美しさと彼ら



「「はあ……」」


深く吐いた溜め息に別の溜め息がぴったり重なった。


「どうしたの勇利……」
「ニコライこそ……」


いつも通り朝風呂をいただいてからやって来たリビング。そこでちょうど勇利と鉢合わせて一緒に朝食を食べることになった。今朝のメニューは玉ねぎとブロッコリーと鳥のささ身と、あといろいろ混ぜ合わせたサラダ。とにかくヘルシーで高タンパクな食事に付き合って一緒に食べる。夜には物足りないけど、朝ならちょうどいいメニューだよね。うん、うん……。


「「はあ……」」


また重なった。頬杖をついた私と箸を持ったままの勇利が顔を見合わせる。

温泉onICEに向けての練習が始まって二日目。ヴィクトルが提供したプログラムの内、エロスの方を勇利が、アガペーの方はユーリが演じることになった。エロスとアガペー。ヴィクトルが新しいプロの振り付けを考えていたのは知っていたものの、テーマ自体は昨日初めて聞いた。そして思ったのは、勇利にもユーリにも大変な課題を出されたなってこと。

まだイメージが固まっていない勇利は後回しにして、ヴィクトルは先にユーリの指導を、私は勇利の方について基礎練を見る役に徹している。サブはサブらしくメインの補佐を頑張りましょうということで。そこに別段何か思うことはないけれど、問題はユーリとあまりしゃべれていないことだった。


「ここに来る前、ニコライはユリオになにしたの?」


突然出てきたユーリの名前に、私たちの微妙な雰囲気があからさますぎて勇利にも筒抜けだったことに気付いた。そうだよね、勇利居心地悪そうにしてたものね。


「何もしてないよ、何もしてないのによく怒るんだ」
「それは……」


ないんじゃないかな、って小さく言っても聞こえているよ。聞こえないフリはするけれど。


「勇利は何かお悩み? ユーラチ……ゆ、ユーラが怖いとか?」
「それはもう慣れたけど……ここにユリオがいなくて良かった……」
「なんか、昨日はごめんね」


昨日一日、ユーラチカって何度か呼んだ時のことを思い出す。ピリッとした空気の感じは私より勇利の方が敏感だったみたい。私も早く解決したいけど、もうちょっと考えなければいけないことがいろいろあって簡単にはいかない。その分のごめんねも実は入っていたりする。勇利はたぶん気付いてないだろうけれど。


「あの、さ」


ずるい思惑も何も知らない勇利は、ブロッコリーで口をもごもごさせてから俯いて話し出す。


「昨日、僕のエロスはカツ丼だって言ったでしょ?」


昨日のことを思い浮かべながら頷く。テーブルに突っ伏してヨダレを垂らしながら悶々としていた勇利。あれはあれである意味エロスだったよね。でも、狙って出せるものでもないからなあ。


「本当にそれで合ってるのか、不安になってきて」


勇利の箸を持つ手が完全に止まって、大きな眼鏡の奥のブルネットがうるりときらめく。


「ヴィクトルに呆れられた……見放されたくない……」


それは、ここに来てから私が初めて聞いた勇利の弱音だった。

これは一つ下の友人に対してか、ヴィクトルに振り回される者同士にか、それとも新しいコーチに対してかは分からないけれど。それでも勇利から初めて面と向かって寄せられた信頼。たとえ勇利の中ではヴィクトルへの執着が大きくて、真に私を必要としていないとしても。相談相手くらいには必要とされている事実が心地いい。胸のところが温かくなって、私は思わず笑顔になった。にっこりじゃなくてじわりと滲むような笑顔を、私はこっそり勇利に贈った。

コーチ業ピカピカの一年生なヴィクトルの代わりにメンタル面でのサポートは私がしなければならない。私は、この場合なんて答えるべきか。自信がなくて、他人からの期待に押し潰されそうな勇利になんて言葉をかけるべきか。


「日本人は無宗教が多いからピンと来ないかもしれないけれど」


うんうん静かに唸ってから、私は率直に自分の考えを言うことにした。


「アガペーは神が人間に与える絶対的なもの。善悪も老若も男女も関係なく、平等に全人類に向けられた大きな愛。それは親愛や家族愛や性愛や、とにかく人間同士で育まれる愛とは別の、一段上のステージの感情なんだよ」


私の個人的な感情を、一切入れないように努めて。


「対してエロスは性愛、とても人間らしくてメジャーな感情だ。この二つをヴィクトル・ニキフォロフは来シーズン演じようとしていた。私たちを驚かせるために、ヴィクトルは神と人間のどちらになるか迷っていたんだ」


私たちが見慣れたヴィクトル・ニキフォロフから新しいヴィクトル・ニキフォロフへと変わるために。彼は今まで演じてきた人間のさらに深みに行くか、それとも人間から遠く離れて神になるか、二つの選択肢を自分の中で作った。勇利のところに来なかったらきっと今頃その二つの内のどちらかを選んで、さらに完璧なものへと仕上げていたはず。

でもヴィクトルは選手じゃなくてコーチになって勇利に人間の愛エロスを与えた。なんの意味も考えもないかもしれないけれど、あえて理由を考えてみるなら、


「これって、勝生勇利という人間の愛を見たいっていうヴィクトルからのメッセージなんじゃないかな?」


それは裏返せばユーリには神になってほしいってことなのかな。あれ、そう考えるとちょっと違うかもしれない。一瞬首を傾げかけて、まあいいかと話を続ける。


「それに、愛って結構都合のいい言葉なんだよ」
「都合のいい? どういうこと?」
「日本だと恋愛や家族愛に結び付けやすいかもしれないけれどね、愛してるはいろんな感情を含んでいるんだ。ストレートに“あなたが好き”や“あなたが欲しい”でもいいし、“あなたを認めます”とか“あなたを信じます”でもいい。“ありがとう”の気持ちだって込められる。勇利は勇利のパーパやマーマ、真利、ミナコ、優子、豪、三つ子ちゃん、ヴィクトルにもユーラにだって言っていいんだ。ね、便利でしょう?」


できるだけ安心させるように。勇利にとって愛が身近になるように。


「だから、カツ丼だって愛って言ってしまえば愛になるんだよ」
「さ、最後は雑にこじつけたね……」
「こじつけでも何でも、勇利が安心するなら必要なことじゃない? Let's positive thinking!!」
「こういうところは調子いいなあ」


眉を下げながらもヘラリと笑う勇利はさっきと見違えるくらいにリラックスしている。なんとかなったみたいで私も一緒に同じような顔をした。


「ヴィクトルは勇利の愛を見たがっている。勇利の愛を見せてほしい。この言葉だけでも信じてみて。そしたら勇利が不安に思うことなんて何もないんだよ」
「……ニコライは?」
「ん?」
「ニコライは、僕の愛を見たくないの?」
「私? そりゃあ、」


もちろん、興味あるなあ。

と言いかけたところで私と勇利との間にサラダボウルがドンッと置かれる。そしてドスンと勢いよく座った彼に遮られてこちらから勇利の顔が見えなくなった。


「ユーラ、おはよう」
「朝っぱらからヘラヘラしてんなよ、気持ち悪ぃ」
「ゆ、ユリオ、おはよう」
「お前もだ豚」


ユーリが一段と不機嫌だ……。

日本に来てから朝の低血圧がさらに加速した気がする。ロシアにいた時の扱いが通用しない。これが本当の反抗期……。


「おはよー、今日の朝ごはんなにー?」


ヴィクトルの呑気な挨拶が恐ろしいほどに場違いで、リビングレジェンドの真価を見た気がした。
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