ぶたに真珠・ブッダに説法



レオナルドダヴィンチのモナリザ。
ミロのヴィーナス。
応挙の幽霊。

いずれも女性を象った芸術作品である。

人がそれらを美しいと思うのは何故だろう。

あくまで現代的価値観に当てはめるなら、決して美人だとは手放しで褒められない造形をしている女たち。それを美しいと思えるのは、生き物ではないのに生きているように見える瑞々しさだ。独特の世界観が物である彼女たちを生者の世界と地続きの存在として誤認させる。

かつて生きていた美しい人だ。
不完全だからこそ完全さを夢想させてくれるのだ。
夜に啜り泣く声さえ聞こえてきそうだ。

想像の羽を惜しみなく広げる光を与えてくれる。美しさとはそういうものなのだと、とある芸術家は熱弁した。

──というテレビ番組を暇つぶし眺めていた天国獄は、「へぇ」と一言。ひとまず納得しつつも「だからなんだ?」と一蹴できる程度には夢も興味もなかった。

芸術は嗜好品だ。美味い豆を挽いて淹れたコーヒーがあると気分良く仕事ができる。精神が豊かになる。そういう枠組の中の一つなのだ。そこに生きてるも死んでいるもない。そう思いたいヤツが思っていればいい。ま、俺は違うがな、と。

たった今、この瞬間までは。


「あら、獄さん。こんばんは」


月が綺麗な夜だと、何とは無しに気付いた。

大きな体を丸めてくぅくぅと寝息を立てる十四。その傍に一人、見たことのない女が立っていた。

顔貌は派手でなく、ごく普通に街で見かける類の女だ。日本人らしいあっさりした目鼻立ちで、軽く見開いた目が気怠げに細められた。ムッとしていた唇が存外簡単に解けて笑みを作る。その瞬間に背後の月がより一層美しく輝いた気がした。

そう、美しく。


「そういえばまだ言ってなかったっけ。私を直してくれてありがとうございました。おかげさまで前より綺麗になって、安心して十四のカバンの中に入ってられます。あんま小汚いと誰かに間違って捨てられそうで心配だったのよね」


逆光になっているからか……いや、確かに何がしかの服を纏っているというのに、肉眼でなだらかな体のラインがぼんやりと視認できる。口にするのも憚られるが、例えば──月の光のような。白い粒子が集まって絹糸のローブでも着ているかのように、柔らかい裸体と背景の境目があやふやで。獄に伸ばされ、触れた手は想像以上に温かい。生きているモノの触覚。目の前の存在が生きているのだと獄は身を以て実感させられた。


「本当に助かりました」
「……ぁ、いや、大したことは、」
「ううん、それだけじゃなくて、十四のことも」


軽く左右に振られた首に合わせ、涼やかな音が獄の耳を打つ。なんの音だ。まさか髪が揺れた音じゃないよな、天女か妖精でもあるまいし。


「十四を助けてくれて、私ができないことをしてくれて、とても感謝しています。あなたがいなければもっと大きな傷が十四に残ってしまったかもしれない。いくらお礼を言っても言い足りないくらいなの」


真珠を砕いてまぶした肌が獄の骨張った手と並ぶと、まさに別次元の存在だと知らしめてくる。先程から握られていた手がぴくんと震えても、相手は離すどころかさらに強く握りしめてきた。


「獄さん、十四をこれからもよろしくね」


太めの眉をハの字に寝そべらせ、潤んだ瞳が頭一つ上にある獄を見上げてくる。涙でも溢れてくるのでは、と危惧した視線は、ただただ隣人らしい親愛と感謝をひたひたと湿らせるばかりで。しかしながら人外埒外の色味を損なうことは決してなかった。

生きていない。コレはモノだ。人の形を保っているだけの何か。人間が動くたびに謎の粒子を撒き散らすわけがない。手指や髪が揺れるたびに謎の擬音まで聞こえてくる。そんな非現実的な存在があってたまるか。

……けれど、生きている・・・・・

笑って触れてお礼を言って目を瞬かせて。人らしく人の営みに簡単に滑り込む。生きた女の瑞々しさを持ち出してくる。幽霊の正体見たり枯れ尾花、などと嘲笑ってやることなんて舌に油を差したって無理な話だった。

──これは、芸術品だ。

生きていないのに生きている女。単純に造形だけでは計れない美しさの表現物。それを認識する獄。矛盾が頭の中を支配する。その間にも下から覗き込んできた顔が視界いっぱいに広がって、思わず……生唾を飲み込んだ。


「お疲れですか? お疲れですよね、だってお仕事があったんですもん。早く寝た方がいいですよ。ほら、十四の隣にお布団敷きましょうか」
「あー、お気になさらず、」


こちらの返事を聞くことなく脇に寄せられていた布団を敷き始める女。歩いた後に光の粒が残滓としてしばらく漂うものだから、そういう妖精のキャラクターが嫌が応にも頭に浮かぶ。違いと言えばこちらは空も飛ばず実際の人間と変わらぬ大きさくらいか。それにしたってファンタジーが過ぎる光景だった。たとえ畳敷きの古臭い和室で敷布団と掛布団の端を整えるだけのありふれた動作でも。


「ささ、どうぞどうぞ」


ポンポン枕を叩かれ、潰れるからやめろとも言えず、上着を脱いで布団に滑り込む。すかさず布団の上から腹をポンと叩かれた。


「おやすみなさい」


誰が寝れるか。









ボロボロの端切れを抱いた高校生に遭遇した。制服の上着は綿だらけで、必死に掻き集めたのかそこかしこが白くなっている。すれ違っただけで異常だと思った。既に獄よりも高い上背の子供が鼻水を垂らして泣いているのだ。ギョッとして注視すると、端切れに見えたそれは別の何かであることに気付いた。

ぬいぐるみだ。

……ぬいぐるみの、残骸だった。


「誰か、たすけて、アマンダを、助けてください……」


自分の方がよっぽど傷付いているだろうに。ぬいぐるみを優先するような、馬鹿な子供だった。

いじめ被害を受けていると知った獄が、まず先に行ったのはぬいぐるみの修理先を探すことだった。

……が、もはや布と綿でしかないぬいぐるみの成れの果ては、プロの手でもどうにもならなかったらしい。もともと寿命だったのだ。経年劣化で脆くなっていた縫い目も繊維が解け、新しく針を入れようものなら穴が増えるばかり。仕方なく、写真を頼りに作られたぬいぐるみは、見た目が全く同じ新品であった。

手触りの良いピンク色の生地も、艶々の目のボタンも、等間隔に揃った縫い目も。既製品よりよっぽど手間と金がかかったオーダーメイドを前に、少年は──四十物十四の顔は曇ったままだった。


「アマンダが、死んじゃっ、た……」


人はどうしようもない現実に直面すると神に祈る。十四にとっての神はあのぶたのぬいぐるみだったのだろう。薄汚れた端切れと綿は十四にとっては惨たらしい他殺体に他ならず、今目の前にある新品すら死体を象っただけの偽物でしかない。

それでも十四は泣き腫らした目を獄に向ける。


「天国さん。あの、ありがとう、ございます」


“アマンダが、何かしてもらったら、ちゃんとお礼を言うって、言ってたから。”

ぼそぼそと喋る声は泣きすぎて掠れてしまっている。聞いているだけで痛々しく、かける言葉も見つからない。

金で解決できない現実に、獄は降参するしかなかった。

命以外で取り返しがつかないものなどないと思っていた。事実、ぶたのぬいぐるみが喋るのだと信じている十四の中では、ぬいぐるみは生き物に違いなかった。

──命は、金ではどうにもならない。

身をもって知っている。訴状すら書いていない段階で、依頼人に感謝されることも、負けてもいないのに無力感に苛まれたのも。獄にとってこれが初めての経験だった。


「アマンダがっ、アマンダがぁ!」


出会ってから一ヶ月。新品のぬいぐるみができてから半月。十四が鼻水を垂らしてアマンダが生き返ったのだと知らせてくるまで。


「いぎで、戻ってきたんス! ちゃんど話せて、自分のこと分かるっでッ!」


いじめ被害者の精神安定剤になるなら。そう思い話を合わせていたのは、否定するのも面倒だという獄の怠惰もあった。そこは認めよう。たとえ解決してから二年ほど経った今もぬいぐるみを生きているように語る成人間近の野郎だとしても、十四は獄にとっては見捨てられない子供だ。優しい、いいヤツなのだ。

“アマンダが撮った”傷害事件の現場と教師による職務放棄の証拠映像を、「お前が撮ったんだろ」という言葉を飲み込んで有効活用した。比較的簡単に示談で終わった事件は、今でも十四と獄の関係性の根底に居座っている。

アマンダが生き物であるという思い込みも、残ったまま。


『ども〜アマンダです〜』


だから、獄はそれが気持ち悪かった。

何故なら十四と小学生からの友達のアマンダは死んだのだ。

あの端切れと布の残骸が本当のアマンダで、このアマンダは全く別のぬいぐるみ。それが十四と十年来の友人だと宣う。嘘だ。それこそ、悪霊が十四を丸め込んでアマンダを騙っているとしか思えない。

馬鹿みたいなゆるい会話しかしない、とぼけた顔のぬいぐるみだとしても。黒々と艶めくボタンが何を考えているのか全く推し量れない。未知不可解の物体は、端的に言って気味が悪かった。









『女の幽霊が? ぬいぐるみに取り憑いてて? 夜になると枕元に立ってる? ホラーじゃん』


それを言いたいのは俺なんだが?

案の定全く眠れなかった獄と、快眠の空却、寝坊助の十四。三人の目の前でとぼけた顔のぶたのぬいぐるみが動いて喋る。一晩経っても頭が痛い現実に、さらに意味不明な記憶が乗っかった。

昨晩、獄が見た女は夢ではなかった。

十四があの姿を見て妖精などと勘違いしたのも無理はない。確かにしゃらしゃらだかリンリンだか分からない音を立て鱗粉を撒き散らす半透明の女がいたら妖精だと思いたくもなる。だが、獄が昨晩見た女は透けていなかった。ちゃんと実体を持った女が獄の手に触れ布団を敷き鼻歌すら歌って聴かせた。

明らかに変化している。……良いか悪いかは誰にも分からない。


『神様って信じる人が増えるほど力を増すのよね、それの悪霊版では?』
「どうなんだ本職」
「寺と神社を一緒にすンな」
「じゃ、じゃあ、空却さんと獄さんに声が聞こえるようになったから、夜のアマンダもはっきり見えるようになったってこと?」
『夜のアマンダってなんか卑猥〜、あだっ』
「言っとる場合か」


正直、スナック感覚で頭を叩く空却には毎度肝が冷える。十四の話を信じるなら、これは十年も成仏できずに子供の元に居座った幽霊だ。それこそ入れ物のぬいぐるみが変わっても戻ってきたとは、明らかに厄介な類いのものではないか。それに素手で暴力を振るうなど、それこそ何かの障りがありそうで気が気じゃない。

祟るなよ? 絶対祟るなよ? フリじゃないからな?


『うーん、あんま記憶にないけど、人間の姿かぁ』


体をくの字に曲げるぬいぐるみ。これは首を傾げるボディランゲージのつもりだろうか。腹立つな。

この中身があの女なのだ。気怠げにむっつり立っていたくせに話し始めると妙に軽快なで、口だけでなく獄を見る目は本心から恩人に対する感謝を告げていた。記憶の顔とぶたを重ねる。……重ならない。認識している声すら記憶を漁ろうにも女の声がどんなだったか思い出そうとして忘れる。ゾッとした。


『特にメリットが思いつかない』
「え、なんで!? 自分、アマンダとお出かけしたいのに!!」


買い物行って、服を買って、海に行きたい!

こちらの気も知らず、楽し気に指折り数えて予定を語る十四。昼間のショッピングモールに悪霊を連れ歩く男……そういう都市伝説ありそうだなぁ。とうとう現実逃避が入った。


『今さら人間に戻ってもやることなくない? あ、家事でもやろっか? 私これでもコーヒー淹れるの得意よ? 多分!』
「そういうことじゃなくってぇ! っ獄さんも、アマンダとお出かけしたいでしょ!?」
「待て。なんで俺に振った?」
「話を合わせてくださいよー! アマンダと獄さんと三人で海に行くのが自分の夢だったのに! 獄さんが忙しいから全然行けなくって!」


あ、空却さんも一緒に行きましょうよ! と興奮気味に語る十四に頭が痛くなった。その夢とやら自体が初耳なんだが。

落ち着け、ゆっくり話せ。両手を上げてドードー宥めると、輝いていた相貌は徐々に光を失っていく。笑顔が真顔に変遷していく過程は空気に真剣さを伝播させた。


「アマンダ、二年前までずっと家の中にいたよね。小学校の時と、高校の時の二回くらいしか外に出したことがなかったな、って。同じところに閉じ込めてて……自分は、酷いことしてた」


だから後生大事にぶたのぬいぐるみを持ち歩いていたのか、と秘かに納得した。大事なら家に置いておけばいいのに、という疑問がこのタイミングで消えるとは思いも寄らなかった。

『ん? 酷いこと? 使用済み歯ブラシに洗剤つけてゴシゴシしたこと?』おいぶた。空気読めぶた。


「前に、自分の目は海の色だって言ってくれたよね? 十四の目を見たら海を思い出せるって、綺麗だって。嬉しかったけど、悲しかったよ。アマンダは一人で海を見に行けないんだって……だから!」


パンッ。ビクッ。急に膝を叩いて顔を上げた十四。大きな音にビビるぶた。と、獄。それくらい十四が突然に大きなアクションを取るのは珍しいことだった。


「海に行こう! 砂浜を歩こう! 女の人のアマンダの足で、並んで一緒に!」


何がだからなのか、とか。女の姿であることに意味はあるのか、とか。そんなことはどうでも良くなるほど、十四の顔に輝きが戻ってきた。

自分の神が死んで泣くばかりの子供はもういない。十四の神は、一度死ぬことで普通の友達になった。助けを求めれば応えてくれる神から、助け合える対等の友達になったのだ。

十四は成長した。

泣くのを止めたことより、もっと、何か言葉にできない部分で少年の成長を感じた。感じてしまったからこそ、獄はぶたのぬいぐるみに目を向ける。

ぬいぐるみは変わらず、とぼけた顔のまま立ち尽くしている。艶々のボタンに光を反射して、十四の顔をちゃんと見ようと精一杯仰け反った。


『は、はは、は……』
「アマンダ?」


ピンク色の両腕がスッと上がって……。


『母の日はもう終わったよ?』
「アマンダ!?」
「はァ!?」


ふざけるところか今!?

ズコーッと思わずつんのめってしまった獄。十四だけじゃなく空却からもあり得ない目で見下ろされ、両腕をピンと張って距離を置く。俺らは恐竜か何かか。映画で見た絶体絶命のポーズに重なって見え、さらに頭が痛くなった。


『だってあれ“お母さんありがとう”の空気……ごめん待って。ガチ目に母親の気分になっちゃった』
「アマンダは友達だよぉ……」
『分かってるよぉ、だから困ったんだよぉ』


溜め息が勝手に口から漏れていく。なるほどな。十四のずれたところはこのぬいぐるみに毒されてか。少しだけ十四の見方が変わった獄だった。

気を取り直したぬいぐるみが、改めて十四を見上げる。


『私は、もうこのまま変わらないと思っていたもんで。いきなり元に戻れたって、どうしたらいいか分からないよ』
「うん」
『ぬいぐるみは物だけどその場合は居候になっちゃうわけだしね? 流石に居た堪れないっていうか、そもそもどうやったら人間になれるか未知じゃん?』
「えっと、それで?」
『だから、当分は十四と海に行くことを目標にしよう』


喜ぶかと思った十四は、悲痛そうに顔をくしゃくしゃに歪めてぬいぐるみを持ち上げた。


「……じゃあ、もう死にたいなんて思わない?」
『どっから来たのその設定!?』


は? なんの話だ?


「そりゃお前、いつか燃やせだの何だの言ってりゃ死にたがりみてぇなもんだろ」
『なるほど!?』


訳知り顔の空却に大仰にリアクションするぬいぐるみ。置いていかれる獄は無言でやり取りを伺うしかない。昨日の今日で仲良くなってやがる一人と一匹に、マトモなのは自分だけなことを再確認しながら。

持ち上げている十四の手にぬいぐるみの腕がポンッと添えられる。何故か昨晩の布団をポンポン叩いた女の顔が浮かんだ。


『みんなで海に行こう。それまでは生きるよ』
「うん……うんっ……!」


泣きそうで、ギリギリのところで泣かない十四。不格好な笑顔で何度も頷き、ぬいぐるみもタイミングを合わせるようにポンポン手を叩く。


“獄さん、十四をこれからもよろしくね。”


もし、今ぬいぐるみが人の姿をしていたなら、あの時と同じ表情を浮かべているのだろうか。


「(……残念だ)」


それは美しい芸術品をもう一度見たかったという意味か、それとも。

脳裏に形もなく浮かんだ落胆に、獄は気付かなかった。──気付かない、フリをしたのだ。



***



生きている・・・・・

腕の中のぬいぐるみを抱いて、最初に感じたのは温もり。自身の体温が移ったわけではなく、初めから布と綿でできた“そういう”生き物であるように、ソレはあった。生きている物だったのだと、小学生の四十物十四は認識した。

だからぬいぐるみが勝手にベッドの下に移動していても、あまつさえ意思を持って話しかけてきても、十四は驚かなかった。「やっぱり」という思いが強すぎたのだと思う。

そして今、この瞬間も、「やっぱり」と納得した。


『ぼくはぶた、ぶた、ぶた〜』


柔らかそうな唇から漏れる歌。
透き通った声は、同じく透き通った口から聞こえてきた。

ある時、ぬいぐるみのアマンダに薄っすらと女の人が重なることが増えた。

それは決まって夜。月が綺麗な日に時々、薄っすらとぬいぐるみのある場所に寝そべっていた。目を瞑って眠っているようであったが、アマンダが喋るのと合わせて唇が動く。歌っている時などより顕著で、無表情に笑みが浮かぶその瞬間がたまらなく好きで、大好きで。十四がアマンダに歌を強請ったのはその顔が見たかったのも理由の一つだった。

中学生の時、思春期の十四はアマンダのことを本気で好きになりかけた。触れられはしなくとも、すぐそばで抱きしめて愛してくれる異性。勘違いしない方が無理がある。

いつか動くアマンダを見たい。その目を開けて、十四をしっかりと見つめてほしい。艶々のボタンも可愛くて大好きだけれど、こっちの目もきっと綺麗で大好きになるだろうから。

“呪いをかけられたお姫様は王子様のキスで──”

あのおとぎ話のように。十四は女の人の顔に顔を寄せ、キスをした。……確かに触れた唇には、なんの熱も伝わらなかった。


『? どしたの十四? 急に抱きしめてきて』


緊張、していたのだろうか。

ギュッとぬいぐるみを抱いていた手には、くたびれた布にシワが寄るほど力が入っていた。アマンダは何が起こったのか分かっていない。十四が唇を離したばかりの場所は、何もなかったように柔らかく動いている。実際、何もなかったのだ。触れられないのだから、変わらない。

十四の心は、変わらなかった。

アマンダは友達。十四の片恋相手でも、王子様のキスを待つお姫様でもない。今までと同じ、大事な大事な十四の友達だった。

アマンダは死にたがりだ。

いつだって十四の話をちゃんと聞いて、ぞんざいな返事をして、甘やかしてくれるのに。いつだって十四が手放してもいいように予防線を張っている。自分からは離れていかない。離れる素振りも見せない。けれど、十四から手を離す手段をいくつも教えてくる。

それが十四は嫌だった。

自分ばかりがアマンダのことを友達だと思っていて、アマンダにとってはそうではないみたいだと思ったから。何より、友達だと思っている十四の気持ちを軽んじているとすら思えてしまったから。

だから、できるだけアマンダに役割を与えたかった。宿題を手伝ってもらうのも、朝に髪を梳かしてもらうのも。背が高くなった十四の髪にアマンダが届かなくなると、わざわざ届くように髪を伸ばした。もちろんオシャレのつもりもあったが、ブラシを持ったアマンダを毎朝見たかったから。

鼻歌を歌いながら寝ぼける十四の髪に触れるアマンダに安心した。

まだ消えていない。
まだ十四の友達でいてくれる。

十四がいじめに合っていた高校時代。いつの間にかカバンに潜り込んだアマンダは、クラスメイトによってバラバラに切り刻まれた。最初、自分の机にばら撒かれたゴミがアマンダだと気付かなかった。それほど無惨な姿だったというのもあるが、それ以上に、そこにアマンダがいなかったから。

触れた布に、綿に。手に馴染んだ温度はなかった。あるのは冷たい──死人の温度。

友達が切り刻まれたのと同じように、十四の心もズタズタに切り刻まれた。こみ上げてくる感情は吐き気と錯覚できるほど悍しい。何かしなければ。どうにかしなければ。アマンダが帰ってくるために。せめてこのぬいぐるみをどうにかしなければ、アマンダは。

天国獄との初対面の時、十四はパニック状態だった。何を口走ったのかも覚えていない。それでも然るべきところにアマンダを預けて、──結局新しく作り直すことになったとしても──綺麗なアマンダの入れ物が出来たことは感謝してもしきれない。

アマンダが新しい入れ物に帰ってきたのは、切り刻まれてから一ヶ月経った夜のこと。

自分が一ケ月いなくなっていたことも、新しい体になったことにも気付かず、アマンダはいつもの調子で十四を慰め、心の底から怒り、喧嘩して、そして、


『泣かせろよフェルト生地! うわぁあああん!』


目を開けて、泣いたのだ。

心なしか以前よりはっきりとした輪郭の女の人が、月の光に照らされて目を開ける。色はよく分からない。肌よりも濃い色をしていて、そこから煙のような涙をふわふわと溢している。

十四を大切に想う涙を、十四のために。

十四の涙腺はさらに決壊した。悲しいし、辛かったし、安心したし、嬉しいし。いろんな感情をぐちゃぐちゃに混ぜてぶつけても、アマンダは涙を流してぶつけ返してくれた。対等な友達として、同じ分だけたくさん、友達の十四を愛してくれる。

アマンダとずっと一緒にいたい。

十四は改めてそう思った。まだ何度か、この気持ちが恋なのかもしれないと勘違いしそうになる時もある。その度に半透明の唇に吸い付いて、「やっぱり」──違う。これは友情なのだと再確認する日々を送って。こんなことをできるのはアマンダがそばにいるからだと余計に愛おしく想う。そんな時間が続いて流れて。


『みんなで海に行こう。それまでは生きるよ』


“生きる”と言ってくれた友達は、昼間は小さなぶたのぬいぐるみ。たまの夜は目を見て話せる女の人。不思議で当たり前の日常を十四は幸せに生きている。

助けてくれた大好きな獄と、認めてくれたカッコいい空却と、強くなった自分。

そして願わくば、いつか。普通の人間のように自分の隣にいるアマンダを夢見ながら、幸せに──幸せに、笑ったのだ。





以下「もしも切り刻まれてから目を覚ますまでの一ヶ月間、別の場所にお邪魔していたら」の予告です。






教職に就くと決めて初めて赴任した高校。まだ半年、されど半年。無謀だったかもしれないと後悔し始める。黒板の前ですらあがり症が出るなんて思わなかった。その一言に尽きる。授業はグダグダ。生徒の成績にも直結してしまい、担当クラスの前期の中間期末、後期の中間も散々な結果になってしまった。


「来週から期末かぁ……」


流石に学年主任や何人かの親御さんから苦情が入っている。一年でクビに、とまではいかなくともそろそろ改善策を見つけなければ。

はぁぁぁ。深い溜息が白く濁る。季節はもう冬。芸人時代から借りているアパートは古すぎず新しすぎずの丁度良い外観をしている。慣れた手つきで扉に鍵を差し込み、開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、


「?」


暗いフローリングに蠢く何か。疲労で目がやられたのかと眼鏡を外して眉間を揉む。幾分すっきりした気がしてまた掛け直す。依然、暗闇や影とは別の何かが玄関から部屋へ続く廊下に蠢いていた。


「ひっ」


髪の毛、だ。

理解すると同時に玄関の外に後ずさる。いる。女が一人、廊下の床に転がって、──目が合った。「あ、お邪魔してま」バタンッ。扉を閉めると同時に鍵をかけるのも忘れて全速力で走る。人気のある場所、明るい駅まで来てやっと肩の力が抜けた。

見た。気付いてしまった。

あの女はただ寝そべっていたのではない。手足の先がなくて、膝や肘で無理やり立とうと藻掻いていたのだ。


「う、うちが、事故物件なんて、」


最悪だ。まだ築十年も経ってない。この忙しい時期に引っ越しなんて。駅で頭を抱えたままではいられず、渋々と駅前のネットカフェに移動した。

躑躅森盧笙が帰れないストレスで「幽霊がなんぼのもんじゃい!」とダイナミック帰宅をキメる四日前の出来事だった。


「名古屋の方で高校生のぬいぐるみしてました、ぶたのアマンダです。いつのまにか、ぶたじゃなくなってました……」
「頭大丈夫か?」




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