彼は天使



僕は夢を見ているのかもしれない。

ロシアの幻の天使が今、僕の目の前で滑っている。初めて生で見たジュニアの大会からびっくりするほどカッコよく成長したニコライ・フェルツマン。同じ年にシニアデビューして、同じ年にGPFの大舞台に立った天才。そして表彰台で金色のメダルを片手に微笑んで、結局同じリンクで競うこともなかった。

シニアに上がりたての十六歳。僕より一つ下の子が颯爽と現れて、ファイナルのリンクで歴代最高得点を叩き出して、そしてリンクから姿を消した。彼の得点を上回る者はいつまでも現れることなく、男子フィギュア界に直接競うこともできない幻に挑み続ける虚しさを残した。

それも昨年、ヴィクトル・ニキフォロフがGPF連覇を賭けた大舞台で彼の歴代最高得点を上回るまでの話だ。


「本当に滑るんだ……」


ヴィクトルがニコライにリクエストしてから一週間。久しぶりに滑るならある程度の体作りをしないと怪我してしまう。ということでこの一週間は僕と一緒にトレーニングに勤しんで、たまに三人で写真撮ったり観光したりして。今日、アイスキャッスルはせつのリンクにすらっとしたロシアンビューティーが目を伏せて立っている。そういえば引退した彼は世界的にも人気なモデルとして活動していると聞いた。たまに日本のテレビでも特集していることがあって、パリのランウェイも歩いたことがあるらしい。え、この人が僕のコーチ? しかもサブ? ヴィクトルだけでも贅沢極まりないっていうのにここまで来たら僕、二人のファンに刺殺されても文句言えないんじゃ!?

まじまじと見れば見るほどこの世のものとは思えない美しさで、頭の中は嫌な予感でいっぱいになった。嫌な汗が流れる。リンクサイドで震えるしかない僕に、隣のヴィクトルが妙に近い距離からそっと囁いた。


「ニコライは勇利のために滑るんだよ。ちゃんと見てあげて」
「どぅあッ!!!?」


ゾワッとした。ゾワッて! 飛び上がって距離を取ると人差し指で静かにってジェスチャーが向けられる。いやいやいや、これヴィクトルのせいだからね!? ていうかニコライはヴィクトルに言われたから滑るんじゃないの!? そう言おうとした瞬間に、スマホに繋がれたスピーカーから大音量の交響曲が流れ始める。低く響く弦楽器がリンクの空気を鋭く尖らせて、

そして、天使が氷上で目を開けた。

エッジが氷を削る音。指先まで行き届いた演技。軽やかな足さばき。記憶の中の彼よりも大きくて、少し逞しくて、それでも変わらず生きた人間の存在感がまったくない無機質さ。僕は当時、この絵画か彫刻のようなそれが動くことに一種の恐怖みたいなものを感じた。だから、四回転の後に綻んだ顔にすごく安心した。彼だってちゃんと生きてるんだなって、安心してのめり込めた。

あれから六年経った今、幻だった天使は現実にいる。僕の目の前で、記憶よりもぎこちないステップから三回転を決めて無事着氷した。昔の綺麗なジャンプじゃなく、軸のブレた不格好なもの。回転だって一つ落としている。だって彼はもうスケーターじゃない。それでもこれだけ滑れるってことは練習はずっとやってきたんだと思う。不安定なジャンプと空気を撫でる繊細な表現力がチグハグで、微笑みを浮かべる顔が苦しそうに汗をかいている。彼はもう天使じゃない。一人の人間としてこの地上に立っている。途中で偶然合った目が人間臭い涙を浮かべていて、僕は思わず溜息を吐いてしまった。

技術も体力も落ちて、あの脅威の得点を叩きだした演技とは比べ物にならない。それでも僕は今のニコライがいいと思った。あの時よりも、たぶんこれから彼が滑るどんなスケートよりも。今の彼が一番美しいと思った。


「勇利は前にニコライに会ったことがあるかい?」
「うん、ジュニアの大会で何度か」
「一つしか違わないもんね。どう思った?」
「……こわい、ひと」
「だろうね、大会中のニコライは」


演技が終わって氷上に寝ころんだ彼に拍手を贈りながらヴィクトルが言う。僕は自分の目が潤んでいることも分からないで、ただ思い出したことを口にした。

ニコライ・フェルツマンは怖い人だった。ファンからの握手やサイン、マスコミのインタビュー、選手同士のスキンシップ。求められたらすべてそつなく返すのに、自分からは決して触れようとしない。いつどこでどう見ても作り物みたいな綺麗な微笑みを浮かべて抑揚の少ないゆっくりした英語を操っていた。コーチ以外と積極的に話しているところを見たこともない。僕は彼が何を考えているのか、そもそも感情があるのかすら分からなくて、一つ下だってのも忘れてどこか遠い存在だと眺めるしかなかった。ヴィクトルとは違った意味で手の届かない存在。いつか触れられるのかなって思っていた矢先、彼は短い選手生命を終わらせてしまった。インタビューでもコーチからも理由は明かされず、怪我やら燃え尽き症候群やらいろいろ言われていたのを思い出す。でも、今日見て思ったのは彼がまだ滑れるということ。シニアのレベルで十分やっていける技術を持っていて、なんでコーチの道を選んだのか、僕には予想もつかなかった。


「昔のニコライはひどく独善的だった。誰のためにも、自分のためですら好きなスケートを滑れない。美しさの代わりに楽しさを放り投げたような可哀想な子だったよ。シニアに参戦するまで自分でも分かっていなかったっぽいし」
「それが、引退した理由?」
「さあ? 勇利が自分で聞いてみなよ。今ならニコライも教えてくれるかもよ」
「え? なんで、僕が」
「今のニコライは誰かのためにしか滑れないし、滑りたくなかったらちゃんと断れる子だから。今日は勇利のために滑った。それって君のことを理解したいからだと思うよ」
「へ……」


僕を理解したいって、どういうこと。

やっと息が整ったらしいニコライがリンクサイドに上がって来る。ヴィクトルに背中を叩かれて、僕は前のめりで彼の前に飛び出してしまった。汗を流すニコライは、なんか見ちゃいけないものを見たって感じの色気がドバドバで視線が泳ぐ。やめて、首傾げないで、天然やめてこわい。


「どうしたの、勇利」
「あー、ニコライは、こんなに滑れるのに、なんで引退しちゃったの?」


い、言ったーーー! 言っちゃったーーー!!!

うわーうわーと目だけじゃなく手の動きまでうるさくなってしまう。だってこれってスケーターの中でも触れちゃいけないタブーっていうか、誰も知らない真相っていうか。それを僕が聞いちゃって怒られないかな。ニコライは僕のイメージよりもとっつきやすかったし、普通に優しい人だったけど。この前の時みたいに突然泣かれたら僕の良心がギリギリ言う。大人になってまで年下の子をいじめるみたいでいたたまれない。

ビクビクチラチラ相手の反応を伺っていると、プッと噴き出す音が聞こえた。


「勇利、怯えすぎ」


あははは、って。大声で笑うニコライに開いた口が塞がらない。意外と大丈夫そうだぞこの天使。


「だって、あんまり言いたくないことなんじゃないの?」
「そりゃそうだけど、どっちかっていうと恥ずかしいの方が強いかもね」
「恥ずかしい?」
「うん。急に恥ずかしくなって逃げちゃった」


そう言って、ニコライはエッジカバーを着けて行ってしまった。向こうでは優ちゃんとスケオタ三姉妹が狂喜乱舞していて、ヴィクトルは何考えているのか分からない顔で彼の肩を叩いている。確かに答えてくれたけど、あれって答えの内に入るのかな。全然分からない。恥ずかしいってどういうことだろ。あんなに感動させるスケートを滑れるのに。

うんうん唸りながら温泉に浸かって、味気ない野菜メインの晩御飯を食べる。ヴィクトルもニコライも遠慮なくカツ丼を食べるんだから、ひもじくて仕方ない。食べた気がしない食後、部屋に戻った僕はスマホにいくつか通知が来ていることに気付いた。ピチット君からの電話だった。


こんばんはサワディー クラップ。久しぶりピチットく、」
「勇利ーーーー!! なんで教えてくれなかったの!? ずるいずるい!!」
「ふぁ!? なになに、なにがずるいの!?」
「僕が彼のファンなの知ってるくせにー!!」
「ちょっと、落ち着いてピチット君!」
「僕もニコライ・フェルツマンの生演技見たかった!!!!」
「………………………は?」


なんで、そのこと……。呆然とした僕の耳元に西郡からの割り込み電話が入る。内容は前科のあるスケオタ三姉妹がまたやらかしたってことで、全世界にニコライの演技が拡散された事実に僕は青くなった。しかもご丁寧にリンクの特定までされて、僕のホームリンクだということまでついでに広まっているんだとかいう嬉しくない情報までくっついて。僕は何もかも忘れたくなって机に頭をぶつけた。

本当に背中刺されたらどうしよう。
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