人はこれを自爆という
『特別なものだから、と愛するのではありません』
あなたは私の王子様だった。
狭い星に二人きり。たくさんの人が出て入ってを繰り返す騒々しいところだったけれど、あなたは私を育ててくれた。水をやり声をかけて枯れないように慈しんでくれた。だから、私はあなたの薔薇だと思った。違くとも、いつかそうなりたいと願った。
あなたは私の特別。唯一無二の愛しい王子様。
『ありふれたものを特別に思うことが愛なんです』
なら、この気持ちは愛ではないの?
当時の私は珍しく黙ってしまったのです。黙らなければあなたの柔らかな、何の衒いもない微笑みを見れないと学んでしまったから。困った顔よりもただ一度笑ったあなたを好きになってしまったから。彼の膝に座って、足をぷらぷらと揺らして。綴られた文字とは違う、聞き慣れた言語に耳を傾けた。時たま見上げて、目があって、意味もなく笑い合う。そんな他愛ない、幸せな時だった。
近いのに遠い。遠いのにすぐ手で触れる。私はあなたの何だったのでしょう。
『いいですか、名前。もう寂雷さんを×××などと呼んではいけませんよ』
あなたは私のなんだったの?
***
すっっっっっっ……ごい夢を見た。
実際はものすごく美化した思い出だったんだけれども。いっそ夢だったことにしたいくらいには夢見がちな思考回路がまだ頭の中にこびりついている。っべー、マジっべー。
それはさておき。
「
星の王子様、か」
ずいぶん哲学的なものを読んでたんだなぁ。しかも英語! はぁ、流石寂雷先生はひと味もふた味も人間が違う。いや本当に、嫌味ではなく。
昨日と一昨日、二日連続でいつもより飲み過ぎた。昨日に至ってはちょっと記憶が飛んでいる気がする。目が覚めてサイドテーブルにボトルが二本空っぽになってたのはビックリした。よくよく見れば度数もいつもより高めだし、飲み慣れないものを飲んで酔っ払ってたのかもしれない。
だから、あんな夢を見た。
昔の私と寂雷さん。まだ何も知らなかった頃。もしくは向こうにだけ知らされていたのかな? 知ってて親切にしてくれてたのなら申し訳ない気持ちにもなる。ほんの六割ほど「は?」て気持ちもあるけど。……いやいや一晩たってもムカついてんのかよ、何のためのヤケ酒ですか。
心機一転、ベッドの上で座禅を組んで精神統一。あれ、そういえば先生の趣味って座ぜ、ん"ん"っ、げほっ。集中! 集中! ここがお堂だったら絶対にぶっ叩かれてた! 修行じゃ修行!
朝の日課を終え、妙にむくんでいる顔をどうにかマシにして身支度を整える。お酒飲んだ次の日はたまに泣いた後みたいな顔になってるんだよね……まさかね? 流石に神宮寺だからって酒癖も似てるとかそんなことはない。ないったらない。気持ちを切り替えて持ち込んでいた服を物色。今日は外出の予定がないので、ラフなパンツスタイルで適当に髪をくくってキッチンに立つ。
冷蔵庫から卵を四つ取り出して……チラッと目についた扉。
コンコンコン。
「おはよう。朝早くにすまない。起きているだろうか」
「……はい、起きてます」
やや間を置いて扉が開き、キッチリとセットされた金髪にスーツ姿の一二三が「おはようございます」と微笑んだ。まぶしっ、太陽より朝日輝いてる、さす推し。手を叩いて口笛を吹きたい気持ちを頭の中で済ませて早速本題に入る。
「昨日は取り乱してすまなかった。お詫びというには厚かましいが、朝食を一緒にどうかな」
「え? いえ、そんな、お手を煩わすわけには」
「昨日の炒飯のお礼だよ。朝は和食? 洋食?」
「……では、お言葉に甘えて。和食派です」
「了解した」
独歩に鮭焼いてあげてるもんね、和食だよね。
生憎と切り身を焼く気力はなかったので、平凡な卵焼きとソーセージなんですが。和食とは。
鍋でお湯を沸かしている間に、卵を全部ボウルに割って黄身と白身を切るように混ぜていく。そこに顆粒だしと塩胡椒、砂糖多めで油をしいたフライパンにさーっと流し込んだ。じゅわぁ。いい音。
オープンキッチンなので一二三はコンロのお向かいのカウンターに座ってジッと私の手元を見ている。分かる。人が料理してるのは見てて楽しいよね。ただしやってる方は真剣だ。焦げないように軽くかき回しつつ、焼けた端っこから順々に巻いていく。
「丸いフライパンで厚焼き玉子が焼けるなんて知りませんでした」
「ズボラなものでね。厚焼きかは分からないが、案外形にはなるものだよ」
あの四角いフライパン、卵焼き以外で使う機会なくね? 厚焼きのために買うほど卵に魂売ってねぇなぁと思って。
厚焼きというか薄焼きロールな卵焼きを包丁ですっすと切り分ける。使った後のフライパンにそのままソーセージを投入、焦げないようにたまに揺すりながら火を通す。ある程度通ったら蓋をして余熱で軽く蒸すのが個人的に好き。ちょっと燻製っぽい味になる、気がする。
その片手間に鍋のお湯が沸いたので洗っておいたほうれん草を投入。さっと色が変わるくらいで取り出して水で冷やす。ぎゅっぎゅっと絞ってから適当な間隔で切って、もう一度絞る。そしたら麺つゆパイセンの出番ですよっと。備え付けの小さいトレーにほうれん草を乗っけて薄めた麺つゆをジャバジャバ。ついでに顆粒だしも軽く入れて冷蔵庫にイン。
ピーッ、ピーッ。
お、炊けた。
「人が握ったおにぎりに抵抗は?」
「ありません」
本当にござるか〜?
という気持ちが眉毛に出た。片方の眉だけ上げるのって骨格だか表情筋だかの関係でコーカソイド特有のボディーランゲージと聞いたが本当だろうか。わたしゃ前世も今も生粋の日本人なんですが。
女性恐怖症を抜きにしても、他人に対して潔癖な部分がありそうな気がしたから。スーツを着ている時は本人の意に沿わない行動も取れちゃうわけだし。あー、訊く前に気付くべきだったな。
というかさっきから手元見てたのって変なことしていないかの確認? マ? やっぱ警戒されてるよね〜だって会ってからまだ三日目だもんね〜。悲しみ。
「……おにぎりはまたの機会にするか」
ということでおにぎりの具にしようとしてたツナマヨと、ほぐす直前だった梅干しと、日高昆布と、あとなんかあったけか。目に付いたものをとりあえずカウンターに並べて一二三にセレクトをお願いした。
気を遣われたのを察したのか綺麗な眉がハの字に下がる。対人で空気読むの得意そうだもんな、ホストの一二三。気付かなかったことにして冷蔵庫からおひたしを取り出す。五分とか浸したうちに入らない気もするが、多少はね。そこからは盛り付けに集中する。決して“弱った顔の推し可愛いな”とか思ってない。顔も崩れてない。きっと。
「生憎と味噌を買い忘れてね。味噌汁の代わりに茶を淹れよう」
マジでアメニティの充実ハンパないなこのホテル。玉露とかある。まあ、食事には合わない気もするけど水よりはマシでしょ。とぽとぽ湯呑みに注いで、ホテルのダイニングテーブルに素朴な朝食が並んだ。
「「いただきます」」
……ハ、ハハ、ハモ、ハモった。
「っはは、ハモりましたね」
「そう、だな」
ひぇ、はにかみ笑顔は反則ですギルティうそ無罪サンキュー神様仏様ジゴロ様。
朝からええモン見放題だな。と、いただきますのポーズを装いつつ推しを拝んだ。心臓がガチのマジで跳び上がったよ。寿命が伸びるんだか縮むんだか分かんないな。
落ち着くために玉露を一口。美味い。単品で飲みたい味。でもこれは朝食なので舌を湿らす程度にしてほうれん草のおひたしに箸をつけた。五分にしてはまずまずの味。というかものすごくお上品な味付け……まさか、“私”か!?
記憶を洗う。めくるめく修行の日々が頭痛とともにやってきてすぐやめる。嫌な出来事として忘れたいのに体には染み付いた料理技術。涙ちょちょぎれるわ。私は美味しく出来て嬉しいけど……だってこの朝食が二、三年ぶりに作る料理よ? 厚焼き卵を半分に割って一口。美味い。旅館の朝食か。染み付いた技術がぜんぜん抜けてない。フクザツな気持ちになった。
「──美味しい! この厚焼き卵、すごく美味しいです。優しいというか、柔らかくって。僕ではこういう味はできません」
そこでタイミング良く……悪く? 一二三からの感想がキラキラ笑顔付きでやってきた。
「過分な評価だ。慣れている分のアドバンテージだよ」
「それこそ謙遜ですよ。僕にも教えていただきたいくらいです」
「そう……」
こういう時、どんな顔をすればいいか分からないの。“笑えばいいと思うよ”と“逃げちゃダメだ”の二つが同時に浮かんだ。
でも、そうね、不思議と褒められたらフクザツな気持ちが消えたような気がする。そういえばどんだけ上手く美味く作っても褒められたことなんか一度もなかったな。それが今になって面と向かって褒められるなんて。しかも推しに。推しに褒められるってヤバない? 同じ次元に生きてる事実やばばのばですわ。はーこの世はでっかい宝島。
「ありがとう、伊弉冉くん」
するりと感謝の言葉が出て、ムッとしていた口が簡単にほころぶ。私にしては珍しく、はにかんでいる自覚があった。はにかみ笑顔にははにかみ笑顔でお返しする。等倍返しだ! ……なんでもないです。
ちょっと背中がむずむずし出して、“私”って意外とチョロいのでは? と心配になった。この場合反省だろうか。でも普通さ、推しに褒められたら『ありがとうございますありがとうございます』のエンドレスリピートでしょ。
「一二三、と呼んでください。僕もあなたのことを名前さんと呼んでいますから」
「いいのか?」
「もちろん」
「では……ありがとう、一二三くん」
ありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございます……。頭の中で会長が感謝の正拳突き一万回を始めた。
「それにしても、このおひたしも美味しいですね。お出汁が効いていて」
それが十回行く前に止まったのは、一二三の言葉が予想外に続いたからだった。
「それは、市販の麺つゆと顆粒だしで、」
「バランスが素晴らしくて。あの短時間でここまでの味は出せませんよ」
「あ、あまり褒めないでくれ……」
「いえ、事実ですから」
ええ……?
急に褒め褒めのラッシュが始まって、私は大混乱に陥った。どうしたの一二三。大丈夫? 一品一品褒めなくていいんだよ? 私が死ぬよ? 照れすぎて昇天するよ?
ついにはお茶の淹れ方まで褒め出して。話題を変えようとした私は、とっさに自分から地雷を踏みに行ってしまった。
「昨日の、神宮寺寂雷の件だが」
人はこれを自爆という。
さっきの饒舌さが嘘みたいにピッタリ口を閉ざす一二三。私は、何を言えばいいかも分からず。珍しく口をもごもごと動かして続きを探し回る。
「デリケートな話題なら、無理に話す必要はありませんよ?」
気を遣わせている。推しに、ではなく、保護対象に。それが矜持を傷付けたというよりは、いつまでもこだわっている自分が恥ずかしい気持ちが優って。
「──寂雷さんは、古い知人なんだ」
こんな、嘘でも本当でもない曖昧なことしか言えない。言ったとしても困らせるだけで、一二三には何の関係もないことだから。
「昔に、私にとって許せないことがあって、私が一方的に気不味く思っている。君の保護とは全く関係ないところで私情を持ち出してしまった。すまない」
箸を置いて、机に手をついて頭を下げる。
頭を下げるのは何年ぶりだろう。昔はもっとたくさん下げていたのに、こんなにも抵抗感が出るなんて。
「や、やめてください! そんな、僕はあなたに感謝してるんです! 助けてもらったのはこちらなんですから!」
そっと顔を上げると、下からのアングルで美しい青年が慌てている様が見えた。可愛い。……今シリアスな話だったでしょ空気読んで。
「僕はあなたのことを詮索しません。あなたも、そんな簡単に頭を下げないでください」
「……お言葉に甘えても?」
「存分に」
「頼もしい限りだ」
最後だけキラッキラのホストフェイスでキメ顔をしてくださってハートアタックです独歩一二三の肝臓だけじゃなく私の心臓も心配して。
再び箸を取り、やや冷めてしまった卵焼きを口にする。一口目よりも素直に美味しく感じた。気の持ちようって大切。
……ところで一二三、いつのまにか一人称が僕になってるね? なんで?
***
────ピッ。
「はい、神宮寺」
『神宮寺寂雷と会話したと聞いたが』
食後、お片付けをして一二三が部屋に引っ込んだのを見届けて、パソコン開いて今日のお仕事を始めた頃。スマホに着信が入ったので慌てず騒がず浴室に移動。番号を確認していろいろ察した。
昨日酒を入れる前の報告は相手が出なかったために留守電だった。その返事が今来たのだろう。第一声から地雷とかどうかと思うけど。
『伊弉冉一二三に名前を知られたとも』
「下の名前だけです。これ以上の情報は開示しません」
『神宮寺。この件に関して私は貴様を疑っている』
ド直球ですやん。という気持ちとは別に深く溜息を吐きたくなった。無花果様、怒ってらっしゃるな。私が勝手に一二三を保護したのも結構怒ってたけど、今はそれ以上。でもぜんぜん怖くない不思議。
『貴様、神宮寺寂雷にまだ義理立てしているのか』
「いいえ、誓ってそのようなことは」
『口先ではどうとでも言えるが、いくら取り繕ったところで過去は変えられない。
──アレは、お前の婚約者だろう』
……本当にキレ散らかしてるじゃないですか、やだぁ。
浴室の鏡に映った私は恐ろしく笑顔。それこそ聖母とか天使とかそういう類いの綺麗な微笑みで、こういう時に笑う人種なんだなって自認した。今はそんな場合じゃないが。
「私の公私混同を疑っておられるのですね」
『でなければ伊弉冉一二三を保護した意図が分からん』
「そうですか。では、まずは二、三ほど訂正を。一つ、伊弉冉一二三の件は中王区の威信を失墜しかねない重要案件として動きました。次に、神宮寺寂雷は“元”婚約者です。既に婚約関係は解消されています。最後に、」
ふぅ、と。細く電話口に息を吹きかける。向こう側が面白いくらいに静まり返った。
「お言葉ですが……私情を持ち出しているのはどちらの方だ、
無花果」
相変わらず突然ひっくい声出すな自分。内心引いてても口は勝手にペラペラ喋り出すもので、相手に対して気を許してるのが分かりやすい。まあ付き合い長いし。
「そんなに神宮寺寂雷が嫌いか。お前自身が害を被ったわけでもないのに。その悪感情の理由に私を使うな。迷惑至極だ」
『ッ私は、名前様を捨てたあの男が許せないだけです! あれほど想われていながら、全てなかったことにしたあの男がッ!』
「私が、捨てられたと? ふむ……お前は不思議なことを言うね」
ああ、そう言われるとちょっと傷付くな。顔はまだ余裕の笑顔なんだけど。
“いいですか、名前。もう寂雷さんを
お兄様などと呼んではいけませんよ。
お前はあの方と結婚するのですから”
ずっと覚えてる。むかしむかしに言われたこと。嬉しいはずなのに、素直に喜べなかった言葉。あの家は異常だった。“私”にとっても、無花果にとっても。けれど周囲にとっては珍しくもない当たり前のことで。
“私”が自分の気持ちに正直になったのは、──“おかしい”と言えたのはつい最近。ちょうど二年前のことだった。
「私が“神宮寺”を捨てたんだ」
ああ、拗れてるなぁ。
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