お久しぶりですね
一二三がいなくなった。
最初は客との同伴か、珍しく悪酔いして店で一泊したのかと理由を探した。俺自身残業でクタクタで帰宅したから、一二三のことを思い出したのは朝起きた後だ。寝ぼけ目でリビングに行くと人の気配がない。玄関を覗くと一二三の靴はなくて、携帯をチェックしても連絡がない。アイツも一端の男だ。あまり心配しすぎるのもどうかとは思ったが、以前のストーカーの件がある。まさか誘拐なんてこと。一瞬過った予感は、相手が女だった場合を考えて余計に加速した。
一二三の番号にかける。ワンコール、ツーコール、スリーコール…………出ない。二度、三度、五度、十度。出ない。留守番電話にメッセージを入れてから、恥を忍んで一二三の店に連絡する。
「一二三なんですけど、」
答えは、『今朝はいつも通り帰った』と……。
「まさか、な」
はは、は……。
乾いた笑いがこぼれた。おかしいだろ。こんな短期間で二度も犯罪に巻き込まれるなんて、ここまで深刻なトラブルメーカーではなかったはずだ。
きっと何かの用事ができて帰ってないだけだ。同僚のホストの家に泊まったとか、なくはないはず。あいつはあいつでもう三十近い大人なんだから、俺がどうこう言うのもおかしな話だ。明日には帰ってきている。きっと、きっと。
けれど次の日も一二三は帰ってこなかった。
これは警察に電話すべきではないかと思い至ったのは昼頃。貴重な休み時間なのに全く心が休まらない。クマも心なしかいつもより濃い気がする。しばらくの間携帯を見つめて、ダメ元でもう一度一二三に電話をかけた。
ワンコール、ツーコール、プツッ。あっ。
「おい一二三! お前いま、」
『どうも、シンジュク署の者ですが、今朝方こちらのスマートフォンが落し物として届けられまして』
目の前が真っ暗になった。
それからどう過ごしたのか分からない。ハゲに怒鳴られた気がするし、先輩に仕事を押し付けられた気もする。けど、何も。何も覚えていなくて、気が付けば真っ暗なリビングに一人立っていた。
一二三がいない、部屋。
嫌な予感ばかりが膨らんでいく。冷静でいられず、こういう時はどうすればいいのか、呆然と立ち尽くした。
「独歩くん、独歩くん!」
肩を揺さぶられて、気が付くと、寂雷先生が焦った様子で俺を見下ろしていた。
「玄関の鍵、開いていましたよ」
妙に体がダルい。目も乾燥しているのか変な熱を持っている。そこで、やっと刺すような朝日を感じた。俺は一睡もせずに部屋のソファで座り込んでいて、手の中のスマホにはうんざりするほどの会社からの不在着信。
「せ、先生……」
「しっかり、気を確かに持って」
「どうして、」
「君が昨日、私に連絡したんじゃないか。一二三くんが居なくなったと」
「そう、でしたっけ」
「ええ、驚きましたよ。一言だけ言って切るものだから」
「すいません……」
無意識に先生に助けを求めていたらしい。
「昨日のうちに知り合いに人探しの依頼をしましたが、昨日の今日ですから。まだ連絡は来ていません。独歩くんは警察に通報しましたか?」
「いえ、そうだ、警察! 俺、そんなことも……先生っ、一二三は、一二三が!」
「落ち着いて、分かっています。今からでも警察に連絡しましょう」
「は、はい」
警察の番号を打とうとして、震える手で携帯を握る。確か、ひゃくとーばんだ。ひゃくとーばん。いち、いち、きゅー、じゃない。それは救急車で、ひゃくとーばんって何番だ? ひゃくとーばんは、いち、いち、ええと。
「いいよ、独歩くん。私が代わりにかけよう」
白くて大きな手が簡単に俺の手から携帯を持っていく。こんなことでも煩わせてしまうなんて、俺は、俺はどうしようもない。大人のくせに一二三がいなくなっただけでこうも動けなくなる。なんてダメな人間なんだ。
ものの一秒もかからずに3プッシュした、その時。先生の手の内から聞き慣れた着信音が鳴った。また会社かと慌てて取り返そうと立ち上がる。
先生は画面を凝視したまま、うっすらと口を開いて驚いていた。
「この番号は……」
「先生?」
「独歩くん、申し訳ないのですが、私が出ますね」
「え、せ、先生?」
有無も言わせぬ勢いだった。止める間も無く先生は通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。いつも穏和でのんびりとした先生から少しも聞き逃すまいという迫力を感じたのは、気のせいだろうか。
『この番号は観音坂独歩の携帯電話で間違いないだろうか』
「はい」
『そうか、では単刀直入に言う。伊弉冉一二三の身柄はこちらで預かっている。今から言う条件を呑んでくれるのなら無傷で一ヶ月後に解放しよう』
なんとなく聞き取れたのは、電話の相手が女性だということくらいだ。俺の電話にかけてくる女性は会社関係か母親くらいで、少なくともどちらでもない。初めて聞く声だ。
なんで俺の電話に。いったい、誰なんだ。
「……名前さん、ですか?」
えっ。なんで先生が、相手の名前を知っているんだ?
『お久しぶりですね、寂雷さん』
さっきよりもゆっくり、はっきり聞き取れた声から、二人は旧知の間柄なのだと察してしまった。
変な空気が流れている。
おかしなことが起こっている。
直感で、そう思った。
***
『名前さん、ですか?』
スピーカーモードにしていたのをここまで後悔するとは思わなかった。
食事後、乱数に簡単なメールを送ってから無花果様に御報告。了承をいただいて再びリビングに戻ると後片付けを終えた一二三が元の席に座っていた。
まずは私が電話で話してその後スマホを一二三に渡す。その間の会話は別室に行って聞かないようにする、と伝えて覚えておいた番号を打った。この電話は一二三の行方不明にあまり騒がないように釘刺しする意図もあるが、一二三に独歩の声を聞かせれば少しは落ち着くだろうという気遣いもあった。
だからわざわざスピーカーモードにしていたわけで、そのせいで一二三にばっちり本名を知られる結果になってしまった。嘘やん、こんなんどんな初見殺しのトラップよ。
なんで観音坂独歩の携帯に神宮寺寂雷が出るん? なんで? こんなのおかしいよ!
チラと視線を流した先で戸惑った一二三の目とかち合い、自然な動作でゆっくり逸らす。絶対聞こえてるよあれ、嫌だなコレ。
あまり間を置くとこっちの動揺が気取られそうなので、女は度胸、またの名をヤケクソ。ほんのり高めの声を意識しつつ電話口にその名前を吹き込んだ。
「お久しぶりですね、寂雷さん」
声は震えていなかった。
『ええ、いつぶりでしょう』
「あなたと音信不通になってからですから、ちょうど十三年ぶり……いえ、二年前に一度お会いしましたね」
『ああ……あの時はあまりお話できず、大変失礼しました』
「まあ、謝るのはそのことだけですか?」
『……そう、だったね』
おちゅちゅけ。噛んだ。落ち着いて。ビークール。カームダウン。
相手が何か言うたびに倍にして言い負かしてやろうと口が勝手に動く。いけない。明らかに冷静でない。
『それで、一二三くんのことですが、何故あなたが彼を預かっているんです。それも一ヶ月とは、ずいぶん長く拘束するんですね』
おおっと急な話題転換で単刀直入に突っ込んで来ますね寂雷先生。思わず唇が引き攣ってしまったよマイフェイス。それこそ狼のように噛み付いていきたい衝動をなんとか抑え込む。ここでキレてちゃいけない。今この瞬間だけは大人になってくれ自分。
「これは決定事項です。交渉の余地はありません。そしてこの電話は“会話する相手は観音坂独歩のみ”という条件でかけています。お分かりかしら、あなたには関係ないことなんです」
『そんなことはありません。一二三くんは私のチームの仲間ですから』
「言い直して差し上げましょうか。
──“神宮寺”には、関係のないことです」
たっぷりと間を取って余裕アリアリでお話ししといてアレですけど、内心はコレしかない。
うぉおおおお伝われ伝われビーーーーム!!!!
“神宮寺”! とは! 無関係なんだよ! よ!
『……なるほど、分かりました』
ふぅー! 流石先生頭いい! て気持ちとムカつく〜!て気持ちがマーブルテクスチャーアゲイン。大丈夫、まだボロは出ていない。イケるイケる。俺はやれるぜ。
「観音坂独歩を出してください」
『はい、独歩くん』
『え、うぇ!? お、お電話替わりました、観音坂です』
「警察に連絡するな。伊弉冉一二三の行方を聞かれたら身内の不幸で実家か海外に行ったと言え。決して伊弉冉一二三を探そうと思うな」
早口でまくし立てて最後に釘刺し。
「以上の条件を飲むなら今すぐ彼と替わろう。ただし、少しでもこちらの居場所を探ろうものなら伊弉冉一二三の安否は保証できない」
電話の向こうで息を飲む音がしっかりと聞こえた。
『っそ、そんな一方的な!』
「一方的だと思うのは勝手だが立場を理解しろ。こちらはこのまま電話を切ってもいいのだが」
『そんなの、脅迫じゃないか!』
「そう受け取ってもらっても構わない。切るぞ」
『待っ、分かった! その条件を飲む!』
無言で一二三にスマホを渡す。超絶ドン引き顔で受け取った一二三は恐る恐る画面を耳に当てた。
「独歩、くん?」
あとは若いお二人で〜。のノリで私は隣室に移動。扉を閉めた瞬間に深く深く深ぁ〜く息を吐いた。
むり。
これは推しの供給過多で思考停止したオタクの戯言ではない。マジで無理。しんどい。心臓何個あっても足りない。というか心臓鷲掴みされたくらいに心拍がおかしい。
この私、神宮寺寂雷が地雷すぎる。
“私”がマジで寂雷先生のことが無理なのはちゃんと分かっていた。あんなことされたらクソ腹立つのは分かる。マジわかりみが深い。私だって横っ面引っ叩いて「ナメてんのか?」てガンつけたい。分かる分かる。
──とか思ってたのが、実は全然分かっていなかったのを今さっき知った。
理解したつもりで、内心「あ〜こういう関係エモいよな〜」とか他人事だった自分の方を「ナメてんのか?」て引っ叩きたい。これは、だって、いわゆるアレだ。フィクションの世界ならすれ違いとかボタンのかけ違いとか言うアレ。でも“私”は、ついでに私も、満場一致で「先生ガチでそう思ってるだろ」てなっちゃってるわけで。あ、またイラッとした落ち着いておちちゅけ。
陳腐な一言で片付けられない感情。飲み干すために、今だけは酒に頼りたい気分だった。今夜またボトル開けよ。
──コンコン。
「あの、名前さん」
「……部屋の中でなら好きに呼んでくれて構わない。どうした」
「ありがとうございます。それで……独歩くんが、寂雷先生が名前さんとお話ししたい、と」
スーツ姿で怯える一二三ってレアでは?
明らかーに怖がりながらスマホを渡してくる推し。さっきの口調は怖かったしなんなら今も怖い顔してるんでしょ。地雷持ちのオタクが地雷踏んだ瞬間に立ち会わせてしまった。申し訳ないというか、穴があったら入りたいというか……。
「すまない、褒められた態度ではなかったな」
細く細く息を吐いて、余裕を出すために無理やり笑う。八つ当たりしていいのは反抗期まで、他人に当たるのはバブちゃん。大丈夫、心の準備ができてればなんとかなるでしょう。
『君にはずいぶんと辛い思いをさせてしまったね。どうか、私に謝る機会を与えてほしい』
なんとか、なる、はず。
『また近々お会いしましょう』
あっ、あ、あー。
むり。
「お前が言うな」
カツンッ。
***
ツー、ツー、ツー。
「すみません独歩くん。切られてしまった」
「えっ、大丈夫なんですか?」
「どうだろう、ずいぶん怒ってたみたいだから」
「怒ってたって……それじゃあ、逆上して一二三に!」
「その心配はないよ。彼女は他人に当たるほど野蛮な人種ではない」
「ですが、先生にはかなりキツかったような」
「ああ……元を辿れば私が悪いので、彼女の怒りは正当なものです」
「は、はあ」
「それに、私と彼女は他人ではないから」
***
昨日はあんまり顔を見れなかった。
今日はいろんな顔を見た。
俺を買った女の人は、寂雷先生の知り合いで、名前さんと言うらしい。
先生と知り合いだと知るまで、正直なところちょっち疑ってた。それだけ今の俺がビミョーで危ない場所にいるって思ったから。自分を守れるのは自分しかいない。スーツを着れたことでマシになった頭で、できるだけここから逃げ出す方法を考えていた。
スーツがなくなったらもう二度と動けない。そしたら独歩にも先生にも会えないまま。ゾッと体中が寒くなった。
せめて、相手の人となりだけでも知って、ついでに説得して、どうにか帰れたら、って。
そのための、食事だったはずだ。
目の前で、モッモッとでも聞こえてきそうなほど炒飯を口に詰め込む女性。口調も表情も尖ってて怖いのに、心からご飯に集中して食べていることが分かった。腹を空かせて帰ってきた独歩みたいだったから。
ホストの俺の客とは違う大人な雰囲気の化粧で、真っ赤な口紅につかないように上品に食べているのに。今だけはそういう種類のハムスターに見えてきた。気のせいかなぁ、と。
「美味かった」
思いたい、のに。
普通の炒飯すぎて口に合うかって心配はもちろんあった。だから感想を言ってもらえてホッとしたってのもある。
俺が見ていることに気付いて、すぐに取り繕ってムッとした顔で感想を言ってくる。どう見たって照れ隠しってヤツにしか見えない。えっ、えー、マジ? こんないかにもーなバリキャリなお姉さんがこういう反応をするとか。
ギャップ萌え、ていうか。
(かわいい?)
こんなおっかない女の人にそれはねーだろ。ってのと、女性はいくつになっても綺麗で可愛いものだよ、ってホストの俺がなんだかぐっちゃぐちゃになった。
それから、なんとなく話しやすいっつーか、気が楽になった的な? 感じでなごやかーに話せたと思う。つか結構アッサリ独歩と電話していいよって言われたから意外と良い人かもーって。
「お前が言うな」
ちょー怖かった。
スマホの画面に爪がぶつかるくらい勢いよく電話を切ってた。俺っち一人で電話させてくれる間に収まったかもってブチギレオーラが秒で噴火した。
でも、俺に顔を向けた時は電話かける前の顔に戻ってて、逆にそんだけ気ぃ使われてるんだってのも伝わってくる。
すっげー気まずい。
「用があったらまたノックしてくれ」
黙って頷くしかできなかった。
しばらく借りてた端末でネットサーフィンして、晩飯を誘うのもなんか言いづらくって、久々にカップ麺をすすった。独歩が弁当ついでによく買うって言ってたけど、ホテルで食うとなんか味気なかった。
それからシャワー浴びて、早めにベッドに入った。明日のことなんてなんも考えないで、というか考えても分かんねーもん考えたって疲れるだけだし。
布団かぶって、寝て、二時間くらいだと思う。
喉が渇いて冷蔵庫まで来た俺は、隣に行く扉から光が漏れてるのに気付いた。まだあの人起きてるんだって思ったら、なんとなく、近くまで寄って、意味もなくノックしたくなった。
バカじゃん。俺、今ナイトウェア着てるのに。
びっくりして一歩後ずさった時、なんかの声が聞こえて扉に耳を当てていた。
泣き声だって、すぐに分かった。
「じゃ、……い、さん」
何度か聞こえた同じ言葉。……“寂雷さん”て言ってる。
「ど……て、うぅ、なんで……」
『一二三のこと、本気になりそうで怖い』あの客は、それっきりうちの店に来なくなった。ほとんど泣いてたし、さっきまで笑ってたのにしんどい顔でシャンパン飲み干して早足で帰っていった。なんで今、その子を思い出したんだろ。
『行かないで一二三』
行くのはそっちの方なのに。
好きになるのは楽しいことばかりじゃない。俺っちには無縁だけど、ホストやってるとたまにそういう子にぶち当たる。好きだから距離を取らなきゃいけなくって、でも離れるとつらくて苦しい。あの子たちの声が今聞こえてる泣き声に被った。
そっか、そっかぁ。
「なんで置いてったの」
名前さんは、寂雷先生のことが好きなんだ。
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