美しくない私



『美しい』


知ってる。


『あんな美しいスケート、見たことがない』


うん、知ってる。


『まるで本当に天使みたいだわ』


知ってるよ。


『なんて素晴らしい演技だろう』


でもね、


『本当に水の上でも走っているようだった』
『クワドを三つも跳べるなんてシニアでもそうそういないぞ』
『しかも後半にループとフリップだ! 去年までジュニアだったとは思えない!』
『なんだあのステップシークエンス! 実況が思わず黙ったぞ!』
『スケートでこんなに泣けるなんて……!』
『天才だ……神の申し子だ……』
『ヴィクトル・ニキフォロフと並ぶんじゃないか!?』
『金も銀もロシアが独占できる! ロシア二強時代の突入だ!』
『ひょっとすればニキフォロフも超えられるかも』
『これからの成長が楽しみだ!』


そんなの、知らないよ。



***



十代の半ばになって背が急に大きくなった。手が筋張って、喉がイガイガして、声が低くなって、下半身への違和感が大きくなって。ギシギシ変に軋む関節が怖くて怖くてベッドに丸まって眠る日が続いた。美しくなれたのならもういいや、って開き直って目を背けてきたことを無理やり見せつけられた気がした。トイレをするのもシャワーを浴びるのも苦痛で、ユーリには毎日待たせてしまって悪いとは思っていたけれど、目を瞑ってズボンを下すのにいつも躊躇ってしまう。アレを触らなければいけないからどちらも大嫌いになった。

決定的だったのは、夜道で突然知らない女の人に抱き付かれた時。びっくりするほど強い力で締め付けられて、困惑している内に首筋に走った変な痛み。キスマークだと、気付いた瞬間に私は彼女を突き飛ばして逃げていた。男を襲う人なんていないと油断していたのが悪かったのか……私が性の対象になるなんて考えてはいても実現するなんて思いもしなかった。

男になった瞬間に恋愛はしないと決めている。敬虔なクリスチャンの両親には男の恋人なんて紹介できるわけがないし、男に愛してもらえる自分の未来像もまったく浮かばなかったから。でもそれは私の勝手な自負で他の人には関係ないんだってことも分かっていなかった。他人の唾液で濡れた首もコート越しに触られた部分も気持ち悪かったけれど、それ以上に、言葉に表せない感覚を帯びた下半身が一番気持ち悪かった。女の人の唇が吸い付いた途端に背筋が痺れて、自分の思い通りにならない下半身が熱を持つ。なにこれ、なにこれ! 叫びたい気持ちも、思い通りにならない体も、全部なかったことにしたい。汚い。嫌い。シャワーに飛び込んで水で洗い流す間も怖くて仕方なかった。

怖い。怖い。なんで私は美しくなりたかったんだろう。女だった記憶や、生活や、家族のことははっきり覚えているのに、名前や顔はまったく思い出せない。生まれ変わったって気付いた瞬間から美しさの価値も誇りも強く信じ切っているくせに、美しくなりたいと願った理由すら曖昧だった。

そんなに不細工な顔をしていたのかな。いじめられた記憶も馬鹿にされた記憶もない。もしかしたらツラい記憶は全部忘れているのかもしれない。もっと切羽詰まった理由で美しくなりたかったのかもしれない。でも、それって性別が変わってまで欲しかったものなの? 綺麗ってこんな思いをしてまで必要? 私は美しくなければいけなかったの? 誰にも聞けない疑問。誰にも言えない文句。アイデンティティの髄の髄まで染みこんでいた美という自意識が、もうとっくに手遅れなところまで来ていることも自覚していた。

だって今朝も鏡の前で意識が飛んだ。綺麗。美しい。そこまで自分自身に感動できるのは、どこかで自分の顔じゃないと思っているからかも。


「こんなの望んでいなかったのにな……」


口が裂けてしまうんじゃないかってくらい罰当たりなことを、澄んだ温泉に向かって吐き出した。もうとっくの昔に吹っ切れたと思っていたのに、いつまで経っても自己中のわがままな私。こんなんじゃ顔だけって言われても仕方ないよね。

早朝、掃除が入ったばかりの露天風呂には誰もいなくて、変に気を遣うことも誰かに見られる心配もない。ロシアで裸の付き合いなんてものはないから、男湯に入らなければいけない不安は今回が初めてだった。それでもこうして時間を見つけて入りたいと思えるくらいには温泉が好き。この気持ちは日本人だった記憶が残っている確かな証拠だと思う。僅かな時間の温泉を堪能して自室でストレッチを始める。昨日久しぶりにプログラムを通して滑った影響か、あちこちガタが来ている体に温泉の余韻が強く残っている。ついでに膝と腰の傷にも染みてしまってちょっとだけ変な笑いが漏れた。昨日はよくもったよなあ。我ながら感心感心。この傷とも六年の付き合いになるのに、初めてここに傷があったことを知ったような不思議な感覚だった。

六年前、私が引退した最たる理由は怪我じゃない。けれどヤコフが納得したのはそこが大きな決め手だったと思う。十六歳。十一歳から始めてたった五年の間に私の膝はボロボロになった。成長期のオーバーワークに負担のかかる高難度四回転の連発。GPFのフリーではそれらを考慮して難度を落としたジャンプにするように言われたのに、大舞台で私は初めてヤコフの言いつけを破った。その結果が私の腰にある。一本のボルトと、うっすら残った手術の痕。

スケーターにとって致命的な怪我ってわけではない。でも手放しでプロをやれるような軽いものでもない。続けようと思えば続けられたし、人によっては引退を考えるような怪我。それなのに、あの時の私は怪我の状態なんてまったく眼中になかったんだ。


聖痕スティグマの調子はどうだい?』


昨日の演技終わりにヴィクトルが言ったことがおかしくて仕方ない。日本と違ってガチガチの宗教圏のロシア生まれなのに、ヴィクトルは臆面もなくそんな言い回しをする。天使が聖痕なんて負うわけがない。私が人間だからこんな醜い傷ができたっていうのに。そこらへんヴィクトルも分かっているんだろうな。

ヴィクトルだって、六年前の私の怪我に本気で怒ってくれた。もしかしたらヤコフよりも怒ってくれたかもしれない。彼は彼で切磋琢磨し合えるかもしれない人間が一年で消えたのが寂しくって悲しかったのかな、なんて。後になって自惚れたりもした。だって彼はことあるごとに声をかけてきて、私のことを語りながら激しいスキンシップをしてくる。昔は全部手で突っ張って避けていたけれど、八つ当たりとか泣きつきとか、いろいろな醜態を晒しておいて拒否できるほど私も面の皮は厚くない。「もっと仲良くしようよー」と抱き付いてくる彼の背に笑顔で手を回すくらい易いものだ。演技の時には見れないあの緩い表情で頬を擦り寄せられれば、もうこちらも開き直って頬を擦り返した。彼はいつも強引で心地よいほどに気安い。私に恋愛をする余裕があったら好きになってたかも、ってくらい。もしものありえない話だ。

逃げるようにスケートを辞めて、リハビリが一段落して、前からオファーがあったモデルの仕事を始めてみた。適当にカメラに笑顔を向けるだけ、なんて簡単なものじゃなかったし、大変なこともいろいろあったけれど、真面目に取り込めば取り込むほど成果は上がったし、スケートへの複雑な感情を抑え込めた。一年経って仕事に慣れてきた頃、ヤコフからのお願いでユーリとルームシェアを始めた。初対面から今まで口が悪いばかりの子供だったけれど、慣れてくると弟でもできたような気持になった。私に家族が増えることなんてないと思っていたから、不思議と可愛くなってしまって、母親か、姉の代わりで自然と接するようになっていた。それから少しずつスケートに目を向けられるようになると、計ったようにヤコフがコーチ業を進めてきた。多分ユーリとのルームシェアは最初からそれが目的だったんだと思う。ヤコフの気持ちを考えたら断る理由はない。それにユーリのことを見守りたいと思う気持ちも強くなったから、私は今の立場に収まった。

親愛や友愛や、家族愛や……とにかく恋愛以外の愛を大事に育んでいけたなら、それで満足だった。それで良かった。家族や、ユーリや、ヤコフや、ヴィクトルや、ファンや、スポンサーや、スケート連盟。与えられた愛や恩を無駄にした私は、これからの一生すべてを使って彼らに愛と恩を与えて生きていく。

前よりも少しだけ広い世界へ目を向けた時に、私はもう真っ当にスケートで表現できないんだと理解した。


「お嬢さん、私は勇利にプレゼントしたんだよ。この世界の誰にもあげたつもりはない。もちろん、君たちにもね」


昼前のアイスキャッスルはせつには昨日よりも人が押しかけてきた。昨日までヴィクトル目当ての人がたくさんで、今日は私目当てのファン。そういえばニュースサイトで広報されていたのはヴィクトルのコーチの件ばかりで私のことは書かれてなかったなあ。

かく言う私はリンクサイドで三人仲良く並んだ三つ子たちと向き合っていた。三つ子は各々俯いていて私が膝を折っても目が合わない。それだけ反省して小さく縮こまってしまっている。充分優子に叱られた後なんだろう。こっちだってスマホの通知が大変なことになっていた。ヤコフからのメールもまだ開けられていない。ユーリを置いていく形で日本に来てしまった。もうわがままは言わない、困らせないって決めていたのに。またヤコフを怒らせるようなことをしてしまった自覚はあった。でも、これで良かったのかなって思いもまたあって。

私はそっと三つ子を抱きしめた。


「いつかお嬢さんたちのために滑るから、もうこんなことはいけないよ」
「「「ひゃ、ひゃいっ! ごめんなさい!」」」
「うん、いい子いい子」


こんなキッカケでもなければ私は、いつまでも変わらないままなんだろうな。

照れてきゃっきゃ走って行ってしまった三つ子を見送って、勇利が来るまでの間にヴィクトルと一緒にリンクを滑る。


「あれ? 今日はやる気だねニコライ」
「現実逃避だよ」
「またヤコフからのお怒りメール?」
「ふふ、ヴィーチャじゃないんだから」


ジャンプはもちろん、スピンもステップもしない。ただ滑るだけのスケートは私の心に考え事をする余裕を作った。幸か不幸か今年はユーリのシニアデビューだからとモデルの仕事は一年のお休みをもらっていた。本当なら今頃ユーリの練習にみっちり付き合って忙しかっただろうに、勇利のダイエットを待つ間はまるでバカンスのようなのんびりとした時間を過ごせている。実際温泉旅館にバカンスに来たようなものだ。ゆっくり良い湯に浸かって、選手でもないのに好きにスケートリンクを滑れて、一人で考え事をする。人生のモラトリアム。六年前に引退した時も似たような気分を味わった。


「まあ、ユーリは怒ってそうだよね」


ちょうど近くまで寄ってきたヴィクトルが何とはなしに呟く。発音からしてロシアの方のユーリのことかな。


「何故?」
「何故って、君の一番のファンじゃないか」
「ん? 嫌ってるんじゃなくて?」


だからヴィクトルは私をここに連れてきたんだよ、ね……なんでそんな残念そうな顔するの。絶対呆れてるヤツでしょう、それ。


「君ほど外見と中身にギャップがある人も珍しいよね」


それは、私がこの美しい顔に釣り合ってないってことだよね。聞かなくても分かっていることに、私はおどけた風に肩をすくめた。できるだけ軽く見えるよう胸に手を当てて呻いてみる。


「あ、今傷ついた。Heartbreak.」
「ニコライ……実は俺のこと好きだった?」
「英語ムズカシーネー」
「あははは!」

「ヴィクトーーーールッ!!!!!」

「は?」
「え?」


え。


「ユッ、ユーラチカ!?」


な、なんでここにユーリが?!

バッと顔を向けた先には見慣れた金髪とヒョウ柄ルック。間違いない。どう見たってサンクトペテルブルクに置いてきたユーリが、リンクサイドでいつも以上に凶悪な顔つきでこっちを威嚇していた。


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