アイツは俺の



ジュニアに上がる前に拠点をサンクトペテルブルクに移すことになって、ヤコフから紹介されたのがアイツだった。

黒い髪に青い目。ロシア人にしてはちょっとガキ臭ぇ顔。俺からすればムカつくほどの長身。それでもヴィクトルよりは小さかったし、細長い手足とうっすい肩のせいでゴツくは見えない。口元を引き延ばすだけの愛想笑いと妙に生温い眼差しがイノセントを掻き立てる。男とも女とも取れそうな、性がぼんやりしたこのキラキラした人間が、先月華々しくモデルデビューをしたばかりの男。んで、この前ヤコフに見せられた映像で見入った男。シニア一年目で脅威のGPF出場を決めて、それから、コイツは……


「一年で逃げ出した腰抜けとルームメイトなんて御免だね」


シニアデビューからたった一年で引退を宣言したニコライ・フェルツマン。

ソイツが俺を見下ろしてヘラヘラ笑っている。見れば見るほどこの世のものとは思えない面だ。初対面で吐いてやった悪態にも軽く受け流す余裕。映像よりも人間らしく成長している。俺の態度に怒鳴るヤコフのひっでぇ顔と並ぶとちぐはぐな絵面だった。そうだ、こんなにもお綺麗な人間だ。現役として活躍していた二年前ならともかく、モデルとして世界に顔と名前を売っているだけの人間とどうして一緒に住まなきゃいけないんだ。本人を目の前に思いつく限りの罵詈雑言を並べ立ててみたところでヤコフは聞く耳を持たない。ソイツも一切笑顔を崩さない。

結局ヤコフに押し切られる形で俺はニコライとルームシェアすることになった。


「便所長すぎなんだよクソかテメェ!!!」
「うんうん、ごめんねユーリ」
「小便如きでてこずりやがって! いっつもゴソゴソなにしてんだよ!!」
「トイレ、苦手なんだ」
「ハァ!?」


一緒に住んでみて、やっぱりニコライの印象は最悪だった。

俺の質問に真面目に答えないのも、毎朝洗面台の前を永遠と占領するのも、便所の便座をいちいち下すのも、俺が脱ぎ散らかした服を勝手に洗濯して畳むのも、料理の味付けが薄いのも、帰ってきたら「お帰り」と言ってくるのも。食い物の好き嫌い一つ取っても首を突っ込んで、俺が暴言を吐いても余裕で笑っている。一人の人間として扱われていないって雰囲気をなんとなく感じていた。ガキ扱いが一番ムカつく。文句を言いまくってもニコライはヘラヘラ笑うことを止めない。コイツ、俺の態度のすべてを照れ隠しだと信じて疑ってないんだ。ムカつく。ふざけてやがる。

練習に行くたびにヤコフに直談判した。ニコライの表紙を抱える奴らに八つ当たりした。たまにリンクまで迎えにくるアイツと目線も合わせない。そんな生活がしばらく続いた頃。

ある日、ニコライは家に帰ってこなかった。

冷え切った部屋に暖房を入れるのは初めてだった。だっていつもニコライが先に来て部屋を暖めておくからだ。四苦八苦しながら器具を操り、シャワーで体を温める。その間に腹が減って、そういやいつもニコライが料理を作っていたことを思い出した。舌打ちを一つ、冷蔵庫を開けると冷凍食品がいくつか残っていた。これなら俺でも作れるだろ。適当なものを電子レンジに放り込む。味は、なんか濃い。腹が減ってなきゃ食べようとは思わなかったかも。無理やり掻き込んで食べ終え、むしゃくしゃした気持ちのままキッチン脇のロッカーからウォッカを取り出した。これはアイツがよく紅茶に垂らしているお気に入りだ。ちまちまケチ臭く使ってるのか、そんなに減ってはいない。それなりに値の張るモンらしいが、飲まれないのももったいないだろ。だから代わりに俺が減らしてやるんだ。自分が何に苛立ってるのか分かりたくなくて。知ってしまう前に、コップに移す気もなくそのまま口を付けて一口飲んだ。

そこからの記憶は、正直覚えていない。


「遅くなってごめんね」


ぼやけた目、だるい体。熱い顔のまま見上げた先で、情けねぇ顔がこっちを見下ろしている。頭の下に感じるコレはどこのクッションだ。頬を滑るぬくもりは、聞こえてくる声は。何で、誰か、


мамаマーマ


目がむず痒くなった。掻き毟りたくて、けどできなくて。

その時、半開きだった口がゆっくり笑った。あんな情けねぇ顔してたくせに、『しょうがないなあ』とでも言いたげなそれに変わって、間を置かず俺の体を何かが包み込んだ。柔らかくって、欲しくって、手に入らなくって。ああ、コイツはこんなにキレイなモンだったんだな、って。誰かの面影を重ねたソイツのことを全部知っているような感想が漏れ出す。額に何かが当たって、それを最後に瞼が落ちた。


「おやすみ、ユーラチカ」


その日見た夢は覚えていない。けど、目が覚めたら訳もなく泣きそうになった。誰にも言わねえけど。


「おはようユーラチカ。気分はどう?」
「あ"ーー…………最悪」
「あれだけ酒を浴びたらね。次から許さないよ」
「へーへー」
「朝食は食べれそう?」
「食う」
「あはは」
「何がおかしい」
「ユーラチカは意地っ張りなんだね」


だって、食べなきゃ練習やってらんねーし。

出されたモンを死ぬ気で掻っ込む。その間、アイツはいつも以上にニコニコヘラヘラ。頬杖ついてこっちを見てやがる。最初は無視してサラダボールの中身を片付け始めた、ら。「ユーラチカはえらいね」とガキ扱い。つか、コイツなんで愛称で呼んでんだ。昨日まで普通にユーリって呼んでただろ。


「おい、その呼び方やめろ」
「いいじゃない、可愛いのに」
「嬉しくねえ」
「嘘つき。昨日はとても嬉しそうだったよ」
「あ?」


昨日。昨日? 昨日はコイツが帰ってこなくて、腹いせに酒飲んでやって…………あ。


「ああああ知らねえ! 覚えてない!」


ありえねえ!! こんなヤツを母親と間違えるとか!! しかもコイツ男だろ!!! 馬鹿か俺!!!!


「私は覚えているからね、ユーラチカ」


頭に花でも咲いてんのかボケ。弱味でも握られた気分だ。つか握られたんだろ、たぶん。「言うなよ、絶対言うなよ!」トマトを刺そうとしたフォークが皿の底でカチカチぶつかった。ムカつく。ムカつく! 俺はコイツの前で一生酒を飲まないことを誓った。

それからニコライは帰りが遅くなることが多くなった。

俺が自棄でお気に入りの酒を飲んだのが原因か、朝飯の時にあらかじめ言っていくようになったし、夕飯は欠かさず作り置きをしていく。ウォッカのボトルはアイツのベッドの下にしまってあった。エロ本扱いかよ。

ニコライがいない夜は、なんとなくリビングでテレビを見ることが増えた。アイツがいる時は、すぐ部屋に引っ込んでいたのに。いなければいないでテレビを独占できていい。つまらないコメディアン。淡々と事実を伝えてくるニュースキャスター。古典的なメロドラマでも、静かすぎる部屋にいるよりはずっとマシ。だから嫌だったんだ。帰ってきたら「おかえり」って言ってくれるヤツがいるって、慣れたらツラくなるのは俺の方だっつーのに。

テレビの向こうのカップルがめんどくせぇすれ違いの後にキスをする。黒髪の男が愛してるだのなんだの囁いているのがあの綺麗な顔とダブった。意外とアイツもこういう相手を捕まえてデートしているのかもな。顔だけはいいし。ルームシェアしているガキより女を取るのも分かる。

見れる番組もなくなって、久々にGPシリーズのDVDを見ることにした。ほとんどヤコフに押し付けられたもんばっかで、俺が生まれる前のヤツまである。一番取りやすい位置にあったのが二年前のファイナル。セットして適当に流していると一番手にゆったりとした曲が流れてきた。初っ端の三回転ミスってやんの。だっせ。俺ならそんなミスしねえのに。アイツならもっときっちり飛んでやるのに。

ガチャガチャガチャ

イライラ考え事をしている内にいつの間にかソファで寝そうになっていたらしい。突然玄関から鍵を回す音が聞こえて、俺は驚いて完璧に目が覚めた。ニコライが帰ってきた。アイツがこんな乱暴な音を立てるなんて珍しい。大きな音と一緒にドアが開いてドスドスうるさい足音を立ててリビングじゃないどっかに直行した。俺はまだイライラが収まらなくて文句の一つでも言ってやろうと後を追った。


「おい! うるせ、っ!?」


それはどう見たっておかしかった。綺麗好きなニコライらしくなく洗面所にコートとマフラーが脱ぎ散らかってていて、ユニットバスのシャワーカーテンも閉めないままシャワーの蛇口を捻っている。セーターもズボンもそのまま。シャワーの水は捻ったばっかだとまだ温まっていない。こんな寒い日に外から来たばかりのヤツが冷水なんか浴びたら死んじまう。


「何してんだよ!!」
「ぁ……」


肩を引っ掴んで揺さぶるとぼんやりした青色がこっちを見た。涙なんか少しも流してないくせに、いっそ泣いちまったほうがマシなくらい悲惨な顔して。バカみてぇに首の同じところにシャワーあてながら掻き毟ってる。


「き、もち、わるい」


途切れ途切れに呟いたことを、分かった瞬間に今まで見えていなかったそれが見えた。男のくせに細くて生白い首筋。ひっかき傷だらけのそこにくっきり残った赤い痕。それがキスマークでどういう意味があるのか知ったのはつい最近になってからだ。その時の俺は季節外れの虫刺されに狂ったように爪を立てるソイツが、普通じゃないことくらいしか分からなかった。


「お、まえ」
「むり、きもちわるい、さいあく、むり」
「おい、せめて服脱げ」
「やだ、きもちわるい」
「風邪ひくっつってんだろーが!!」
「からだ、いま、見たくない」
「ガキみてぇな駄々言ってんじゃねぇ! 大人のくせに!」
「こんなの望んでない!!!」
「おい!!!」


こんなニコライは知らない。コイツは俺の知ってるニコライじゃない。ガキみてぇじゃなくてただのガキ。余裕のあるヘラヘラ顔がどっか行って、迷子でその場にしゃがみ込んだまま動けなくなったガキがそこにいた。やだやだ首を振って髪にかかった水がこっちに飛んでくる。結局ニコライは服を着たまま熱くなったシャワーを三十分浴びるまで落ち着かなかった。

リビングにやっと戻って来ると、ちょうど最後の選手がリンクの中央に立っているところだった。『今年シニアデビューを果たしたニコライ・フェルツマン十六歳。SP一位通過の脅威のニュースターがGPFフリーのトリを務めます!』


「消して」
「…………やだ」


一応ジャージに着替えたニコライがソファの脇まで寄って来る。見たくなけりゃ部屋に引っ込めばいいのに、乾かし切ってない黒髪を拭きながら動こうとしない。居心地悪ぃ。無表情の綺麗な顔を見ないように、できるだけ画面の向こうに集中することにした。

今より長めの黒髪を靡かせたニコライがリンク上に自分の世界を作っている。ヒョロくて、ガキ臭くて、他のヤツらと並ぶと余計に目立つ。それが緊張もなく堂々と自分のスケートを滑り始めるんだ。

これを見たほとんどのヤツが地上に舞い降りた天使だとほざいてコイツの綺麗さばかりに目を向けている。天使の喜びの舞だとか天使の秘め事を覗いているとか。でも、俺からしたらただ天使がはしゃいで駆け回っているようには見えなかった。これは堕天だ。天使が居場所を失くして逃げてきた地上で孤独を唯一の救いだと受け止める。解放感と寂寥感。ぐちゃぐちゃに混ざった感情をお得意の美しさで一つに纏め上げて初めて見れるものになる。仄暗い感情を背景にせいせいするほど晴れやかな笑い顔でフィニッシュまで持っていく。こんなのがイノセントなもんか。天使なんてお綺麗なモンじゃなく、天使であることから逃れて一人で生きることを決めた、ただの人間の話だ。無垢? アガペー? ハッ! こんな自己中な天使がいてたまるか! そんなお綺麗なばっかの演技に俺が感動するもんか!

前半に一回、後半に二回の高難度の四回転。軸のブレないスピンと複雑なステップシークエンス。締めのコンビネーションが決まるまで、俺の目は二年前のニコライしか見ていなかった。表現力と技術力を十六で物にした化け物に夢中で、今のニコライがどんな顔をしていたかなんてまったく見ていなかった。

俺、コイツを超えたい。コイツと戦って勝ちたい。


「……なんで、スケートやめたんだよ」


思わず言っていたそれに、別に答えが返ってくるなんて思わなかった。いつもと違うニコライが気持ち悪かったから、キスクラでヤコフと並んで座るニコライをじっと見ていた。


「スケートは今でも滑ってるよ。ただ、誰かに見せるのが嫌になったんだ」


隣に嗅ぎなれたシャンプーの匂いが近寄ってきて、返ってきたことよりも内容に驚いた。見せるのが嫌? ハァ? スケーターになっておいて? ガンつけるつもりで横を見て、ソファに座ったソイツの顔がすぐそこで俯いた。やっぱ今日のニコライはおかしい。無表情でぼんやりしていて、でも口は笑おうとしていて。こっちの胸が持たない。なんか、お袋が隠れて泣いているのを知っちまったみたいな。いや、お袋なんて何年も会ってないけど。たとえたらそんな感じの、どうしたらいいか分からない手持無沙汰な気分にさせる。それで直感した。ニコライ・フェルツマンっていう人間の中身は、ただのか弱い女なんじゃないかってバカみたいなことを。


「……こんなひどいもの、誰かに見せていいのか、分からなくなっちゃった」


なんつー顔してんだ。
俺をこんだけ感動させといて。
自分のやったことに誇りを持てよ!
俺の好きなモンを馬鹿にしてんじゃねー!!!

怒鳴ってやりたい衝動が一気にしぼんで、俺は黙って隣の背中に手を当てた。暖かくて、固くて、ちょっと心臓が動いてる感じが伝わってくる。ボーっとそれを感じている間に二人して寝落ちして朝同じ毛布に包まって目が覚めた。ニコライはいつもみたいに洗面所を占領するし、飯の味付けは薄いし、俺をユーラチカと呼ぶ。トイレもやっぱり長くて、でも俺はもう文句は言えなかった。コイツはなんかの間違いで男になっちまった女じゃないかって、オカルトみたいなことをその時の俺は妙に信じ切っていて、たまに気がついては居心地の悪い思いをした。だって仕方ないだろ。俺はアイツのことを可哀想だと思っちまったし、それ以上にコイツを放っておけないと思った。冷たいシャワーを浴びながら結局泣けなかったコイツを、リンク以外で一人にしちゃいけないって。

ニコライが夜遅くまで勉強してコーチの資格を取ったのが二ヶ月後、ヤコフに専属コーチとして改めて紹介されて初めて知った。それまで俺はニコライのベッドを散らかしまくったり夜遅くに帰ってきたニコライを俺のベッドに引きずり込む嫌がらせを繰り返した。

俺にニコライが必要なんじゃない。ニコライに俺が必要なんだ。四年目に突入したルームシェアが俺にとって当たり前になっていたのに、今度は本当にアイツがいなくなった。


「クッッッソナルシスト野郎ッ!!!」


ムカつくムカつくムカつく! ベッドに向かってブン投げたスマホが二回バウンドする。

ニコライがどっか行って、ヤコフにスケーター専用の寮に引っ越すように言われて一週間。一週間だ。一週間なんの説明もなしにどっか行って、てっきりコーチ業に嫌気が差して逃げだしたのか、それともやっと現役復帰する気になったのかって期待してたのに!

Hasetsu castle? Ninja house? ハァ!?


「ブッコロス」


ソッコーでニコライの部屋に突進して、ベッド下のウォッカを全部トイレに流してやった。

ニコライのヴァァァアーーカッ!!!!


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