Once bitten, twice shy.



『ひぃくん、あのね、』
『その呼び方やめろって。もう高校生なんだぞ』
『だって、ひぃくんはいつでも私の弟だもの』
『へいへい。そろそろ行かないと遅刻すっぞ、姉貴さんよ』
『、……うん、いってきます』


強いお姉ちゃんでいたかった。


『あれで清純ぶってるんだよアイツ。何しに学校来てんだろ』
『男漁りでしょ。あんな顔してビッチなの。男なら誰とでも寝るんだって』
『マジ? オレでもイケっかな?』
『イケるイケる』
『コイツでもアリとか嘘じゃん。どんだけ遊んでんの天国』


せめて、卒業まで。あと少しだけ我慢すれば。


『アンタの弟、あそこの進学校なんでしょ?』


我慢して、
我慢、
我慢を、
気持ち悪い、
でも我慢して、
我慢しなきゃ、
がまん、

お願い、でも、


わたし、────。


──の人────飛ば────、

走って、走っ──────階段────、

──つ────遠い────し────。

─────────────────────

─────────────────────

─────────────────────

──────────たら、

きっと。



『ごめん、ひぃくん』



“二度と、目覚めない。”




***



──“ああ、起きてしまった。”

目を開けた瞬間に、冷たい絶望が体中を支配した。まるで二度と目覚めたくなかったような。おかしいな、別に何か嫌な用事があるわけじゃないのに。

妙に霞む目で瞬きしようとして、なんだかそれすら億劫だった。昨日の記憶がない。深酒でもしたのだろうか。無理せず目を瞑っても眠気は意外と来なかった。もう寝たくないとすら思えてくる。仕方なく目を閉じたまま、起き上がろうと体に力を入れた。

全然、ビクともしなかった。


「っ、っ」


驚きの声が音にならない。咳込みかけても咳をする力がない。喉の違和感が発散できないまま、全く動くこともできず混乱した。

怖い。怖い。

震えることすらできない。見たところ普通の部屋の中にいるのに、体ぴったりに誂えられた箱の中に閉じ込められている気になってくる。そもそもここはどこだろう。天井にある蛍光灯は公共施設、市役所とかで見る古ぼけたタイプだった。絶対に私の家でも実家でも職場でもない。知らない場所で、身じろぎ一つできない。

何もできない。何も、何も。本格的なパニックに陥りかけたその時、そんなに離れていないところから何かの音がした。ペタペタという音は、スリッパか何かだろうか? こちらに近付いてくる。

カサリ。なら、これは?


「っ天国さん! 天国さんを呼び戻して! 早く!」


アマグニ、さん? 不思議な名前だ。

ペタペタ音が遠くに行って、頑張って目を開ける。視界の端に白い物が見えた。何だろう。ジッと見たくても首を動かせないから仕方ない。ドライアイになる覚悟で必死に視線をそれに向けていると、忙しない革靴の音と共に黒い足が急に割り込んできた。

一瞬、いや、もう少しだけ長く留まった足は、それから勢いよくこちらに近付いてくる。その動きに合わせて相手の上半身を、首元を──顔を見た。

……だれ?

知らない人、だと思う。こんなに明るい髪色に染めている知り合いはいない。個性的なファッションも相まって余計に知り合いではない確信が湧いてくる。

黙って観察していたその最中、彼の顔から光る何かが粒になって落ちてきた。……涙、だった。

“私より年上の男性”が泣いている。

初めて直面する事態に心底びっくりした。男性がはくりと唇を震わせ、何かを言おうにも言えない顔のまま数秒。親指で両目をサッと拭って男臭く笑う。

全く知らない誰か、のはずだ。


「とんだ寝坊助だな、姉貴」


人違い、では。



***



天国名前。それが私の名前であるらしい。

歳は今年で三十六歳。十八歳の時に不慮の事故で頭を強く打ち、そのまま十八年間寝たきり。そしてつい最近、突然に目覚めたのがこの私だとか。私は二十五歳なんだが。

起きてからじわじわと思い出してきたのは、事故ってコンクリートの道路に叩きつけられた記憶。名前は生憎と思い出せなかった。頭を強く打ったのか記憶がいろいろと抜け落ちている自覚がある。けれど天国名前という名前ではなかったことだけは鮮明に覚えている。

鏡を見せてもらったところ、明らかに知らない顔だった。タレ気味の灰色の目がクリーム色の髪の隙間からこちらを興味深そうに覗き込んでいて、ほぉと息つく口元にぽつんと付いたホクロが妙に目を惹く。根元を見ても染髪した形跡はなく、当たり前にカラコンも入れていない。これは、日本人じゃないのでは? と疑問に思ったものの、お医者さんや看護師さんたちもカラフルな色をしている。世間話も噛み合わず、懐かしの曲や流行語も通じない。なんだこれ。一見普通の病院のようなここは、日が経つにつれ全く知らない異世界に迷い込んだ戸惑いに変わった。

棒の腕を見下ろす。白い。いや、もはや青白い骨と皮ばかりの手。長年連れ添ったペンダコもない指。可愛らしいサイズの爪は雑誌で羨ましく眺めていた手タレのよう。栄養不足で縦筋入りまくりだが。とにかく絶対に私の手ではない。なのに、ちょっと力を入れるとピクピクと痙攣する。私の意思で動く、私の手だった。

私は、どうなってしまったんだろう。

意識というか、生き霊の状態で他人の体に入り込んでしまったオカルト説を採用したとして。事故後の私の体は昏睡したまま病院に運ばれたのか、それとも打ちどころが悪くてそのまま……。

私がここにいるのなら、天国名前はどこに行ってしまったんだろう。

まだこの体の中で眠っているのか、私と同じように入れ替わりで私の体に入ってしまったのか、それとも私が入ってしまったせいで……。

そんなことを毎日頭に浮かべて、日に日に磨り減っていく自分を自覚していた。


「よぉ、元気か姉貴」


知らない人が馴れ馴れしく部屋に入ってくる。スッピンを見られるのが嫌で、でも動かせるほどの表情筋もなくて。相手には私の不承不承な気持ちなんてぜんぜん伝わらなかった。

彼の名前は天国獄さん。……獄さんは、天国名前の一個下の弟らしい。


「起きてていいのかよ、リハビリで疲れてるんじゃねぇか?」
「っ、っぅ」
「あー、無理に喋んな。それよりカーディガンどこやった? 体は冷やすなよ」


びっくりするくらい長い間寝たきりだった体は石のように動かない。もちろん声帯も動かず、しゃがれた老人のような声が一つ二つ音を出すだけ。それでも獄さんは私に声をかける。返事のない声かけに慣れてるようで……いや、実際に慣れているんだろう。天国名前が寝ている間にやってたことを今もやっているだけなのだ。

視界の端に見える白い花。目覚めた時に持ってきたのと同じ、香りが強い百合の花束をベッドサイドに置いて、獄さんは棚の方を漁り出した。それからお目当てのカーディガンを見つけて私の肩にかけてくれる。「ずいぶんくたくただな」笑う顔は少しだけ苦味が混じっている気がした。

「ん?」強気な眉毛が跳ね上がる。


「やっぱり疲れてるだろ。そういう顔してるぜ」
「ぃ、っぐ」
「いいから寝とけ寝とけ。……いくら寝過ごしても構わねぇが、次も絶対に起きてくれよ」


軽いジョークを言うノリで、そんなことを言う。

ぶっきらぼうな口調のわりに丁寧な手で私の肩まで布団をかけて、それから花を生けるための花瓶を借りに行ってしまった。

全く眠気の来ない目を事務的に瞬かせる。本当に眠くないのに。眠くなってほしかったのは、私か、獄さんか。

週に二、三度やって来て甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼は、ずっと眠っていたお姉さんが目覚めて泣いた。年上の男性が泣くのを初めて見て、戸惑いがほとんど。罪悪感がちょっぴり。どうにもできなくて、見たくもなくて、それでも逸らせない視線を向け続けて。少なくともこの体が彼の“姉貴”であることだけは理解し、納得してしまった。

その“姉貴”の中に別人が入ってると分かったら、彼はどう思うだろう。

考えるまでもない答えが頭の中に浮かんで身震いした。絶対にバレてはいけない。少なくとも記憶喪失のフリくらいはしなくては。

とはいえ、私は一人っ子だ。親戚に年下の子もいなくて、姉の気持ちなんて分かるわけがない。それも年上の男性相手に弟扱いと来た。難易度ルナティックか。

姉のフリなんて、分かるわけがない。

それは、私が今の記憶を思い出す一週間前の憂鬱だった。



***



「こんにちは名前さん。医師の神宮寺寂雷です。……お久しぶりですね。私のことは、覚えていますか?」
「っ、ぉ、」
「ああ、失礼。お返事は結構ですよ」


長髪の物腰柔らかな男性は新宿からわざわざ名古屋まで来てくれたらしい。隣で複雑そうに腕を組んでいる獄さんが言うには、獄さんとは中学からの友人で、つまり私とも面識がある、と。

そうは言われても、相手は獄さんとは別の意味で大人な雰囲気の男性だ。彼を年下扱いなんて絶対無理。なんて呼んでいたのかも分からないのに。声帯が衰えているのをいいことに、私は黙って見返すだけに留めた。

その手が一瞬で通じなくなるとは思わなかった。


「では失敬して。これから名前さんにヒプノシスマイクによる回復治療を施します。一度の効果は微々たるものですが、続けていけば飛躍的に良くなりますよ」


…………Pardon??

後半はリハビリの先生に何回か言われたことがある。けど前半のひぷっ、ぴぷの? マイクとは聞き間違いか? と、思ったその時には白衣のポケットからスタンダードなマイクを出すものだから驚きだ。さらに驚いたことに、独特の低音が響いた途端に、神宮寺さんの背後に謎の金ぴかオブジェが出現したのだ。


「いきます」


ダメです。

そう言えたらどんなに良かったか。あっという間に謎の音楽……パイプオルガンのような伴奏とスクラッチ音の不思議なコンビネーションと共に、語りかけるようにマイクに声を吹き込んだ。


「ふぅ、調子はどうですか」
「ど、って、きゅうに、……っ!?」


急に変わるわけないでしょう? という抗議の冒頭がつっかえながらもちゃんと出た。は?


「この治療はあくまでリハビリの促進を目的としたものです。名前さんの脳に直接働きかけて一時的に回復したと誤認させただけで、リハビリを続けなければ根本的な回復には至りません。これから頑張りましょうね」


………………はい?

答案用紙に花丸でも付けるノリで微笑む神宮寺さん。ぽかんと置いてけぼりの私。そこに深い溜息が一つ、獄さんから落とされた。


「疑っていたわけじゃねぇが、やはりマイクの腕も一流だな」
「一流にはまだ及ばない。だが、私もここまでのスキルを獲得するのに苦労したから」
「苦労、ねぇ。お前がひーこら言ってるところなんざ全然想像つかねぇよ」


なんだかどことなくギスギスしている気がしないでもない会話をよそに。さっきより断然軽くなった体を起こすと、一瞬でも自力で上体を起こせた。本当に一瞬で力尽きて「おいッ、急に動くなッ!」と獄さんに叱られたけれど。驚きすぎて何もかもまん丸になった顔が相手に伝わったのだろう。


「姉貴が寝ている間に、世の中いろいろ変わったんだよ」


変わりすぎでは?


「本当ならシンジュクか近場の病院に転院させたいのだけど、獄がね、」
「おい!」
「照れる必要はないだろ? 獄が名前さんと離れるのを嫌がったから、転院は無しになったんですよ」
「お前は、余計なことを……っ!」


チッ。大きな舌打ちと、赤くなった耳。照れている。これ以上ないほど分かりやすく。それに困ってしまったのは私で、忘れていた居心地が悪さが秒速で戻って来る。若気の至りを思い出したみたいに急に奇声を上げて逃げたくなった。

だって、獄さんがずっと一緒にいたい相手は私じゃなくて天国名前なのだから。


「大丈夫、私も月に何度かこちらに来ますから、また会えますよ?」
「寂雷……一応聞いておくが、口説いてるわけじゃないんだよな?」
「……さあ? 獄にはどう見えている?」
「お前に頼んだ俺が馬鹿だった」
「冗談だ、冗談」
「お前の顔は冗談に見えないんだよッ!」


さっきの比でない勢いで食ってかかる獄さん。まあまあ、と笑う神宮寺さん。怒られている本人より私の方が怖がっている不思議。大きな声は苦手だ。誰かが怒ってると訳もなく落ち着かない気分になる。

だから、何も考えずに声を上げた。


「ひ、とゃさん、ぉち、って、くださ、」


傷付けると分かっていたら、ずっと黙っていたのに。

ピタリ。獄さんが神宮寺さんに詰め寄ったまま固まった。固まって、首だけがゆっくりとぎこちなく私の方に向く。少しだけ見開かれた目が怯えるようにゆらゆら揺れて。私は自分が失言したのだと直感した。

……あ。実の弟に敬語を使ってしまった。


「ああ、やはり記憶が混濁しているんですね」


神宮寺さん、恐ろしい。



***



『ありがとな、空却』


一度だけ、獄が臆面もなく真剣に礼を言ってきたことがある。

曲がりなりにも人を殴って停学になった中坊に言うセリフじゃない。それでもいつもみてぇに笑い飛ばせるような軽いモンじゃねーことは、当時付き合いの浅い拙僧にも分かった。


『お前みたいなヤツがいたら……いや、なんでもない』


後から知った話。獄の姉貴はいじめが原因で自殺未遂をして、十八年経った今でも眠ったままなんだと。

獄は姉貴がこうなるまでいじめられていたことに気付かなかった。そのことをずっと悔いている。

定期的に病院に行っても、病室まで行けることは稀で、いつも適当な花を買って看護師に病室に飾ってもらう。獄が学生の頃は親が借金してなんとか延命措置をしていたらしい。その金の分も合わせて獄が弁護士になってから時効になる寸前に加害者どもから慰謝料ぶんどって治療費に当ててる。最先端の医療を惜しげもなく注ぎ込んで、負けっぱなしの神宮寺寂雷にも頭を下げて尽力していた。

それでも、姉貴は目覚めなかった。

十八年。拙僧の人生とほとんど変わらない時間を、獄の姉貴は眠り続けている。……つい最近までは、な。


「こん、っは」


電動ベッドを起こして椅子のようにもたれかかる女。十八から十八年も寝たきりだった女は、拙僧とそう変わらないように見えてもう三十六だ。人生と同じだけ寝て過ごした結果、枯れ木のような細さの腕が布団の上に放り出されている。点滴で栄養を取ってるのか、人間に管が繋がっているのは見慣れなくて痛々しい。まだまだ本調子じゃねぇのは当たり前で、まともな挨拶すらままならない。

起きてる時では初めて会った拙僧と、本当に初対面の十四。「獄さんのお姉さんにご挨拶したいッス〜!」とかなんとか駄々こねた十四に付き合って渋々見舞ってやったが、正直本当に会えるとは思っていなかった。自殺未遂をした経緯が経緯だ。きっとトラウマを刺激しちまうからと、拙僧なりに気を遣ったわけだが、どうやら知らない人間が来ても拒絶しない程度には回復したらしい。

男に傷付けられた記憶は、吹っ切れたのか無かったことにしているのか。

答えなんざ本人が見つけることで、拙僧らが勝手に憶測するモンじゃねぇ。人と関われる精神状態ならまだ救いはある。

甲斐甲斐しく、そんでもってぎこちなく姉貴の介抱をする獄。弟というより母親みてぇな小言を言うクソ弁護士を面白がっていると、姉貴の目がこっちに、……十四が持っていた見舞いの花束に向いた。


「ばっ、らぁ?」


は?


「いや、コレは、」
「空却」


小さく首を振った獄。それ以上は言うな、と目で物を語ってきやがる。ハァ? なんでだ。そう顔で問うと、答えは見舞いを終えた病院のロビーで返ってきた。


「記憶喪失ぅ?」
「声が大きいんだよバカガキ!」
「テメェも大声出してんじゃねぇかクソ弁護士!」
「獄さんも空却さんもうるさいッスよ! 病院ではお静かにッス!」
「「お前にゃ言われたくねぇ!」」
「うぇっ、理不尽!」


獄の姉貴は花が好きだったらしい。特に薔薇が好きで、いろんな種類を図鑑を引っ張ってきて獄に語って聞かせていたのだと。その姉貴が、拙僧らの持ってきた花束を見て薔薇だと言った。


「芍薬と薔薇を間違えるかよ」


確かに咲きかけでまだ6分咲き。満開の時よりは薔薇っぽいが、それにしたってな。

同じ考えらしい獄が渋いツラして押し黙る。分かりやすく“迷っています”という雰囲気を出しているのが珍しく、マジで真剣に考えて、ひねり出してきたのが、


「これで良かったのかもしれない」


……馬鹿の極致で踊る阿呆、ってか。

その時の獄は、何もかもを呑み込もうとして途中で失敗したみてぇな中途半端さを晒していた。勝つために手段を選ばねえ無敗の弁護士サマが、勝ち戦を負け戦にしようとしている。


「結果オーライだ。姉貴がこれ以上苦しまないのなら、俺は良い」


これを馬鹿と言わずして何と言えってんだ。

獄は、姉貴がいじめられていたことを忘れられるなら、自分ごと忘れてくれて構わない、と。元も子もねぇ戯言をクソ真面目に言いやがる。それは半分本心で、もう半分は嘘。獄のツラから滲み出る苦さは、テッペンからケツの毛まで納得し切れていないことの証左だ。


「獄さんはそれでいいんスか」


十四の野郎、たまに核心を突くな。痛ェとこを突かれて返ってきた溜め息。冷静さを取り戻すためのポーズでしかねぇのは丸分かりだった。

目一杯に煽る目的で、ひゃはっ、と笑って見せてやる。


「嫌なモンを封じ込めるために大事なモンも一緒に捨てる。それが正道だと? 拙僧は思えねーな」
「今は忘れてるだけで、いつかは思い出すかもしれないじゃないッスか」


そうしてやっと、血管が浮いた拳の揺れが、徐々に大きく、分かりやすく震えて。ぶつけきれねェ感情を空気に逃がすように、腕を大きく振った。


「俺だって……っ!」



***



『アンタの弟、あそこの進学校なんでしょ? あたしのイトコもそこ通っててさ。ね、お願いきいてよ、みんなアンタと仲良くしたいんだって。あたしも断れなくって。アンタも断らないよね? 断るとかめっちゃ冷たいじゃん、人としてどーかと思うよ。あたし口軽いからさぁ、ぜーんぶイトコに話しちゃうかも。……あ、オッケー? やさし〜! みんなぁ、天国さんいいってさ!』


一瞬で黙ってしまったのは、弟のことがあったから。伸びてきた手を受け入れて、シャツを破かれてもそのまま立ち尽くした。もっと酷いことをされると分かっていて、それでも、私。弟に知られることが怖かった。弟が同じ目に合うんじゃないかと、我慢して、我慢、我慢を、我慢しなきゃ、気持ち悪い、我慢して、がまん、お願い、でも、


わたし、こわかった。


目の前の人を突き飛ばして、廊下を走って、階段を登って、登って、錆だらけのフェンスの隙間から屋上の際に立つ。見下ろした先は遠い地面。風は予想以上に冷たくて、寒くて。どこまでも際限なく凍りついて、倒れたら粉々に砕け散ってしまいそうなほど。

頭から落ちたら、きっと。


『ごめん、ひぃくん』


“二度と、目覚めない。”








「っ、はぁ、はっ、ひぐ、っ」


最悪な思い出し方だった。

まるであの日を追体験するように、温度も匂いもまだ体に残っている。肌に直接触れた不快感も、間接的に触れた悪意も。鼓膜の奥で誰かが笑っている気がする。背後で人差し指が向けられてる予感。そこがコードまみれの壁だと知っていても確認せずにはいられない。痛む首を押してゆるゆると振り返った先に、最近見慣れたネームプレートが貼ってあって、何もかもが腑に落ちてしまった。

私の名前だ。


──私は、天国名前だったんだ。



「ぉ、がっ、っ、っ、おぇぇっ!」


込み上げてくるものを逆らわずに吐き出す。形もない胃液がベチャベチャとパジャマを汚した。

気持ち悪い。この不快感は天国名前が、私があの時感じた恐怖の名残り。決して逆らえない相手に何もかも奪われかけた恐怖と、逆らえないはずなのに逆らってしまった恐怖。そして、弟に同じ思いをさせてしまうかもしれない恐怖。


「ぅあ、ひっ、ひぃく、」


あの後、弟はどうなったんだろう。私がいなくなって、私の代わりにアイツらの標的にされたのでは。少なくともあの時の私はそうなると確信して、自分が逃げたことにショックを受けた。

屋上から空中に倒れる瞬間、私は後悔した。地面でこの身が潰れる前に、弟を身代わりにして逃げる罪悪感に押し潰され、天国名前は死んだ。

……私という前世の記憶を遺して。


「ごめっ、ごっ、ぇ、ひっ、ひぃくんっ!」


天国名前の残りカスは罪悪感でずっと謝り続ける。謝ることすら許されないと理解していて、この場にいない弟に向けて懺悔し続ける。それももうしばらく経つと消えてしまうような脆弱な自我に他ならない。

勝手に動く口。酷使される喉と肺。苦しくなる呼吸。一旦それらを外に置いて事態を冷静に受け止めてしまった私といえば、別のことで頭がいっぱい大混乱だ。

だって、


「ひぃくん、ひ、くっ、ひぃっ、くん!」


前の私って獄さんを“ひぃくん”って呼んでたんだ。へぇ……?

………………………………。

…………………………………………。

……………………………………………………。


………………キャラが、キャラが違うッ!!!!


“ひぃくん”、“ひぃくん”て! 家族なら呼び捨ててなんぼだろ! それを君付けて、名前の頭文字一つ伸ばして君付けて! こそばゆいわ! 近所のちっちゃい子呼ぶみたいに一個下の弟を!? はぁ!?

私に暴れる元気があったなら膝に拳を叩きつけて掛け値なしの奇声を上げていた。

これがよそ様のお家のことならどうこう言う気はない。問題は私が、たとえ前世の記憶がなかったとしても、幼児の頃からの愛称を高校生までふにゃふにゃと呼び続けたという事実が耐えられないだけで。……天国名前、あまりに私とキャラが違う。十代でなんだあの包容力。聖母? 聖母系女子高生? はぁぁぁぁ??

キャラが違う。盛り方がエグい。

そりゃあ獄さんも私を見てショックを受けるよ、記憶喪失だと思いたくなるのも頷ける。だって私、全方位に砂漠並みにドライな自覚がある。一人っ子で伸び伸び育った成果だ。個性を伸び伸び伸ばした私に包容力を求められても困る。

何度も繰り返すが、前の天国名前は死んだ。私は彼女のことをもう自分の一部だと認めてるけれど、彼女になり切れるかどうかは別問題なわけで。

ゲロゲロ吐きながら脳内で無理無理ラッシュを繰り広げていると、巡回の看護師さんが異変に気が付いたらしい。あれよあれよとシャワーで洗われ、パジャマをお着替えして別の病室で鎮静剤と制吐剤を打たれた。

うとうと意識が朦朧としているうちに、獄さんが慌てて病室に飛び込んできた。


「姉貴、姉貴! 大丈夫か、何か、」
「────ひぃくん」


待って、本当に待って。

今日の昼にチーム(何のだっけ?)の子たちを紹介してくれたばかりだ。それをたった数時間で呼び戻してしまった申し訳なさと、それ以上に。


「ひぃ、くん、ひっ、くん、」
「……あ、ねき」
「ひぃく、ひぃくんっ!」
「おい、落ち着けよ、」
「ごめん、ねっ、めっん、んっ」


獄さんを見た瞬間から口の動きが活発になる。待って待ってと思ってもずっと謝罪が止まらなくて。


「なんで姉貴が……謝るのはッ!」


くしゃっと顔を歪める獄さん。それにギュンギュン高鳴る胸。は?

なんだこれは。実の弟であると意識した瞬間から、この年上の渋い男性が可愛いくて仕方ない。庇護欲? 母性の高まりを感じる。ああああリーゼントとかしちゃって決まってるね? 髪の毛をかき混ぜていい子いい子したら怒られるよね? 頬骨あたりをこしょこしょしてイタズラしたい。真面目な話をしてるだろって怒られてふにゃふにゃ謝りたい。

……いやいやいやいやおかしいだろ。天国名前の残りカスが恐ろしい勢いで私の価値観を塗りつぶしていく。それにしたって、体はともかく精神年齢は十八の天国名前にとって三十五歳は立派なおじさんのはずだ。それが弟というたった一つの揺るがぬ事実があるだけでこんなにも愛おしいと思えてしまう。

私と同じ色の、同じタレ目から溢れてきた涙を拭おうと手を伸ばす。当たり前に届かない距離を、腰をかがめることで自分から縮めてくれる獄さん。顔を寄せて、頬を、ひ、ひとやさ、…………う、うぅ、ひ、ひぃくん! ひぃくん! に! 固まった表情筋が勝手にとろとろと解けていく。生憎と細かく指を操るのはまだ難しくて、涙が通過したばかりの頬に手のひらで触れる。湿った肌とザラザラした髭の感触。


「ひぃくん、ぉき、な、た」


自然と、そんな感慨がこぼれ落ちた。


「二度も寝惚けやがって。……遅いんだよ、バカ姉貴」



***



助けて、助けて。

分かってる。本当はこの体はもともと天国名前のもので、前世の私の方がお邪魔してるってことは分かっているんだ。けれど、けれども。


「ひぃくん、コーヒー、ブラックで飲めるの? すごい、大人、ねぇ」
「あのな、姉貴。俺はもう三十半ばなんだよ。ガキ扱いは止せ」


天国名前、なんなんだ。

エンドレスごめんなさいが終わった瞬間に残りカスは全部吹き飛ばされて、私の中には生まれてから飛び降りるまでの十八年間の記憶だけが残った。つまり今の私は変に冷めた前世の私でしかなく、ひぃくんに心配をかけないためにも昔を意識して話さなければならない。

そう、あらあら聖母系女子高生とかいう盛り盛りのキャラだ。

『あれを演じるのか……』という無理難題だけが残った。……かに思えた。


「ひぃくんは、ひぃくん、だもの。かぁいぃわぁ」
「暖簾に腕押しかよ……」


私は私のままで、対ひぃくんの時だけ初孫にはしゃぐおばあちゃんみたいになるのだ。

天国名前、強すぎる。自分相手だけに引くほど押しが強い。徹頭徹尾いまの意識は私だって自負があるのにひぃくんを前にすると愛しさで胸がギュンギュン騒がしい。

リーゼントという決まりすぎた髪型も『ひぃくんはなんでも似合うのね』と本気で思うし、『ひぃくんはいくつになってもカッコよくて可愛い』となる。呪いか? まあひぃくんは確かにイケオジに片足突っ込んでてカッコいいし、『姉貴』て呼ぶ時に目元が緩んだり涙袋がぷっくりするところが変わらず可愛いが。……呪いだッ!


「やはり眠り続けた弊害で脳の機能が弱っていたのでしょうね。自然に回復して良かったです」
「じゃっ、くんの、おかげょ」
「いいえ、名前さんの生きようとする意志がそうさせたのですよ」
「でも、あぃ、がとぉ、じゃっくん」


前の私って神宮寺さんのことを“じゃっくん”って(以下略)

新宿からお越しの神宮寺さん改、ひぃくんと仲良くしてくれてたじゃっくんは昔以上に体も髪も縦に伸びてた。声だけは変わらないのが面白い。そういえばじゃっくんって声変わりがめちゃくちゃ早かったな。あまりに変わらなすぎて、声に関してだけ記憶力がバグっているのかと不安になったのは余談だ。


「獄がいる手前、あまり言えませんでしたが、私も名前さんに忘れられてショックでした。……昔、学ランの第二ボタンを受け取ってくれたこととか、」
「それは確信犯か、タチの悪いジョークか」
「いつまでも覚えていたい、素敵な出来事だよ」
「俺には大嫌いなものが二つある。一つ、静かすぎる病室。二つ、嘘か本当か分からないお前のジョークだ、寂雷!」
「はっはっはっ」


仲悪いのか仲良しなのか分からないな、と言いたいのをグッと堪えて「なかょし、ねぇ」とのほほん笑う。天国名前ならそうする。それに仕方なさそうに、もしくは満更でもなさそうに笑う弟を見て、また心臓がギュンギュンした。

難儀なことになった。私はこれから、素の私を誰にも見せられないまま生きていくことになる。特に大好きな弟の前では。……それを嫌ではなく、仕方ないと思ってしまうのも難儀だ。前の私とか今の私とか関係なく、私は十八年も待っていてくれた弟のために、生きてほしいと願ってくれた誰かのためにこれからを生きていく。一度決意してしまうと少し前の憂鬱が嘘みたいに晴れやかな心待ちに変わってしまった。

生きているのだからどうとでもなる。

頼れる弟がそばにいるなら、尚更。


「クソッ、冗談でもテメェを兄貴とは呼ばねぇからな」
「ちょっとは想像したんだな」
「よし、表に出ろ」
「これから仕事なんだ」


ところでどれだけ記憶を漁っても分からないのだが、


「じゃ、そろそろ今日の治療を始めましょうか」



ピピノピピマイクって結局なんなの。





「一度噛まれると二度目は用心する」→「慎重になる」
一応「Act your age!!」の主人公が入間妹じゃなくて天国兄に成り代わった話です。特にリンクはしてないので別の話として捉えてください。


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