綺麗な私



「疲れたでしょユーラチカ。今日は私のベッドで寝る?」
「いい。あっちで寝る」
「温泉もあるんだよ。ユニットバスなんて比べるのも馬鹿らしいくらい大きなお風呂。後で入りに行きなよ」
「他人と一緒に入れっかよ」
「じゃあ個人風呂の方に案内するから」
「豚に案内させる」
「ええ、僕!?」


ユーリが冷たい。

勇利とユーリでヴィクトルを取り合う温泉onICEの開催があれよあれよという間に決定して、当たり前に同じ場所で寝泊まりすることになった。私としては久しぶりのユーリにあえて嬉しいのに、ユーリは絶対にこっちを見ない。というかそっけない。いつもなら元気に言い返してくれるのに淡々と最低限の返事をされると心が折れそうになる。これが本当のHeartbreak。ツラい。勇利は何となく雰囲気で察してるのか居心地悪そうにチラチラ見てくるし、ヴィクトルはヴィクトルのままだ。

晩御飯の時間になって、今日も勇利のマーマのカツ丼をありがたくいただく。美味しい。最高。ユーリも忙しなくフォークを動かしているからお口に合ったんだろう。分かる、止まらないよね。


「じゃあアンタはユリオね」
「ハァッ!!?」


食べている途中でやってきた勇利のお姉さん命名のニックネーム。まあ、確かに紛らわしいものね。それから勇利を連れて掃除に行ってしまって、部屋には私とヴィクトルとユーリの三人になった。


「良かったね、ユリオ」
「うるせえ! 俺はユリオじゃねえ!」
「素敵なニックネームだよ、ユーラチカ」
「………………あ?」


え、ええ……。さっきまで目も合わせてくれなかったのに。


「前から思ってたんだけどよ」


お向かいでカツ丼を食べ終わったユーリが空の丼にフォークを放る。キラキラ輝く金髪の隙間から綺麗な碧色がものすごい鋭さで私を貫いた。痛い。今度は茶化す余裕なんて全然なくって。


「本当ムカつくよな、お前」


ああ、本当に私って鈍い。

怒鳴らないで怒るユーリなんて初めてで、どれだけ本気なのか嫌でも伝わってくる。どうしてこんなに怒らせるまで気付かなかったんだろうって、その理由を頭の中で必死に探し回った。この四年、一緒に暮らして何か我慢させていたのかな。ユーリは繊細な子だから、何か溜め込んでしまったのかな。
やっぱピロシキ作れないのが駄目だったとか、マヨネーズの量控えめなのが無理とか。トイレが長すぎ? 仕事で遅くなるのが駄目? モデル辞めてコーチに専念しろ? 何も言わずに日本に来たから? いや、シンプルにユーラチカって呼び方が駄目なのか。「怒っているっていうか、寂しかったみたいだね」ヴィクトルが横で何か言ってるのも気付かずに、お腹一杯でウトウトし始めたユーリを見つめた。

ユーリに寝ぼけてマーマと呼ばれた時。私は彼の母親代わりになったつもりで甘やかすことを決めた。一人で家族のためにスケートを滑る彼に同情したし、私に甘えてくれる誰かを探していた。お互いに寄りかかり合って一緒に立てるような誰かが欲しかった。恋人や肉親以外の関係が欲しかった。それが私にとってのユーリだった。小さい子供におチビちゃんと呼ぶようにいつまでもユーラチカと呼ぶ。それが十代半ばまで成長した彼には重りになっていたのか。


「ユーラって呼べば良かったのかな……」
「ニコライの頭は不思議だね……」


今日二度目の呆れ顔でヴィクトルがこっちを見る。


「俺と同じロシア人なのに、勇利みたいに自信がないところとかさ」
「日本人の血が入ってるからかな」
「日本に来たのは初めてだろ?」
「まあ、うん」


初めて、なんだよね。長谷津に来たのも初めてだからか、そんなに懐かしいと思うこともない。落ち着くところも慣れないところもいろいろあって、私もそれなりにロシア人だったんだなあって再認識した。


「また泣くと思った」


カランコロン。

ヴィクトルはグラスの中の氷を揺らして舐めるように酒を飲む。ウォッカもテキーラも浴びるように飲む彼にしては遅いペースだ。こういう時の彼は語りたい時の彼だって、ここ数年で理解していた。数年だ。もっと前からヴィクトルとは顔見知りなくせに、彼の考えに触れる機会に恵まれたのは引退してからのこと。同じリンクを拠点にしているとはいえ、ジュニアのコーチとシニアの選手が話すことなんてあまりないだろうに。ヴィクトルは私にスキンシップを欠かさない。ほとんど嫌がらせに近いそれは、簡単にフィギュアを捨てた私への意趣返しだ。


「ニコライは綺麗すぎる」


彼のアイスブルーはいつだってきらめいている。綺麗なものも汚いものも、この世のありとあらゆるものを吸収して自分の演技に昇華する。あの氷の世界の糧になる。いつだってこのアイスブルーは綺麗なんだ。希望も絶望も、この人にかかればすべてが美しい芸術に変えられてしまうから。

あの頃も、今も。私よりも美しい彼が、私を綺麗だと言う。


「綺麗すぎるから、駄目なんだ」
「美しくなかったら私じゃないよ」
「美しいんじゃない、綺麗なんだよ」
「なあに? 言葉遊び? 哲学か何か?」
「ニコライ」


グラスから離れた右手が伸びてきて、唇に人差し指が当てられる。冷たくて、ちょっと湿っている。上唇と下唇の間に橋を架けるように押されて、目だけの動きで相手を伺う。ヴィクトルは変わらず笑っている。目だってずっとキラキラしたまま、私から何かを吸収しよう睫毛を上向かせていた。


「君は自分の輝きをまだ分かっていないんだよ。こんなに魅力をばら撒いておいて、いつまで原石のままでいるつもりだい?」


それって。


「ヴィクトルは、私に復帰してほしいの?」


私が口を開いたせいでヴィクトルの人差し指が口の中に入りかける、その前に彼は指を唇に這わせて、その流れで頬に手を滑らせた。彼の薬指が耳たぶをかする。さっきまで唇にあった人差し指は私の目尻を何度か撫でて、まるで見えない涙を拭っているようだと感じた。


「まさか。君の人生に首を突っ込むのはもう御免だよ」
「それは……ヴィクトルに突っ込ませたのは私だから」
「そうやって、また弄ぶ」


ヒヤリとしたものを頭からかけられたようだった。撫でる指はゆっくり温くなって、逆に触られた場所から私の体温が奪われていくような。優しい口調で厳しいことを言われているというのに、責められているとはどうしても思えなくて。


「ニコライを見ていると綺麗じゃないものが浮き彫りになってしまうんだよ。汚いものだけじゃなく、普通のものも、劣ったものも、完璧に限りなく近いものだって全部、君のそばにいると綺麗じゃない何かに置き換わってしまう。それは俺たちにとって大変なことだ」
「……だから、ユーリを駄目にする?」


左頬で悪さをしていた右手が、私の横髪を耳にかけてから離れていく。唇はずっと笑ったまま。首を縦にも横にも振らないで、アイスブルーがキラキラと見つめてくる。私もそれを見つめ返す。綺麗なものはずっと見つめていたい。ヴィクトルも同じ気持ちでいるのかな。私を綺麗だと言ったのも、今から言おうとしていることも、


「君はいるだけで世界を狭めるんだよ」


全部、本心なのかなって。


「ッ勝手なこと言ってんじゃねェ!!!」
「ユーラチカ?」


言ってからバチンと自分の口を叩く。突然ユーリが大声を出して飛び起きたものだから、またとっさに愛称で呼んでしまった。けれどユーリはこっちを見ていなくて、昼間以上の威嚇をヴィクトルに向かってしている。


「あれ? 起きてたんだー」


おっかないユーリにも慣れっこなヴィクトルは相変わらずニコニコとした顔を崩さない。ユーリも歯を剥き出しで唸ってて、見てるこっちがハラハラする。ここに勇利がいなくて良かったと言うべきか、ヤコフにヘルプを頼めないことに絶望するべきか。


「勝手なのはユリオじゃないか。そっちはニコライに好きなだけじゃれていいのに、俺は触るのも駄目なのかい?」
「ユリオって言うな! ヴィクトルが触ったらニコライが汚れるだろーが!」
「ひどいなあ。ニコライはユリオのものじゃないんだよ?」
「俺のモンだ!」
「あはは、甘々な子猫ちゃんだ」
「アァ!?」
「ユー、」
「お前は黙ってろ!!」


ええ……。


「そういうところが子猫ちゃんだよね」


ヴィクトルがそう言って立ち上がる。ユーリはまだ言い足りないのか噛みつくけれど、勇利のところに行くと言ってさっさと外に出て行ってしまった。ええ……せめてこの雰囲気どうにかしてよ……。

残されたのは当たり前に二人だけ。気まずい。何て話していいか分からなくて、そもそも話しかけていいのかも分からなくて。そろりと目を向けると、驚くことにユーリもこっちを見ていた。


「ゆ、ユーラ、」
「黙れ」


私の口がユーリの手のひらで塞がれる。今度こそ、ちゃんとユーラって呼ぼうとしたのに、ここで止められたらまたユーラチカって言おうとしたみたいじゃないか。その意味を込めて腕を叩くと、もう片方の手がこっちに伸びてきて、私の顔を両手で挟んだ。鼻と鼻がくっつきそう。おでこなんてもうほとんどくっついている。ユーリからのスキンシップなんて珍しすぎて、私は思わず固まってしまった。呼吸が唇にかかる。睫毛の一本一本が金色だ、なんて観察してる場合じゃないのに、相手にされるがままに目の前の瞳を見つめるしかない。

青とも緑とも言えるようなこの色は原石の色。磨き方次第でアクアマリンにもエメラルドにもなれる緑柱石。


「よく聞け」


ヴィクトル、私よりもこっちの方がよっぽど原石だよ。


「温泉onICEで優勝して、ヴィクトルもお前もロシアに連れて帰る。絶対に帰る。今から荷物纏めとけ」
「ユー」
「ニコライ」


ユーリ・プリセツキーという名の原石はまったく動かない表情のまま私から離れていく。座っているこちらを立ち上がって見下ろす顔は、ゾッとするほど美しい。

成長期のアンバランスな色気を身に纏った少年。いつかの私に似た雰囲気で、過ぎ去った私の美を思い出させる仕草で、ロシアの風よりも冷たい温度の吐息で、私だけに向けた本心を囁いた。



「いつまでもアンタの可愛いユーリユーラチカだと思うなよ」

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