


「なんで、」
「止めるに決まってるだろ、お前は商品、アイツらは売る側。今日のは前撮り見たいなもんで仕込みじゃねーんだよ」


何を期待したんだろ。諦めきって泣く気力もなかったはずなのに。なんだか無性に悲しくなって、涙がぼろぼろ滝のように流れ落ちる。「おい泣くなよ、せっかくの綺麗な化粧が台無しじゃねぇか」「男なんて、」恥も外聞もなく鼻をすする。「政権に虐げられたストレスを手近な女にぶつける小物のくせに」


「そうやって、ちまちま汚い金稼いで満足すればいい。なんせ男の方がっ、生きにくい世の中だもの、可哀想にっ! 高額納税者として輝かしく名が売れるよう、せいぜい頑張っでぐだざいねっ!!」


言の葉党が政権を取ってから男性の社会的地位は落ちた。それを皮切りに院長のハラスメントは徐々に悪化していった。もともと男尊女卑の気はあったけれど、この二年はもっと酷い。

オシャレは贅沢だ。化粧はみっともない。女は見目ばかり気にする。考える頭もないくせにと、今は髪すら伸ばせない。もううんざりだった。

男なんて嫌いだ。
オジサンなんて、もっと嫌い。

途中から泣きすぎて何を言っているのか分からなかった。瞼腫らして、鼻水垂れ流して、子供みたいに喚きに喚いた。「汚い金、ねぇ?」低くて、静かな声だった。さっき男の手を叩いた時よりずっと。


「金に綺麗も汚いもあるか」


グイッと顎を掴まれて無理な体勢で目線を合わせてくる。見下ろす目がサングラスの下からチラチラと覗いた──灰色と緑色。色違いの瞳が作り物のように冷たい色をしていた。


「やーめた、っと」


「えっ」「お前を売るの、やっぱやめるわ」そんな軽口で、私の人生は方向転換した。まだ顎を掴んでいる手は力が弱まり、私の涙を塗り広げるように指が蠢く。冷たい空気のまま、声だけは弾んだ調子で、彼はまた私を突き落とした。


「今日からお前、俺のイロだ」


「い、いろ?」「オンナって言や分かるか?」なに? なんの話を、この人は……


「御誂え向きに俺の色のドレス着てるしな、ま、用意したのは俺だが。お? 鳥肌立ててどうした? やっぱ寒かった? 悪ぃな、オジサンこう見えて結構歳食ってて」


するり。柔らかく、優しく。指はまだ私を弄んでいる。そうやって私の人生もこれから弄ばれる。ううん、この人と会ってからとっくにそうだったんだ。さっきまでの威勢が小さく縮こまる。


「おいおい今更なにしおらしくなってやがる。女に虐げられてストレスフルなオジサンを慰めてくれよ。俺ァ可哀想なんだろ?」
「ぁ…すみまっ、」
「謝ってんじゃねーよ。言ったのはお前だぜ? 俺ァ感動して涙ちょちょぎれるところだったわ。あのタイミングで勇ましく啖呵切ってくれるなんてよ、さっすが女様様だなァ」


「だいたい、俺より歳食ってる金持ちのデブに買われるのと俺の隣にいるの、どっちがお前にとってお得か考えるまでもねーだろ」いやに具体的な例だ。でも、それは……確かにその通りだった。不特定多数の誰かに触られるより一人だけの相手ならまだ耐えられる、かもしれない。


「可哀想な男に使われる可哀想な女にしてやるよ、お嬢ちゃん」


悪魔に魂を差し出すようなものだ。分かっていても、私はゆっくりと顎を引いた。そうするしかなかった。ここから逃げられるのなら、なんでもマシだと。頷いたと判断した相手が初対面の時と同じニヤケ顔を浮かべる。また鳥肌が立った。


「ところでお嬢ちゃんいくつ? 14?」
「……17」


最低、を飲み込めたのは幸か不幸か。



***



「よろしくお願いします」


まばらな拍手を浴びて頭を上げる。指示された場所に向かって歩くと、あらかじめ用意されていたのかと疑ってしまうほどぴったりの位置だった。


「はじめまして」


人生で今ほど綺麗な作り笑いをしたことはない。そして、異性に照れられたのも初めてだ。

一ヶ月で髪の毛はベリーショートからショートヘアと呼べるくらいに伸びた。髪型にも気を使ってるし、化粧はやっと綺麗にアイライナーを引けるようになった。リップだって可愛いピンク色。鏡で見た自分は全くの別人みたいに“女”らしかった。

それもこれも、彼のため。


「お、おう。ハジメマシテ」
「えっと、名前は?」
「……山田二郎」
「山田くん。さっきも言ったけど

──天谷奴です。これから隣、よろしくね」


可哀想だな、あんな悪魔に目をつけられて。できる限りにこやかに挨拶すると、ウブな反応が返ってきて余計に胸が痛んだ。


私もこれから、山田くんにとっての悪魔になるんだ。




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