醜かった私



私が最初に目指したのはバレエ。プリンシパル。理由は頭の天辺から足の爪先まで使って美しさを生かせると思ったから。私が美しく生まれ直した意味を実感できる。世界中の視線を釘づけにして感嘆の溜息を吐かせるような、そんな素晴らしい人間になるために。天職だと信じて七歳から頑張ってみたものの、結局、私が魅了されたのは氷上のフィギュアスケーターたちだった。

スピードと、演技と、スポットライトの数。全方位から向けられる視線。カメラの数。歓声。スマートな筋肉を身に纏ったスケーターたちが全身を使って自分自身を表現している。たったの数分にも満たないステージ。最後の一礼ですべてが完成する芸術。冷たい氷の上で踊る彼らは私の理想とする美しさに一番近かった。

バレエを踊るたびにプリマ・バレリーノではなくプリマ・バレリーナに憧れる女の自分がうるさく騒ぎ立てる。バレリーノは優雅でありながら雄々しい部分も見せつけなければならない。可憐なバレリーナを支えるための太い腕も滞空時間を長くするための足腰も、鍛えれば鍛えるほど自分の中での違和感が酷くなっていった。何よりそんなことに悩んでいるのが真剣にバレエに打ち込む周囲への負い目を生んで、どこかで居心地の悪い気分にさせた。

そんな時に出会ったのがフィギュアスケート。バレエへの負い目が後押しになって、私は十一歳の時に四年続けたバレエダンサーからフィギュアスケーターに転身した。

頭の天辺から爪先まで美しくあれ。それはバレエと変わらない。表現力も同じくらいに求められる。けれど何故か、足元から湧き上がる冷気と体の芯から滲み出る汗の落差がとても心地よかった。

私はこの美貌をスケートに昇華させるために生きよう。決意は意外と早かった。

十一歳からのスケートはノービスBから始めている大半の子たちよりも遅れた出発だ。実際、ジュニアに上がるまでに三年の歳月をかけた。それでも世間一般から言わせればありえない上達具合だったらしい。天才だ、才能だ、なんて褒めそやされても、特に思うことはなかった。努力ならまだしも、私が生まれ持ったものはこの美しさだけだという自負が強かったから。

初めてジュニアの世界大会で優勝したのは十四の時。その時私の先輩だったのがヴィクトル・ニキフォロフ。同じヤコフの師事を受けてはいても、実際に会うのは片手で収まる。それでも気さくな彼に悪感情は持っていなかったし、尊敬できるほどに彼は美しかった。ただ美しいだけでなく、自信と、気高さと、そして残酷さを持ち合わせた、そんな素晴らしい人間だった。


「ニコライは本当に自分の顔が好きだね」
「だって美しいでしょう?」


あまりにも当たり前のことを聞かれて当たり前に即答してしまう。艶やかな黒髪は十代の半ばに差し掛かると芯のある手触りに様変わりした。数年前より骨格もしっかりしてきたし、何より顔の彫りが深すぎず浅すぎないちょうどよい造形をしている。長い手足はお人形のように細く長くバネがあって、四回転だってもう飛べるくらいに強くなった。シニアで十分通じる体力と二十代では出せないアンバランスな色気。毎朝鏡に映る自分を見るのが楽しみだった。これが私の求めた理想で、唯一無二の武器だと意識的に直感していたから。


「次のGPシリーズ、シニアで出るから」
「俺はまだ君には来てほしくないんだけどなあ」
「私は今じゃないとダメだと思うんだ」
「ヤコフには止められてるのに?」
「ヤコフのための人生じゃないよ」
「Wow! いい子ちゃんのニコライとは思えない発言だね」


いい子ちゃんだと思っていたんだ。毒も薬も含んでいない言葉はまだまだ慣れそうにない。そういう人だって直接話してみて分かったことだったから、最初は変な顔をしてしまった。それを笑われたのは今でもちょっと根に持ってたりする。大袈裟なジェスチャーを披露したヴィクトルの両腕が悩まし気に組まれて右手の人差し指が頬をかく。にっこり綺麗で艶っぽい顔が何とはなしに呟いた。

それがたぶん、引き金。


「君は中身まで美しく在りたいんじゃないのかい?」


その時、私は恥も外聞もなく大泣きしてしまったのを覚えている。

歪む視界の先で、ヴィクトルもものすごく驚いていた。だって私は自分がどこからどう見れば美しく見えるか知り尽くしていたし、喜怒哀楽のすべてを美しくあろうという意識が無意識レベルに刷り込まれていた。私は美しい。美しい人間だと。生きてきた人生すべてが、美しいヴィクトルの一言で否定されたような気がした。眉根を癖がつくくらいキツく寄せて、噛まないように気を付けていた下唇を思いっきり噛んで、両方の鼻の穴から鼻水を垂らして。聞き苦しい濁点まみれの発音で私は大声を上げた。


「ヴィクトルはっ、わたしのこと、み、醜いとっ、思っているのッ!?」


ヴィクトルは一言だって醜いなんて言葉を使っていないのに。死にたくなるほどの量の涙が延々と流れ出てくる。その時、私はとても精神的に不安定な時期だったんだと思う。十代半ばの自分に、いつか終わりが来ること。美しさの価値を知っているつもりで、この身に余る幸福を有限のものだという当たり前のことすら忘れていた。だから、だから。この美しさが損なわれる未来が泣くほど恐ろしい。ヴィクトルの言葉は今まで抑え込んでいた恐怖を解き放つキッカケでしかなった。

私が十六歳の春。ヴィクトルが世界選手権五連覇への第一歩を踏み出す一年以上前のことだった。



***



「ヴィーチャ。ヴィクトル。起きた?」


日本に来てから初めての朝が来た。

慣れない布団で背中が痛いけれど、ベッドが届くのは明日。もう一晩の辛抱だ。早朝で誰もいない温泉に浸かって、いつものメンテナンスをして、美味しい朝食をいただいて、食休めをしたあたりで『そういえばヴィクトルはまだ寝てるのかなあ』と思い至った。私はヴィクトルの隣の部屋に住まわせてもらっていて、何度も部屋の前を通ったのに。存在自体を忘れてた……わけではないと思いたい。さすがに、うん。


「ふぁぁ、おはようニコライ。なんかホカホカしてるね」
「おはよう。朝風呂行ってきたからね」
「ええー、俺も呼んでよ。昨日誘ったのに入ってくれないしさあ」
「ヴィーチャが一緒に入るべきなのは勇利でしょう?」
「三人で入りたい」
「もう、朝からわがまま」


といってももうすぐお昼だけど。時差ボケがツラいのか、寝る時は裸族なリビングレジェンドはまだ布団の中だったらしい。


「だいたい今から走り込みするのに、汗流すの二度手間じゃない?」
「え、私もするの?」
「当然。サブとはいえニコライもコーチだからね」
「そこらへんの説明もまだでしょう……」


ユーリ・プリセツキー専属コーチっていう肩書はどうすれば……。ヤコフの怒り顔が勝手に浮かんでくる。勘当されたらどうしよう。私の四年が水の泡。うっ、頭が痛い。


「っそんな切ない顔してもダメ! Let's go!」


無意識に儚い顔をしていたのか、『心を鬼にしました!』って顔のヴィクトルに腕を掴まれる。別に泣き落としするつもりはなかったのだけど。ジャージに着替えて靴紐を締めるまでガッチリ拘束され、結局海岸通りを自転車で走り回ることになった。ついてない。

チリンチリーン


「勇利、ペース遅いよー」
「はいっ!」


勇利の前をヴィクトル。後ろから私が追い上げる形での走り込みに付き合う。

ママチャリの音、懐かしい。昔はよく乗ってたな。というか今の美しい顔でママチャリって違和感がすごいだろうな。宗教画から飛び出した女神のような美人がママチャリ跨って走ってるって……もしかして私くらいならむしろママチャリがユニコーンに見えてくるかな? いや冗談冗談ビックマウスは自重しよう。大丈夫。そこまでナルシストでもないし。


「ちょ、ニコライ! 置いてかないで!」
「ニコライ、また考え事してたでしょ。今は勇利のことだけを考えてね」
「ユニコーンより白馬の方が現実的だよね、うん」
「なんの話ーー!?」
「困った天使だ」


しばらく走っているうちに目的地にたどり着いく。アイスキャッスルはせつ。熱烈な歓迎を受けながら向かったリンクでは、勇利じゃなくヴィクトルが意気揚々と滑り出した。


「子豚ちゃんは体脂肪落とすまでリンクに上がっちゃダメだよー!」


だそうです。

準備運動がてら始まったのは昨シーズンの世界選手権で披露したFS。そして、勇利がネットで披露した内容でもある。足取りは軽やかでジャンプの精度は跳んでから着氷までのどこを取っても完璧。世界一に連続五回もなっている人はやっぱり別格だ。真面目な表情が技を決めるたびにさらに輝く。彼が着ればただの黒Tシャツですらシンプルなコスチュームに見えてくるのだから、流石としか言いようがない。フィギュアスケートの神様だと崇める人がいるくらい、彼はすごい人だ。普段頑張って軽口を叩いている私にだってそれくらい分かっている。重々、分かりすぎている。

そんな彼がユーリと離れた方がいいって言ったなら、本当にその通りなんだろうな。


『うっぜーんだよクソナルシスト野郎!!!』


あれは照れ隠しじゃなかったんだ……四年も一緒だったのに……。


「ねえ、ニコライは……ってなんで泣いてるの!?」
「あれ、本当だ……なに?」
「まず涙拭きなよ!」


勇利に貰ったティッシュを目尻に充てるとじんわり湿った。あれ、こんなに涙もろかったかな。久しぶりに泣いた気がする。確か……そう、六年ぶり。季節もちょうど今くらいの時期。あの時もヴィクトルに泣かされた。もっと汚く、子供みたいに泣いた。実際にあの時の私は世界で一番醜かった。私は自分しか見えていなくて、ヴィクトルが言いたいことも分かっていなくて、それで、ヴィクトルに迷惑をかけた。最近まで彼と目を合わせるのも背中がもぞもぞしたくらいだ。そして今も、背筋がスースーする。あの時と同じくらい彼の言いたいことが分からない。けれどあの時と同じじゃいけないんだ。分からないままでいてはいけない。じゃないとまた、また後悔する。絶対に。

そんなの、もう御免だ。

涙を拭いて、ついでに大きく音を立てて鼻をかむ。普段はこんな下品な音は出さないけれど、両方の穴から鼻水垂らすのに比べたらなんだってマシに思えた。


「それで、なに?」
「えっと、ニコライならヴィクトルの考えてること分かるかなって」
「あ、無理」
「即答!?」


ちょうど今考えてた課題だし。

ユーリだったら『俺の才能に惚れ込んだんだろ』って自信満々に胸を張るところだ。その点勇利は奥ゆかしいというか、自分に自信がないというか。自分と他人を分けすぎているのが、少しだけ六年前の私を見ている気がした。


「勇利は、」


私みたいに醜くならないでね。


「僕は?」
「……やっぱり可愛いな」


言いかけたのは自虐と言い訳。勝手な押し付けなんて、それこそ目も当てられないほど醜い。自嘲しそうになった口元を精一杯とろけさせて頭を撫でると、勇利の顔が初心に染まる。可愛い可愛い。


「ちょっとー。コーチは俺なんだから勇利盗らないでよー」
「私だってサブでもコーチだよ」
「そんなこと言うならニコライも勇利に滑っているところ見せてよ」
「え?」
「コーチの俺がやったんだから、サブの君もやるべきだよね! 六年前のFS、今からやってみて!」


この人はいったい何を言っているんだろう。

頭でそれを理解する前に、西郡ファミリーの黄色い声が私を現実に連れ戻した。

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