私が一番美しかったとき



苦しかった。

何をする気力もなくて、ベッドの上でブランケットを被って一日を過ごす。普通なら入念にストレッチをしている時間だ。体を温めるために軽く走って、傷の具合を見て、筋肉の調子を整えて、そろそろリンクに降り立つ頃。その朝の時間に、まだパジャマ代わりのジャージを着ている。ブランケットの外は冷たい空気に満たされていて、カーテンも開けていない部屋がいつもの部屋じゃないみたいだった。

悔しかった。
ツラかった。
怖かった。
見えなかった。
楽になった。
虚しかった。
遠かった。
憎かった。
悲しかった。
どうでもよかった。
苦しい。
どうでもいい。
なんでもいい。
逃げたい。どこに?
分かってほしい。誰に?

どこにも逃げられないし、誰にも分かってもらえない。


(助けて)


ヤコフはだめだ。傍目じゃ分からないけれど私の無茶を気に病んでいる。傷を負ったのは私の方なのに私以上に傷ついたはず。きっと連盟からも世間からも批判を浴びたに違いない。未成年を指導不足で怪我させて使い物にできなくしたって。私のワガママでもうヤコフを傷つけたくない。もう絶対にヤコフを巻き込めない。

ヴィクトルもだめ。彼の期待を裏切ってしまったから。ヴィクトルがワールドに専念するためにGPシリーズを欠場した、その年に私はGPFで彼の記録を抜いて、そして無理やり引退してしまった。彼だって正々堂々と私と勝負する日を楽しみにしてたのに、私はそれを無視した。

いや、そもそも私はヴィクトルに限らず他のどの選手も無視していた。私が美しいか美しくないかに他の人間は関係ない。だからつかず離れずの距離をできるだけ保って、正直に言うとどうでもいいとすら思っていた。誰かと勝負するなんて二の次どころじゃない。そんな薄情な私をヴィクトルはずっと待っていてくれたのに、最後は八つ当たりして、泣いて、縋って、さようなら。また八つ当たり。私はヴィクトルに八つ当たりばっかりしている、はた迷惑な子供だった。そんな私を彼がどう思ったかなんて分かりきっている。だから、ヴィクトルには頼れない。

パーパもマーマもだめ。反対していた二人を無理やり説得したのは私だ。二人とも、私がこんなズタボロになるなんて知っていたら絶対にスケートに関わらせなかっただろう。

友達は、だめ。だっていない。誰も、いない。私には、何も。


(たすけて)


眠れない夜が過ぎて無価値な朝が来る。眩しい。カーテンは閉まったまま。体がベタベタする。シャワー、浴びてない。汚い。こんな体。見たくない。ああ、でも、綺麗でいなくちゃ。美しく、いなくちゃ。

重い体を引き摺るようにペタペタと裸足で歩く。暖房をつけていない部屋は寒く、床はスケートリンクのように冷たい。皮膚がくっつきそうで感覚がなくなる。どうでもいい。バスルームの扉を開けて、そして、一番最初に映ったものに目を奪われた。

鏡に映った自分。私の顔。美しい顔を、たっぷり十分眺めて。


「……………………あはっ」


急に心の底からおかしくなった。


「あ、ニキビ」


そりゃ何日もお風呂入ってなかったけどさ。それにしたって立派なニキビだった。若いなあ。そういえばまだ十六だった。十六! 十六で、スケート滑れなくなって、人生終わったみたいな気になって、なんて根性ナシなんだろ。

鏡に映る自分はまだ美しいものの、ひどい有様だ。髪は油と栄養不足でパサパサ、枝毛ができてる。ニキビはほっぺと鼻と、あ、おでこにもある。嫌だなあ、潰さないようにしないと。それに最近運動してないからちょっとお腹周りの筋肉が緩んでる。ああ、磨くべきところがたくさんある。こんなもんじゃない。まだ、もっと私は美しくなれる。美しいままでいれる。

誰か助けて、お願い、なんて言ってる場合じゃない。

誰も助けてくれないなら、自分でなんとかするんだよ。



***



『ユーリ・プリセツキー。曲は“愛について〜Agape〜”』


少年が氷上で祈りを捧げる。

荒削りだった才能を一つのプログラムのために極限まで研ぎ澄ませて。原石は宝石になる。いや、まだなろうとしている途中だ。ありあまる技術に押されて表現力が大味になっている。体力もまだまだ。ああ、悔しいんだろうな。私もそうだった。むしろもっと酷かったかもしれない。

ユーリと一緒にいることは暖かくって、ツラかった。

必死に、貪欲にスケートにのめり込む彼が、まるで昔の自分を見ているようで。私が辿った道を幼いユーリが歩いていく予感。知ってる。その先は破滅だ。氷の上での幸せなんて永遠に望めない。あの頃の、スケートをやめてユーリに会うまでの、ぐちゃぐちゃの、空っぽの時間を過ごすことになる。自分がやってきたことへの後悔、前に進むためにどうすればいいか分からずにもがいていた。そんな苦しみ、ユーリに味わわせたくない。でも、彼を止める権利なんて私にはない。彼の道を阻んで良い道理なんてあっていいわけがない。だから私は、ユーリに癒され、ユーリを好きになりながらも、ユーリを諦めた。

でも、そもそも前提が間違ってた。ユーリは私と違って自分のためだけにスケートをしているわけじゃないんだから。スケートに裏切られたなんて思うこともない。スケートを愛しスケートに捧げる彼に、打算まみれの私と同じ道を歩むなんてことは最初からありえなかった。

ううん、そもそも私自身、スケート自体に無関心なことなんて一度もなかったのに。

スケートが好きな気持ちに嘘はなかった。どこが好きと聞かれたら不純な動機になるだけで、シンプルに言ってしまえば好きだ。もう滑ることは難しいけれど、今みたいに見ることはできる。触れることができる。感じることもできる。ただ後ろめたい気持ちがたくさんありすぎて、分からなくなっていただけ。

長谷津に来て、まだ昔の自分から抜け出せていない自分に気付けた。気付けたのは勇利とヴィクトルと、ユーリのおかげだ。


「お疲れ、ユーリ」
「ん」


滑り終わったユーリがこっちに戻って来る。ブスッとした顔があからさますぎて、頭を撫でようとした手を落ち着かせるように背中に添えた。


「ヴィーチャはなんだって?」
「ダメだってよ」


多分それはユーリの感想だろうなあ。

完璧主義の子猫ちゃんらしい。苦笑している間に勇利の出番が来る。ヴィーチャが勇利に声をかけているのを見ながら、私も一言だけ言っておこうかとユーリの耳に唇を寄せた。


「じゃあ、まだまだ美しくなれるね」
「ハ、」

『日本を代表するスケーター、そして遅咲きのニュースター。勝生勇利』


何か言いかけたユーリを遮ってアナウンスが入る。それに釣られて目を向けると、中性的な黒い衣装がリンクの上で翻った。

青年がリンクに降り立つ。

氷の冷気を感じさせない暖かい声援と拍手に包まれて、彼がどれだけ愛されているのかが伝わってくる。眼鏡を取って前髪をかき上げた勇利はいつもと雰囲気が違うけれど、曲が始まると同時に浮かべた微笑みは、もはや勇利とは別人だった。

勇利のスケートは特出して技術が高いとは思わない。世界平均的な意味で普通のフィギュアスケーターだ。けれど彼には技術を底上げするように有り余る体力と表現力がある。曲に合わせたスピン、体力の落ちる後半でジャンプを熟せる胆力、弾けるようなステップシークエンス、興奮を最高潮まで高めてくれるスピン。目で見て引き込まれる。魅了、される。

これが、ヴィクトルを惚れさせたスケート。もっと美しくなる可能性を秘めた原石。

しばらくの間、私は色男を誘う美女に夢中になった。生まれ変わって初めて男の気持ちを味わったかもしれない。オリエンタルな瑞々しいエロスに、自然と唾を飲み込んだ。

ああ、すごい。ワクワクする。

私が勇利をジッと見つめている内に、ユーリがロシアに帰ってしまったことを優子に聞いた。全然気が付かなかった。ずっと隣にいたのに……。それだけ勇利に夢中だったのかと思うと、サブであれ勇利のコーチをやるモチベーションが前以上に湧いてきた。

まあ、後でユーリにメールしたら『敵と馴れ合う気はねえ』とのこと。わあ、やっぱり怒ってる。


「ニコライー! 表彰台いっしょに乗るよー!」
「はーい」


私が一番美しかった時。六年前のGPシリーズの予選で表彰台に上った。あの時は二位だった。

今みたいに一位の選手の右隣で肩を組んで、二位なのに一位を取ったみたいな顔で満足してた。美しく滑れた。次のGPFではもっと美しく滑れる。根拠なく明るい未来を思い描いた。前しか見えていなくて、隣の一位と三位の選手どころかヤコフもヴィクトルも、パーパもマーマも、お客さんも、何も見えていなかった。

ヴィクトルが勇利の肩に手を回す。私は支えるように勇利の背中に手を添える。花束とマイクを持ったまま、私たちに挟まれた勇利は、今まで見たどんな勇利より希望に満ち溢れた顔をしていた。


「ヴィクトルと、ニコライと一緒に、今度のGPFで優勝目指します。これからも応援よろしくお願いします!」



***



「Oh my...」


やばい。やっっっばい。

長谷津での生活にも慣れて、ユーリと離れた寂しさも薄くなってきた頃。優子から聞いたユーリからのメールの内容に戦慄した。

ヤコフの元奥さんって、リ、リリア……。


「まずい……」
「え、どうして?」
「それは、」


バレエやってた時の元コーチだからです……。

とは正直に言えず、知り合いだから、と濁して退散した。

リリアは厳しくて辛かったけれど、それでも良く目をかけてもらっていた。あの時はまだバレエにちゃんと向き合っていたから、私が真面目に打ち込めば同じ分だけ熱心に指導してくれた。それなのに、途中でスケートに浮気した。ヤコフはもともと親戚だったけれど、直々に話をつけてくれたのはリリアだった。

そう、私はリリアの期待も見事に裏切ってスケーターやめて、たった今はヤコフを裏切って日本に来てしまったわけで。


「こ、ころされる……」
「エッ!? なに、どうしたのニコライ!?」


GPシリーズのアサインが発表されて、中四国九州選手権に向けて始動した冬の終わり。また一つロシアへ帰国する不安材料が増えた瞬間だった。


「よく分からないけど、先のことはどうでもいいじゃない。それより練習練習。行くよ、勇利、ニコライ」
「そんな適当な」
「うん……」


ヴィクトルに引きずられる形でリンクに入る。ロシアにいた時はヤコフと一緒にリンクサイドに立って指示を飛ばしてばかりだったけれど、ヴィクトルの教育方針は一緒に滑ることらしい。そういうところが、年下の選手にスケートを教えている時と全然変わらなくて、まだヴィクトルはコーチじゃなくて選手のままなんだと教えてきた。

うん。未来のことよりもヴィクトルのコーチらしくない部分を補佐することが大事だ。

気持ちの切り替えは、六年前よりも早くなった。それは今みたいに、無意識に私の迷いや不安を忘れさせてくれる誰かがいてくれるおかげだ。

昔、私には誰もいないと思っていた。誰も、何も助けてくれないって。でもそれは私が周りを信じていなかっただけで、見ていなかっただけで、きっと今みたいにみんな助けてくれたんだ。

たとえ私が美しくなくったって、きっと。


「ニコライ……考え事は禁止だよ」


耳元で、艶っぽい声で囁かれて、びっくりするより先に懐かしくなった。日本に来る前のリンクサイドでも同じことをされたなって。


「ごめん、今は勇利のことだけ考えるよ」
「えー、ちゃんと俺のことも考えてよー」
「ヴィーチャはコーチでしょ。コーチは選手のことだけ考えるものです」
「ワオ、サブコーチの言うことは聞かないとね」
「ヴィクトルー! ニコライー! クワドサルコウの型、見てほしいんだけど!」
「「ハーイ!」」


勇利とヴィクトルと三人で世界一を目指す。

それは、美しくなることよりもずっと、もしかしたら今までで一番胸が高鳴る夢だった。


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