美しかった私



少年がリンクに降り立つ。

冷たい冬の湖を思わせる張り詰めた雰囲気。そこに風が吹き、水面の小波が少年のステップと相まって見る者の心を不安定にさせる。おぼつかないながらに軽やかな足運び。物惜し気に伸びる手が空気を撫でる、その指先までもが繊細で、直接頬に手を這わされたような錯覚を与えてくる。引いては押し寄せる波のように緩急をつけたスピン。湖面を歩く少年の顔はまだ無機質で、感情という感情のすべてを失ってしまったかのようだ。その印象が大技、四回転ジャンプを危なげもなく決めた途端に融解する。

そこでやっと、観客は“彼”の戸惑いを知るのだ。


He was an angel upon earth.地上に舞い降りた天使


誰かの呟きが答えだった。

彼は地上に降り立ったばかりの天使。どこにも行けず、誰にも頼れず、暗く閉ざされた雲を悲し気に見つめる孤独。当てもなく惑う天使を慰めるように、希望の光が湖上に差す。そこで初めて安堵にも似た笑みを浮かべるのだ。重い雲の狭間から感情を見出し、不安が徐々に晴れていく表情の変化。垂れ下がった眉と綻ぶ薄い唇。孤独であることには変わらず、それでもなお彼は踊り続ける。最初のおぼつかない足取りが寄る辺ない寂しさを表していたのなら、今の彼は光の中の喜びだ。ここに自分がいるのだと、両手を広げたイナバウアーは天使の翼。彼が舞うと雲が開ける。空気に暖かみが増し、光は強く、オーロラの彼方へと観客を連れて行ってくれる。

その神秘的とすら言える光景を誰もが固唾を飲んで見守っていた。この天使に手を差し伸べたい。君は一人ではないのだと安心させて、陰りのない笑顔を見せてほしい。

泣きそうなほど、幸福とはこういうものだとダイレクトに伝えてくる破顔。彼を追いかけるスポットライトは天からの祝福だ。孤独を受け入れた天使が宙を舞い、喜びを知って空を仰ぐ。最後のコンビネーションスピンが荘厳な交響曲のクライマックスと共に会場を高みへと連れていく。この高揚感と寂寥感が混在した空間の中、天使は故郷へと手を伸ばした。薔薇色の頬を涙で濡らし、微笑みはただ誰かを求め続けて。無意識に手を握りしめた人間が、果たしてこの世界で何億いるだろう。

演技が終わり、天使が一人の人間に戻るまでの数秒間。誰も声を発することができない静寂。会場の活気が戻り始めると、観客は口々に今の情景を確かめ始める。我々は夢を見ていたのではないかと、不安と興奮が入り混じった顔色は先ほどの天使と似たり寄ったりの曖昧さを持っていた。

事実、我々は幻を見たのだ。


『ニコライ・フェルツマン選手の得点は……』


世界大会の氷上で、その天使を見たのはそれが最後だったのだから。



***



ニコライ・フェルツマンの名を聞いて大多数の人が思い浮かべるのはモデルのニコライ・フェルツマンだろうか。それともユーリ・プリセツキーの専属コーチか。この四年、国内のみならず世界的な仕事にも取り組んで、昔より自身の美しさを振りまいている自信がある。それでも私の根っこの部分にあるのはフィギュアスケーターのニコライ・フェルツマン。美しさに取り憑かれて、美しさに溺れた哀れな男。ただそれだけの存在でも、

あの時、あの瞬間。私は世界で一番美しかった。


美しい。

どんなに暗いところでも僅かな光をかき集めて輝く黒髪。凪の海のように揺らぐことなく穏やかなコバルトブルーの瞳。コーカソイドともモンゴロイドともつかない不思議な色合いの肌。男にしては細く、女にしては頑強な骨格。八頭身も夢ではない小顔と長い手足を持つ体。けぶるようなまつ毛が不規則な感覚で揺れるたび、心の奥底を擽られるような錯覚を受ける。ましてやその艶やかな薄い唇が僅かにでも弧を描いたなら、何者の視線もそこから逃れることなどできないだろう。

美しい。美しい人間が、私に微笑んでいる。

真っ正面から向かい合った彼は恍惚とした表情を浮かべていて、この世の物とは思えない色気をしとどに濡らしている。彼は何に見惚れているのだろう。何を喜び、何に悲しみ、何で幸せを感じるのだろう。一目見たが最後、そのすべてを知って、手を伸ばし、触れるその瞬間にひどい罪悪感に打ちのめされる。自分のようなただの人間如きが彼に触れても良いのだろうか。その瑞々しい頬に触れ、長めの横髪を耳にかけ、笑みを讃える涙袋を親指で撫で、黒いまつ毛に縁取られた深海の奥の奥を覗き込む。そんな所業が、只人の身でどうして行えようか。彼に自身の痕跡を残すなどという穢れを負わせ、どんな昏い悦楽を得ようというのだ。浅ましい。醜い感情に突き動かされて無意識は手を伸ばし続ける。

美しい。美しい人間を、私が、私の手で、

グギッ


「いっ!」


瞬間、指に走った激痛。突き指に近いそれが光の速さで脳まで届き、途端に夢のような時間がクリアになっていく。そうして私はまた自分の悪癖で幸せな悲鳴をあげることになった。


「なんだ鏡かぁ」


真っ正面の美しい人が口を開けて大笑いする。それすら様になっている自分の顔にもっと笑いが込み上げた。

美しさは権利だ。
美しさは矜持だ。
美しさは財産だ。

美しさを望んだ私は、死んで遺伝子から生まれ直した。その結果がこの理想の美貌だった。アジア系の血が入った白人種の美形。誰がどこからどう見ようと薄幸の美青年。性を超越した美しさを身に纏うオンリーワン。昔の意識を取り戻した瞬間に跪いて最大級の感謝を神に捧げたくなった。問題は性別まで変わってしまったことくらいだけれどそれくらいの間違いは許容する。というか許すしかなかった。だって私は権利を手に入れたんだから。

顔だけが人間の価値だなんて思わない。顔だけ良くっても中身が最悪なら意味がないことも知っている。それでも美しくなければなれないものがあると思う。私は昔、それになろうと思った。

人に感動を与えられるものになりたい。人に美しいと感嘆されるような何かに。その何かを探して探して、そうして今の私は……



Cамовлюбленный человекナルシスト野郎!!!!!!!!!!」



バーン!!! と。壊れんばかりの勢いでバスルームの扉が開かれる。そこには片足を振り上げた後の美少年が凄みを聞かせて私を睨んでいた。もう、この子ったら。


「おはようユーラチカ。朝から喉開いてるね」
「うっせぇ! 毎日毎日おめーはいつまで鏡見てんだ! あとその呼び方やめろ!」
「ごめんね、寝惚けちゃって」
「寝惚けてテメェの面に見惚れてんじゃねーこの変態ナルシスト!!!」
「ユーラチカは今日も元気いっぱいだね」
「ユーリって呼べ!!! つか聞いてんのかテメェ!!!」


妖精は怒っても可愛いだけなんだ。

みゃーみゃーうるさい子猫ちゃんも気にせず冷たい水で顔を洗う。やっと一日が始まった気がした。タオルを勘で掴んで顔を拭く。前髪に纏わりつく雫すらこの顔から色気を引き出すツールになっているようだ。はあ、本当に。


「仕方ないじゃない。この顔、美しいんだもの」


美しいって素晴らしい。素で大きな溜息が出た。


「もちろん、ユーラチカもとっても美しいよ」


最大級に美しい微笑みで褒めたつもりなのに、私のすぐ横の壁にものすごい蹴りが入った。妖精は今日も朝からご機嫌斜めらしい。美しいから許される所業だ。ついでにもう一つ、彼の分も小さな溜息を吐いておいた。

ユーリ・プリセツキーとのルームシェア関係はもう四年になる。メインコーチのヤコフから任されて彼がノービスの時代から世話を焼いている。紆余曲折を経て私は次のGPシリーズを目指して邁進中のユーリの専属コーチだ。

練習嫌いのユーリを引き摺ってリンクに放り投げるのが毎朝の日課。専属と言ってもメインはヤコフだし、私のコーチ歴は四年も満たない。自信はあっても経験が浅いし、モデル業でちょいちょい抜けることもある。まだまだヤコフに頼り切りで独り立ちは向こう五年は先になるだろう。

氷上をスイスイ滑る妖精を見つめていると突然、背後から耳の裏に色っぽい吐息が襲い掛かった。


「相変わらず刺激的な悪戯だね」
「やあ、ニコライ元気?」


にっこりあはは。天真爛漫に手を振るリビングレジェンドにおっとり笑みが浮かんだ。


「ヴィーチャ。どうしたの?」
「ちょっと君にお願いがあって」
「うん? なに? ヴィーチャのお願いなら何でも聞くよ?」
「本当かい? やっぱり君は話が分かるなあ!」


ヴィクトルからの珍しいお願いに思わず真面目な顔をしてしまう。だってヴィクトルはイケメ……ううん。私はヴィクトルに尊敬と同じくらい申し訳ない気持ちを抱えているから。


「じゃあ、ユーリに気付かれないように荷物まとめてくれない?」
「ん?」
「というか、君の部屋から家具はもう送ったから。身の回りの物だけスーツケースに詰めてね?」
「え?」


遠征か何かにユーリを連れていくのかな? 突然決まったとか? ユーリ、予定外の練習は逃げるもんねえ。とか思っていた私は、気が付けば空港の前で、ヤコフに裏切り者扱いを受けながら飛行機のビジネスクラスでヴィクトルと一緒に日本の地を踏んだのだった。



***



「なななななんでニコライ・フェルツマンまでぇ!?」


温泉に入りに行ったヴィクトルを旅館の居間で待ったせてもらっていると、背後から勝生勇利の悲鳴を浴びることになった。


「私のこと知っているんだ。嬉しい」


反射で最大限の美しい微笑みを浮かべれば彼の顔が目も当てられないくらいに赤く染まる。


「ははは、はいぃ! ロシアの幻の天使を知らないなんて、スケーターの風上にも置けませんっ!!!」
「幻の天使?」


天使はともかく幻?

ちょうど彼の背後から現れたヴィクトルに視線で尋ねると知らなかったのって顔をされる。顔をされただけで説明なしだったから私は黙って二人の動向を見守ることにした。

先日ネットにアップされたヴィクトルのFPの完コピ動画。それに可能性を感じたらしいヴィクトルが急きょ今シーズンの予定をキャンセルして日本にまで飛んだ。その暴挙に何故か私も巻き込まれ、こうして九州の勇利の実家にお邪魔することになった。しかも彼の了承を得ずにだ。ロシアに置いてきたユーリのことも心配だし、私はここにいる理由がないんじゃないかなあと思えてきた。このまま無断の日本旅行だったということで私だけ帰国してヤコフに謝りたい。ユーリの一人暮らしなんて怖すぎて仕方ない。私の部屋まで荒らされてたら悲鳴どころの話じゃないから。


「ヴィーチャ、帰っていい?」


強い日本酒をガブガブ飲んでお眠なヴィクトル。それでも頭は働いていたみたいでいつもの溌剌とした笑みを浮かべて一言。


「だーめ」
「なんで?」
「ふぁああ……説明は、あとあと……」
「ええー」


寝ないでほしいなあ。

それから「なんでヴィクトルだけじゃなくニコライ・フェルツマンまでいんのよぉ!!?」というレディの叫び声で起きたヴィクトルのリクエストで私もカツ丼をいただくことになった。


「Amazing!!」
「おいしー」


二人して夢中で食べてしまった。出汁の効いた卵とサクサク感がほんのり残った衣。お肉のジューシーさが昔の味覚を呼び起こした。美味しい。とっても美味しい。ほっぺが落ちるってこういうことを言うんだなあ。


「ニコライさんはお箸の使い方が上手ですね」
「うん? ニコライでいいよ? 私にも一応日本人の血が流れているからね」
「えっ、そうだったの!?」
「へえ、どうりでcute faceだと思ったよ」
「美しいと言ってヴィーチャ」


実はロシアと日本のクォーターだったりする。

ゆっくりカツ丼を噛みしめている横でヴィクトルは太っちょ体型について一つ二つ棘を刺している。悪気はないし本当のことだから私も口を出せない。


「美しい顔をしているのにな」


ボソッと呟くと勇利がまた面白い顔をした。「可愛らしいの間違いじゃない?」とヴィクトルに言われてさらに顔が崩れていく。もったいない。勇利をからかいながらの遅めの夕食は、久々の日本食にテンション上がって大満足の時間だった。


「それで、なんで私はここに連れてこられたの?」


ヴィクトルと一緒に荷物を運びこんでいる間、なんでなんでとうるさく突っついてみる。


「えー、言わなきゃ分からないのかい?」
「あはは、分からないかな」
「仕方のないангел天使だね」


おどけながらもやっと理由を教えてくれる気になったらしい。温泉に入ってホカホカで、ちょっと眠ってすっきりして、お腹いっぱい幸せ気分の美しい人が急に種類の違う笑みを浮かべる。

ああ、美しい。綺麗。


「このまま君と一緒にいたら、ユーリが駄目になるからだよ」


こんな素敵な顔から、残酷な言葉を吐き出す。


「ニコライは綺麗すぎるから」


六年前と違って、今度の私は泣かなかった。

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